学位論文要旨



No 122338
著者(漢字) 谷内,敏之
著者(英字)
著者(カナ) タニウチ,トシユキ
標題(和) 放射光光電子顕微鏡による磁性ナノ構造の磁区構造に関する研究
標題(洋)
報告番号 122338
報告番号 甲22338
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6543号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 尾嶋,正治
 東京大学 教授 辛,埴
 東京大学 教授 高木,英典
 東京大学 教授 大谷,義近
 東京大学 教授 大越,慎一
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、放射光光電子顕微鏡による微小磁性体の磁区構造観察手法および磁区形成について述べられたものである。本論文では磁区構造観察を可能にする手法として有力な光電子顕微鏡(PEEM)システムの立ち上げ、および磁気異方性を持たないパーマロイと一軸磁気異方性を有するLa(1-x)SrxMnO3(LSMO)の微小磁性体の磁区構造観察や埋め込まれた界面ナノ構造観察を行った結果について述べている。

 第1章では、本研究の背景である磁気記録デバイスに関する研究と磁区構造観察手法について述べられている。近年の磁気記録デバイスは超高密度化による微細化が進み、1ビットあたりの記録領域はナノメートルサイズに達している。ミクロン〜サブミクロンサイズの磁性体の磁区構造はバルクと異なり、磁気物性が形状や大きさに強く依存する。このような磁性体の磁区構造を直接観察することは磁気記録デバイスへの応用のみならず微小磁性体の磁区形成に関する基礎的な理解の上でも非常に重要である。磁区観察手法としては現在、漏れ磁束を検出する磁気力顕微鏡が主に用いられているが磁性体内部の磁化分布を直接観察することは困難である。一方、放射光を用いた光電子顕微鏡は磁気モーメントの直接マッピングが可能な手法である。

 第2章では、本研究で行った放射光光電子顕微鏡システムの開発と磁区構造観察の実証について述べられている。光電子顕微鏡は光により放出した光電子または2次電子を結像するイメージング技術であり、エネルギー可変かつ左右円偏光切り換え可能な放射光を利用することにより磁気モーメントの高空間分解能マッピングが可能である。これは内殻吸収端で左・右円偏光による吸収強度が異なる(X線磁気円二色性; XMCD)ことを利用している。本研究では高エネルギー加速器研究機構(KEK)と共同で振動を抑制した試料ステージを有する光電子顕微鏡システムを開発した。これをKEK PF-ARの放射光円偏光アンジュレータビームライン AR-NE1Bに接続して実験を行った。パーマロイ製メゾスコピック磁性体(直径2μm, 厚さ50nm)の光電子像を撮影したところ高い空間分解能(約130 nm)で明瞭なイメージを得ることに成功した。

 第3章では、サブミクロンサイズの磁性体ディスク特有のvortexと呼ばれる磁気渦構造を制御する手法の考案について述べられている。サブミクロンサイズの磁性体ディスクはvortexと呼ばれる磁気渦構造を持つことが知られている。Vortexの状態(トポロジー)を表す一つの指標として、磁気渦の向きの時計回り・反時計回りを示すカイラリティが存在する。vortexのカイラリティを制御することにより、ビット間の磁気的干渉のない磁気ランダムアクセスメモリー(MRAM)を実現できることが期待されている。MRAMはDRAMに比べて不揮発性、低消費電力、高速書き込み、高耐久性という優れた点をもつが、従来のMRAMでは各記録ビットの磁化による磁気的な相互干渉が超高密度化の壁となっている。この問題を解消する方法として、磁束が閉じたvortexの利用が検討されている。しかしながらこれにはカイラリティを安定に制御する方法を見出す必要がある。そこで本研究ではカイラリティ制御を目標として、マイクロ磁気シミュレーションを用いて外部磁場印加によるカイラリティ制御手法を考案するとともに、光電子顕微鏡によるカイラリティ制御の実証を試みた。はじめにマイクロ磁気シミュレーションを用いてvortex構造の磁化過程の計算を行った。従来、vortex構造を持ったディスクの磁化反転過程においてはvortexが同時に2つ存在しうることが示されており、単一vortexだけのモデルでは説明できない。本研究ではカイラリティ制御の実現に不可欠である磁化反転過程におけるvortexダイナミクスを調べた。マイクロ磁気シミュレーションの結果、2つのvortexが同時に存在するような磁化反転過程が2種類あり、互いに異なる磁化曲線を持つことが分かった。これら2種類の磁化反転過程は生成する2つのvortexのカイラリティが等しいモードと異なるモードに分類することができる。前者ではカイラリティが等しく2つのvortexは結合して単一vortex状態へと変化するが(C-shaped mode)、後者ではカイラリティが異なるため2つのvortexは結合することなく、ゼロ磁場においても2つのvortexが存在することが明らかになった(S-shaped mode)。そこで2種類の磁化反転モードが現れる起源を解明するために、ディスク内の磁化分布の変化について詳細に検討し、磁化分布の対称性がモードを決定していることを明らかにした。

