学位論文要旨



No 122315
著者(漢字) 松岡,雷士
著者(英字)
著者(カナ) マツオカ,レオ
標題(和) 高励起原子とレーザー冷却イオンの二波長分光学的研究
標題(洋) Two-color spectroscopic studies of highly-excited atoms and laser-cooled ions
報告番号 122315
報告番号 甲22315
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6520号
研究科 工学系研究科
専攻 システム量子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 長谷川,秀一
 東京大学 教授 勝村,庸介
 東京大学 教授 小川,雄一
 東京大学 教授 高橋,浩之
 東京大学 助教授 門,信一郎
内容要旨 要旨を表示する

1. 緒言

 本研究は大きく「高励起原子の共鳴イオン化分光」と「レーザー冷却イオントラップ」の二つに分けられる。前者は複雑な電子構造を持つ遷移金属原子の高励起準位をターゲットとした分光実験研究であり、後者はカルシウムイオンをターゲットとした量子エレクトロニクスの実験研究である。題とする「二波長分光学的研究」の意味するところは、一波長では見えない情報を二波長のレーザーによってターゲットから引き出す、という目的を論文全体で一貫したテーマとしている点である。

 原子の高励起準位は内部の電子相関ポテンシャルを反映して構成されるため、原子物理の研究対象として興味深い。特に遷移金属原子は複雑な電子構造を持つため、理論的に興味深い対象であるが、その高励起準位の実験観測例は現在でも少ない。このような背景に基づき、本研究では価電子として2つのs電子と2つの開殻d電子を持つIV族の原子をターゲットとし、原子半径が最も大きいハフニウム原子と逆に半径が最も小さいチタン原子の高励起準位を二波長共鳴イオン化分光法によって解析することを目的とした。

 一方レーザー冷却技術は近年急速に発展しつつある分野である。イオントラップ技術とレーザー冷却技術の結合は原子分光実験において、環境の摂動の影響をなくす効率的な手法である。適切な冷却条件を設定することによって、冷却されたイオンは結晶状態へと相転移する。このイオン結晶の応用は幅広く、高分解能分光、周波数標準、同位体分析、量子ゲート、量子メモリなど様々である。本研究では主に同位体分析と巨大イオン結晶の生成への応用を意図しつつ、比較的大型のトラップ電極を用いたレーザー冷却イオントラップシステムの開発を行うことを目的とした。また大量のイオンを冷却する際に問題となるRF加熱の影響、及び冷却効率の適切な評価のために、二波長のレーザーによるイオンの速度分布測定によってイオンの冷却ダイナミクスに対する知見を得ることも目的とした。

2.ハフニウム原子の高励起準位の共鳴イオン化分光

 ハフニウム原子は高融点金属であることなどの理由から、高励起準位に対する既往の実験報告が極めて少ない。本研究では二波長共鳴イオン化分光によってハフニウム原子の高励起準位の解析を行った。実験には二本の色素レーザーを用い、電子銃によって生成したハフニウム蒸気を二段階の励起を経て高励起準位に励起した。励起されたハフニウム原子はパルス電場によってイオン化され、チャンネルトロン電子増倍管によって電気信号に変換される。一段階目のレーザーを低励起準位への共鳴波長に固定し、二段階目のレーザー波長をスキャンすることによって、高励起準位を電気信号のピークとして検出することができる。

 二段階の励起分光を行う際には、中間となる準位の電子構造が重要な意味を持つ。量子力学の選択則によって高励起準位への励起の可否が決定し、また状態の混成比率によって遷移の強度が決定する。今回は全角運動量J値の異なる3つの中間準位を用いて、ハフニウムの第一イオン化限界直下の高励起準位のスペクトルを取得した。この領域の高励起準位のスペクトルは本研究によって初めて得られたものである。本実験で得られたスペクトルの分解能は十分に高く、遷移則上出現しうる全てのシリーズの分離を行うことができた。またJ値の異なる3つの中間準位から励起したそれぞれのスペクトルをJ値選択則を考慮しつつ比較することにより、観測された全てのシリーズのJ値の同定を行うことに成功した。さらに得られた高分解能スペクトルからハフニウムのイオン化ポテンシャルの高精度な決定も行った。

3.高励起チタン原子の共鳴イオン化分光

 チタン原子は周期律表上では二番目に単純な遷移金属原子であり、既に高励起準位に対しても実験や理論計算などが数編報告されている。しかしながら既往の実験結果は局所的・低分解能であり、また理論計算もその実験を基準にして行われているため、高励起準位の高分解能スペクトルを広範囲で新たに取得することには価値がある。本研究ではハフニウムの分光と同様の実験手法を用い、チタン原子の高励起準位・自動イオン化準位の共鳴イオン化分光を行った。中間準位としてはある三重項に含まれる三つのJ値の準位を用いた。

