学位論文要旨



No 122314
著者(漢字) 藤原,真吾
著者(英字)
著者(カナ) フジワラ,シンゴ
標題(和) 拡張性を有するイオントラップ量子計算の研究
標題(洋) Scalable Quantum Computation Schemes with Trapped Ions
報告番号 122314
報告番号 甲22314
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6519号
研究科 工学系研究科
専攻 システム量子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 長谷川,秀一
 東京大学 教授 大橋,弘忠
 東京大学 教授 高橋,浩之
 東京大学 助教授 石川,顕一
 東京大学 助教授 村尾,美緒
内容要旨 要旨を表示する

 量子計算では量子力学的な二準位系(キュービット)を用い、重ねあわせ状態・シュレーディンガー方程式に従った時間発展・観測における波束の収縮という3つの重要な性質を利用している。そして、現在の計算機では膨大な時間を要する問題、例えば整数の因数分解やデータベース探索問題に対して量子アルゴリズムを用いて、高速に解くことが可能とされている。これは、キュービットに対してアルゴリズムに従いユニタリ変換(量子ゲート)を施し、解である量子状態の確率振幅を高確率で残すように操作されている。

 量子計算機の実現できる物理系の候補の1つとして、イオンを電磁力によって狭い空間に閉じ込める技術であるイオントラップが挙げられる。キュービットとしては冷却されたイオンの内部状態、さらに任意のイオン間で情報伝達を行うため量子化された振動のエネルギーモードを用いる。そして、外部からのレーザ光操作によるイオンの状態制御とシェルビング法による観測を行うことで量子計算が実現される。状態制御においては、内部状態間のみの遷移であるキャリア遷移と、振動モード数も変化するサイドバンド遷移が代表的な遷移である。このような遷移を組み合わせて実現する量子計算手法は、キュービット数の拡張性や多キュービットゲートの操作性から注目を集めており、実験においても量子計算の万能回路である制御NOTゲート(CNOT)、量子情報処理に用いられるエンタングル状態、そしてテレポーテーションなどが高いフィデリティで実現されている。フィデリティとは精度と同義であり、実現している状態と理想的な状態との近さをあらわす値である。

 量子計算を利用して現在のコンピュータの性能を上回る実用的な計算を行うには数百以上のキュービット数を必要とする。現段階では原子の自然放出などの物理的要因や実験技術の不完全さなどによるデコヒーレンスの影響が大きいため、どの物理系でも実用的な量子計算を行うだけの精度を達成するには至っていない。イオントラップに関しては、レーザ光の強度や位相揺らぎが計算精度を落とす要因となっている。よって、量子計算の理論研究としては以下のようなものが重要視されている。

・デコヒーレンスの影響を克服するため、ハミルトニアンの設計やその組み合わせを研究することで、キュービット数の拡張性を有し、かつ効率的に実現される量子計算手法を提案する。

・数値計算によって計算精度の減少やエネルギーの散逸等を評価することで、デコヒーレンスの影響の大きさを解析する。

・新しい量子アルゴリズムを考案する。

 以上より本研究ではキュービット数の拡張性を有するイオントップ量子計算を高フィデリティで実装することを目的とし、実験との対応性を持ち、かつ既往の手法よりもレーザ光操作の少ない効率的な量子計算手法を提案した。対象とした量子計算手法は、

・Groverのアルゴリズム(データベース探索)に必要不可欠な制御位相反転ゲート

・量子情報理論において顕著な性質を示すエンタングル状態

・新しい量子アルゴリズム発見につながり得る量子ランダムウォーク(QRW)

・量子計算の万能回路形成に必要となるCNOTゲート

の4つである。ただし本研究では、CiracとZoller(CZ)による手法とMolmerとSorensen(MS)による手法という2つの著名なものを基本として新しい量子計算手法の考案を行った。さらに、イオントラップ量子計算における主要なデコヒーレンスであるレーザ光の強度と位相揺らぎを考慮し、数値計算によって既存の量子アルゴリズム実装時のフィデリティやエネルギーの散逸の評価も行った。

 まず、制御位相反転ゲートに関して、全量子状態の反転を可能とし、かつキュービット数の拡張を有するシステマティックなレーザ光操作方法を提案した。これは、CZによるCNOTゲートの実装方法に基づき、レーザ光の位相を調節し、反転させたい量子状態と対応してNOTゲートの印加方法を考案した。そして、代表的な量子アルゴリズムであるGroverの探索アルゴリズムと量子フーリエ変換(QFT)に対して、実験で実現されているレーザ光の揺らぎの大きさを考慮した数値計算を行い、計算精度としてフィデリティ、エネルギーの散逸としてイオンの重心振動のHeatingレートを解析した。Groverのアルゴリズムの数値計算においては、本研究で提案したゲート実装方法を用いた。

