学位論文要旨



No 122309
著者(漢字) 川崎,真弘
著者(英字)
著者(カナ) カワサキ,マサヒロ
標題(和) 視覚性ワーキングメモリにおける特徴統合と心的操作に関する研究
標題(洋) A study on feature integration and mental manipulation in visual working memory
報告番号 122309
報告番号 甲22309
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6514号
研究科 工学系研究科
専攻 システム量子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 渡辺,正峰
 東京大学 教授 古田,一雄
 東京大学 教授 合原,一幸
 東京大学 助教授 出町,和之
 玉川大学 教授 坂上,雅道
内容要旨 要旨を表示する

 近年、コンピュータの発展は目覚しいが、その計算力をもってしても人間の脳に及ばない点は多い。人間の脳の働きを分析しモデル化することが可能なら、学術的、社会的な応用性は計り知れない。しかし、脳の情報処理メカニズムはいまだ解明されていない点が多く、その応用研究には限界がある。本研究では、コンピュータの中央処理装置(CPU)にあるレジスタと似た働きを担う視覚性ワーキングメモリ(visual working memory; VWM)に注目した。VWMは、その容量に限界があるものの、一度に複数の情報を記憶し、そのイメージを心的に操作することが可能である。このVWMには脳の広大なネットワークが関与していることが知られているが、その役割は不明な点が多い。視覚認知という脳の高次機能の謎を解決するためには、このVWMの仕組みを理解する必要がある。

 我々は、複数の特徴で構成されたオブジェクトを単一の存在として知覚し保持している。従来の視覚情報処理に関する研究によって、これらの各特徴が分離したシステムによって処理されることが知られている。たとえば、色や形は腹側経路で、動きは背側経路で処理される(Fig.1A)。このような機能的分離に関する生理学的知見と我々の知覚体験のギャップを前提に、どのように視覚シーンに含まれる様々な特徴がそのオブジェクトに正しく割り当てられるかという、"binding problem"に多くの関心が寄せられている。この問題の1つの解として、Treismanらは、空間的注意のメカニズムがオブジェクトを選択し、その位置にある特徴を一時的に"object file"に保存するとする、特徴統合仮説を提案した(Fig.1B; Treisman & Gelade, 1980)。この枠組みの中で、注意を当てて特徴統合する機構に関する神経基盤は調べられているものの、object fileの神経科学的な証拠、たとえば選択したオブジェクトの全特徴を集めて保存する単一脳部位に関する知見はいまだ存在しない。

 VWMに関与する脳部位を調べた従来研究は、遅延期間をはさんで2回呈示されるオブジェクトに変化があったか否かの回答が要求される遅延見本合わせ課題を用いて、心的イメージを保持している遅延期間中に観測される持続的な活動に注目してきた。さらに近年の脳イメージング研究は、保持しているアイテム数(VWM load)に応じて遅延活動が上昇する部位こそがVWMの神経基盤であると想定した。本研究では、object fileの存在を明らかにするために、全ての特徴の保持について、VWM loadと相関する活動を示す脳部位を特定した。従来研究において、腹側経路で処理される色や形に関するVWMの特性については調べられてきたものの、動きをオブジェクトの1つの特徴に含めた時のVWMについてはほとんど分かっていない。それゆえ、本研究は、動きの方向を1つの特徴として加えた実験を行った。さらに、動きに関するVWMの保持容量の特定や、3つの特徴をまとめて保持した場合に保持容量は減少するか否かの考察を試みた。従来研究では、異なる特徴次元から1つずつ統合する限りにおいては、その保持容量が減少しないことが共通の見解となっている。

 本研究では、最初に、色、形、動きの限界保持容量を算出するために、色のついた動的ランダムドットを刺激とした遅延見本合わせ課題を用いて、行動実験を行った(Fig.2A, B)。この実験では、注目すべき特徴のみがアイテム間で異なり、残りの特徴は不変であった。実験条件は、色、形、動きをそれぞれ単一に保持する条件に加えて、全特徴を保持する統合条件の計4条件について、覚えるべきアイテム数を操作して行った。色と形に関する保持容量は、従来知見同様、3, 4アイテムであった(Fig. 2C)。一方で、動きに関する保持容量は、おおよそ2アイテム程度であり、色や形に比べて有意に少なかった。さらに、3特徴全てを統合して保持する場合には、その保持容量が2アイテム弱であり、単一特徴の保持に比べて有意に減少する結果を示した。

 次に、fMRIを用いて、各条件について、脳活動がVWM loadと相関する部位を特定する実験を行った。頭頂連合野の後部において、全3特徴のVWM loadに依存した活動が観測され、重複するエリアが存在した(Fig.3A,C)。興味深いことに、色や形を用いた従来研究ではload依存的な活動が報告されていない頭頂連合野の前部において、動きの保持時にのみload依存的な活動が観測された。さらに、全特徴を統合して保持する場合も同様に、頭頂連合野のみがload依存的な活動を示した(Fig.3B)。ここで重要な点は、両経路から特徴を集めて保持する場合でも他の付加的な脳部位がload依存的な活動を示さなかったことである。

