学位論文要旨



No 122402
著者(漢字) 林,寛敦
著者(英字)
著者(カナ) ハヤシ,トモアツ
標題(和) 新規RhoGAP蛋白質RICSの機能解析
標題(洋)
報告番号 122402
報告番号 甲22402
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3126号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 秋山,徹
 東京大学 教授 高橋,直樹
 東京大学 教授 千田,和広
 東京大学 教授 加藤,茂明
 東京大学 助教授 加藤,久典
内容要旨 要旨を表示する

 神経のネットワークが正しく構築されるためには,個々の神経細胞が正しい方向に軸索を伸長させ,投射先を正しく認識して接着し,成長円錐からシナプス結合を形成・維持する必要がある。これらの各ステップの制御には極めて多くの分子群が関与するが、なかでもカドヘリン・カテニン複合体を介した細胞接着の重要性は以前から指摘されてきた。また,シナプスのつなぎ換えによる局所的な神経回路の再編成やシナプス伝達効率の増強といったシナプスの可塑的変化にも、カドヘリン・カテニン複合体が関与していることが強く示唆されている。このシナプスの可塑性には,プレシナプス側のグルタミン酸の放出量の変化や、ポストシナプス側のグルタミン酸受容体の反応性・表面発現の変化だけでなく、アクチン細胞骨格系の再編によるスパイン自体の構造的変化が重要であることが知られている。その過程で重要な働きをしているのがRhoファミリー(RhoA,Rac1,Cdc42)分子である。RhoファミリーはGTP結合状態で活性化型,GDP結合状態では不活性型となるが、この活性変換を制御するのがGEF (GDP-GTP exchange factor)およびGAP (Rho GTPases activationg protein)である。GEFはGDP結合型からGTP結合型への移行を促すことでRhoファミリー分子の活性化を引き起こし,GAPはGTPからGDPへのリン酸の加水分解を促進することで活性化型から不活性化型への速やかな変化を仲介する。Rhoファミリーに対するGEF,GAPは多数同定されているが,Tiam1などRhoGEFがスパイン形態やスパインでのシグナル伝達に積極的に関与することを示す報告が多数存在するのに対し,スパインにおけるRhoGAPの役割に関する研究報告は未だ少なく,多数あるRhoGAPの使い分けやその制御機構などを含め未知な部分は多い。

 これまでに私たちは,β-カテニンと相互作用する新規RhoGAPタンパク質RICSを同定した(岡部ら,2003)。本研究では,RICSのスプライシングバリアントPX-RICSを新たに同定し,その機能解析を行った。また,当研究室で作成したRICS KOマウス(西村-那須ら,2006)を用いて,Rhoファミリーを介した神経の突起伸長やスパインの形成におけるRICSおよびPX-RICSの役割について解析した。さらに、RICSおよびPX-RICSがNMDAシグナルの下流で機能していることを確認した。

1. 新規RICSスプライシングバリアントPX-RICSの単離・同定

 RICSはβ-カテニン結合タンパク質として当研究室でクローニングされ、N末部分にGAPドメインをもつ新規RhoGAPタンパク質である。RICSのC末端を認識する抗体を使用したイムノブロッティングを行うと、RICSに相当する約210kDaバンドに加えて、約250kDaのバンドも検出され、バリアントの存在が示唆されていた。そこで、RICSのN末端の塩基配列を用いたBlastサーチの結果、RICSの翻訳開始コドンよりも5'側の塩基配列が異なりさらに上流にORFが延長するESTクローンを得た。この塩基配列をもとにさらに5'側に伸びるESTクローンを同定していき、最終的には大腸がんcDNAライブラリーからPCR法によりRICSバリアントcDNAの単離に成功した。その塩基配列の解析の結果、RICSのファーストメチオニンからさらにN末側に349アミノ酸伸長し,その領域にPXドメインおよびSH3ドメイン持つことがわかり,PX-RICSと名づけた。