 以上のシミュレーションで得られた知見から、ディスク形状の対称性を変化させ、さらにvortex生成位置を決定することで磁化反転モードの制御やカイラリティの制御が可能になると考えることができる。本研究では形状の対称性を変えた制御素子を新しく考案しシミュレーションを行った。その結果、右方向に磁場を印加した後ゼロ磁場に戻すと時計回りのカイラリティを持ったvortexが現れ、反対に左方向に磁場を印加した場合は反時計回りのvortexがゼロ磁場で残った。そこでこの形状のディスクを実際に作製し、光電子顕微鏡を用いてカイラリティ制御の実証を試みたところ、全ての素子のカイラリティが制御されていることが分かった。また直径1 〜 20 μmのサイズの素子をそれぞれ複数作製し光電子顕微鏡観察を行ったところ、全ての素子において室温で安定に制御することが可能であると分かった。

 第4章では、一軸磁気異方性を持つLSMO薄膜およびナノ構造の磁区観察について述べられている。巨大磁気抵抗素子のような磁気記録デバイスでは、磁性薄膜や微小磁性体における磁気異方性や磁区形成がデバイス特性に大きな影響を与えるため、デバイス特性の向上にはそれらを制御することが重要な技術となる。ハーフメタリック伝導性を有すLSMOは次世代トンネル磁気抵抗素子への応用が期待されている。表面にステップ&テラス構造を持つ基板上に成長したLSMOエピタキシャル薄膜は、ステップに誘起された一軸磁気異方性が発現することが知られている。本研究ではステップ誘起一軸磁気異方性を持ったLSMO薄膜ならびにナノ構造の磁区形成を明らかにするため、光電子顕微鏡による磁区構造観察を行った。その結果、LSMO薄膜の磁区がステップ方向に細長く伸びていることが分かった。これはステップに誘起された磁気異方性が発現したためと考えられる。次にLSMOナノ構造における磁区構造観察を行った。その結果、5 〜10 μmサイズの様々な形状を持った構造ではステップに平行な横方向の磁化を持つ磁区構造が形成された。これはこのサイズにおいてステップ誘起の一軸磁気異方性が形状磁気異方性よりも非常に大きいことを示している。一方、同様の実験を1 〜 2 μmのナノ構造について行ったところ、ステップ誘起磁気異方性と形状異方性が競合する条件では上記とは全く異なる磁区構造を有することが明らかになり、磁区形成に対してステップ誘起一軸磁気異方性と形状異方性に加えてサイズ効果が大きな影響を有していることが明らかとなった。以上の結果は磁気記録デバイスの特性向上に向けた重要な知見を与えるものと考えられる。

 第5章では、光電子顕微鏡を用いた界面ナノ構造のイメージングについて述べられている。光電子顕微鏡は主に真空紫外・軟X線領域での顕微分光法として用いられている。本研究では光電子顕微鏡を硬X線領域で用いることにより、薄膜界面などに埋もれた微細な磁気ナノ構造のイメージングの可能性を検討すること目的に、硬X線光電子顕微鏡による界面ナノ構造観察を試みた。試料はSi基板上にリソグラフィーによりAuの微細構造を作製した後、Co薄膜(膜厚:50, 100 & 200 nm)でキャップすることで作製した。測定はAu L吸収端近傍のX線を用いて行った。その結果、50 nmのキャップ層の下に埋め込まれていても、界面のAuの微細構造を明瞭に観察されることが明らかになった。さらに、Au 吸収端の上下で得られた像の差分をとることにより、Auに由来するコントラストのみを抽出する元素選択イメージングに成功した。また100 nm, 200 nmの厚いキャップ層で埋め込んだ試料においても同様にAuの微細構造が明瞭に観察された。以上の結果は、硬X線領域で光電子顕微鏡を用いることにより、埋め込まれた界面微細構造の局所領域X線吸収測定、さらには磁気ナノ構造の磁区観察の可能性を示している。