 本研究で示された、異なる視覚経路で処理される特徴の保持について共通に関与する唯一の脳部位の存在は、特徴統合の脳内メカニズムを考える上で重要である。この頭頂連合野は、保持しているオブジェクトの内容をコードしていると考えられている(Xu & Chun, 2006)。本研究の結果と合わせると、このエリアが両視覚経路からの情報を集めて保持する、object fileの神経基盤であることが示唆された。興味深いことに、特徴統合仮説の一部である、空間的注意を向ける機構も頭頂連合野に存在する知見があるものの、本研究が示したobject fileとは同じエリアではなかった (Shafritz et al., 2002)。以上をまとめると、特徴統合に関与する頭頂連合野は、最初に空間的注意を向ける機構と後にまとめて保持するobject fileに関する機構の少なくとも2つに分離していることが示唆された。これらの知見は、頭頂損傷患者が、オブジェクトの特徴の組み合わせを誤って知覚することを示した研究とも一致する(Friedman-Hill et al., 1995)。

 一方で、本研究は、腹側経路と背側経路で処理される特徴の保持の違いも示した。第一に、行動結果より、動きに関する限界保持容量が、色や形のものに比べて少ないことがわかった。重要な点は、両経路で処理された特徴を統合して保持している場合に、単一特徴の保持に比べて保持容量が減少することである。この結果は、異なる次元の特徴は、ほとんど競合することはなく並列に保持されるとする従来の共通見解とは異なる。本研究は、異なる経路で処理される特徴を統合した保持には、余分なコストがかかると結論づけた。二つ目の相違点として、fMRIデータより、頭頂連合野の前部が動き特徴の保持にのみ関与することが示された。この付加的な活動と動きに関する保持容量の減少との関係を明らかにすることは今後の課題となるであろう。

 以上のように、本研究はVWMにおける頭頂連合野の役割を明らかにしたものの、長年、VWMの神経基盤と信じられていた前頭連合野は、load依存的な活動を示さなかった。この結果は、本課題同様、オブジェクトそのものの保持を要求した従来研究と一致する(Todd & Marois, 2004)。一方で、いくつかの研究は、前頭連合野においてもload依存な活動を示しているため、前頭連合野の保持への関与は議論が多い。VWMにおける前頭連合野の役割は、保持ではなく、情報の選択や操作であると提案する仮説が存在する(Curtis & D'Esposito, 2003)。それでは、我々が日常生活で頻繁に体験する、必要な情報のみを選択して圧縮されたイメージはどのように保持されるのだろうか?

 本研究では、心的に選択・操作されたイメージの保持に関する神経基盤を探るために、特徴ベースで選択された情報の保持に注目した。前の実験と同様、色のついた動的ランダムドットを刺激とて用いた、2つの遅延見本合わせ課題を行った。1つは、単一特徴で定義されたオブジェクトをそのまま保持する課題、もう1つは、複数の特徴で定義されたオブジェクトの中から、指示された特徴のみを抽出して保持する課題である。両者とも、1つの特徴のみの保持を要求したため、保持すべき情報量は同じである。

 fMRIの結果は、特徴選択を要求しない条件では、頭頂連合野のみがload依存的な活動を示す一方で、特徴選択を要求した条件では、頭頂連合野(SPL)だけでなく、前頭連合野の一部である前頭前野背外側部(DLPFC)と上前頭溝(SFS)もload依存的な活動を示した(Fig.4, 5)。両条件の行動結果には差がなかったため、脳活動の違いはタスクの難易度の差によるものではない。このload依存的な活動は、VWMの符号化や検索というよりはむしろ保持時に観測された。一方で、前頭眼窩野や前帯状回のように、それぞれ、VWMの符号化時と検索時にのみload依存的な活動を示す脳部位も観測され、前頭連合野の一部が情報の選択に関与することも示された。以上の結果より、オブジェクトそのものの単純な保持では、頭頂連合野の活動だけで十分であるが、能動的に選択されたイメージの保持には、前頭連合野の活動も必要になることが示唆された。

 本論文では、VWMに関する2つの重要な知見を示した。1つは、頭頂連合野がオブジェクトに含まれる特徴を集めて保持している部位であること、もう1つは、前頭連合野はオブジェクトそのものを単純に保持する場合では関与しないが、必要な情報を選択して保持する場合には関与することである。これらの知見は今後、VWMの情報処理メカニズム、それに関わる脳内ネットワークの役割分担を理解するうえで役立つであろう。

Figure 1: (A)視覚処理経路。赤い矢印が腹側経路、青い矢印が背側経路特。(B)徴統合仮説。

Figure 2: (A)本研究で用いた遅延見本合わせ課題。(B)サンプル刺激の例。(C)行動実験結果。

Figure 3: (A)単一特徴保持時にVWM load依存的な活動を示した脳部位。(B)全特徴保持時にVWM load依存的な活動を示した脳部位。(C)頭頂連合野の脳活動(C: 色、S:形、M:動き、CSM: 全特徴)。

