学位論文要旨



No 122414
著者(漢字) 山下,英恵
著者(英字)
著者(カナ) ヤマシタ,ハナエ
標題(和) 草地を中心とした里山における地表性昆虫の多様性管理
標題(洋)
報告番号 122414
報告番号 甲22414
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3138号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 森林科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 富樫,一巳
 東京大学 教授 丹下,健
 東京大学 教授 田付,貞洋
 東京大学 助教授 久保田,耕平
 東京大学 助教授 鎌田,直人
内容要旨 要旨を表示する

 里山は草地,二次林,雑木林および農耕地を含む景観であり,適度な人為的撹乱によって維持されてきた。生物多様性保全における里山の重要性は繰り返し強調されてきた。ところが現在では里山の生物多様性は,(1)人間活動や開発による生息場所の分断化,(2)人間生活や生産様式の変化および過疎化による人為的管理の減少,(3)外来生物による既存生態系の撹乱によって低下しつつあると考えられる(環境省 2002)。里山は,植生,面積および撹乱程度の異なる様々な土地が入り組んで構成されており,そこに生息する種も多様であると考えられる。

 江戸末期から明治の初めにかけて,草地の面積は350万ヘクタールもあり,日本の陸地面積の10 %以上を占めていた。しかしながら現在は,管理放棄によって原野や草原の面積は国土の数%未満にまで減少している(環境省 2002)。日本のような降水量の多いモンスーン気候では,放牧や野焼きのような人間の利用や管理がなければ,草地の維持は困難である。

 草地における生物多様性の保全および増加のためには,草地を含む里山の生物相とその特徴を明らかにすることが重要である。そのため植生や管理程度の異なる構成要素間(境界地)の生物相の相異とその機構を解明する必要がある。また,同一種であっても生息場所が異なれば個体群密度が異なることが考えられる。そのため,異なる生息場所における昆虫の生活史特性や動態を考慮して管理を考える必要がある。

 オサムシ科昆虫は種数が多く,後翅が退化した種が多い。また,オサムシ科昆虫科には様々な特性を持つ種がいる。これらの種は歩行によって移動分散する。その結果,オサムシ科昆虫群集は環境の異質性に敏感に反応する。従ってその組成を明らかにして管理の影響を明らかにし,時空間における個体群密度の動態を明らかにすることは,草地の多様性管理の指針を作る上で重要であり,草地を含む里山の生物多様性管理に大いに寄与するものと考えられる。

 本研究では,草地とその周辺環境における地表性昆虫群集,特にオサムシ科昆虫科昆虫の種組成とその維持機構を明らかにし,草地を中心とした里山の適切な生物多様性管理法について提言する。

 1章は序論であり,この研究の意義を述べた。2章では調査地の概要を示した。特に温度環境を明らかにするために,草地と林地の温度の日較差を比較した。その結果,草地は温度の日較差が林地と比較して大きく,生息種にとって厳しい環境であると考えられた。3章では,草地,林地,休耕田および農耕地における昆虫相の比較を行い,草地の地表性昆虫相の特徴を明らかにした。目レベルでは草地に特有な昆虫相は検出されなかった。オサムシ科昆虫について種レベルで検討すると,草地のみに生息する種は2種,休耕田および農地のみに生息する種はそれぞれ1種であった。草地で相対密度が高い種(5位以内)の多くは,他の生息地では相対密度が高い5種には含まれていなかった(3章)。このことから草地には特異的なオサムシ種が生息していることが示された。

 4章の1節では,草地の管理方法・管理程度の違いとオサムシ科昆虫の生活史特性の関係を翅型を用いて解析した。草地に生息するスペシャリスト7種のうち,3種が長翅型と短翅型からなる翅二型を示し,他の生息地のスペシャリストは全て単型であった。また,管理方法の異なる草地のうち,野焼き草刈区で翅二型の種が多かった。このように草地でも管理方法度の違いによって,生息種とその翅型が異なることが示された。以上のことから,調査地は毎年繰り返される野焼きによって,長期に撹乱されてきた広い草地であったので,そのような環境が翅二型の種の存続と関係すると考えられた。

