学位論文要旨



No 122424
著者(漢字) 平,和香子
著者(英字)
著者(カナ) タイラ,ワカコ
標題(和) 魚醤油発酵過程におけるエキス成分およびプロテアーゼの動態に関する研究
標題(洋)
報告番号 122424
報告番号 甲22424
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3148号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 阿部,宏喜
 東京大学 教授 渡部,終五
 東京大学 教授 松永,茂樹
 東京学芸大学 教授 福家,眞也
 東京大学 助教授 岡田,茂
内容要旨 要旨を表示する

 魚醤油は東南アジアにおける重要な調味料であり、日本においてもいくつかの地方に魚醤油を用いる文化があるものの、大豆醤油に押され細々と生き残っていたに過ぎない。しかしながら、近年消費者のエスニック志向あるいは本物志向から魚醤油の伝統食品としての価値が見直され、生産および消費量が増加している。一方、国内における水産資源の減少に伴いその有効利用が求められており、未利用水産資源の有効利用は21世紀の重要な課題でもある。

 そこで、本研究においては富山湾で漁獲される加工用途の少ない魚を原料とした魚醤油を工業的規模で製造し、その発酵過程における成分変動、最終製品の性質、プロテアーゼの動態およびヒスタミン生成の抑制について探索することを目的とした。結果の概要は以下の通りである。

1. 魚醤油製造方法および発酵過程における成分変動

 魚醤油の原料には、富山湾で漁獲されたニギス、シイラおよびトビウオを使用した。各ミンチ肉230kg、醤油麹34.5kg、食塩69.7kgおよび水115kgを混合した'もろみ'を室温で 180日間タンク(500kg容量)中で発酵させた。それぞれの魚種について3タンク調製した。発酵終了後圧搾し、搾汁液に90℃で火入れを行った。その後搾汁液を濾過し、得られた濾液をボトル詰めして製品とした。

 これら魚醤油の発酵過程におけるエキス成分、ヒスタミンおよび菌相の変動について分析を行った。180日の発酵期間中、pHは4.5程度まで低下し、エキス窒素と遊離アミノ酸はそれぞれ2.0g/100mlおよび6,000mg/100mlまで増加した。核酸関連物質はいずれもヒポキサンチンが最も多かった。有機酸はいずれも乳酸が最も多く、経時的に増加した。

 一般生菌数は発酵初期にはいずれも106 cfu/mlレベルであったが、180日後には105 cfu/ml前後まで低下した。好塩菌数および高度好塩菌数は発酵初期に106 cfu/mlレベルであったが、14日目から30日目にかけて108 cfu/ml前後にまで達し、その後減少して180日後には107 cfu/mlとなった。14日目から30日目にはいずれの試料のpHも大きく低下した。

 ヒスタミンはいずれの試料でも発酵30日目まではほとんど増加を示さなかったが、30日以降にタンクによって大きな増加が認められた。とくに、シイラ'もろみ'中のヒスタミン量の増加は大きく、180日後には2,000ppmに達するタンクもみられた。このヒスタミンの増加は、好塩菌および高度好塩菌の菌数の増加に若干遅れており、試料中にヒスタミン生成菌が増殖し、これに伴いヒスタミンも増加したと考えられた。したがって、ヒスタミンの増加は、ヒスタミン生成能をもつ好塩性乳酸菌の増加によるものと考えられ、事実Tetragenococcus spp.が優勢であった。

2. 最終製品の品質

 魚醤油の最終製品について、発酵過程における分析と同様に品質評価を行い、また官能評価および嗜好テストを行った。最終製品の色については、各魚醤油はベトナム産ニョクマムや大豆醤油よりもL*値やa*値が大きく、比較的色が希薄で黄色みがかっていた。塩分はいずれもニョクマムよりも低く、大豆醤油と同程度であった。各魚醤油のヒスタミン量は、いずれも大豆醤油やニョクマムの値よりも高かったが、アレルギー様食中毒のリスクレベル(1,000ppm)の半分前後のレベルであった。一般生菌数および好塩菌数はシイラ魚醤油でのみ認められ、他は検出限界以下であり、大腸菌群数もすべて検出限界以下であった。揮発性成分では、各魚醤油は大豆濃口醤油と同様に、ニョクマムよりも揮発性有機酸の種類が少なく、酪酸や吉草酸も検出されなかった。遊離アミノ酸総量は、ニョクマムおよび大豆醤油のそれと大差はなかった。有機酸はいずれの魚醤油でも乳酸が最も多く、有機酸総量も醤油よりも多く、ニョクマムよりは少ない結果であった。

 最終製品の官能評価では、大豆醤油と比較した場合、トビウオは甘味、シイラは酸味、ニギスは甘味が強かった。うま味はいずれもほぼ同程度であった。また、ニョクマムと比較した結果では、トビウオは甘味、シイラとニギスは甘味および旨味が強かった。また酸味はいずれもほぼ同程度であった。一方、臭いはニョクマムと比べて弱かった。魚醤油の好みについては、シイラとトビウオ魚醤油は大豆醤油と同程度に好まれたが、ニギス醤油は大豆醤油よりも好まれる傾向にあった。一方、ニョクマムとの比較では、大豆醤油とほぼ類似した傾向がみられ、いずれの魚醤油もニョクマムよりも有意に好まれた。