 レーザ光の位相と強度揺らぎに関して、ウィーナー過程を用いたモデルを利用し、マスター方程式を4次ルンゲクッタによって解き、密度行列の時間発展を計算している。CNOTの実験と同じレーザ光操作をプログラムし、ゲート操作時間を考慮することでラビ周波数を決定し、そして位相揺らぎによる10%、強度揺らぎによる1%の誤差を生じるようにパラメータを推定した。そのパラメータを用いることで実験レベルの精度を計算で再現している。数値計算の結果、両アルゴリズムにおいて強度揺らぎの影響がフィデリティの減少に大きく効くこと、QFTの方がGroverに比べ高フィデリティで実現されること、Groverでは確率振幅が十分に増幅されないこと、さらにHeatingレートはGroverの方がQFTに比べ2桁程度大きいこと等が判明した。

 エンタングル状態とは量子情報処理の中で最も特徴的な性質であり、最大エンタングル状態であるGHZ状態は|GHZ>=(|0...0>+|1...1>)/2(1/2)と記述される。イオントラップにおいても6個あるいは8個のイオンによるエンタングル状態が実験で実現されている。GHZ状態の実装手法としては、MSによる手法や量子ゲートを組み合わせた量子回路による方法等が存在する。最近、キャリアやサイドバンド遷移を組み合わせての量子計算が高フィデリティで実現していることから、量子回路による手法に着目した。既往の研究では連続してCNOTゲートの操作が必要となることから、本研究ではサイドバンド遷移の使い方において振動モードの制御をまとめることで多キュービットゲートとして実現する手法を考案した。数値計算によって、既往の連続したCNOTゲートを用いる場合と比較して高フィデリティで実現されることを確認し、さらにMSの手法と比較してもキュービット数の小さい場合にゲート操作時間に関して本手法の有効性が確認された。そして、ラムディッケパラメータを小さく設定した場合では、イオン数20個以上でも操作時間の優位性を持つことが判明した。さらに、本手法を応用し、制御ビットと標的ビット数が任意の場合に拡張されたゲートの実現方法も考案した。

 QRWでは古典の場合と同様にコインの出力(表裏)によって左右どちらに動くか決定されるが、粒子の位置とコインの出力が重ね合わせ状態を取りうる点で大きく異なる。QRWは空間的な探索問題などへ応用可能と知られている。

 本研究では最も一般的な円環上の離散QRWを考える。提案した手法ではキュービットを用いて位置を表し、制御演算によって左右への移動を行う。そして、多キュービット用のCNOTゲートの組み合わせによってQRW用の演算子が実現されている。本手法の特徴として、直線上のQRWに適用可能であること、高次元のQRWへ適用可能であること等が挙げられる。さらに、左右への移動量が大きい場合にも応用可能である。既往のイオントラップにおけるQRWは、イオンの内部状態に依存して実空間内で左右に波束が分裂する手法、あるいは位相空間内の回転を利用した円環上のQRWなどが提案されていた。これらの手法ではQRWの実行可能なステップ数の限界、あるいは観測の容易性で問題が生じる。しかしながら、本手法では理論的にはステップ数の限界は無く、また観測もシェルビング法で良いため、多キュービットゲートの実現が容易なイオントラップでの実現性は高いと考えられる。

 最後に振動モード数に依存しないラビ周波数を持つMSの手法の応用を考えた。CZによる制御演算を行う過程を補助状態と基底状態間でのMSによる遷移で代用し、Heatingの影響を受けにくいCNOTの実現方法を考案した。また、この手法をQRWに応用し、繰り返し施していたCNOTのためのレーザ光操作を簡略化できた。そして、イオンの振動モードの基底状態への冷却も不要なことから、より実験的制約を緩和することができた。

 以上より本研究の結論として、キュービット数の拡張性を有するイオントップ量子計算を高フィデリティで実装することを目的として、制御位相反転ゲート、エンタングル状態、QRW、そしてCNOTの実装方法を考案した。その結果、各量子計算において、既往の手法と比較してキュービット数の拡張性を有し、かつレーザ光操作の効率化を行うことでフィデリティの減少を抑えることに成功した。よって、本手法の利用によって実用的な量子計算実現に有用な手法と考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は,イオントラップを利用した量子計算手法の提案およびその数値解析と量子アルゴリズム実行時に問題となるデコヒーレンスの定量的評価を行っており,9章より構成されている.

