学位論文要旨



No 122326
著者(漢字) 野田,真史
著者(英字)
著者(カナ) ノダ,マサシ
標題(和) Au/Si(111)表面における構造と相転移の理論解析
標題(洋) Theoretical Analysis of Stable Structures and Phase Transition in the Au/Si(111) System
報告番号 122326
報告番号 甲22326
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6531号
研究科 工学系研究科
専攻 マテリアル工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡邉,聡
 東京大学 教授 光田,好孝
 東京大学 助教授 阿部,英司
 東京大学 講師 弓野,健太郎
 東京大学 助教授 長谷川,修司
 東京大学 助教授 杉野,修
内容要旨 要旨を表示する

1.緒言

 Si表面に金属を吸着した系の物性は、デバイス作製に有用な知見を与えるだけでなく、物理としても興味深い。複雑な相図で特徴付けられるAu/Si(111)表面もまた、興味深い現象が現れる系であることから、物性の理解の基礎的な知見となる構造解析と物性を議論する上で重要となるバンド構造の解析が実験理論双方からなされてきた。しかし、これまでのAu/Si(111)平坦表面及び微斜面のほとんどの理論解析においては固定されたAu吸着量のみの議論をしており、異なるAu吸着量を持つ他の構造に相分離する可能性を考えていない。このことを考慮した計算例[1,2]においても√3×√3相のみを念頭に置いているため、他の相を考慮した際にその構造が現れなくなる可能性がある。そこで本研究では、様々なAu・Si吸着量の構造に対し第一原理計算を行い、その結果を総合的に解析することによって、金吸着シリコン表面の統一的な理解を目指すとともに、他の複雑な表面を解析するための指針を与えることを目指す。

2.計算手法

 吸着量依存による表面の安定構造を求める際にはNorthrupらによる手法[3]が広く用いられているが、本研究ではその手法と等価な方法であり、かつ2成分系においてはより簡単に安定構造を評価できる方法を用いた。この手法では、まず考えられる限りのあらゆる構造について表面エネルギーを計算し、それをAu・Si吸着量に対してプロットする。そして任意の3点で示される構造の共存構造と、ある1つの構造の表面エネルギーを比較し、出現しない構造を求める。その後、出現しない構造を示す全ての点を取り除く。残った点を結んで得られる凸面をConvex Hullといい、これは全ての安定構造を含んでいる。

 全エネルギーの計算には第一原理計算プログラムパッケージVASPを使用した。基底にはProjector Augmented Wave(PAW)、交換相関ポテンシャルにはGeneralized Gradient Approximation(GGA)-PBEを用いた。表面エネルギーは全エネルギーと吸着子の化学ポテンシャルの差として求めた。

3.Convex Hullによる平坦表面の安定構造の評価

 まず、Au/Si(111)平坦表面についての構造安定性を調べた。Convex Hullを作製するために計算した構造の総数は283である。図1に計算で得られたConvex Hullを示す。Si原子に関する平衡条件は線(L)上で満たされることがわかったため、Au吸着量を増加させる際に現れる構造は、(a)から(f)の順である。(a)は7×7Dimer Adatom Stacking fault(DAS)構造、(b)は√3×√3の周期性を持つConjugated Honeycomb Chained Trimer構造である[1]。また、(c)から(f)は6×6構造[4]であり、それぞれAu吸着量が6×6単位胞あたり1個ずつ異なっている。

 我々の計算結果と実験結果との違いとして√3×√3構造で領域が埋められる吸着量が異なることが挙げられるが、この違いは本研究では考慮されていないDomain Wallに起因すると考えられる。さらに、実験では観測されている5×2が我々の計算結果においては出現していない点が異なる。過去に提唱された5×2構造の全てのモデルについての結果が図1(g)として含まれているにもかかわらず、いずれも安定な構造として出現しなかった。この主な原因として、まだ調べられていない5×2構造が安定である可能性と、ステップにより安定になる可能性が考えられる。そこでこの二つの可能性を検証した。

