学位論文要旨



No 122395
著者(漢字) 笠井,真菜
著者(英字)
著者(カナ) カサイ,マナ
標題(和) Wntシグナル伝達経路による神経分化制御
標題(洋)
報告番号 122395
報告番号 甲22395
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3119号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 秋山,徹
 東京大学 教授 高橋,直樹
 東京大学 教授 加藤,茂明
 東京大学 教授 千田,和広
 東京大学 助教授 加藤,久典
内容要旨 要旨を表示する

序論

 生物の発生過程における遺伝子発現は、さまざまなシグナルが時間的、空間的制御をうけて伝達されることにより調節されている。このようなシグナル伝達経路の1としてWntシグナルがあげられる。Wntシグナルは、線虫からヒトに至るまで広く保存され、個体の発生形態形成、癌の発症機構に関与することが明らかとなっている。

 Wntが作用していない細胞では、Wntシグナル伝達因子β-cateninはGSK-3βによりリン酸化をうけ、プロテアソーム依存的に分解されている。一方、Wntが7回膜貫通型受容体Frizzledに結合すると、細胞質タンパク質Dishevelledが活性化され、GSK-3βの不活化を引き起こす。その結果、β-cateninは安定化して核内に移行し、DNA結合タンパク質TCF/LEFと結合することにより、CyclinD1などのターゲット因子の転写活性化を引き起こす。

 発生過程におけるWntシグナルの機能は、各々のWnt因子のノックアウトマウスを作製することにより解析が進められている。例えばWnt3aのノックアウトマウスでは中胚葉の発生が正常に起こらず、後部体幹が欠失する。原因遺伝子として、そのターゲット因子であるBrachyuryがあげられており、Brahcyury遺伝子に変異があるTのmutant では同様な表現型を呈する。また、Wnt1ノックアウトマウスでは小脳および中脳後部が正常に形成されない。逆に、Wntシグナルを負に制御する因子であるDkk-1のノックアウトマウスでは前脳部が欠失する。このように、発生過程における、さまざまな部位でのWntシグナルの機能解析が行われている。

 脳神経系の発生過程におけるWntシグナルの役割についても、近年活発に研究が行われており、これまでに、大別して下記の3つの知見が得られている。

1 Wntシグナルによって、神経細胞の後方化が促進される

2 Wntシグナルが神経幹細胞に働きかけることで、神経幹細胞の増殖を促進し、皮質の肥厚化を引き起こす

3 Wntシグナルが神経幹細胞からニューロンへの分化を促進する

 これらは、異なる発生段階における機能を示しており、各々の発生過程におけるWntシグナルの機能の一部をあらわしているに過ぎないと考えられる。本研究では、Wntシグナルの脳神経発生過程における分化誘導機構の解析を目的とした。

 本研究では、大脳の発生異常が認められたICATノックアウトマウスの解析、そして、神経前駆細胞のニューロン、グリア分化過程におけるWntシグナルの機能解析、さらに、Wntシグナルのターゲット因子として見出されたSp5について、細胞周期と神経前駆細胞での機能に焦点をあて解析を行った。

第一章

「ICAT-1 ノックアウトマウスの解析」

 ICAT-1 (以後ICAT)はWntシグナルを負に制御する因子として当研究室で単離同定、解析されてきた。ICATはβ-catenin に結合し、WntシグナルによるTCFとβ-catenin を介した転写活性化を抑制する。ICATはXenopusの胚発生において体軸形成に重要な役割を果たすこと、またヒト大腸癌細胞においてWntシグナルを抑制する活性をもつことが確認されていることから、哺乳類の発生過程における解析のためにICATノックアウトマウスが作製された。作製されたICATノックアウトマウスは、そのほとんどが腸管破裂により生後1日で死亡する他、前頭部形成不全が観察された。

 本研究では、ICATノックアウトマウスの、組織学的、解剖学的解析を行った。特に、最も重篤な表現型であった前頭部欠失の原因を明らかにするために、脳神経系の発生に焦点を絞り解析を行った。発生中期から発生後期における各種神経系細胞マーカー遺伝子の発現をWestern blotting、in situ hybridizationにより検討した結果、ニューロンや神経幹細胞のマーカー遺伝子の発現に変化は見られなかったが、前方化マーカーの発現抑制及び後方化マーカーの発現亢進が観察された。これより、ICATノックアウトマウスの大脳発生異常の原因が、脳発生における領域化異常であることが示され、ICATによるWntシグナルの抑制は、正常な脳の領域化制御に必要であることが明らかになった。

