学位論文要旨



No 122348
著者(漢字) 大西,啓介
著者(英字)
著者(カナ) オオニシ,ケイスケ
標題(和) 原癌遺伝子Aktによる細胞運動制御機構の解析
標題(洋)
報告番号 122348
報告番号 甲22348
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6553号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 後藤,由季子
 東京大学 教授 長棟,輝行
 東京大学 教授 上田,卓也
 東京大学 助教授 上田,宏
 東京大学 助教授 鈴木,勉
内容要旨 要旨を表示する

1.緒言

 細胞運動は発生過程や創傷時における傷の修復や免疫細胞の動員などに関わる、生体を形成・維持していく上で必須な細胞の機能である。また、癌悪性化の顕著な特徴の一つである浸潤・転移にも細胞運動は密接に関わっている。この細胞運動制御を司る分子としてPI3Kとその生成物であるphosphatydilinositol-3,4,5-triphosphate(PIP3)が重要な役割を果たしていることが知られている。増殖因子や走化性因子の下流で活性化されたPI3KはRhoファミリーGTPaseのRac,Cdc42の活性化を介してアクチン骨格の再編成を促し、細胞の運動性を上昇させていることが知られている。一方、PI3Kの別の下流因子であるAktは細胞の生存に重要な役割を果たすことが知られている原癌遺伝子であり、Aktは癌細胞の悪性化に密接に関わっていることが知られている。近年Aktもまた哺乳類細胞の運動に密接に関わっていることが当研究室を含めいくつかのグループから報告されている。従ってAktは細胞の生存という面からだけでなく、細胞の運動という面においても癌細胞の悪性化に影響を与えていると考えられる。これまでに当研究室においてRac,Cdc42の下流でAktが活性化され、Rac,Cdc42による細胞の運動性の上昇にAktの活性化が必要であることが示された。しかしAktがどのような機構でRacによって活性化され、またAktがどのようにして細胞運動に関与しているのか、については全くわかっていなかった。そこで本研究はこの2点について明らかにし、細胞運動という生命に必須の現象の解明を試みることを目的とした。

2.RacによるAkt活性化機構の解析

 Racが下流のどのエフェクター分子を介してAktを活性化しているかを調べたところ、CRIBドメインを持つエフェクター分子を介してAktを活性化していることを見出した。そのような分子の一つにPAK(p21 -activated kinase)が挙げられる。そこでPAKがAktのリン酸化に関与する可能性について検討した。するとPAKの優性抑制型の発現や、RNA干渉法(RNAi)によるPAK1/2のノックダウンによって、増殖因子刺激やRacによるAktの活性化が抑制されることから、増殖因子やRacは、PAKを介してAktを活性化していることが示唆された。またPAKによるAktの活性化にはPAKのキナーゼ活性は不要であること、さらに増殖因子刺激依存的にAktとPDK1がPAKと複合体形成をすることが明らかになった。従って、PAKはPDK1-Aktを結ぶscaffold分子として機能している可能性が示唆された。PDK1-Akt経路の活性化を制御するscaffold分子の存在はこれまでに知られておらず、本研究で示したPAKがはじめての候補である。本研究では増殖因子刺激によるAktの充分な活性化にPAKが必要であるという結果を得ており、PAKが生理的条件でのAktの活性制御において重要な位置を占めていると考えている。

3.Aktによる細胞運動制御機構の解析

(3-1)AktとPIP3のフィードバックによる極性形成

 細胞は正しい方向に遊走するために、細胞外にある走化性因子の濃度差を感知して前後の極性を形成する。しかし生体内では走化性因子の濃度勾配は通常余り大きくはなく、細胞の前後の幅で感知する走化性因子の濃度の差は非常に小さい。そこで細胞はこの小さい濃度(シグナル)の差を「増幅」し、前後の極性を形成するシステムを有していることが予想され、実際に細胞が前後でPIP3シグナルの差を「増幅」していることが報告されている。しかしどのようなメカニズムがPIP3のシグナルを増幅しているのかについては未だ解明されていない。

 一方、活性化されたAktは細胞が運動する進行方向先端(先導端)に局在しているが、どのような役割を担っているかについては不明であった。そこでAktがPIP3シグナルの増幅に関与する可能性について検討した。Aktの上流キナーゼであるPDK1をノックアウトしたマウス胎児繊維芽細胞(MEF)や優性抑制型AktをNIH3T3細胞に発現させ、Aktの必要性を検討したところ、PIP3の集積、極性形成とそれに引き続く細胞運動にPDK1-Akt経路が必要であることを見出した。従ってPDK1-Akt経路はPIP3のフィードバックを制御し、極性形成に必須の役割を担っていることが示唆された。

