学位論文要旨



No 122370
著者(漢字) 船隈,俊介
著者(英字)
著者(カナ) フナグマ,シュンスケ
標題(和) カイコの卵形成のトランスクリプトーム解析
標題(洋)
報告番号 122370
報告番号 甲22370
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3094号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生産・環境生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 嶋田,透
 東京大学 教授 田付,貞洋
 東京大学 教授 堤,伸浩
 東京大学 助教授 石川,幸男
 東京大学 助教授 勝間,進
内容要旨 要旨を表示する

 昆虫の卵巣には、栄養細胞の有無や卵胞の構造によって区別される無栄養室型、多栄養室型、および端栄養室型の三つのタイプがある。カイコをはじめとする鱗翅目昆虫やショウジョウバエなどの双翅目昆虫の卵巣は多栄養室型(panoistic type)であり、栄養細胞と卵母細胞が隣接して卵胞を形成する。カイコの卵巣に存在する雌性生殖細胞は、卵原細胞はからシストブラストという段階を経て3回の不完全な体細胞分裂を行い、シストサイトと呼ばれる状態になる。シストサイトは、互いに連結された8つの娘細胞から成る。この娘細胞の内の1つだけが卵母細胞へ分化し、残りの7つは栄養細胞となる。これら8個の細胞は、それらの周囲を取りまく濾胞細胞とともに卵胞を形成する。カイコの卵母細胞は、第一減数分裂の中期で細胞周期を停止させ、新規な転写をほとんど行なわない。一方、栄養細胞は核内有糸分裂へと移行し活発に遺伝子の転写を行なう。

 昆虫の卵形成の分子機構のうち、卵黄形成期のビテロジェニン合成や卵殻形成期のコリオン遺伝子の発現などについては多くの研究があるが、シストサイトの分化をはじめとする卵形成初期の機構については不明の点が多い。キイロショウジョウバエでは、卵原細胞からシストサイトへの分化を誘導する重要な遺伝子としてbag-of-marbles (bam)が発見されている。しかし、カイコを含め、他の生物にbamのオーソログは発見されていない。また、カイコの卵母細胞には、キイロショウジョウバエと異なり減数分裂時に相同染色体間の交叉がまったく起こらず、結果として遺伝子の組み換えが起きないというショウジョウバエに見られない特徴がある。本研究では、カイコの雌性生殖細胞の分化機構を解明する目的で、卵形成初期において特異的に機能する遺伝子群を探索し、それらの機能を解析した。

1. SAGEによるカイコ卵巣小管のトランスクリプトーム解析

 シストサイトの分化に関与する遺伝子群を探索するために、3' Long SAGE (3' Long Serial Analysis of Gene Expression) ライブラリーを構築した。カイコの卵胞の発育段階は細かく12段階に分けられているが、シストサイトが栄養細胞と卵母細胞へ分化するのはステージ 1である。ライブラリー1 (ステージ1-3)、ライブラリー 2 (ステージ2-3) の二つのライブラリーを作成し、ライブラリー1より122060、ライブラリー2より37073のSAGEタグをそれぞれ得た。ライブラリー1、2のいずれにおいても、最も出現頻度の高かったSAGE タグは同一だった。5'-,3'-RACEにより完全長cDNAを取得したところ、このSAGEタグに対応するRNAには、3'末端のpoly(A)が付加される位置の差異により3種類のアイソフォームが存在することが判明した。いずれのアイソフォームからも100アミノ酸残基以上のORFは見出されず、既知の転写産物に相同性を示さなかった。またノザンブロッティングの結果、この転写産物は卵巣特異的に、特に生殖細胞に多量に存在することが明らかとなった。そこでこの転写産物をovary champion RNA (ovacham RNA) と名付けた。ovacham RNAは新規の非コード RNAであり、カイコ卵形成において重要な役割を果たしている可能性がある。さらに、ライブラリー1と2を比較して前者に多く出現するSAGEタグを探索したところ、p < 0.05かつ頻度2倍以上という条件で272種類のタグが同定された。それらに対応する遺伝子の中には、ATP synthase subunit d (3.1倍) やATP synthase coupling factor 6 (9.1倍)をコードするものが含まれていた。キイロショウジョウバエにおいてcytochrome c oxidase subunit Va (CoVa) の欠失変異体では、Cyclin Eの量が減少し細胞周期の進行が停止することや、栄養細胞における核内有糸分裂がCyclin Eの増減によって調節されていることが知られている。ATP synthase subunit d, ATP synthase coupling factor 6,cytochrome c oxidase subunit Va (CoVa)はいずれも酸化的リン酸化を担っているという共通性がある。前2者の遺伝子は、ショウジョウバエCoVaと同様の機構で、カイコの卵形成における細胞周期を調節している可能性がある。