 以上、本論文は磁区構造直接観察が可能な光電子顕微鏡システムの開発、およびそれを用いることによる磁気記録デバイスの性能向上に向けた微小磁性体の磁区形成解明および制御に関する新たな知見について述べられている。これらの結果は、今後ますます盛んに研究されるであろう微小領域磁性に関する基礎物理の発展のみならず、新しいスピンエレクトロニクスデバイスにおける特性の向上と制御という応用上の観点からも萌芽的、開拓的な成果を与えていると言える。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、放射光光電子顕微鏡による微小磁性体の磁区構造観察手法および磁区形成について述べられたものである。本論文では磁区構造観察を可能にする手法として有力な光電子顕微鏡(PEEM)システムの立ち上げ、および磁気異方性を持たないパーマロイと一軸磁気異方性を有するLa(1-x)SrxMnO3(LSMO)の微小磁性体の磁区構造観察や埋め込まれた界面ナノ構造観察を行った結果について述べている。

 第1章では、本研究の背景である磁気記録デバイスに関する研究と磁区構造観察手法について述べられている。近年の磁気記録デバイスは超高密度化による微細化が進み、1ビットあたりの記録領域はナノメートルサイズに達している。ミクロン〜サブミクロンサイズの磁性体の磁区構造はバルクと異なり、磁気物性が形状や大きさに強く依存する。このような磁性体の磁区構造を直接観察することは磁気記録デバイスへの応用のみならず微小磁性体の磁区形成に関する基礎的な理解の上でも非常に重要である。磁区観察手法としては現在、漏れ磁束を検出する磁気力顕微鏡が主に用いられているが磁性体内部の磁化分布を直接観察することは困難である。一方、放射光を用いた光電子顕微鏡は磁気モーメントの直接マッピングが可能な手法である。

 第2章では、本研究で行った放射光光電子顕微鏡システムの開発と磁区構造観察の実証について述べられている。光電子顕微鏡は光により放出した光電子または2次電子を結像するイメージング技術であり、エネルギー可変かつ左右円偏光切り換え可能な放射光を利用することにより磁気モーメントの高空間分解能マッピングが可能である。これは内殻吸収端で左・右円偏光による吸収強度が異なる(X線磁気円二色性; XMCD)ことを利用している。本研究では高エネルギー加速器研究機構(KEK)と共同で振動を抑制した試料ステージを有する光電子顕微鏡システムを開発した。これをKEK PF-ARの放射光円偏光アンジュレータビームライン AR-NE1Bに接続して実験を行った。パーマロイ製メゾスコピック磁性体(直径2 μm, 厚さ50nm)の光電子像を撮影したところ高い空間分解能(約130 nm)で明瞭なイメージを得ることに成功した。

 第3章では、サブミクロンサイズの磁性体ディスク特有のvortexと呼ばれる磁気渦構造を制御する手法の考案について述べられている。サブミクロンサイズの磁性体ディスクはvortexと呼ばれる磁気渦構造を持つことが知られている。Vortexの状態(トポロジー)を表す一つの指標として、磁気渦の向きの時計回り・反時計回りを示すカイラリティが存在する。vortexのカイラリティを制御することにより、ビット間の磁気的干渉のない磁気ランダムアクセスメモリー(MRAM)を実現できることが期待されている。MRAMはDRAMに比べて不揮発性、低消費電力、高速書き込み、高耐久性という優れた点をもつが、従来のMRAMでは各記録ビットの磁化による磁気的な相互干渉が超高密度化の壁となっている。この問題を解消する方法として、磁束が閉じたvortexの利用が検討されている。しかしながらこれにはカイラリティを安定に制御する方法を見出す必要がある。そこで本研究ではカイラリティ制御を目標として、マイクロ磁気シミュレーションを用いて外部磁場印加によるカイラリティ制御手法を考案するとともに、光電子顕微鏡によるカイラリティ制御の実証を試みた。はじめにマイクロ磁気シミュレーションを用いてvortex構造の磁化過程の計算を行った。従来、vortex構造を持ったディスクの磁化反転過程においてはvortexが同時に2つ存在しうることが示されており、単一vortexだけのモデルでは説明できない。本研究ではカイラリティ制御の実現に不可欠である磁化反転過程におけるvortexダイナミクスを調べた。マイクロ磁気シミュレーションの結果、2つのvortexが同時に存在するような磁化反転過程が2種類あり、互いに異なる磁化曲線を持つことが分かった。これら2種類の磁化反転過程は生成する2つのvortexのカイラリティが等しいモードと異なるモードに分類することができる。前者ではカイラリティが等しく2つのvortexは結合して単一vortex状態へと変化するが(C-shaped mode)、後者ではカイラリティが異なるため2つのvortexは結合することなく、ゼロ磁場においても2つのvortexが存在することが明らかになった(S-shaped mode)。そこで2種類の磁化反転モードが現れる起源を解明するために、ディスク内の磁化分布の変化について詳細に検討し、磁化分布の対称性がモードを決定していることを明らかにした。