 以上の結果から、富山湾で漁獲された原料を用いて製造した魚醤油は、色が薄く、臭いは弱く、風味に富んでおり、いずれも大豆醤油以上に好まれることが明らかとなり、未利用資源魚を用いて魚醤油を製造することにより、漁獲物の付加価値向上を図ることができた。

3. 魚醤油発酵過程におけるプロテアーゼの動態

 次に、魚醤油発酵過程における原料魚の内臓由来のプロテアーゼの寄与を明確にすることを目的として、とくにニギスを原料とした魚醤油'もろみ'中の各種プロテアーゼ活性の動態について検討を行った。全プロテアーゼ活性はカゼインを基質として測定し、各種プロテアーゼ活性の測定には合成基質を用いた。その結果、'もろみ'の発酵過程における全プロテアーゼ活性は、発酵が進行するに従って増大傾向がみられた。また、各種プロテアーゼ活性の消長では、発酵14日目まではシステイン系プロテアーゼの活性が高く、次いでセリン系の活性が高い傾向となった。さらに、発酵中期から後期にかけてはカテプシンD様の活性の上昇が認められた。これは細菌由来であることも予想された。そこで、ニギス肝臓、醤油麹、筋肉をそれぞれ単独で、15% NaClを加え、25℃の培養室で30日間培養し、経時的にカゼイン分解活性を測定した。その結果、肝臓では14日目までは活性ほぼ維持されたが、15日過ぎに一気に下降した。醤油麹の活性は7日目に失活した。一方、筋肉では活性は弱いものの、15日目まで活性は維持された。これらの結果から、発酵のごく初期に醤油麹のプロテアーゼ活性は強く働くが、その後は魚由来のプロテアーゼが発酵に寄与し、次いで細菌のプロテアーゼが働くものと考えられた。

 そこで、発酵初期における内臓由来プロテアーゼ活性の寄与をより明確にするために、醤油麹、筋肉および内臓の混合比を変化させた'もろみ'を調製し、培養実験を行った。その結果、醤油麹を2倍または3倍添加区は初期発酵におけるプロテアーゼ活性がきわめて強く、7日目に急激に失活した。このことからも、醤油麹のプロテアーゼ活性はごく初期にのみ強く働くと考えられた。また内臓添加区と内臓非添加区では発酵開始から活性値が大きく異なり、内臓由来のプロテアーゼが初期に大きく働いていることが確認された。

4. 魚醤油発酵過程におけるヒスタミン生成抑制

 さらに、この培養実験においてカゼイン分解活性の測定と同時に、ヒスタミン量の測定を行ったところ、初期の発酵段階においてプロテアーゼ活性が弱い'もろみ'ほど、後にヒスタミン量が多くなるという結果が得られた。このことから、乳酸菌の増殖時に、栄養源となるアミノ酸の量が少ないと、ヒスタミンを生成するのではないかと予測された。実際の魚醤油発酵タンクにおいては、発酵14日目でヒスタミンを蓄積する'もろみ'では、グルタミン酸量がヒスタミンを蓄積しないタンクよりも約300mg/100ml少なかった。'もろみ'中における乳酸菌(Tetragenococcus spp.)が菌体内でどのような代謝を行っているかについては未だ未解明であるが、乳酸菌は一般に栄養源のアミノ酸が不足すると、プロトンを放出しにくくなることが知られている。さらに、乳酸を代謝最終産物として放出し続ける結果、外部環境が酸性に傾き、乳酸菌自身が生存しにくくなってしまうため、pHを上げる必要が生じることとなる。そこで、ATPを必要とせずに対向輸送で放出できるヒスタミンの生成能力をもつ乳酸菌(T. muriaticus)が増殖することが予測されている。

 この仮説に基づき、まずはヒスタミンが蓄積した'もろみ'のうち、初期のまだヒスタミンが蓄積していないときの'もろみ'を用いて、グルタミン酸を添加し、ヒスタミンが生成するか否かを試した。その結果、180日後においてもヒスタミンは生成しなかった。また、グルタミン酸含有量の高い昆布を発酵開始時に適当量添加してヒスタミン量を確認したところ、昆布非添加区ではヒスタミンが発生したが、添加区では発生しなかった。

