学位論文要旨



No 122384
著者(漢字) 西野,智則
著者(英字)
著者(カナ) ニシノ,トモノリ
標題(和) ヒストン脱アセチル化酵素による遺伝子発現制御に関する研究
標題(洋)
報告番号 122384
報告番号 甲22384
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3108号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 堀之内,末治
 東京大学 教授 依田,幸司
 東京大学 教授 佐藤,隆一郎
 東京大学 客員教授 吉田,稔
 東京大学 助教授 高橋,伸一郎
内容要旨 要旨を表示する

 クロマチンの最小単位はヌクレオソームと呼ばれる8分子のコアヒストンにDNAが巻き付いた構造体であり、転写不活性な領域ではこのヌクレオソームが密にパッキングし、高密度な構造をとることで転写因子等のリクルートを防ぎ、一方で転写活性な領域ではヌクレオソームは数珠状に伸びた低密度な構造をとり、転写因子等のリクルートに有利な環境を与えていると考えられている。個体の発生や分化では、ゲノム上のDNAの遺伝子を選択的に活性化あるいは不活性化することによって特異的な遺伝子発現パターンを決定づける。このような遺伝子発現の制御には転写因子の活性化だけでなく、クロマチン高次構造の変化も重要であるとされている。DNAやヒストンの翻訳後修飾はこのようなクロマチン構造の構築に関与すると考えられており、特にヒストンのアセチル化は転写活性な領域に多く見られる。ヒストンのアセチル化レベルはアセチル化酵素(HAT)と脱アセチル化酵素(HDAC)によって制御され、HATはコアクチベーター複合体に、HDACはコリプレッサー複合体に含まれることからそれぞれ転写の活性化と不活性化に関っていることが知られている。本研究ではHDACによる選択的遺伝子発現の制御機構の解明を目的とし、1)HDAC4による転写抑制因子Bach2の核内フォーカス形成メカニズム、2)HDAC4の細胞内局在制御機構、3)ヒストンアセチル化による遺伝子発現変化の継承機構についての解析を行った。

1、HDAC4による転写抑制因子Bach2の核内フォーカス形成メカニズム

 Bach2は、Bリンパ球細胞において特異的な大量発現が見られるDNA結合タンパク質であり、Bリンパ球細胞の活性化応答や酸化ストレス環境下でのアポトーシス誘導に転写抑制因子として関わっている。Bach2による転写抑制活性は細胞内局在並びに核内局在によりされており、通常の培養条件下では細胞質に局在するが、酸化ストレス環境下で核へと移行する。当研究室では、Bach2が共役抑制因子であるSMRTと核内で斑点状の構造体(Bach2フォーカス)を形成し、このBach2フォーカスの形成がHDACアイソザイムの一つであるHDAC4によって促進されることが見いだされていた。本研究ではまずHDAC4によるBach2フォーカス形成の促進機構について解析を行った。

 Bach2とHDAC4はともに核-細胞質間を行き来するシャトルタンパク質であり、核外輸送タンパク質CRM1の阻害剤であるleptomycin B (LMB)によって核外輸送が阻害される。そこでLMBによって起こるBach2の核蓄積を継時的に観察することによってHDAC4やSMRT存在化でのBach2の核移行速度の評価を行った。その結果、Bach2の核移行速度はHDAC4あるいはSMRTの存在下においても変化しないことが分かった。しかし、Bach2フォーカス形成についてはSMRT存在下でのみ観察され、HDAC4の共発現によりさらにフォーカス形成が促進された。また、HDAC4非存在下でも、LMBによってBach2フォーカスの形成が促進された。

 以上の結果より、Bach2フォーカスの形成にはSMRTの存在とBach2の核局在化が重要であることが示された。また、HDAC4はSMRTを介してBach2と結合し、Bach2フォーカス周辺の転写抑制に関与することも示唆された。HDAC4もまたBach2非依存的にSMRTと安定なフォーカスを形成することから、HDAC4はSMRTと結合することでBach2フォーカスの安定性を高め、Bach2の核局在化およびフォーカス形成を促進していると考えられる。