4.5×2構造モデルの検証

 まずは安定な5×2構造として有力視されているE構造[5]及びN構造[6]にSi原子もしくはAu原子のどちらか1個を様々な位置に吸着させた構造を検証した。しかし表面エネルギーが減少することはなかった。次に、本研究では考慮されていない外的な要因が安定化に影響している可能性が考えられるため、E、E+、N、及びN+構造(+はSi adatomの吸着を示す)が走査トンネル顕微鏡(STM)像[7]と角度分解光電子分光(ARUPS)[8]の実験結果をどの程度再現できるかを調べた。ARUPSについては、E、E+構造は再現性が悪く、N、N+構造については図2に示すように比較的再現性が良いという結果が得られた。しかし、STM像についてはどちらのモデルにおいても再現性は良くなかった。E(5×4)構造とN(5×4)構造のSTM像を図3に示す。ここに、E(5×4)構造はE、E+構造を、N(5×4)構造はN、N+構造を交互に並べたものである。まずE(5×4)構造については、Yoonら[7]が指摘しているように、輝点の位置が非対称である点、Y字の位置がずれている点、実験では見られない強い局所状態密度が見られる点がある等の不一致が見られた。またN(5×4)構造についても、輝点が円形でない、輝点に対するY字の位置が相対的に異なるという不一致が見られた。以上より、観測されている5×2構造はこれまでに提案されたモデルと異なる構造を持つ可能性が強く示唆される。

5.Au/Si(111)微斜面の安定構造の評価

 5×2構造の成長に関してはステップ近傍で5×2構造が核生成するという実験結果が報告されている。そこでまずは核生成の最初の段階を検討した。そのために、テラスにAu原子1個が吸着した場合とステップ近傍にAu原子1個が吸着した場合とで、それぞれの場合について安定構造を評価し吸着エネルギーを求めた結果、前者の吸着エネルギーは+0.15eV、後者は-0.70eVであった。すなわち、核生成はステップで起こりやすいといえる。

 次に、これまで提唱された5×2構造が微斜面上で安定になる可能性について考察した。吸着量依存を考慮しSi(775)微斜面上での安定構造を評価した結果、過去に提唱された5×2構造はSi(775)表面上でも安定ではないことがわかった。この結果も5×2構造がこれまで提案されたモデルとは異なる可能性を示唆している。

6.結言

 吸着量変化を考慮してAu/Si(111)表面の安定構造の評価を行った結果、DAS構造と6×6構造については、実験結果を再現する結果を得た。しかし、5×2構造の出現に関しては実験とは一致しない結果を得た。実験結果との比較、およびステップの影響を考慮した計算の結果、観測される5×2構造の原子配列はこれまで提案されている有力なモデルとは異なっている可能性が高いことがわかった。本研究の解析の手法はAu/Si(111)表面以外の表面に対しても応用でき、新しい相や安定構造を発見する上で有用である。さらに、5×2構造に対する新しいモデルを探索する必要性を提言したことから、本研究を契機にAu/Si(111)表面の理解を目指した研究がさらに進むものと期待される。

参考文献[1] Y. G. Ding et al., Surf. Sci. 275, L691 (1992).[2] T. Kadohira et al., e-J. Surf. Sci. Nanotech. 2, 146 (2004).[3] J. E. Northrup, Phys. Rev. B 44, 1349 (1991); Phys. Rev. B 44, 1410 (1991).[4] D. Grozea et al., Surf. Sci. 418, 32 (1998).[5] S. C. Erwin, Phys. Rev. Lett. 91, 206101 (2003).[6] S. Riikonen and D. Sanchez-Portal, Phys. Rev. B 71, 235423 (2005).[7] H. S. Yoon et al., Phys. Rev. B 72, 155443 (2005).[8] I. Matsuda et al., Phys. Rev. B 68, 195319 (2003).