2. ovary champion (ovacham) RNAの機能解析

 上述のようにovacham RNAがカイコ卵形成において重要な役割を担っている可能性がある。そこで、カイコ蛹個体での RNAi による機能解析を試みた。ovacham RNAに該当する2本鎖 RNA(dsRNA)を血体腔中に注射したところ、栄養細胞と卵母細胞の分化に異常を示す卵胞や、卵管の分枝、卵胞同士の融合が高頻度に観察された。一方、EGFP dsRNAを注射した個体からは同様の異常を示す個体は出現しなかった。卵巣の形態異常を示した個体では、EGFP dsRNAを注射した個体に比べてovacham RNAの量が減少していたため、観察された卵巣の異常はovacham RNAのノックダウンによるものと考えられた。ovacham RNAはカイコ卵巣小管において、生殖細胞(栄養細胞及び卵母細胞)や体細胞(卵管)の様々な発生段階に欠かせないRNAであると考えられる。加えて、一部のノックダウン個体では雌蛾の外部生殖器の一部が雄様の形態を示した。ovacham RNAの発現は卵巣特異的であり雌外部生殖器では観察されないため、卵巣より分泌されている何らかの物質が外部生殖器の性分化に関与している可能性がある。そこで、MALDI-TOF/MSを用いてovacham RNAから短いペプチドが翻訳されている可能性を検証したが、該当するペプチドは検出されなかった。ovacham RNA由来のペプチドが修飾を受けている場合、実際に卵巣内に存在してもMALDI-TOF/MSによる検出は困難であるため、ovacham RNAから短いペプチドが翻訳されている可能性を完全に排除することはできない。しかし以上の実験より、ovacham RNAが卵形成に必要な転写産物であることが判明し、卵巣より分泌されている何らかの物質が雌個体において外部生殖器の性分化に関与している可能性が示唆された。

3. 卵巣特異的に多量に存在するsmall RNAの解析

 カイコ卵巣から調製したtotal RNAを変性ポリアクリルアミドゲル電気泳動で分離し、EtBrで染色したところ、30塩基付近に強く染色されるバンドが観察された。このバンドは卵巣からのみ検出されたので、クローニングして10152クローンの塩基配列を決定したところ、 8053種類の 配列が得られた。その内の2種類はmiRNA (micro RNA)であった。また1992種類 (24.7%)については、カイコゲノムの全ゲノムショットガン配列のアセンブリーで得られたスキャフォールドに多数回(5回以上)ヒットしたので、rasiRNA (repeat-associated small interfering RNA)であると考えた。rasiRNAはショウジョウバエの生殖細胞系列で反復配列の発現を抑制することが知られているので、カイコ卵巣のrasiRNAも、トランスポゾンの転写や転移を抑制することによってゲノムを保護する機能を有している可能性がある。

 卵巣の低分子RNAには、miRNA、rasiRNA以外にも、スキャフォールド配列に1〜4回ヒットするRNAが3285種類 (40.8%)あり、それらをBmsmRNAと名付けた。BmsmRNAは、ゲノム上に複数のクラスターを形成し、それらクラスターの多くはスキャフォールドの両端付近に存在することが明らかとなった。また、スキャフォールドにヒットしなかった2774種類の低分子RNA のうち、約半数に相当する1385種類が、カイコの全ゲノムショットガンでアセンブリーできなかった反復配列に対してヒットした。したがって卵巣に多量に存在する低分子 RNAには、スキャフォールド間の反復配列に富む領域や、その近傍の領域に由来するものが多いことがわかった。さらに、BmsmRNAクラスター内では卵巣のSAGE タグに相当する配列が疎であったので、卵巣で発現する遺伝子が少ない領域に相当することが明らかになった。また、雄の減数分裂におけるSNPマーカー間の組み換え価とBmsmRNAの分布を重ね合わせてみたところ、BmsmRNAクラスター領域では組換え価が低いことも判明した。したがって、BmsmRNAは何らかの機構で卵巣におけるジーンサイレンシングを行なっているものと推察された。