2、HDAC4の細胞内局在制御機構の解明

 共同研究者である宮崎らは、Bach2フォーカスの機能解析を目的として、Bach2フォーカスの形成を阻害する低分子化合物のスクリーニングを行った。その結果、phorbol-12 myristate-13 acetate (PMA)がHDAC4の細胞質局在化を引き起こすことを見いだした。HDAC4を含むclass IIa HDACはアミノ末端に核移行シグナル(NLS)、カルボキシ末端には核外輸送シグナル(NES)を持ち、核-細胞質間をシャトルしている。HDAC4は筋芽細胞において核内に局在し、転写因子MEF2による筋分化の開始を抑制しているが、Ca(2+)シグナルによるHDAC4のリン酸化によってシャペロンタンパク質14-3-3と結合し、それによって積極的に核外へ輸送されると考えられてきた。ところが、本スクリーニング系では核内におけるBach2フォーカスの形成を観察するためにHDAC4のNES欠損体を用いていたため、PMAによる細胞質局在化は従来のNES活性化モデルでは説明困難な現象であった。そこで、本研究ではスクリーニングによって発見されたPMAによるHDAC4の細胞質局在化の詳細を明らかにすることにより、HDAC4の細胞内局在に関する新しい分子機構の解明を試みた。

 核移行の阻害が予想されたため、PMA存在化でのLMBを用いた核移行速度の評価を行った。その結果PMA存在下での著しい核移行速度の低下が観察され、HDAC4の細胞内局在が核移行時に制御されていることを初めて実験的に証明した。また、その分子機構にはPMAによって活性化されるprotein kinase C(PKC)のうち、カルシウム非依存的なアイソザイムであるnPKCの活性化が関ること、PMAにより14-3-3との結合が増加することなどを明らかにした。しかし、nPKCであるPKCδやPKCεの活性化型変異体の過剰発現は細胞内においてHDAC4の細胞質局在化を引き起こすにもかかわらず、in vitroリン酸化試験においてはHDAC4をほとんどリン酸化しなかったことから、HDAC4のリン酸化酵素についてはnPKCシグナルの下流で活性化されるリン酸化酵素によって行われるものと考えられる。さらに14-3-3結合部位の変異体を用いた実験では、変異体はLMB依存的な核局在化を引き起こしたが、PMAによる核移行速度の低下は起こらなくなった。これらの結果は、細胞内においてHDAC4は14-3-3非依存的に核-細胞質間シャトルしており、14-3-3の結合が核外輸送に必須でないこと、14-3-3の結合がPMAによるHDAC4の核移行阻害に必須であることを示している。核移行阻害の作用機序については、14-3-3結合部位とNLSが近接していることから核輸送タンパク質のNLS結合に対する立体障害が生じているものと考えられる。また、PMAによる核移行阻害は、HDAC4と同じclass IIaに分類されるHDAC5とHDAC7においても観察され、ともに14-3-3の結合がPMA依存的に増大していた。これらの結果は14-3-3による核移行阻害がclass IIa HDAC間で起こる共通の分子機構であることを示している。

3、ヒストンアセチル化による遺伝子発現変化の継承機構の解析

 遺伝子発現の調節に関るクロマチンの修飾はDNAのメチル化とヒストンの翻訳後修飾に大別されるが、ともに正常な遺伝子発現パターンを次世代に伝えるためにDNA複製により新しく形成されたクロマチンに継承される必要がある。可逆的なHDAC阻害剤であるtrichostatin A (TSA)は全ヒストンのアセチル化レベルを上昇させ、一部の遺伝子について転写の活性化を誘導する。TSAを除去すると速やかにアセチル化レベルは減衰し、基底状態へと戻る。このことはTSAによる全体的なアセチル化レベルが維持されないことを示すが、変化を受けた一部の遺伝子座においてアセチル化が維持され、遺伝子発現が「記憶」される可能性を検討するためにDNAマイクロアレイを用いた遺伝子発現解析を行った。