 次に、PX-RICSのN末端側を認識する抗体(PX-RICSを認識するがRICSは認識できない抗体)を作製し,その抗体によって認識されるバンドがRICS抗体で検出された250kDaのバンドと一致することが確認できた。PX-RICSの組織ごとの発現を観察したところ,脳でもっとも発現が高く、肺や腎臓においてもわずかに発現が観察された。さらに,様々な組織に由来する培養細胞でPX-RICSとRICSの発現を見たところPX-RICSがほとんどの培養細胞で発現しているのに対し,RICSが発現している細胞は調べた限りではDLD-1細胞とMCF7細胞のみであった。上記のことから,PX-RICSがRICSのスプライシングバリアントであり,RICSと比べてユビキタスな発現を呈することから主要なアイソフォームである可能性が高いことが示唆された。

 培養細胞およびマウス初代神経細胞におけるPX-RICSの局在を免疫蛍光染色によって確認したところ,PX-RICSは核周辺の細胞質にドット状に染色された。このドットは,GM130(ゴルジマーカー)やcalnexin(ERマーカー),Rab5(初期エンドソームマーカー)と部分的に共局在した。また,神経細胞では,DIV-3における成長円錐でβ-カテニン、N-カドヘリンとの共局在が観察された。

 PXドメインはリン脂質結合ドメインである。そこで標的リン脂質を特定するために,Protein-Lipid Overlay Assay, Liposome Binding Assayを行った。その結果,PI(4)PとPI(5)Pとの親和性が顕著で,PI(3)Pとの結合も確認された。Cos7細胞にGFPタグつきのPXドメインを発現させると核内とゴルジ体部分に強く集積する傾向が見られた。PI(4)Pはゴルジ体にPI(5)Pは核内に多く存在していることが知られている。しかし,PX-RICSの全長を発現させても特定の器官に集積することはなかった。

 PX-RICSのGAP活性を確認するために、免疫沈降したPX-RICSを使用してin vitro GAP Assayを行った。その結果、全長のPX-RICS、RICS共にRac1、Cdc42のみに対してGAP活性を示し、RhoAに対しては全くGAP活性を示さなかった。次に、in vivoでのGAP活性を調べるために、RBD、PBD Assayを行った。in vitroでの結果と同じようにPX-RICS及びRICSの野生型はRac1、Cdc42に対してGAP活性を示したが,PX-RICS野生型のGAP活性はRICSの野生型と比べて弱かった。興味深いことに,リン脂質と結合できない変異体PX-RICS Y173AはRICS野生型と同程度の強いGAP活性を有した。PXドメインとリン脂質との結合が、PX-RICSのGAP活性を何らかの形で制御している可能性が考えられた。

 神経突起伸長におけるPX-RICSの作用を調べるために,Neiuro-2a細胞にPX-RICSおよびその変異体を過剰発現させた後、無血清にすることにより神経突起を誘導し、神経突起の長さを計測した。その結果、PX-RICSでもRICSと同程度に神経突起の伸長を阻害した。この系では,PX-RICS Y173Aも野生型と同程度に突起伸長を阻害した。同様の結果は,PC12細胞におけるNGF誘導性の神経突起進展でも得られた。PX-RICSとRICSの両者が突起伸長に関与していることが示唆された。

2. 神経突起伸長,スパイン形成におけるRICSファミリーの生理機能の解析

 当研究室で作製したRICS KOマウスを用いて,RICSファミリーが神経突起伸長,スパイン形成に及ぼす影響を調べた。まず,胚性16.5日目の大脳皮質,海馬の神経初代培養細胞を用いてウェスタンブロットによる蛋白質レベルでの発現分布を検討したところ,大脳皮質,海馬の双方において,PX-RICSの発現が播種直後から確認されるのに対し,RICSの発現は培養14日前後から見られることがわかった。また,マウス脳の発生段階における蛋白質レベルでの発現でもPX-RICSが胚性15日目より発現が観察されたのに対し,RICSは生後14日目から発現していた。このことから,PX-RICSは主に神経突起の発達や走行に主に関与し,RICSはスパインの成熟やシナプス伝達において働く可能性が考えられた。