 以上本研究では、カイコの卵巣におけるシストサイトの分化をはじめとして、卵形成初期に関与する遺伝子の候補をSAGE解析を通して新たに同定し、特に新規な非コードRNAであるovacham RNAの機能を解明した。また、卵母細胞の分化または保護に一役買っていると考えられる多数の低分子 RNAを発見した。これらの結果にもとづき、カイコの卵形成において従来あまり着目されてこなかった非コード RNAや低分子RNAなど機能性RNAの重要性を指摘した。

審査要旨 要旨を表示する

 昆虫の卵巣には、栄養細胞の有無や卵胞の構造によって区別される無栄養室型、多栄養室型、および端栄養室型の三つのタイプがある。カイコをはじめとする鱗翅目昆虫やショウジョウバエなどの双翅目昆虫の卵巣は多栄養室型であり、栄養細胞と卵母細胞が隣接して卵胞を形成する。カイコでは、卵原細胞からシストブラストという段階を経て3回の不完全な体細胞分裂を行い、シストサイトと呼ばれる状態になる。シストサイトは互いに連結された8つの娘細胞から成る。この娘細胞の内の1つだけが卵母細胞へ分化し、残りの7つは栄養細胞となる。シストサイトの分化をはじめとする卵形成初期の機構については未だ不明な点が多い。本研究では、この分化過程に関与する遺伝子群を探索し、それらの機能を解析した。

 第一章ではシストサイトの分化に関与する遺伝子群を探索するために、3' Long SAGEライブラリーを構築した。カイコの卵胞の発育段階は細かく12段階に分けられているが、シストサイトが栄養細胞と卵母細胞へ分化するのはステージ1である。ライブラリー1(ステージ1-3)、ライブラリー2(ステージ2-3)の二つのライブラリーを作成した。ライブラリー1と2を比較して前者に多く出現するSAGEタグを探索した結果、シストサイトの分化に関与する遺伝子の候補としてATP synthase subunit d(3.1倍)やATP synthase coupling factor6(9.1倍)などの遺伝子が発見された。また、ライブラリー1、2のいずれにおいても、最も出現頻度の高かったSAGEタグは同一だった。RACEにより完全長cDNAを取得したところ、100アミノ酸残基以上のORFは見出されず、既知の転写産物に相同性を示さなかった。またノザンブロッティングの結果、この転写産物は卵巣特異的に多量に存在することが明らかとなった。そこでこの転写産物をovary champion RNA(ovacham RNA)と名付けた。

 第二章ではovacham RNAの機能解析を試みた。ovacham RNAに対するRNAiを行なったところ、シストサイトの分化異常や、卵管の分枝、卵胞同士の融合が高頻度に観察された。ovacham RNAはカイコ卵形成に欠かせないRNAであると考えられる。加えて、一部のノックダウン個体では雌蛾の外部生殖器の一部が雄様の形態を示した。雌外部生殖器ではovacham RNAの発現は観察されないため、卵巣より分泌されている物質が外部生殖器の性分化に関与していると考えられる。そこで、MALDI-TOF/MSを用いてovacham RNAから短いペプチドが翻訳されている可能性を検証したが、該当するペプチドは検出されなかった。やはりovacham RNAは非コードRNAである可能性が高い。

 第三章ではカイコ卵巣に多量に存在する低分子RNAを解析した。10152クローン(8053種類)の塩基配列を決定した。その内の2種類はmiRNAであった。また1992種類(24.7%)については、カイコゲノムスキャフォールドに多数回(5回以上)ヒットしたので、rasiRNAであると考えた。rasiRNAはショウジョウバエの生殖細胞系列で反復配列の発現を抑制することが知られているので、カイコ卵巣のrasiRNAも同様の機能を有していると考えられる。卵巣の低分子RNAには、miRNAやrasiRNA以外にも、スキャフォールド配列に1〜4回ヒットするRNAが3285種類(40.8%)あり、それらをBmsmRNAと名付けた。BmsmRNAは、ゲノム上に複数のクラスターを形成した。それらクラスター内では卵巣のSAGEタグに相当する配列が疎であったので、BmsmRNAは何らかの機構で卵巣におけるジーンサイレンシングを行なっているものと推察された。

 以上本論文は、カイコの卵形成初期に関与する遺伝子の候補を新たに同定し、特にカイコの卵形成において従来あまり着目されてこなかった非コードRNAや低分子RNAなど機能性RNAの重要性を指摘したもので、学術上、応用上貢献することが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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