 4章の2節では,草地と林地の境界地における,森林性のルイスオサムシ(以下ルイス)の分布と行動を解析して,境界地が分布に及ぼす影響を明らかにした。この研究では,ルイスが林地の密度とは無関係に15 %の個体が草地に移出することが分かった。また,生息場所の選択行動を個体標識によって調べた。その結果,境界線で放したルイス(129頭)のうち再捕率は17.1 % (22頭)で,林地では10.1 % ,草地では7.0 %であった。放逐地点から捕獲地点までの平均距離は林地側で8.83 m,草地側で4.83 mであり,ルイスは森林を好む傾向が見られた。移出率が一定であることは,林地での個体数が増加するほど移出個体が増えて,移出によって生息地が拡大することを示している。このことは同時に生息地の分断化が起こると,生息地での個体数が減って生息地の縮小が起こることを示唆している。そのため,生息場所と個体数の両方を考慮して保全を考える必要があることが示された。

 5章では,2つの雑木林ABにおけるルイス個体群の動態を解析した。3年間の調査によって,人為的撹乱のない林地Bより人為的に撹乱された林地Aではルイスの相対密度が高く,餌のミミズの密度も高いことが示された。このことは,ルイスの相対密度の低い林地より高い林地ではルイスの増殖率は低いが,成虫が林地に残存する率が高いことによって起こっていた。以上のことから,適度な人為的管理は生息種の密度の安定化をもたらす可能性が示された。

 6章は総合考察である。オサムシ科昆虫は農業害虫の捕食性天敵として知られ,有益な昆虫である。このようなオサムシ科昆虫の保全を考える時は,対象とする種を明確にし,その種に合った保全方法を適用する必要があると考えられる。すなわち,5章で述べた景観内の構成要素の配置および生息場所内の環境収容能を決める食物量と隠れ場所を考慮する必要がある。日本は稲作が中心であるのに対して,欧米では畑作が中心である。オサムシ科昆虫は畑地でも多く見られる昆虫で,欧米では天敵としての重要性が強調されている。そのため,ビートルズバンクと呼ばれるオサムシ科昆虫の越冬場所地(hedge)を畑地内に確保する活動も行われている。

 日本におけるオサムシ科昆虫の農業生態系における天敵としての生態学的研究は欧米に比べて遅れている。オサムシ科昆虫の研究で重視しなければならない点は,オサムシ科昆虫の個体数がカタビロオサムシ科昆虫のように餌に一方的に依存しているのか,あるいは餌動物と相互依存的な関係にある(5章 ルイスオサムシ科昆虫の例)のかは,天敵としての利用において重要な意味をもつ。そのため,幼虫期の生態の解明(特に共食いや餌との関係),餌量と蔵卵数の関係,境界地での行動の研究が重要であると考えられる。季節を通しての解剖,餌量の調査,生活史特性の解明および2ヶ所以上での長期の調査を同時進行することが重要である。

 結論として,草地の生物多様性の維持と増加には適度の人為的撹乱が必要かつ有効なことが示された。人為的撹乱の種類には,コリドー,異なる生息環境の配置,環境異質性の増加が含まれるが,同時に種個体群の内在的な密度制御機構を重視した,生息場所の食物量や物理環境の改善などと環境収容能の増加の方策も重要であることが示された。

審査要旨 要旨を表示する

 里山は草地,二次林,および農耕地を含む景観であり,適度な人為的撹乱によって維持されてきた。生物多様性保全において里山は重要であるが,その生物多様性は,(1)人間活動や開発による生息場所の分断化,(2)人間生活や生産様式の変化および過疎化による人為的管理の減少,(3)外来生物による既存生態系の撹乱によって低下しつつあると考えられる。草地は里山の一部であるが,その面積が日本の陸地面積の中で占める割合は明治初期の10%以上から現在では1%未満にまで減少している。このため,草地を含む里山の生物多様性の保全と増加のためには,里山の生物相とその特徴を明らかにすることが重要である。さらに,植生や管理方法の異なる景観要素間(境界地)の生物相の相異とそれを引き起こす機構を解明する必要がある。また,同一種であっても生息場所が異なれば個体群密度が異なることが考えられる。そのため,異なる生息場所における生活史特性や動態を考慮して管理を考える必要がある。本論文では,種数が多く,また後翅が退化した種が多いオサムシ科昆虫を主な材料にして,草地とその周辺環境における地表性昆虫群集,オサムシ科昆虫科昆虫の種組成とその維持機構を明らかにし,草地を中心とした里山の適切な生物多様性管理法について提言したものである。