 胚性16.5日目の野生型マウス及びRICS KOマウスの海馬初代神経細胞を行い,DIV-3およびDIV-6で神経突起長を計測したところ,KOマウスでは野生型マウスと比べ有為な突起の伸展が確認された。さらに,RICS KOマウスではCdc42の活性が,神経の発生段階において常に野生型マウスと比べて高いレベルを維持していることがわかった。Cdc42やRac1の下流で働くJNKの活性化型であるリン酸化型JNKの発現亢進も確認された。Erkやp38といったその他のMAPK系の分子の活性には変化がなかった。したがって、RICSファミリーは主に,Cdc42-JNKシグナルに関与しているものと示唆された。

 RICSはin vitroにおいてNMDAシグナル伝達系の下流分子であるCamK IIによってリン酸化され,そのリン酸化によってGAP活性が抑制されることが知られている(岡部ら,2003)。そこで,海馬神経初代培養DIV-7およびDIV-14でグルタミン酸刺激を行った後、RICS抗体を用いてイムノブロッティングを行ったところ,刺激3分後でリン酸化によるバンドのシフトが観察された。このバンドのシフトは,NMDAレセプターのアンタゴニストであるAPVやカルシウムキレート剤のEGTA, CamK II inhibitorであるKN-93存在化では見られなかった。DIV-14とDIV-21において,野生型マウスとRICSKOマウスのスパイン密度やその形態を観察したところ,RICSKOマウスではスパイン密度が高い傾向が見られたと共に,未成熟なスパイン形であるフィロポディア型スパイン数の割合が高かった。これらのことから,RICSファミリーは,Rhoファミリー分子を介したスパイン形態の制御やNMDAを介した細胞骨格の再編やシグナル伝達において重要な働きをしていることが推察された。

3. まとめ

 本研究では,RICSのスプライシングバリアントであるPX-RICSを同定した。PX-RICSはリン脂質との相互作用をはじめRICSにはない種々の特徴を有し、さらにPX-RICSはRICSよりもユビキタスな発現を呈することから、むしろPX-RICSの方が主要なバリアントであると考えられる。また、PX-RICSおよびRICSはともに神経系で重要な役割を担っていることが示唆された。興味深いことに、RICS KOマウスの行動実験により、いくつかの行動異常を見出している。本研究によってその分子機構が明らかにできれば、記憶や学習といった高次脳機能を分子レベルで説明しようとする試みに貢献できると期待される。

審査要旨 要旨を表示する

 記憶や学習の基礎過程としてシナプスの可塑性が広く認知されている。このシナプス可塑性を担う機構の一つとしてグルタミン酸刺激依存的なアクチン骨格の再編成によるスパイン形態の変化が考えられている。このグルタミン酸による情報伝達にはNMDA受容体からのシグナル伝達が主要且つ重要である。本研究ではアクチン骨格制御分子RhoファミリーGTPaseに対するGTPase-activating protein (GAP)であるRICSの機能解析を行い,RICSがNMDA受容体からRhoファミリーGTPaseへのシグナルをつなぐ分子であり,スパイン形態や下流のシグナル伝達を制御することで記憶・学習といった脳の高次機能に重要な役割を果たす分子であることを示唆した。RICS KOマウスは当研究室(東京大学分子細胞生物学研究所分子情報研究分野)で既に作製されており,海馬や扁桃体,小脳の機能障害に由来すると思われる行動異常が見出されている。

 序章では,脳の高次機能のための神経細胞間のネットワーク形成に関わる主要な分子について脳の発生段階ごとにこれまでの知見を説明した後,RhoファミリーGTPase,およびRhoGAPの脳・神経における役割をまとめた。さらに,先行研究で明らかとなっているRICSに関する知見を記した後,本研究の目的を提示した。

