学位論文要旨



No 122399
著者(漢字) 白井,温子
著者(英字)
著者(カナ) シライ,アツコ
標題(和) 分裂酵母全タンパク質の電気泳動位置情報および翻訳後修飾の網羅的解析
標題(洋)
報告番号 122399
報告番号 甲22399
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3123号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 堀之内,末治
 東京大学 教授 北本,勝ひこ
 東京大学 教授 太田,明徳
 東京大学 客員教授 吉田,稔
 東京大学 助教授 前田,達哉
内容要旨 要旨を表示する

 分裂酵母は出芽酵母と並び、古くより真核生物のモデルとして生物学の発展に貢献してきた生物であるが、その実験手法等の類似性とは裏腹に、ゲノム構造は出芽酵母とは大きく異なっている。出芽酵母の染色体が16本であるのに対し、分裂酵母はわずか3本であるが、高等生物にきわめて類似したゲノムの構造となっている。このような特徴を有する分裂酵母は長年にわたり改良されてきた多彩な実験手法と相まってポストゲノム時代において有用なモデル生物であり、特にわずか5,000遺伝子からなるその小さなゲノムは、遺伝子配列を出発点とする逆遺伝学的な視点から研究を行う上では非常に有用である。本研究ではこの分裂酵母を用いたリバースプロテオミクスにより、全タンパク質の電気泳動位置情報の網羅的解析および翻訳後修飾の解析を行った。

分裂酵母全遺伝子産物のSDS-PAGEにおける泳動位置の決定と解析(Mobilitomeの作成)

 SDS-ポリアクリルアミドゲル電気泳動(SDS-PAGE)は分子サイズに基づいてタンパク質を分離する基本的な実験手法である。1960年代初頭、デンプンゲルをアクリルアミドゲルに変えた電気泳動法が開発され、続いてSDSを共存させたSDS-PAGEが提唱されて以来、数多くの研究者によって改良が加えられ、多くの研究者に一般的に利用されるようになった。現在では、タンパク質を分離するためだけでなく、泳動度の変化からタンパク質の物理化学的な特性および翻訳後修飾などの情報を知るためにも用いられるようになっている。本研究ではこのSDS-PAGEをプロテオームスケールで行なうことで、電気泳動におけるタンパク質の性質を包括的に解析し、さらに、その泳動位置情報を基にして標的タンパク質を同定するための系の構築を行った。

 まず始めに、理化学研究所吉田化学遺伝学研究室との共同研究により作製された分裂酵母の全ORFライブラリーを用いて、分裂酵母の全ORFにFLAG2-His6タグを融合させ、これをチアミン非存在下で発現誘導が可能なプロモーターにつないだプラスミドを作製した後、個別に分裂酵母のゲノムに挿入した株4,916種を構築した(1))。これらの株を発現誘導培地で培養した後、全細胞抽出液を調製し、SDS-PAGEを行った。抗Hisタグ抗体を用いてタグ融合タンパク質をウエスタンブロッティングで検出することにより、94.3%(4,635)のタンパク質のSDS-PAGEにおける泳動位置を決定し、この全タンパク質の泳動位置情報を「Mobilitome」と名付けた。

 タンパク質のアミノ酸配列から算出される分子量(予測分子量)と実際に泳動される位置から算出した見かけの分子量を比較したところ、全体の約40%のタンパク質が予測分子量とは異なる位置に泳動された。統計学的にタンパク質の泳動度に影響を与える因子を解析したところ、泳動位置はタンパク質の疎水度および等電点などに影響を受けることが明らかになった。