 以上のシミュレーションで得られた知見から、ディスク形状の対称性を変化させ、さらにvortex生成位置を決定することで磁化反転モードの制御やカイラリティの制御が可能になると考えることができる。本研究では形状の対称性を変えた制御素子を新しく考案しシミュレーションを行った。その結果、右方向に磁場を印加した後ゼロ磁場に戻すと時計回りのカイラリティを持ったvortexが現れ、反対に左方向に磁場を印加した場合は反時計回りのvortexがゼロ磁場で残った。そこでこの形状のディスクを実際に作製し、光電子顕微鏡を用いてカイラリティ制御の実証を試みたところ、全ての素子のカイラリティが制御されていることが分かった。また直径1 〜 20 μmのサイズの素子をそれぞれ複数作製し光電子顕微鏡観察を行ったところ、全ての素子において室温で安定に制御することが可能であると分かった。

 第4章では、一軸磁気異方性を持つLSMO薄膜およびナノ構造の磁区観察について述べられている。巨大磁気抵抗素子のような磁気記録デバイスでは、磁性薄膜や微小磁性体における磁気異方性や磁区形成がデバイス特性に大きな影響を与えるため、デバイス特性の向上にはそれらを制御することが重要な技術となる。ハーフメタリック伝導性を有すLSMOは次世代トンネル磁気抵抗素子への応用が期待されている。表面にステップ&テラス構造を持つ基板上に成長したLSMOエピタキシャル薄膜は、ステップに誘起された一軸磁気異方性が発現することが知られている。本研究ではステップ誘起一軸磁気異方性を持ったLSMO薄膜ならびにナノ構造の磁区形成を明らかにするため、光電子顕微鏡による磁区構造観察を行った。その結果、LSMO薄膜の磁区がステップ方向に細長く伸びていることが分かった。これはステップに誘起された磁気異方性が発現したためと考えられる。次にLSMOナノ構造における磁区構造観察を行った。その結果、5 〜10 μmサイズの様々な形状を持った構造ではステップに平行な横方向の磁化を持つ磁区構造が形成された。これはこのサイズにおいてステップ誘起の一軸磁気異方性が形状磁気異方性よりも非常に大きいことを示している。一方、同様の実験を1 〜 2 μmのナノ構造について行ったところ、ステップ誘起磁気異方性と形状異方性が競合する条件では上記とは全く異なる磁区構造を有することが明らかになり、磁区形成に対してステップ誘起一軸磁気異方性と形状異方性に加えてサイズ効果が大きな影響を有していることが明らかとなった。以上の結果は磁気記録デバイスの特性向上に向けた重要な知見を与えるものと考えられる。

 第5章では、光電子顕微鏡を用いた界面ナノ構造のイメージングについて述べられている。光電子顕微鏡は主に真空紫外・軟X線領域での顕微分光法として用いられている。本研究では光電子顕微鏡を硬X線領域で用いることにより、薄膜界面などに埋もれた微細な磁気ナノ構造のイメージングの可能性を検討すること目的に、硬X線光電子顕微鏡による界面ナノ構造観察を試みた。試料はSi基板上にリソグラフィーによりAuの微細構造を作製した後、Co薄膜(膜厚;50, 100 & 200 nm)でキャップすることで作製した。測定はAu L吸収端近傍のX線を用いて行った。その結果、50 nmのキャップ層の下に埋め込まれていても、界面のAuの微細構造を明瞭に観察されることが明らかになった。さらに、Au 吸収端の上下で得られた像の差分をとることにより、Auに由来するコントラストのみを抽出する元素選択イメージングに成功した。また100 nm, 200 nmの厚いキャップ層で埋め込んだ試料においても同様にAuの微細構造が明瞭に観察された。以上の結果は、硬X線領域で光電子顕微鏡を用いることにより、埋め込まれた界面微細構造の局所領域X線吸収測定、さらには磁気ナノ構造の磁区観察の可能性を示している。

 以上、本論文は磁区構造直接観察が可能な光電子顕微鏡システムの開発、およびそれを用いることによる磁気記録デバイスの性能向上に向けた微小磁性体の磁区形成解明および制御に関する新たな知見について述べられている。これらの結果は、今後の重要研究分野である微小領域磁性に関する基礎物理の発展のみならず、新しいスピンエレクトロニクスデバイスにおける特性の向上という応用上の観点からも重要な成果を与えていると言える。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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