図1:計算されたConvex Hull。計算された構造は×印で示されている。明るい灰色の領域と暗い灰色の領域は、それぞれSi原子の化学ポテンシャルが基板のそれよりも高い領域及び低い領域を示している。

図2:N構造のバンド図。S1、S2はMatsudaらの表記[8]を用いている。色の濃い円は表面の成分が強いことを示している。

図3:(a)E(5×4)及び(b)N(5×4)構造のSTM像(V(sample)=-0.4V)。上部の白及び灰色の球はそれぞれAu原子、Si原子を示す。

審査要旨 要旨を表示する

 Si表面に金属を吸着した系の物性は、超微細デバイスの動作において重要な役割を演じる可能性があると共に、多様な物理現象が出現する点で基礎科学面からも興味深い。このため、物性理解の基礎となる構造についても古くから実験・理論の両面で盛んに研究されてきた。しかしながら、実験・理論手法の急速な進歩にもかかわらず、いまだにその構造が十分に解明されていない金属吸着Si表面系がある。複雑な相図で特徴付けられるAu/Si(111)表面はその典型例である。本論文は、このAu/Si(111)表面について、その相安定性および構造を第一原理計算により系統的に解析し、この表面系の統一的な理解を目指すとともに、他の複雑な表面を解析するための指針を得ようとしたものである。本論文は6章からなる。

 第1章は緒言であり、表面科学の歴史を概観しつつその工学的意義を述べ、さらに表面構造相転移とそれに関連した諸現象について概観した後に、Au/Si(111)表面の構造と相転移に関するこれまでの実験および理論研究をまとめている。そして、主要ないくつかの相において構造に関するコンセンサスが研究者の間でまだ得られていないこと、既存の理論計算が金吸着量の変化に対する熱力学的安定性を十分には調べていないことを指摘して、本研究の目的を明確にした。

 第2章では、本研究の計算方法を述べている。金およびSiの吸着量変化に対する熱力学的安定性を計算により調べるために、本研究では凸多面体法という方法を導入した。この方法は熱力学ポテンシャルの最も低い状態、すなわち熱力学的に最も安定な相を見通しよく計算するための画期的なアルゴリズムであるが、半導体を基板とした表面の研究にこの方法が用いられるのは本研究が初めてである。この方法論の概要を述べるとともに、全エネルギー計算に用いた密度汎関数法の概略を述べている。

 第3章では、Au/Si(111)平坦表面の絶対0度における相図を凸多面体法により予測した結果を述べている。約280個の構造モデルに対する計算により、Au吸着量の増加と共に7×7構造、√3×√3構造、6×6構造が出現することを予測した。この結果を実験と比較すると、実験では観測されている5×2が出現していない点が大きく異なる。特に、ごく最近有力なモデルとして提案された構造モデルも熱力学的に不安定であることを明らかにした点は重要である。

 第4章では、5×2構造についてさらに詳細な検討を行った結果を述べている。まず、有力な構造モデルを提案した既報の計算結果の再現性を確認した後、本研究の計算条件がそれらと同等以上の精度を有し、熱力学的安定性を議論するのに十分であることを明らかにした。さらに、角度分解光電子分光および走査トンネル顕微鏡法による実験データと計算結果とを比較検討し、提唱されている有力なモデルが走査トンネル顕微鏡による実験データを十分には解釈できないことを明確にした。

 第5章では、5×2構造がステップ近傍から成長するという実験事実に鑑み、ステップがAu吸着構造に及ぼす影響を検討している。まず、テラスにAu原子1個が吸着した場合とステップ近傍にAu原子1個が吸着した場合とを比較し、後者の吸着エネルギーの方が高く、したがって核生成はステップで起こりやすいことを示した。次に、これまで提唱された5×2構造が微斜面上で安定になる可能性について凸多面体法により考察し、過去に提唱された5×2構造がSi(775)微斜面上でも安定でないことを明らかにした。この結果と第3章から第5章までの結果を照らし合わせて考えると、5×2構造についてはこれまで提案されていない新しい構造モデルを考える必要があることが強く示唆される。

 第6章は総括である。

 以上のように、本論文は、Au/Si(111)表面の相安定性および構造を第一原理計算により系統的に解析した。平坦面およびステップを含む微斜面に対し、様々な構造の熱力学的安定性を金およびSi吸着量変化まで考慮して系統的に考察することにより、この表面系の5×2構造がまだ解明されていないことを明確にするとともに、この表面系のように複雑な系に対する第一原理計算による系統的解析の方法を確立し、表面ナノスケール構造の電気特性を解析・設計する上で有用な知見を得た。よって本論文の表面物性工学、計算マテリアル工学への寄与は大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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