 HeLa細胞に対して24時間TSA処理を行った後、TSAを除いて培養を続け、48時間後と96時間後における遺伝子の発現量をDNAマイクロアレイ(54,675プローブ)により調べた。その結果、14.2%(7,762プローブ)で2倍以上の遺伝子発現が見られたが、48時間後に2.5%(1,440プローブ)、96時間後には0.70%(382プローブ)のみが2倍以上の発現レベルを維持していた。48時間にわたって発現上昇の見られた遺伝子の中で発現レベルの高いものの中には細胞周期の進行や細胞死に関わるもの複数含まれており、その中にはTSAの抗腫瘍活性の要因の一つであるcyclin-dependent kinase inhibitorであるCDKN1A(p21)も含まれていた。そこでCDKN1AのmRNAレベルをノーザン解析およびRT-PCRにより調べた結果、TSA除去後も72〜96時間まで持続的なmRNAの発現上昇が観察された。また、転写阻害剤であるactinomycin Dを用いた実験でCDKN1AのmRNAの半減期は4〜6時間程度であり、文献値とも一致して短いことから、TSA除去後24時間以降の転写産物は新規合成されたものであることが示唆された。このことは、ヒストンアセチル化によって変化した遺伝子発現の一部は、細胞分裂を経て娘細胞に継承されることを示しており、ユークロマチン領域の遺伝子発現における「細胞記憶」の存在を示唆するものである。

まとめ

1. HDAC4による転写抑制因子Bach2の核内フォーカス形成メカニズム

 HDAC4がBach2フォーカスの安定性を高めることでBach2の核内繋留およびフォーカス形成を促進している可能性を示した。

2. HDAC4の細胞内局在制御機構の解明

 14-3-3によるHDAC4の細胞内局在制御が核移行の阻害であることを証明した。

3. ヒストンアセチル化による遺伝子発現変化の継承機構の解析

 TSAによって発現誘導された一部の遺伝子発現の変化が細胞に「記憶」され、その「記憶」が数世代に渡って娘細胞に継承されることを示した。

図1 SMRT存在下で形成されるBach2 focus

図2 HDAC4核-細胞質間シャトルの制御機構のモデル図

図3 TSA除去後も持続するp21の転写活性化

審査要旨 要旨を表示する

 真核生物ではDNAのメチル化やヒストンの翻訳後修飾が選択的な遺伝子発現の制御において非常に重要な役割を担っている。ヒストンのアセチル化はアセチル化酵素と脱アセチル化酵素(HDAC)によって制御されており、HDACによるヒストンの脱アセチル化は遺伝子発現の抑制において必要な過程であると考えられている。しかし、選択的な遺伝子発現が行われる中で、HDACによる転写抑制がどのように調節されているかは不明な点が多い。本論文は(1)HDAC4による転写抑制因子Bach2の核内フォーカス形成メカニズム、(2)HDAC4の細胞内局在制御機構、(3)ヒストンアセチル化による遺伝子発現変化の継承機構についての解析を行い、選択的な遺伝子発現の制御におけるHDACの機能について述べたものである。

(1)HDAC4による転写抑制因子Bach2の核内フォーカス形成メカニズム

 共同研究者である星野らによって、Bach2は共役抑制因子であるSMRTを介してHDAC4と複合体を形成し、核内で斑点状の核内構造体(Bach2フォーカス)を形成することが示された。このBach2フォーカスはHDAC4非存在下ではより小さく、HDAC4によってフォーカス形成が促進されることが見いだされていた。そこで、HDAC4が核内構造体の形成に関与している可能性を検討するために、Bach2フォーカスの形成におけるHDAC4の機能解析を行った。共発現による局在観察の結果、Bach2フォーカスはSMRT存在下でのみ形成され、HDAC4によるフォーカス形成の促進もSMRTが必要であることが示された。その一方で、核外輸送タンパク質CRM1の阻害剤であるleptomycin B (LMB)をSMRT存在下で処理したときにもフォーカス形成の促進は観察されたことから、HDAC4はBach2の核局在を促進していると考えられた。そこで、LMBを用いてBach2の核蓄積をHDAC4の存在下と非存在下で比較したが、HDAC4はBach2の核移行を促進しておらず、HDAC4はBach2を核内にリテンションすることでフォーカス形成を促進していると推察された。