(3-2)細胞前後の「差づけ」メカニズム

 前述のように細胞運動の際の極性形成においてシグナルPIP3シグナルが増幅していることが示されているが、単に細胞全体で増幅するだけでは細胞の前後でシグナルの「差」が広がることを説明できない。そこで細胞の前後の「差づけ」を説明するのに次に示したモデルが考えられる。「A」と「B」が自身を活性化しつつ互いに抑制し合うことである空間内で異なる領域に住み分けされるというモデルである。「A」が「前方」で活性化しているPI3K-PDK1-Akt経路であるとすると、もしこのモデルが正しいならば、PI3K-Akt経路と互いに抑制し合い、且つ細胞の「後方」を規定する分子「B」が存在するはずである。「B」の候補としては好中球においては運動中に細胞の後方で活性化している低分子量GTPaseのRhoAが考えられる。そこでRhoAとAktが互いに抑制し合い、その結果細胞の前方ー後方の極性が形成されるのではないかと考えた。そこでRhoAとAktが互いに抑制するかについて検討したところ、AktとRhoAは互いに抑制し合っていることが示され、仮説が支持された。

(3-3)AktによるRhoの抑制機構の解析

 次にAktがどのようにしてRhoAを抑制しているかについて検討した。活性化されたAktは細胞の先導端に局在するので、同様の局在を示す分子にAktが作用する可能性が考えられる。そこでわれわれは既に先導端への局在が報告されているp190RhoGAPというGAPに注目し、検討した。p190RhoGAPはp120RasGAPが結合することによって活性が抑制されている。まずAktがp190RhoGAPとp120RasGAPの結合を制御するかについて検討した。するとAktはp120RasGAPのS239をリン酸化することでp190RhoGAPを乖離させていることが示唆された。従ってAktはp120RasGAPのリン酸化を介してp190RhoGAPをはずし、フリーになったp190RhoGAPがRhoAの活性を抑制している可能性が示唆された。

4.Aktと微小管の関係

 微小管は先導端付近で+末端が安定化しており、運動方向に沿って方向性をもって伸びた構築を示す。微小管のダイナミクスを阻害すると、繊維芽細胞は運動できなくなることが示されている。従って3章で明らかにした前後の極性形成メカニズムが何らかの形で微小管のダイナミクスと相互作用している可能性が考えられる。そこでAktが微小管安定性を制御するかについて検討した。NIH3T3細胞において、PDGF刺激後時間を追って安定化した微小管の量を比較したところ、刺激後に安定化された微小管の量が増加することが示された。さらにPI3K阻害剤を添加した細胞、あるいは優性抑制型Aktを発現した細胞ではPDGF刺激による微小管の安定化が抑制された。また活性型Aktを発現した細胞ではわずかに安定化した微小管の量の増加が見られた。従ってAktは微小管の安定化を制御している可能性が示唆された。

 以上の結果から、3章で示した前後極性が確立すると、先導端で活性化したAktが細胞前方における微小管安定化を誘導し、より安定的な前後極性の獲得が達成するという仮説を考えている。

5.結言

 本研究はシグナル増幅の機構を分子レベルで明らかにしようというものである。これまで哺乳類細胞においてPI3K→Rac→アクチン骨格制御の系が細胞運動制御に重要な役割を果たしていることは知られていたが、当研究室などにより、PI3K-Racの下流でAktが細胞運動制御に関することが示されたことを基に、私はまずRacによるAkt活性化メカニズムを明らかにした(2章)。次にAktがいかなるメカニズムで細胞運動制御に貢献しているかを検討し、すでにAktがPI3Kのシグナル増幅に関与することを示唆する結果を得ている。さらに細胞の前後のシグナルの「差づけ」を説明するメカニズムとして前方で活性化しているAktと、おそらく後方で活性化しているRhoが互いに抑制し合うことで差づけを生み出しているという仮説を立てた(3章)。さらに、繊維芽細胞などの極性形成・運動に微小管が重要であると考えられていたが、増殖因子刺激による細胞運動誘導時にどのようなメカニズムで微小管にシグナルが伝わっているかはわかっていなかった。本研究はAktが微小管の安定化を制御し、極性・運動に貢献している可能性をはじめて示したものである(4章)。

 細胞の運動は、発生過程や免疫系においてだけでなく癌細胞の悪性化など様々な場面において必須の役割を果たしている基本的な生命現象の一つである。Aktは原癌遺伝子であり、癌の悪性化とも密接な関係がある。本研究においてAktによるシグナル増幅、及び細胞運動制御のメカニズムが明らかになれば、Aktによる癌の悪性化作用の理解にも多大な影響を与えるものと考えている。

