学位論文要旨



No 122367
著者(漢字) 加藤,洋一郎
著者(英字)
著者(カナ) カトウ,ヨウイチロウ
標題(和) 畑条件下のイネ栽培における耐乾性とその遺伝的変異に関する研究
標題(洋)
報告番号 122367
報告番号 甲22367
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3091号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生産・環境生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 山岸,順子
 東京大学 教授 杉山,信男
 東京大学 教授 大杉,立
 東京大学 教授 根本,圭介
 東京大学 助教授 鴨下,顕彦
内容要旨 要旨を表示する

 全世界で使用される水資源のうち、およそ70%は農業用水として利用されている。とりわけアジア地域では水使用量全体のうち45%が稲作にあてられている。しかし近年、都市部における水資源の需要の増大、また工業排水や家庭排水による水資源の汚染などによって、灌漑稲作に利用可能な水資源が不足する危険性が懸念されている。一方で、世界人口の増加に見合う食料増産を現在の耕地面積で達成するためには、今後、単位面積あたりにして40%以上のイネ収量の向上が必要であると予測されている。このため、水資源投入を節約しながらかつ高位安定生産を達成するイネ栽培技術の確立が急務である。その中で現在、限られた水資源を有効活用する栽培技術として、畑条件下のイネ栽培が世界的に注目されている。しかし、イネは他の作物に比較して土壌乾燥に弱く、畑条件で高位安定生産を達成することは容易ではない。そこで本研究では、イネの耐乾性(土壌乾燥下の収量安定性)を向上させることで高位安定生産を達成するため、畑条件下のイネ栽培において、土壌乾燥が収量形成に及ぼす影響を評価し、最も重要となる土壌乾燥の時期を明確化すること、および耐乾性を高めるために有効な形質を明らかにすること、を目的とした。

1. 水田条件および畑条件における収量形成の比較

 土壌乾燥は、その時期によってイネの収量形成に及ぼす影響が異なることはよく知られている。しかし畑条件下のイネ栽培において最も重要となる生育段階あるいは生育要因は明らかではない。そこで初めに、水田条件と畑条件で3年間の圃場試験を行い、収量構成要素の解析を通じて両条件における収量形成を比較した。

 その結果、水田条件では1 haあたり5.5 t(精籾乾物重、品種・日本晴)を超える収量水準であったが、畑条件ではこの水準よりも収量が低下しやすい傾向が認められた。畑条件の収量形成と生育時期別の給水量(降水量と灌漑量の合計)の関係を解析したところ、生殖生長初期、特に出穂20-40日前の給水量が収量へ最も強く影響しており、収量の変動は主として面積あたり穎花数によることが示された。生殖生長初期では穂数よりも1穂穎花数が面積あたり穎花数の決定に関与するため、畑条件下の収量形成においては、生殖生長初期の土壌乾燥に対する1穂穎花数の維持が重要であると考えられた。

2. 生殖生長初期の土壌乾燥が1穂穎花数へ及ぼす影響

 5品種を供試して畑条件で圃場試験(湿潤処理・生殖生長初期土壌乾燥処理)を行い、穎花の分化や出穂前退化といった穂形質に着目し、土壌乾燥が1穂穎花数へ及ぼす影響について検討した。また、ポット試験によって、生殖生長初期の中でさらに詳細に異なる時期・強度の土壌乾燥に対する穂形質の応答を調査した。

 圃場試験の結果、土壌乾燥処理では分化した枝梗・穎花の多くが出穂前に発育停止しており、これが1穂穎花数減少の一因となっていた。またポット試験から、土壌乾燥に対する穂形質の応答について、1)幼穂分化期前後(出穂30-35日前)の土壌乾燥に対しては、枝梗・穎花はほとんど退化しないが、これらの分化は抑制されやすいこと、2)減数分裂期前後(出穂10-20日前)の土壌乾燥に対しては、2次以上の高次の枝梗が退化しやすいこと、3)これらの退化は軽度の土壌乾燥でも生じること、が示された。圃場試験では土壌乾燥に対する穂形質の応答に品種間差異が認められ、それには体内水分状態が関与していた。このことから、脱水回避性(土壌乾燥下でも体内水分状態を高く維持する性質)に関わる形質の重要性が示唆された。

3. 土壌乾燥に対する穂形質の応答と量的形質遺伝子座(QTL)の同定

 生殖生長初期の土壌乾燥に対する穂形質の応答を遺伝学的に解析するため、アキヒカリ×IRAT109戻し交雑由来組換え近交系106系統(東京大学・根本教授育成)を供試して、畑条件で2年間の圃場試験(湿潤処理・生殖生長初期土壌乾燥処理)を行った。