さらに、Mobilitomeの情報を標的タンパク質の同定に用いた。従来の手法では、SDS-PAGEやウエスタンブロッティングによって標的タンパク質が検出された場合、それを精製して質量分析を用いて同定するという方法が主流である。しかしながらこの方法では精製が困難なタンパク質を同定するのは容易ではない。そこで、標的タンパク質の電気泳動位置を手がかりにしてMobilitomeを用いて候補のタンパク質を絞り込み、各候補タンパク質を一つずつ個別に調べることで標的タンパク質を同定するという新しい同定法を考案した。実際に、この同定法を用いて、NAD依存的なヒストン脱アセチル化酵素をコードするhst2遺伝子の破壊株でのみ検出される2種類のアセチル化タンパク質が翻訳開始因子eIF5Aであることを同定した。1) Nat. Biotechnol.24,841-7,2006

メチル化タンパク質の網羅的な検索と同定

 タンパク質のメチル化の研究は60年代から70年代にかけて盛んに行われていたが、リジン残基のメチル化の阻害剤がないために実験が困難であったことなどから、80年代以降ほとんど研究が行われなくなった。ところが、2000年にヒストンのメチル化酵素が発見されて以降メチル化の研究が再燃し、現在に至るまでヒストンのメチル化部位および機能が次々と明らかにされている。一方で、非ヒストンタンパク質に関しては研究がほとんど進んでいない。そこで本研究では、SDS-PAGEにおける泳動位置決定に用いたメンブレンを利用して、抗メチルリジン抗体を用いた網羅的なメチル化タンパク質のスクリーニングを行った。

 網羅的なメチル化タンパク質のスクリーニングの結果、7種類の新規メチル化タンパク質を同定した。なかでも、最も注目に値するのは翻訳に関係するタンパク質が複数含まれていたことである。翻訳伸長因子として有名なEF-1αやEF2、さらにはリボソームタンパク質L12およびL23がメチル化されることから、メチル化修飾が翻訳と密接に関わっていることが示唆される。

 また、ヒストンメチル化酵素に保存されているSETドメインを有するタンパク質を分裂酵母のデータベースから全て抽出し、それらをコードする遺伝子13種類を破壊した。これらの遺伝子破壊株から全細胞抽出液を調製し、SDS-PAGEおよびウェスタンブロッティングを行って抗メチルリジン抗体で検出したところ、set5、set9およびSPBC1709.13cの遺伝子破壊株において、それぞれ50kDa、10kDa、15kDa付近のバンドが消失した。抗メチルリジン抗体を用いたスクリーニングで同定したメチル化タンパク質と合わせて解析したところ、少なくともEF-1αがSet5に、RL23がSet9によってメチル化されることが明らかとなった。

翻訳開始因子eIF5Aのアセチル化の解析

 真核生物に広く保存されている翻訳開始因子eIF5Aは、スペルミジンのブチルアミンがNAD依存的にリジン残基のε-アミノ基に転移されるハイプシン化と呼ばれる翻訳後修飾を受ける唯一のタンパク質として知られており、出芽酵母では細胞の生育に必須であることが報告されている。また、eIF5Aは細胞の増殖のみならず癌との関係も示唆されているが、その機能については不明な点が多い。本研究では、Mobilitomeを用いて同定したeIF5Aのアセチル化に焦点を絞り、解析を行った。

 まず、eIF5AはHst2以外の脱アセチル化酵素によっても脱アセチル化されるかを検討した結果、Hst2同様にNAD依存的な脱アセチル化酵素であるSir2によっても脱アセチル化されることが明らかになった。一方で、eIF5Aのアセチル化酵素を明らかにすることを目的として、アセチル化酵素の可能性があるタンパク質を幅広く選出して検討を行った。その結果、eIF5AはGcn5もしくはAda2によってアセチル化されていることが明らかになった。