審査要旨 要旨を表示する

 細胞運動は発生過程や恒常性維持などの生理現象に関与している。そのため、細胞運動は生体内で厳密に制御されている。そしてその制御機構に異常が生じてしまった例が癌細胞の浸潤・転移で、運動性を獲得した癌細胞は他の組織へ移動し、病巣を拡大していく。近年、癌原発巣に対する診断・治療は急速に進歩し、新しい診断法・治療法が次々に開発されている。しかし、遠隔臓器への転移・再発については診断・治療が難しく、癌による死亡原因の多くを占めている。従って癌転移機構の解明とそれに基づく予防・治療法の開発が癌の克服には必要不可欠であり、そのためには細胞運動メカニズムの詳細について理解することが必要である。

 細胞運動について、運動性を制御する細胞外因子について詳しい解析がなされてきた。しかし細胞外からの刺激によってどのようなメカニズムで細胞の運動性が調節されるのか、特にどのように運動する方向を決定するのかについてはまだ解明されていない部分が多く残されている。細胞内部には、外部のわずかな走化性因子の濃度勾配を細胞内部で増幅し、差を広げ前後の極性を生み出すシグナル増幅のメカニズムが存在することが予想されている。実際PIP3がポジティブフィードバックすることが示され、PIP3のポジティブフィードバックがシグナルを増幅し、極性形成に貢献することが示唆されているが、そのメカニズムはわかっていない。さらに、一旦形成された極性を維持するために微小管の運動方向での選択的な安定化が重要であるが、極性形成のメカニズムと微小管の安定化の関係についてはあまり明らかではなかった。本研究では細胞運動の際の方向決定(極性化)と微小管の運動方向での選択的安定化にPI3K-Akt経路が果たす役割を解明することを目的とした。

 第一章では研究の背景、既往の研究及び本研究の意義について述べた。

 第二章ではAktの活性化メカニズムにおけるRacのシグナル伝達経路の役割について解析した。Aktは原癌遺伝子で、Aktの遺伝子増幅や異常な活性亢進が癌の悪性化と密接な相関があることが報告されているため、Aktの活性化メカニズムの解明は癌治療の創薬に重要であると考えられる。本研究では、Aktを活性化する上流キナーゼであるPDK1とAktの結合を促進するスキャフォールドタンパク質としてRacの下流のPAKが重要な役割を果たしていることを明らかにした。PAKはセリン・スレオニンキナーゼであるにも関わらずキナーゼ活性非依存的にAktを活性化し、さらにPAKの過剰発現によってAktとPDK1の相互作用が促進されることを示され、PAKがAkt経路のスキャフォールドタンパク質として機能していることが示唆された。これまで他のシグナル伝達経路ではシグナル伝達の効率や特異性を制御するスキャフォールド分子が重要な役割を果たすことが示されていたが、Akt経路についてはそのようなスキャフォールド分子に関する報告はなく、本研究ではじめてPAKがその候補となることが示された。

 第三章、第四章ではAktによる細胞運動制御機構について解析した。Aktが細胞運動の際に非常に重要な極性形成とその維持に関与する可能性を示唆する結果が得られた。PDK1-Akt経路がPIP3のポジティブフィードバックに関与すること、さらに細胞の後方で活性化していると考えられているRhoとAktが互いに抑制しあうことでPIP3-Aktのポジティブフィードバックが生じる場所が限局されることで前後の極性をよりスムーズに生み出していることが示唆された。さらにwound-healing-assayを用いてPI3K-Akt経路が微小管の運動方向での選択的安定化に関与することを明らかにした。またPDGFのような走化性因子としても作用する増殖因子によって細胞運動が誘導される際に、微小管が安定化することをはじめて明らかにした。これらの結果からPI3K-Akt経路が細胞の極性形成とその維持に非常に重要な役割を持つことが示唆された。

 第五章では本研究を総括し、今後の研究の展望を述べた。

 以上のように申請者はPI3K-Akt経路の細胞運動への関与について検討し、Aktが細胞運動の際の極性形成とその維持に重要な役割を果たしていることを示した。これらの成果は細胞運動の理解を深めると同時に、癌の浸潤・転移に対する新たなターゲットの可能性を提案する上で、医学・薬学・工学分野に貢献するものである。さらにこれらの成果から得られた極性形成・維持メカニズムを方向感知システムのプログラムに応用し、非常に高感度なセンサーを開発できる可能性が考えられる。従ってこの成果は工学分野に貢献できるものである。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認めれる。

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