 第1章は序論で研究の背景と目的を述べている.量子状態をbitに見立ててqubitとして扱うことにより量子力学の基礎原理(重ね合わせ状態の実現・シュレディンガー方程式による時間発展・波束の収縮)を利用して実現される量子計算の原理およびこれまでの発展について説明を行っている.また量子計算機として提案されている物理系について概観した上でイオントラップの優位性から研究対象として選択したことを示している.その上で,イオントラップを用いた量子計算実装のためのスキームの提案および実行上最も問題となると考えられるデコヒーレンスの影響を数値的に評価することを本研究の目的としている.

 第2章では量子計算と量子アルゴリズムについて概観している.量子計算で必要となる量子力学原理とそれを利用した量子レジスターおよび量子ゲートについて詳述している.さらにそれらを利用した代表的なアルゴリズムであるGroverにより提案された探索アルゴリズムとShorにより提案された量子フーリエ変換アルゴリズムについて,古典計算と比較した場合の優位性について説明し,量子アルゴリズムの意義を明らかにしている.

 第3章ではイオントラップ量子計算機について解説している.イオントラップ量子計算機は,イオントラップに捕獲されたイオンをレーザ冷却することで,イオンの振動状態を量子化することにより,イオンの内部状態とイオンの重心の振動状態を利用したものである.これはCiracとZollerにより提案された物理系でイオンの数がqubit数と対応している.さらにCNOTゲートが実験により実現されていることに言及し,実現に向けて問題となっているパラメータを明らかにしている.さらに複数の振動状態を利用できるMolmerとSorensenにより提案された手法について解説している.

 第4章では量子計算の精度を下げる主要因である照射レーザの揺らぎによるデコヒーレンスについて概説している.レーザ揺らぎをウィーナー過程によりモデル化し,それをマスター方程式である密度行列式に取り入れるための手法について解説している.さらにその手法で用いられるパラメータを実験結果と比較することにより推定している.

 第5章ではイオントラップを利用した制御Zゲートの提案とその実現性について数値計算により評価している.特にレーザ強度揺らぎあるいはレーザ位相揺らぎ,さらに両者が存在する場合のデコヒーレンスの影響についてGroverのアルゴリズムおよび量子フーリエ変換に対して定量的に評価している.与えるデコヒーレンスの影響はアルゴリズムにより異なることを明らかにしている.また両者の効果は単なる和ではないことも示されている.さらにレーザ照射による加熱および時間あたりの加熱率についてもqubitごとに数値的に評価を行い,その振る舞いを明らかにしている.

 第6章ではイオントラップを用いた多qubitゲートを効率的に構成する手法について提案を行い,それを数値計算により評価している.エンタングル状態として代表的なGHZ状態をCirac-Zollerスキームを用いて多qubitゲートで生成する手法を,量子回路を使って示し,既往の手法との比較を数値計算により行っている.この結果から特にqubit数が少ない領域で効率的な手法であることが示されている.さらにレーザ揺らぎに起因するデコヒーレンスの効果を導入することでフィデリティの評価も行っている.

 第7章では,新たな量子アルゴリズム開発や量子的な物理現象の解明に役立つと期待されている量子ランダムウォークをイオントラップ量子計算機で実現するための手法を提案している.まず量子ランダムウォークの意義について述べた後,基本ゲートであるNOTゲートと(controlled)^2-NOTゲートを利用して実現している.そのためこの手法は任意のqubit数に拡張可能であることが特徴として挙げられている.

 第8章では,MolmerとSorensenのスキームにより,拡張可能な制御Zゲートと制御NOTゲートの実現方法を提案し,その数値解析を行っている.提案手法はパウリのスピン行列から得られるJ_x^2,J_y^2演算子を用いて実現している.多qubitでの挙動を明らかにするとともに,数値計算により各準位で構成される密度行列成分の時間変化を示して,その実現を確認している.さらにラビ振動数と調和振動数の比がフィデリティに与える影響を評価し,ラビ振動の割合が多くなるに従ってフィデリティが劣化していくことを明らかにしている.

 第9章は結論であり,本研究のまとめが述べられている.

 以上を要するに,本論文はイオントラップ量子計算機をもとにした拡張可能な量子ゲート実装手法の提案を行うとともに,密度行列を用いたマスター方程式によりその定量的な評価を行っている.さらに量子計算実現のために最も重要であるレーザ揺らぎによるデコヒーレンスの効果も定量的に評価している.こうした成果はシステム量子工学の進歩に貢献することが少なくない.よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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