 第1章では,RICSのスプライシングバリアントであるPX-RICSを同定した。PX-RICSはRICSのN末側にリン脂質結合ドメインであるphox homology (PX)ドメインと蛋白質相互作用ドメインのSrc homology 3 (SH3)ドメインを有する新規蛋白質であった。培養細胞を用いた蛋白質レベルでの発現解析の結果,多くの細胞でPX-RICSがRICSと比して有為に高い発現を呈することが明らかとなり,PX-RICSがRICSファミリーの主要なアイソフォームであることが示された。PX-RICSはホスファチジルイノシトール4リン酸[PtdIns (4) P], PtdIns (5) PおよびPtdIns(3)Pと結合し,それらが集積して局在している細胞内器官であるゴルジ体,核内とエンドソームにPX-RICSは局在した。また,PX-RICSのGAP活性がPXドメインとリン脂質との結合によって負に制御されていることを見出した。マウス脳を使用して脳の発生段階におけるPX-RICSおよびRICSの蛋白質レベルでの発現を確認したところ,PX-RICSの発現が胚生14日目から検出されるのに対し,RICSの発現は生後2週間後から観察された。胚生14日目は神経が適切な場所へ移動し神経同士のネットワークの構築を開始する時期に相当し,生後14日目は不必要なシナプスの除去や必要なシナプス経路の強化を行う時期に相当する。このことからPX-RICSが神経細胞の移動や軸索,樹上突起の伸展に関与し,RICSはシナプスの成熟化に関与するのではないかと推察された。PX-RICSの過剰発現によってNeuro-2a細胞の突起伸長が阻害されたことも,上記の推察を支持している。

 第2章では,本研究室で作製済みであったRICS KOマウスの初代培養神経細胞を用いて,PX-RICSおよびRICSが神経突起の伸長,スパインの形成に与える影響を検討した。培養3日目および7日目においてRICS KOマウス由来の海馬初代培養神経細胞と野生型由来の海馬初代培養神経細胞の突起伸長を比較したところ,RICS KOマウス由来の海馬初代培養神経細胞では有為に突起の伸長および枝分かれが亢進していた。また,培養14日目と20日目でスパイン形態を比較したところ培養14日目においてRICS KOマウス由来の海馬初代培養神経細胞と野生型由来の海馬初代培養神経細胞に差は見られなかったものの培養20日目では未成熟なスパイン形態であるフィロポディア型のスパインの割合が増加していた。突起伸長の比較の際,RIGS KOマウス由来の海馬初代培養神経細胞の神経突起には無数のフィロポディア様の棘状の突起物が多数観察された。そこで神経発生段階におけるCdc42の活性を調べたところ,RICS KOマウス由来の神経細胞ではCdc42が恒常的に活性化していることが明らかとなった。また,Cdc42の下流分子であるMAPKの一つJNKの活性化も観察された。これまでに本研究室よりin vitroにおいてRICSがNMDARシグナルの下流分子であるCaMK IIによってリン酸化され,GAP活性が抑制されることを報告している。そこで初代培養神経細胞を用いてPX-RICSまたはRICSのNMDAR活性化依存的なリン酸化を検討した。培養7日目および14日目において抗RICS抗体によるウェスタンブロッティング(WB)解析を行ったところ,グルタミン酸刺激によってPX-RICS/RICSのバンドが高分子量側へシフトした。このバンドシフトはアルカリホスファターゼ処理によって消失し,CaMK IIインヒビターKN-93存在下ではおこらなかった。このことから,実際の神経細胞においてPX-RICS/RICSがグルタミン酸刺激依存的にリン酸化されていることが示された。これらのことから,PX-RICS/RICSはNMDARシグナル伝達系の構成要素として機能し,Cdc42を介したアクチン骨格系やJNKの制御によってグルタミン酸刺激依存的なスパイン形態の変化を調節しているものと考えられた。

 記憶・学習といった脳の高次機能を分子レベルで解明することは,記憶障害,認知障害を伴う疾病,例えばアルツハイマー病に見られるような記憶障害,に対する治療薬の開発においても重要な知見となると期待される。

 以上,本論文はRhoGAP蛋白質RICSの新規スプライシングバリアントPX-RICSを同定・機能解析し,PX-RICSが主要なアイソフォームであることを示すと共に,NMDA受容体活性化依存的なスパイン形態の変化にPX-RICSまたはRICSが関与していることを示唆したもので学術上,応用上貢献することが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値のあるものと認めた。

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