第二章

「Wntシグナルによる、BMPsの誘導を介した時間的なニューロン及びグリアの分化制御」

 神経の発生分化過程では、ニューロンの分化がグリアの分化に先行する。ニューロン分化は、発生中期から起きるのに対し、グリアの分化はそのほとんどが、発生後期及び出生後に起こる。しかし、その分化順序を規定する機構は明らかにされていない。そこで、本研究では、神経前駆細胞がニューロン及びグリアに分化する過程におけるWntシグナルの機能を明らかにしようと試みた。

 神経前駆細胞にレトロウイルスにてWntシグナル伝達因子であるβ-cateninを導入し、細胞染色、RT-PCR法により各種神経系分化マーカーの発現を検討した。その結果、ニューロン、アストロサイトの分化誘導、オリゴデンドロサイトの分化抑制を確認した。β-cateninが導入された細胞はニューロンに分化し、その細胞の周囲でアストロサイトの分化誘導が起きていることを見出した。

 また、神経分化の進行ととともに、アストロサイト誘導能が報告されている骨形成因子(BMPs)、BMP2、BMP4、BMP7の発現が誘導され、β-cateninの強制発現によりその発現誘導が亢進することを確認した。この結果から、β-cateninにより誘導されたBMPによってアストロサイトの分化誘導が起こる可能性があると考えられた。そこで、BMPの阻害因子であるNogginを添加し、各種分化マーカーの発現を検討したところ、β-cateninの導入によるアストロサイトの分化が抑制され、また、部分的にオリゴデンドロサイトの分化が回復することが明らかとなった。これより、β-catenin によって誘導されたBMPsがパラクライン因子としてグリアの分化制御に関わっていることが明らかになった。

 つまり、神経前駆細胞においてWntシグナルによりニューロンが誘導され、誘導されたニューロンにおいてBMPsが発現し、アストロサイトを誘導するとともにオリゴデンドロサイトの分化を抑制するという時間的な分化制御を行っていることが示唆された。この、ニューロン、アストロサイト、オリゴデンドロサイトという分化順序は、発生過程における分化の進行状態をよく反映しており、Wnt-BMPシグナルが生体内でも同様な機構として働いていると考えられる。

第三章

「Wntシグナルのターゲット因子、Sp5の機能解析」

 Sp5は神経幹細胞におけるWntシグナルのターゲット因子としてマイクロアレイ解析により当研究室で見出された。Sp5はSp1ファミリーに属し、Znフィンガードメインを持つ転写因子である。Sp5のノックアウトマウスでは特異な表現型は報告されていないが、詳細な解析は行われていない。当研究では、Wntシグナルのターゲット因子としてのSp5の機能解明を目的として研究を行った。

 Sp5は、MG1.19 ES細胞において、Wnt3a添加により、添加後2時間から発現誘導が認められた。また、ルシフェラーゼアッセイ、ゲルシフトアッセイによりSp5がWntシグナルの直接のターゲットであることを明らかにした。

 Sp5はHCT116大腸癌細胞への強制発現により、cyclin-dependent kinase inhibitorであるp27Kip1の発現上昇とともに、増殖低下、G1期細胞群の増加を引き起こした。したがって、Sp5をshRNAによりノックダウンしたところ、p27の転写抑制が確認された。これより、HCT116細胞において、Sp5はp27の発現を介して細胞周期を調節していると考えられた。

 さらに、神経前駆細胞におけるSp5の機能を明らかにしようと試みた。Sp5は神経前駆細胞を分化条件で培養することにより発現上昇が認められた。また、β-cateninの強制発現によって発現が亢進し、神経前駆細胞からニューロンへの分化過程においてSp5が重要な機能を果たしている可能性が示唆された。

 Wntシグナルは、神経前駆細胞の分化過程でSp5の発現を誘導する。その結果p27の発現上昇が起こり、細胞周期がG1で停止すると考えられる。分化誘導時における神経前駆細胞の分化誘導、細胞周期の停止は、Wntシグナル-Sp5-p27経路により制御されている可能性が考えられた。

まとめ

 発生中期から後期における神経発生過程では、脳の領域化、神経幹細胞の増殖、ニューロンの分化、グリアの分化へと進行する。各過程において、Wntシグナルは重要な役割を果たしており、いくつかの下流因子を持つことが報告されている。本研究では、脳の領域化と、神経幹細胞の分化過程のWntシグナルを介した新たな制御を明らかにした。今回見出されたBMPs、Sp5のように、各々が全く異なる機能を持ち、Wntシグナルのターゲットとしてその機能の一側面をあらわす未知の因子は多数あると考えられる。今後、各々の発生過程におけるWntシグナルのターゲット因子の選択機構について解析が進むことが期待される。