 また、eIF5Aのアセチル化される残基を明らかにするために、eIF5Aに含まれる9個のリジン残基をそれぞれアルギニンに置換して検討した結果、49番目のリジン残基がアセチル化されることが明らかになった。また興味深いことに、他の生物でハイプシン化されることが知られている52番目のリジン残基をアルギニンに置換した変異体でアセチル化が顕著に亢進した。そこでハイプシン化に必要な酵素(デオキシハイプシン水酸化酵素)を破壊してハイプシン化を消失させたところ、eIF5Aのアセチル化が亢進した。一方、sir2 hst2二重破壊株ではeIF5Aのハイプシン化の亢進は見られず、49番目のリジン残基をアルギニンに置換した変異体でもハイプシン化の亢進は見られなかった。これらの結果から、ハイプシン化がアセチル化酵素を抑制するか、もしくは脱アセチル化酵素を活性化させていることが示唆された。

翻訳後修飾を受けるタンパク質の網羅的検索

 現在、翻訳後修飾を網羅的に同定する際には、質量分析を用いて解析する方法が主流である。しかしながら質量分析を用いた翻訳後修飾の解析は、遺伝子配列から予測されるペプチドの質量と実際の質量との不一致を指標にして検索するために容易ではなく、特に一度に複数の翻訳後修飾を網羅的に同定するのは現時点では困難である。そこで本研究では、作製済みのFLAG2-His6タグ融合タンパク質過剰発現株4,916株から全細胞抽出液を調製し、変性条件下でハイスループットにタグ融合タンパク質のみを精製してプロテインアレイを作製し、翻訳後修飾特異的な抗体を用いて様々な修飾を網羅的に検出する系を構築した。

展望

 本研究では、全タンパク質の泳動位置のデータベースMobilitomeの作成を行い、これを用いた標的タンパク質の新たな同定法を構築した。この同定法を用いてNAD依存的な脱アセチル化酵素Hst2によって脱アセチル化されるeIF5Aを同定し、eIF5Aのアセチル化を制御している因子を明らかにした。eIF5Aのアセチル化が果たす新たな役割が明らかになると期待される。また、アセチル化のみならず様々な翻訳後修飾を同定する系を構築した。これにより、複数の翻訳後修飾の網羅的な解析も可能となる。現在、分裂酵母全過剰発現株4,916株を用いてプロテインアレイを作製中であるが、これにより様々な翻訳後修飾特異的な抗体を用いて翻訳後修飾を受けるタンパク質が同定されると期待できる。このような解析を通し、翻訳後修飾同士のネットワークが明らかになり、翻訳後修飾が生命現象に果たす役割について包括的な理解が得られると確信している。

審査要旨 要旨を表示する

 分裂酵母は出芽酵母と並び、古くより真核生物のモデルとして生物学の発展に貢献してきた生物であるが、その実験手法等の類似性とは裏腹に、ゲノム構造は出芽酵母とは大きく異なっている。出芽酵母の染色体が16本であるのに対し、分裂酵母はわずか3本であるが、高等生物にきわめて類似したゲノムの構造となっている。このような特徴を有する分裂酵母は長年にわたり改良されてきた多彩な実験手法と相まってポストゲノム時代において有用なモデル生物であり、特にわずか5,000遺伝子からなるその小さなゲノムは、遺伝子配列を出発点とする逆遺伝学的な視点から研究を行う上では非常に有用である。本研究ではこの分裂酵母を用いたリバースプロテオミクスにより、全タンパク質の電気泳動位置情報の網羅的解析および翻訳後修飾の解析を行った。

(1) SDS-ポリアクリルアミドゲル電気泳動(SDS-PAGE)は分子サイズに基づいてタンパク質を分離する基本的な実験手法である。本研究ではこのSDS-PAGEをプロテオームスケールで行なうことで、電気泳動におけるタンパク質の性質を包括的に解析し、さらに、その泳動位置情報を基にして標的タンパク質を同定するための系の構築を行った。まず始めに、理化学研究所吉田化学遺伝学研究室との共同研究により作製された分裂酵母の全ORFライブラリーを用いて、分裂酵母の全ORFにFLAG2-His6タグを融合させ、個別に分裂酵母のゲノムに挿入した株4,916種を構築した。これらの株を発現誘導培地で培養した後、全細胞抽出液を調製し、SDS-PAGEを行った。抗Hisタグ抗体を用いてタグ融合タンパク質をウエスタンブロッティングで検出することにより、94.3%(4,635)のタンパク質のSDS-PAGEにおける泳動位置を決定し、この全タンパク質の泳動位置情報を「Mobiitome」と名付けた。