(2)HDAC4の細胞内局在制御機構の解明

 HDAC4を含むclass IIa HDACはアミノ末端に核移行シグナル(NLS)、カルボキシ末端には核外輸送シグナル(NES)を持ち、核-細胞質間をシャトルしているが、主な細胞内局在は14-3-3の結合を伴った核外輸送の活性化によって制御されていると考えられてきた。しかし、共同研究者である宮崎らによりphorbol-12 myristate-13 acetate (PMA)が核外輸送を伴わずHDAC4の細胞質局在を引き起こすことが見出され、HDAC4の細胞内局在にはまだ解明されていない新しい制御機構が存在することが示された。まず、PKCとの発現実験により、PMAによるnovel protein kinase C (nPKC)の活性化がHDAC4の細胞質局在を引き起こすことを示し、さらにLMBを用いた核移行速度の評価により、PMA存在下では著しい核移行速度の低下が起こることを観察しPMAによるHDAC4の局在制御機構が核移行の阻害であることを証明した。また、その分子機構について解析を行った結果、PMAにより14-3-3との結合が増加することを示し、さらに14-3-3結合部位の変異体を用いることで、14-3-3の結合がHDAC4の核移行を阻害することを明らかにした。PMAによる核移行阻害は、HDAC4と同じclass IIa HDACに分類されるHDAC5とHDAC7においても観察されたことから14-3-3による核移行阻害がclass IIa HDAC間で起こる共通の分子機構であることが示された。

(3)ヒストンアセチル化による遺伝子発現変化の継承機構の解析

 遺伝子発現の調節に関るクロマチンの修飾はDNAのメチル化とヒストンの翻訳後修飾に大別されるが、ともに正常な遺伝子発現パターンを次世代に伝えるためにDNA複製により新しく形成されたクロマチンに継承される必要がある。可逆的なHDAC阻害剤であるtrichostatin A (TSA)は全ヒストンのアセチル化レベルを上昇させ、一部の遺伝子について転写の活性化を誘導するが、TSAを除去すると速やかにアセチル化レベルは減衰し、基底状態へと戻る。このことはTSAによる全体的なアセチル化レベルが維持されないことを示すが、変化を受けた一部の遺伝子座においてアセチル化が維持され、遺伝子発現が「記憶」される可能性を検討するためにDNAマイクロアレイを用いた遺伝子発現解析を行った。HeLa細胞に対して24時間TSA処理を行った後、TSAを除いて培養を続け、48時間後と96時間後における遺伝子の発現量をDNAマイクロアレイ結果、TSAによって発現誘導されるp21 mRNAレベルがTSA除去後も48時間後も維持されていることが分かった。そこでp21のmRNAレベルをノーザンブロッティングにより調べた結果、TSA除去後72〜96時間までmRNAレベルの増加が観察された。しかし、クロマチン免疫沈降実験ではTSA処理によって亢進したヒストンのアセチル化がTSA除去48時間後には維持されていないことが示された。これらの結果からヒトの「細胞記憶」ではアセチル化だけでは形成されず、DNAメチル化や他のヒストン修飾が重要であることが示唆された。

本研究はHDACが関わる遺伝子発現の制御として転写抑制因子Bach2のフォーカス形成におけるHDAC4の役割、class IIa HDACの局在制御機構、そしてヒストンアセチル化修飾の「細胞記憶」についてそれぞれ解析を行い、近年盛んに研究が進められているエピジェネティクス領域に新しい概念を与える研究として意義がある。よって審査委員一同は、本論文が、博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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