審査要旨 要旨を表示する

 生物の発生過程における遺伝子発現は、さまざまなシグナルが時間的、空間的制御をうけて伝達されることにより調節されている。このようなシグナル伝達経路の一つとしてWntシグナルがあげられる。Wntシグナルは、線虫からヒトに至るまで広く保存され、個体の発生形態形成、癌の発症機構に関与することが明らかとなっている。

 本研究は、Wntシグナルの脳神経発生過程における分化誘導機構の解析を目的として行われた。

 第一章では、Wntシグナルを負に制御する因子であるICAT-1(以後ICAT)のノックアウトマウスの解析について述べられている。本研究では、ICATノックアウトマウスの、組織学的、解剖学的解析が行われた。特に、最も重篤な表現型であった前頭部欠失の原因を明らかにするために、脳神経系の発生にについて解析された。発生中期から発生後期における各種神経系細胞マーカー遺伝子の発現をWestern blotting、in situ hybridizationにより検討した結果、ニューロンや神経幹細胞のマーカー遺伝子の発現に変化は見られなかったが、前方化マーカーの発現抑制及び後方化マーカーの発現亢進が観察された。これより、ICATノックアウトマウスの大脳発生異常の原因が、脳発生における領域化異常であることが示され、ICATによるWntシグナルの抑制は、正常な脳の領域化制御に必要であることが明らかになった。

 第二章では、神経前駆細胞がニューロン及びグリアに分化する過程におけるWntシグナルの新規機能が明らかにされた。神経前駆細胞にレトロウイルスにてWntシグナル伝達因子であるβ-cateninを導入することで、ニューロン、アストロサイトの分化誘導、オリゴデンドロサイトの分化抑制を確認した。また、神経分化の進行ととともに、アストロサイト誘導能が報告されている骨形成因子(BMPs)、BMP2、BMP4、BMP7の発現が誘導され、β-cateninの強制発現によりその発現誘導が亢進することを確認した。さらに、BMPの阻害因子であるNogginを添加し、各種分化マーカーの発現を検討したところ、β-cateninの導入によるアストロサイトの分化が抑制され、また、部分的にオリゴデンドロサイトの分化が回復することが明らかとなった。これより、β-cateninによって誘導されたBMPsがパラクライン因子としてグリアの分化制御に関わっていることが明らかになった。

 第三章では、Wntシグナルの新規ターゲット因子として見出されたSp5の機能解析が述べられている。

 Sp5は、MG1.19ES細胞において、Wnt3a添加により、添加後2時間から発現誘導が認められた。また、ルシフェラーゼアッセイ、ゲルシフトアッセイによりSp5がWntシグナルの直接のターゲットであることを明らかにした。

 また、Sp5はHCT116大腸癌細胞への強制発現により、cyclin-dependent kinase inhibitorであるp27Kip1の発現上昇とともに、増殖低下、G1期細胞群の増加を引き起こした。そこで、Sp5をshRNAによりノックダウンしたところ、p27の転写抑制が確認された。これより、HCT116細胞において、Sp5はp27の発現を介して細胞周期を調節していることが示された。

 さらに、神経前駆細胞におけるSp5の機能解明が行われた。Sp5は神経前駆細胞を分化条件で培養することにより発現上昇が認められた。また、β-cateninの強制発現によって発現が亢進し、神経前駆細胞からニューロンへの分化過程においてSp5が重要な機能を果たしている可能性が示唆された。神経前駆細胞の分化過程では、WntシグナルがSp5の発現を誘導し、その結果p27の発現上昇が起こり、細胞周期がG1で停止すると考えられる。分化誘導時における神経前駆細胞の分化誘導、細胞周期の停止は、Wntシグナル-Sp5-p27経路により制御されている可能性が考えられた。

 以上のとおり、本研究では、脳の領域化と、神経幹細胞の分化過程でのWntシグナルを介した新たな制御機構が明らかにされた。ノックアウトマウスの解析により脳の領域化決定時における、ICATの重要性が明らかとなった。また、神経幹細胞のグリア、ニューロンの分化には、BMP、Sp5とWntシグナルの異なる下流因子が制御することが示唆された。これらの報告は、脳の発生過程におけるWntシグナルの新たな機能について示したものであり、学術上応用上貢献することが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が、博士(農学)の学位論文として価値のあるものと認めた。

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