 チタン原子の高励起準位がハフニウム原子のそれと異なる点は、多数のイオン化限界が密集するため、90を超える多数の励起系列が存在することである。また原子半径が小さいため、励起の際に介している中間準位がLSカップリング的な特性を持っていることも特徴である。実験において観測されたスペクトルには一見しただけでは周期性が見いだせないほどピークが乱立した。本研究ではまず中間準位とスペクトル中のピークの収束限界に関連性(コア選択則)があることを見いだし、この関連性の解釈を行った。このコア選択則は中間準位がLSカップリングとjjカップリングの双方の特性を持っていることに起因しており、LSカップリングで記述されている中間準位の状態をjjカップリングに変換することにより、コア選択則を説明できることがわかった。カップリングの変換の解釈は独自に考案したベクトルモデルを用いて行った。コア選択則の立証によって複雑なスペクトルに周期性を見いだす手がかりを得ることができ、実際に観測されたほぼ全ての準位の電子配置を同定することができた。

 さらに既往の実験・計算との比較を詳細に行い、既往の解釈に対する改善の提案や今後の理論計算への課題の提案を行った。またイオン化ポテンシャルの高精度な検証も行った。

4.レーザー冷却イオントラップシステムの開発

 本研究では将来的に41Ca+の希少同位体分析を行うことを視野に置き、40Ca+をターゲットとしたレーザー冷却イオントラップシステムの開発を行った。トラップ電極としては大型化が容易な線形Paulトラップを用い、安定条件を満たすRF電場の印加によってCaイオンをトラップした。レーザー冷却には、基底状態からの双極子遷移を誘起する397nmレーザーと準安定状態からのリポンプを行う866nmレーザーの二本の半導体レーザーを波長安定化して用いた。レーザー誘起蛍光は光電子増倍管によって観測した。イオントラップの先行研究は多いが、今回開発したシステムの特徴は(1)レーザーアブレーションによるイオンローディング(2)従来の10倍程度のスケールの大型トラップ電極の使用(3)安価なラボメイド半導体レーザーの使用などが挙げられる。

 システムの最適化の結果、レーザー冷却効果の証拠となる非対称形状のスペクトル、及びイオンの冷却相転移の証拠であるとされている蛍光ディップの観測に成功した。本研究ではさらにイオン量を保持しつつトラップのRF電圧を変化させた各スペクトルを取得することにより、スペクトル形状のRF加熱への依存性の解析を行った。蛍光ディップ及びスペクトル中のピークの出現位置を定量的に評価し、冷却ダイナミクスを考察する上での重要な情報を得ることが出来た。類似する実験の既往の報告は数編存在するが、大量のイオンに対して系統的で信頼性の高い測定を行った結果としては、本研究の報告が初めてである。

5.二波長分光法によるイオンの冷却過程の解析

 イオントラップ中での相転移など、イオンの冷却ダイナミクスを議論する上で、イオンの温度は解析上欠かせないパラメータである。ところが従来の実験ではこの温度について曖昧な評価しか行われておらず、冷却過程におけるイオンの温度遷移などについては既往の報告が全くない。本研究では二波長のレーザーを用いたイオンの温度評価法を提案し、冷却過程にあるイオン雲に対して実際に測定を行った。

 具体的には冷却過程にあるイオン雲に対して、リポンプレーザーの波長をスキャンすることによってイオンの速度分布を取得した。リポンプレーザーの離調がイオンの状態に与える影響は冷却レーザーの離調による影響に対してかなり小さいため、イオンの状態を変化させずに速度分布を検出することができる。得られた速度分布スペクトルを既往の非冷却イオン雲に対して提案された計算手法を用いて解析し、イオンの速度分布、強いては温度について定量的な情報を得ることができた。

 測定結果から、イオンの冷却が開始される条件、及び蛍光ディップ前後での速度分布の変化の有無など、イオンの冷却ダイナミクスとそれに起因するスペクトル形状に関連する知見を得ることができた。本研究は将来的にはイオンの相転移現象の詳細な解析に適用されることが望まれる。

6.結言

 本研究は二波長のレーザーを用いて初めて得られる情報をテーマとし、各原子ターゲットについて分光学的な実験と解析を行った。まずハフニウム原子に対しては二段階励起の中で現れるJ値選択則を利用し、共鳴イオン化分光によって観測された高励起準位のJ値の同定を行った。またチタン原子に関しては新たにコア選択則を提案し、観測された高励起準位の電子状態の同定を行った。レーザー冷却イオン雲に対してはリポンプレーザーのスキャンによる速度分布計測法を提案し、冷却過程におけるイオンの温度遷移に関する知見を得た。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は,2波長のレーザ光を用いて高励起状態の原子の電子構造およびレーザ冷却されたイオンの運動ダイナミクスに対して実験を中心に研究を行っており,5章から構成されている.