 タンパク質のアミノ酸配列から算出される分子量(予測分子量)と実際に泳動される位置から算出した見かけの分子量を比較したところ、全体の約40%のタンパク質が予測分子量とは異なる位置に泳動された。統計学的にタンパク質の泳動度に影響を与える因子を解析したところ、泳動位置はタンパク質の疎水度および等電点などに影響を受けることが明らかになった。

 さらに、Mobilitomeの情報を用いて、標的タンパク質の電気泳動位置を手がかりにして候補のタンパク質を絞り込み、各候補タンパク質を一つずつ個別に調べることで標的タンパク質を同定するという新しい同定法を考案した。実際に、この同定法を用いて、NAD依存的なヒストン脱アセチル化酵素をコードするhst2遺伝子の破壊株でのみ検出される2種類のアセチル化タンパク質が翻訳開始因子eIF5Aであることを同定した。

(2) タンパク質のメチル化の研究は、ヒストンのメチル化部位および機能が次々と明らかにされているが、非ヒストンタンパク質に関しては研究がほとんど進んでいない。そこで本研究では、SDS-PAGEにおける泳動位置決定に用いたメンブレンを利用して、抗メチルリジン抗体を用いた網羅的なメチル化タンパク質のスクリーニングを行った。網羅的なメチル化タンパク質のスクリーニングの結果、7種類の新規メチル化タンパク質を同定した。なかでも、最も注目に値するのは翻訳に関係するタンパク質が複数含まれていたことである。翻訳伸長因子として有名なEF-1αやEF2、さらにはリボソームタンパク質L12およびL23がメチル化されることから、メチル化修飾が翻訳と密接に関わっていることが示唆される。

(3) 真核生物に広く保存されている翻訳開始因子eIF5Aは、ハイプシン化と呼ばれる翻訳後修飾を受ける唯一のタンパク質として知られてが、その機能については不明な点が多い。本研究では、ヒストン脱アセチル化酵素の破壊株およびアセチル化酵素の破壊株を用いて、eIF5AがHst2同様にNAD依存的な脱アセチル化酵素であるSir2によっても脱アセチル化されること、およびGcn5もしくはAda2によってアセチル化されていることが明らかになった。さらに、ハイプシン化に必要な酵素(Mmd1)を破壊してハイプシン化を消失させたところ、eIF5Aのアセチル化が亢進した。さらに、mmd1と脱アセチル化酵素をコードする遺伝子の多重遺伝子破壊株の結果から、ハイプシン化とアセチル化に遺伝学的な相互作用が存在すること初めてが明らかになった。

(4) 本研究では、作製済みのFLAG2-His6タグ融合タンパク質過剰発現株4,916株から全細胞抽出液を調製し、変性条件下でハイスループットにタグ融合タンパク質のみを精製してプロテインアレイを作製し、翻訳後修飾特異的な抗体を用いて様々な修飾を網羅的に検出する系を構築した。

 本研究では、従来のプロテオミクスとは逆のリバースプロテオミクスの手法を用いて、電気泳動位置のデータベースの構築を行い、また分裂酵母の全タンパク質の翻訳後修飾を網羅的に解析する系を確立した。本研究で構築したデータベースはWeb上で公開されており、世界中の研究者に利用されている。また近い将来、分裂酵母全タンパク質が受ける様々な翻訳後修飾を記載したデータベースも作成できると考えられ、生物学の更なる進展に貢献するものである。よって、審査委員一同は、本論文が、博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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