Figure 4: 特徴選択を要求した条件(上図)と要求しない条件(下図)で、VWM loadに依存した活動を示した脳部位。

Figure 5: 特徴選択を要求した条件で、VWM loadに依存した活動を示した頭頂連合野(SPL)、前頭連合野(DLPFC, SFS)の活動。

審査要旨 要旨を表示する

 「A study on feature integration and mental manipulation in visual working memory (視覚性ワーキングメモリにおける特徴統合と心的操作に関する研究)」と題する本論文は、行動実験、fMRI (functional magnetic resonance imaging) と脳波を用いた脳イメージング実験によって、視覚性ワーキングメモリ(VWM)の特性とそれに関与する脳活動に関する新たな知見を示している。特に、視覚シーンに含まれるオブジェクトの各特徴を、脳内でどのように統合し、どのように必要な情報のみを抽出して保持しているか、という脳研究でいまだ解明されていない謎に迫っている。本論文は全7章で構成されている。

 第1章は序論であり、本論文が対象とする、VWMに関する心理学的知見、電気生理学的知見、脳イメージングを用いた知見について紹介している。脳は、外界にあるオブジェクトに含まれる各特徴を異なるメカニズムで処理しているにもかかわらず、意識の中では、1つのオブジェクトとして認識することが可能である。この、従来脳研究において多くの関心が寄せられている、バインディング問題についてこれまで提案されているモデル、知見についても説明している。最後に、本論文の目的を述べている。

 第2章は本論文で用いられた脳イメージング手法を説明している。特にfMRIに関する原理・計測・データ処理・解析の簡単な説明に加えて、本論文でも用いられたパラメトリック解析について詳しく説明している。VWMの保持に関与する脳部位は、記憶している表象の数と相関した活動が計測されることが提案されている。

 第3章は、本論文で行われた第1のテーマである、VWMにおける特徴統合に関する新たな知見を示している。色や形の形態情報は腹側経路で、動き情報は背側経路で分離して処理されることが知られており、これらの情報を集約する単一脳部位の存在は報告されていない。さらにVWMに関する従来研究は、形態特徴に関するものが主であり、動き情報に関することはほとんど知られていなかった。このような研究背景の中で、本論文では、頭頂連合野後部が、色と形、動き方向、の全ての特徴のVWMに関与することを示している。この結果を受けて、本論文では、VWM内ではこれらの情報が統合されている可能性と、頭頂連合野後部が保持すべき情報の内容を保持している可能性、を報告している。加えて、動き情報のVWM保持容量は形態特徴のものに比べ小さいこと、頭頂連合野前部が動き情報の保持にのみ関与することなど、両者のVWMの特性の違いについても述べている。

 第4章は、本論文で行われた第2のテーマである、必要な情報を選択して記憶する際の脳活動に関する知見を示している。視覚シーンに含まれるオブジェクトそのものを記憶する場合には、頭頂連合野のみが関与するのに対して、選択された特徴を記憶する場合には、頭頂連合野に加えて前頭連合野も保持に関与すると提案している。この結果は、従来研究では分かっていなかった前頭連合野のVWMにおける役割の1つを明確に示している。

 第5章は、第3章と第4章で提案した説をさらに検証した実験結果を示している。頭頂連合野後部は、記憶すべき特徴の数が増えると活動が上昇することを示している。この結果は、頭頂連合野後部が全視覚特徴を集めて保持しているとした、第3章の説をサポートするものである。また、前頭連合野は、選択すべき特徴が増えた場合にも活動が上昇することも示している。この結果は、前頭連合野が、選択された必要な情報のVWMに関わるとした、第4章の説をサポートするものである。

 第5章では、両経路で処理された特徴を統合して保持している場合に、単一特徴の保持に比べて保持容量が減少することを示している。この結果は、異なる次元の特徴は、ほとんど競合することはなく並列に保持されるとする従来の共通見解とは異なる。本論文では、異なる経路で処理される特徴を統合した保持には、余分なコストがかかるとする新たな心理学的仮説を提案している。

 第6章は、本論文で行われた第3のテーマである、VWMにおける心的操作に着目している。EEG実験の結果より、前頭連合野が一度操作を加えた表象の保持に関与すること、頭頂連合野が一度操作を加えた表象の操作に関与することを示している。前者の結果は、前頭連合野が選択した特徴の保持に関与するとした第4章の結果と一致するとしている。後者の結果より、従来研究で心的操作に関わるとされていた前頭連合野だけでなく、頭頂連合野も加えたネットワークが心的操作に関わると提案している。

 第7章は、論文全体を考察し、脳科学における本論文の結果の意義、今後期待される研究について提案している。最後に、本論文が明白にした結果を結論付けている。

 以上、本論文は、VWMにおけるバインディング問題に対して重要な知見を示すとともに、VWMにおける各脳部位の役割を明確にすることによって、脳科学全体に大きく貢献している。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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