 第1章は序論で研究の背景と目的を述べている.まず論文題目である「2波長分光学的研究」で明らかになることとして,選択則の利用,高エネルギーおよび高角運動量準位への到達,パリティ反転などを具体例としてあげている.対象として高励起原子およびレーザ冷却イオンを取り上げて,各々の特徴について述べている.原子については遷移金属のデータが限られていることや,その電子構造の重要性について言及している.レーザ冷却イオンについては,トラップされたイオンが冷却されることにより結晶構造を作ることが知られているが,その挙動についてはまだ不明な点が多いことが指摘されている.2波長分光実験を高励起原子およびレーザ冷却イオンに対して行うことでこれらに対して新たな知見を得ることを本研究の目的としている.

 第2章ではハフニウム原子に対する2波長共鳴イオン化分光について書かれている.はじめにハフニウム原子の電子構造について説明があり,特にd原子の影響について論じられている.続けて実験装置の説明がなされている.励起光源としてエキシマレーザ励起の2台の色素レーザが用いられており,ハフニウム原子は真空容器中で電子ビーム加熱により得られている.さらにイオンの検出および計測系について説明がなされている.レーザ光波長の較正にはAr-Neオプトガルバノセルおよびエタロンが用いられている.2段階励起で用いられた中間状態の性質について示された後,高励起Rydberg系列のスペクトルが示されている.観測された準位は量子欠損理論に基づいて解析が行われ電子状態が同定されている.あわせて第1イオン化限界値が導出されている.

 第3章では2章と同様な手法によりチタン原子の高励起状態の2波長共鳴イオン化分光が行われている.はじめに既往の研究について説明があった後,実験装置について説明がなされている.次に実験で用いられた中間準位について,さまざまな角運動量の結合方式から論じられている.この結果,本研究で利用した中間準位は多くのイオン化限界へ収斂する系列を観測する上で優れていることが示されている.2波長による分光実験を行い複数の中間状態を利用して得られたスペクトルを示すとともに,スペクトルの性質から3つの領域に分けてそれぞれの検討を行っている.イオンコアの状態を厳密に検討することにより,広いエネルギー領域において同定できたことが示されている.あわせて第1イオン化限界値も求めている.

 第4章では交流電場で捕獲されたカルシウム1価イオンがレーザ冷却される際の運動ダイナミクスについて実験および数値計算を行うことで検討を行っている.はじめに四重極電極にMHzオーダの交流電場を印加することでイオンが捕獲出来ることが概説されており,その研究対象は広範にわたっていることが示されている.次に捕獲されたイオンをレーザにより冷却する利点について述べられている.さらに冷却されたイオンが交流電場から受ける影響としてrf加熱を取り上げ,スペクトルに与えるその効果について解析的に検討している.これらを踏まえて,まず実験装置および手法が述べられている.Nd:YAGレーザの2倍高調波を照射してアブレーションにより発生するカルシウムイオンを線形四重極トラップにトラップし,エタロンに波長固定された2台の半導体レーザからのレーザ光を捕獲されたイオンに照射することにより,イオンを冷却することが述べられている.イオンから放出される蛍光の検出は光電子増倍管により行われている.この2波長を各々掃引することにより得られる蛍光スペクトルからトラップ中でのイオンの挙動の検討を行っている.具体的には印加電圧の振幅を変えることによりrf加熱の影響を変化させ,冷却レーザ光およびリポンプレーザ光の波長を各々変化させた際のスペクトルの変化を数値計算と比較することでrf加熱によるマイクロモーションがイオン結晶化へ影響を与えていることが示されている.

 第5章は結論であり,本研究のまとめが述べられている.

 以上を要するに,本論文は遷移金属および電場によりトラップされた1価のイオンに2波長のレーザ分光を行うことで,それらの電子構造および運動ダイナミクスを実験的に明らかにしている.こうした成果はシステム量子工学の進歩に貢献することが少なくない.よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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