 このように、乳酸菌のもつプロテアーゼ活性がヒスタミンの生成抑制に大きな関わりをもつことが示唆された。

 以上本研究では、未利用資源の3魚種を用いて魚醤油を製造し、その発酵過程におけるエキス成分と菌相の消長を明らかにするとともに、高品質の魚醤油の製造を可能にした。また、発酵過程におけるプロテアーゼとヒスタミン生成の関連性について明らかにし、ヒスタミン生成抑制方法についての示唆を得ることができた。これらの成果は、今後の未利用資源の利用に関して一つの可能性を示すとともに、魚醤油製造の大きな問題点となっているヒスタミン生成の抑制方法の確立のための基礎となるものと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 魚醤油は東南アジアにおける必須の調味料であるが、日本においては大豆醤油に押され、細々と生き残っていたに過ぎない。しかしながら、近年消費者の本物志向から魚醤油の価値が見直され、様々な加工食品に利用され、輸入、国内生産および消費量が増加している。一方、水産資源の減少に伴いその有効利用が強く求められており、未利用水産資源の有効利用は21世紀の重要な課題でもある。

このような背景の下、本研究では富山湾で漁獲される加工用途の少ない魚を原料とした魚醤油を工業的規模で製造し、その発酵過程における成分および菌相の変動、最終製品の品質、プロテアーゼの動態およびヒスタミン生成の抑制方法について明らかにしたものである。

 第一章では、富山湾で漁獲されたニギス、シイラおよびトビウオを使用し、醤油麹および食塩を混合した'もろみ'を各1.5t調製し、3タンクに分けて室温で180日間発酵させた。発酵終了後圧搾し、搾汁液に90℃で火入れを行い、濾過後得られた濾液を最終製品とした。

 発酵期間中、pHは4.5程度まで低下し、エキス窒素と遊離アミノ酸はそれぞれ2.0g/100mlおよび6,000mg/100mlまで増加した。有機酸はいずれも乳酸が最も多く、経時的に増加した。一般生菌数は発酵初期にはいずれも106 cfu/mlレベルであったが、180日後には105前後まで低下した。好塩菌数および高度好塩菌数は発酵初期に106 cfu/mlレベルであったが、14日目から30日目にかけて108前後にまで達し、その後減少した。ヒスタミンはこれら好塩菌の増加に伴って、30日目以降にタンクによって大きな増加が認められた。発酵中には乳酸菌のTetragenococcus spp.が優勢であった。

 第二章では、各魚醤油の最終製品について、ベトナム産ニョクマムおよび大豆醤油をコントロールとして品質評価を行い、また官能評価および嗜好テストを行っている。ヒスタミン量は、いずれも大豆醤油やニョクマムの値よりも高かった。揮発性成分では、各魚醤油製品はニョクマムよりも揮発性有機酸の種類が少なく、酪酸や吉草酸も検出されなかった。遊離アミノ酸総量は、ニョクマムおよび大豆醤油のそれと大差はなかった。

 最終製品の官能評価では、大豆醤油およびニョクマムと比較して、甘味とうま味が強かった。いずれも大豆醤油と同程度あるいはそれ以上に好まれ、またニョクマムよりも有意に好まれることが明らかになった。

 第三章では、ニギスを原料とした魚醤油'もろみ'中の各種プロテアーゼ活性の動態について検討を行っている。'もろみ'の発酵過程におけるカゼイン分解活性は、発酵の進行に伴って増大傾向がみられた。また、各種プロテアーゼ活性では、発酵14日目まではシステインプロテアーゼ様活性が高く、次いでセリンプロテアーゼ様の活性が高い傾向となった。発酵中期から後期にかけてはカテプシンD様の活性の上昇も認められた。次に、ニギス筋肉、肝臓、醤油麹をそれぞれ単独で食塩とともに30日間発酵させたところ、肝臓では14日目まではカゼイン分解活性はほぼ維持され、醤油麹の活性は7日で失活した。これらの結果から、発酵のごく初期に醤油麹のプロテアーゼ活性は強く働き、その後は魚由来のプロテアーゼが発酵に寄与し、次いで細菌のプロテアーゼが働くものと考えられた。

 第四章では、発酵実験において、同時にヒスタミンの測定を行ったところ、初期の発酵段階においてプロテアーゼ活性が弱い'もろみ'ほど、後にヒスタミン量が多くなるという結果が得られた。したがって、乳酸菌の増殖時に、栄養源となるアミノ酸が少ないと、ヒスタミンを生成するものと予測された。ヒスタミンが蓄積した'もろみ'のうち、初期のまだヒスタミンが未蓄積の'もろみ'にグルタミン酸を添加し、ヒスタミン生成の有無を調べたところ、180日後においてもヒスタミンは生成しなかった。したがって、乳酸菌のもつプロテアーゼ活性がヒスタミンの抑制に大きな関わりをもつことが示唆された。

 最後に第五章では、これらの結果について総括的な考察を行っている。

 以上本研究では、未利用資源の3魚種を用いて魚醤油を製造し、その発酵過程におけるエキス成分と菌相の消長を明らかにするとともに、高品質の魚醤油の製造を可能にした。また、発酵過程におけるプロテアーゼとヒスタミン生成の関連性について明らかにし、ヒスタミン生成抑制方法についての示唆を得ている。これらの成果は、今後の未利用資源の利用に関して一つの可能性を示すとともに、魚醤油製造の大きな問題点となっているヒスタミン抑制方法の確立のための基礎となるものと考えられ、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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