 その結果、土壌乾燥に対する穂形質の応答は系統間で有意に異なっていた。2ヵ年で共通して検出された穂形質に関するQTLは6つのクラスターをなしており、それぞれ湿潤処理(5領域)あるいは土壌乾燥処理(1領域)に特異的なクラスターであった。土壌乾燥処理に特異的なクラスターのゲノム領域には、同一の近交系統で冠根長のQTLが検出されていることから、土壌乾燥に対する穂形質の応答には、深根発達程度(深根性)の違いに起因する脱水回避性の差異が関与することが示唆された。また、湿潤処理・土壌乾燥処理で検出された1穂分化穎花数のQTLは、それぞれの処理における収量のQTLと部分的に一致しており、土壌乾燥に対する穂形質の応答は畑条件下の収量形成に影響することが示された。湿潤処理の収量のQTLはこれまでに水田条件下で検出された収量のQTLと一致したが、これが土壌乾燥下で収量抑制に作用することはなかった。このことから、非ストレス下の穂形質のQTLと深根性に関するQTLを同一の遺伝的背景に集積させることにより、畑条件において収量性と脱水回避性両方を向上させることができると推察された。

4. 土壌乾燥下の収量形成における深根性の生理生態学的意義

 生殖生長初期の土壌乾燥下では脱水回避性が重要であること、深根性は脱水回避性に関係することが示唆された。そこで、深根性と土壌乾燥下の収量との関係を生理生態学的に明らかにするため、1)土壌乾燥がイネ品種の深根形成に及ぼす影響、2)深根性と土壌乾燥下の水分利用との関係、3)土壌乾燥下の収量形成における深根の役割、について検討した。

 まず、水環境の異なる畑条件の圃場(湿潤処理・生殖生長初期土壌乾燥処理)において、出穂期に6品種の根系分布を調査した。その結果、深層根長に関する品種の順位は土壌乾燥処理でも湿潤処理でも同様で、IRAT109はいずれの処理でも最も深層根長が大きかった。少なくとも生殖生長初期の土壌乾燥下では、品種固有の根形質が深根性の品種間差異に大きく影響することが示唆された。次に、圃場に設置したライシメータにおいて深根性の異なる2品種を栽培し、土壌乾燥下の土壌水分の垂直分布の変化を連続的に観測した。その結果、土壌表層が乾燥するにつれてイネが土壌深層の水分に依存していく様相が確認され、深根性は土壌乾燥下の水分吸収の維持に有効であることが示された。

 また、遮根シートによってイネの根が地下25 cm以深に貫入しないようにした根域制限処理が、深根性の異なる品種の収量形成に及ぼす影響を調査した。その結果、生殖生長初期の土壌乾燥に対して、根域を制限しない処理ではIRAT109は収量を高く維持した。しかし、根域制限処理では体内水分状態を著しく悪化させ、面積あたり穎花数および収量を大きく低下させた。深根性の付与は、生殖生長初期の土壌乾燥に対する脱水回避性を強化し、面積あたり穎花数の確保につながると考えられた。

5. 深根発達の促進が土壌乾燥下の収量の改善にもたらす効果

 遺伝的改良ないし栽培的改良による深根発達の促進が畑条件下のイネ栽培の高位安定生産にもたらす効果を検証した。まず、アキヒカリ×IRAT109戻し交雑由来組換え近交系統のうち、収量性がアキヒカリと同程度に高く、かつ深根性に優れた系統を選んで、水田条件と畑条件で圃場試験を行った。畑条件では、深根性に優れた系統はアキヒカリよりも、生殖生長初期の土壌乾燥に対して高い脱水回避性を示し、面積あたり穎花数を確保することで収量を高く維持した。深根性品種との交雑により、高い収量性を保持したまま、脱水回避性を向上させることは可能であると考えられた。

 また、深根形成の栽培的改良として、深耕施肥が畑条件下の収量形成へ及ぼす影響について検討した。その結果、深耕施肥はイネの深根発達を促進すること、この効果は生殖生長期の土壌乾燥下の収量向上に有効であることが示された。

 以上、本研究では、主に圃場試験を通じて、畑条件下のイネの収量形成に関する生理生態学的・遺伝学的解析を行った。その結果、畑条件下のイネ栽培において耐乾性を向上させ高位安定生産を達成するためには、1)特に生殖生長初期の土壌乾燥に対して脱水回避性を高める必要があること、2)脱水回避性を高める方策として、深根性品種の選択・深根発達を促進する栽培管理が有効であること、さらに、畑条件下のイネ栽培に適した品種の開発において、3)脱水回避性と収量性は高い水準で両立すること、を明らかにした。畑条件下のイネ栽培において高位安定生産を目指した作物生理学的研究は依然として少なく、改良のための具体的な方策が得られていない。本研究によって得られた新たな知見は、水資源の節約と高位安定生産の両立を目指す、これからの持続的なイネ栽培技術の確立に資するものと期待される。