 本論文は5章から構成されている。1章は序論であり,この研究の意義を述べている。2章では調査地の概要を示し,草地は温度の日較差が林地と比較して大きく,生息種にとって厳しい環境であることを示唆している。

 3章では,草地,林地,休耕田および農耕地における昆虫相の比較を行い,草地の地表性昆虫相の特徴を明らかにした。目レベルでは草地に特有な昆虫相は検出されなかった。オサムシ科昆虫について種レベルで検討すると,草地のみに生息する種は2種,休耕田および農地のみに生息する種はそれぞれ1種であった。草地で相対密度が高い種(5位以内)の多くは,他の生息場所では相対密度の高い5種に含まれなかった。このことから草地には草地特異的なオサムシの種の生息が示された。

 4章の1節では,翅型を用いて,草地の管理方法・管理程度の違いとオサムシ科昆虫の生活史特性の関係を解析している。草地に生息するスペシャリスト7種のうち,3種が長翅型と短翅型からなる翅二型を示し,他の生息地のスペシャリストは長翅型か短翅型のどちらかを示す単型であった。また,管理方法の異なる草地のうち,野焼き区や草刈区よりも野焼き草刈区で翅二型の種の割合が高かった。このように草地でも管理方法の違いによって,生息種とその翅型が異なることが示された。調査地は傾斜の急な広い草地であり土壌浸食が起こりやすく,また野焼きが700年間毎年繰り返されていた。このように長期に撹乱されてきた広い草地が翅二型の種の存続と強く関係していたことが論議された。

 4章の2節では,草地と林地の境界地における,森林性のルイスオサムシ(以下ルイス)の分布と行動を解析して,境界地がルイスの分布に及ぼす影響を明らかにした。まず,ルイスが林地の密度とは無関係に平均15%の個体が草地に移出することを示した。さらに,標識したルイスを境界線で放して再捕獲をおこない,ルイスが森林内に戻る傾向が強いことを示した。ある生息密度の範囲内で移出率が一定であることは,林地での個体数が増加するほど移出個体が増えて,移出によって生息地が拡大することを示している。このことは生息地の分断化が起こって個体数が減ると,生息地の縮小が起こることを示唆している。このことから,生息場所と個体数の両方を考慮して保全を考える必要があることを指摘している。

 5章では,2つの雑木林におけるルイス個体群の動態の解析である。3年間の調査によって,現在撹乱のない林地より人為的に撹乱されている林地ではルイスの相対密度が高く,餌のミミズの密度も高いことが示された。このことは,ルイスの相対密度の低い林地より高い林地ではルイスの増殖率は低いが,成虫が林地に残存する率が高いことによって起こっていた。このように,適度な人為的管理は生息種の高い密度をもたらすことが示された。

 6章は総合考察である。草地や雑木林の生物多様性の維持と増加には適度の人為的撹乱が必要かつ有効なことが論議された。また,コリドーや異なる生息場所の配置,環境異質性の増加だけでなく,そこに生息する各種個体群の内在的な密度制御機構を重視した,生息場所の食物量や物理環境の改善などによる環境収容能の増加の方策も重要であることが論議された。

 このように,本論文は,地表性昆虫群集と生息場所の関係,オサムシ科昆虫の翅型と生息場所・人為的撹乱の関係,境界地に対する森林性オサムシの反応,および個体群密度と人的撹乱の関係を調べた労作であり,多くの新知見とともに里山の生物多様性の維持についての提言が述べられている。審査委員一同は,本論文が学術的にも応用的にも価値が高く,博士(農学)の学位論文に値すると判断した。

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