審査要旨 要旨を表示する

 世界的に水資源の枯渇が問題となっている現在、水資源を節約しながらかつ高位安定生産を達成するイネ栽培技術が求められており、畑条件下のイネ栽培が注目されている。しかし、イネは乾燥に弱く、畑条件で高位安定生産を達成することは容易ではない。そこで、本研究はイネの耐乾性を向上させることで高位安定生産を達成することを目的とし、土壌乾燥が収量形成に及ぼす影響の評価、最も重要となる土壌乾燥の時期の明確化、および耐乾性を高めるために有効な形質の特定を行った。

 水田条件と畑条件で収量形成過程を比較した結果、良好な条件下では畑条件でも水田条件と同様の収量が得られるが、しばしば収量が低下することを確認した。畑条件の収量形成と生育時期別の給水量の関係を解析した結果、生殖生長初期、特に出穂20-40日前の給水量が収量低下へ最も強く影響していること、それは主として1穂穎花数の変動によることを明らかにした。

 そこで、生殖生長初期の土壌乾燥が1穂穎花数へ及ぼす影響について検討した結果、1)幼穂分化期前後(出穂30-35日前)の土壌乾燥によって、枝梗・穎花の分化が抑制されること、2)減数分裂期前後(出穂10-20日前)の土壌乾燥によって、2次以上の高次の枝梗が退化すること、3)これらの退化は軽度の土壌乾燥でも生じること、を明らかにし、それらが1穂穎花数減少の原因であることを明らかにした。圃場ではこれらの応答に品種間差異を認め、それには体内水分状態が関与していることを示し、脱水回避性に関わる形質の重要性を示唆した。

 さらに、生殖生長初期の土壌乾燥に対する穂形質の応答について、アキヒカリ×IRAT109戻し交雑由来組換え近交系106系統を供試して量的遺伝子座(QTL)解析を行った。その結果、穂形質に関して湿潤処理(5領域)あるいは土壌乾燥処理(1領域)に特異的なQTLのクラスターを見いだした。これらは収量のQTLと部分的に一致しており、収量形成に影響することを示すことができた。土壌乾燥処理に特異的なクラスターのゲノム領域には、同一の近交系統で冠根長のQTLが検出されており、穂形質の応答に深根性の違いに起因する脱水回避性の差異が関与することを示唆した。また、非ストレス下の穂形質のQTLと深根性に関するQTLを同一の遺伝的背景に集積させることにより、畑条件において収量性と脱水回避性両方を向上させることができることを推察した。

 そして、1)土壌乾燥が深根形成に及ぼす影響、2)深根性と水分利用との関係、3)収量形成における深根の役割、について検討した。その結果、深層根長に関する品種の順位は土壌乾燥処理でも湿潤処理でも同様であり、品種固有の根形質が深根性の品種間差異に大きく影響することを示した。さらに、ライシメータを用いることにより、土壌表層の乾燥に伴い、イネが土壌深層の水分に依存していく様相を確認し、深根性が水分吸収の維持に有効であることを示した。また、遮根シートによる根域制限処理により、体内水分状態が著しく悪化し、面積あたり穎花数および収量が大きく低下することを確認し、深根性の付与は、生殖生長初期の土壌乾燥に対する脱水回避性を強化し、面積あたり穎花数の確保につながることを明らかにした。

 最後に、遺伝的改良による深根発達促進と収量の関係を確認するため、アキヒカリ×IRAT109戻し交雑由来組換え近交系統を用いて圃場試験を行った結果、深根性に優れた系統は生殖生長初期の土壌乾燥に対して高い脱水回避性を示し、高収量を維持することを示した。つまり深根性付与によって高い収量性を保持したまま、脱水回避性を向上させることが可能であると結論した。また、栽培的改良による深根発達促進として、深耕について検討し、深耕はイネの深根発達を促進すること、この効果は生殖生長期の土壌乾燥下の収量向上に有効であることを示した。

 以上、本研究では、畑条件下のイネの収量形成に関する生理生態学的・遺伝学的解析を行い、耐乾性を向上させ高位安定生産を達成するためには、1)特に生殖生長初期の土壌乾燥に対して脱水回避性を高める必要があること、2)脱水回避性を高める方策として、深根性品種の選択・深根発達を促進する栽培管理が有効であること、さらに、畑条件下のイネ栽培に適した品種の開発において、3)脱水回避性と収量性は高い水準で両立すること、を明らかにした。本研究によって得られた新たな知見は、水資源の節約と高位安定生産の両立を目指す、これからの持続的なイネ栽培技術の確立に資するものと期待されることから、審査委員一同は申請者が博士(農学)の学位を受けるに必要な学識を有する者と認めた。

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