学位論文要旨



No 122428
著者(漢字) 近藤,能子
著者(英字)
著者(カナ) コンドウ,ヨシコ
標題(和) 太平洋における鉄有機配位子と植物プランクトン群集の動態に関する研究
標題(洋)
報告番号 122428
報告番号 甲22428
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3152号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古谷,研
 東京大学 教授 蒲生,俊敬
 東京大学 助教授 武田,重信
 東京大学 助教授 津田,敦
 東京大学 講師 小畑,元
内容要旨 要旨を表示する

 鉄は海洋の一次生産を担う植物プランクトンの必須栄養素の一つであるが、その海水への溶解度は0.1nM程度と低く、主要な鉄供給源である陸域の影響が及び難い外洋表層では溶存濃度が極めて低い。このため鉄は窒素やリンとともに海洋の一次生産を制御する重要な環境要因として認識されており、鉄循環過程の解明は海洋生物生産を理解する上での主要課題となっている。従来、鉄による植物プランクトンの増殖制限に関する議論では溶存濃度が用いられてきた。しかし、1994年に海水中の溶存鉄の大部分が有機錯体鉄であることが報告され、鉄の循環や生物利用能を考える上で、鉄有機配位子の役割の解明が必須となった。海洋における鉄有機配位子の起源は明らかにされていない。しかし、その錯形成能や鉄結合部位には、バクテリアが鉄欠乏ストレスを受けた際に生産するシデロフォアと類似した特徴が認められている。また、鉄有機配位子の濃度については、大西洋や南極海の一部で溶存鉄と同程度の値が報告されているものの、太平洋を含めた海洋全体における分布や変動の実態は明らかにされていない。

 本研究では、これまで知見の乏しかった太平洋における鉄有機配位子の分布を明らかにし、その変動要因として考えられる植物プランクトンブルーム期間中の鉄有機配位子の挙動の解析と、鉄制限下の植物プランクトン群集の増殖に及ぼす有機錯体鉄の影響の解明により、海洋の鉄循環における鉄有機配位子の役割を明確にすることを目的とした。本研究では、鉄による一次生産の制限が指摘されている西部北太平洋亜寒帯域において、現場海域への鉄撒布に対するプランクトン生態系内での鉄有機配位子生産の応答と、それにより形成される鉄有機配位子の生物利用能に重点を置いた。

1. 太平洋における鉄有機配位子の分布

 太平洋およびその縁辺海であるベーリング海、東シナ海、南シナ海、セレベス海と、スールー海および南極海太平洋区の26測点において、微量金属の汚染防止に配慮したクリーン採水を行い、溶存の鉄有機配位子の濃度と錯形成能の指標となる条件安定度定数を配位子交換平衡−吸着濃縮カソーディックストリッピングボルタンメトリー法により測定した。

 表層水の鉄有機配位子は、0.32〜3.34nMの範囲にあり、南極海氷縁域や南太平洋亜熱帯域で高く、西部北太平洋亜寒帯循環域で低かった。また、季節的に植物プランクトンブルームの生じる海域では、測点間で濃度が大きく変動した。混合層以深では、南極海氷縁域で高濃度存在していたが、南北太平洋の深層水の間には差異はみられなかった。表層水における鉄有機配位子の条件安定度定数については、鉄有機配位子濃度が高い南極海氷縁域と南太平洋亜熱帯域では他の測点よりも約1桁低い値を示したものの、大部分の測点で10(12.3)M(-1)前後の値が得られ、深度や海域による差異はみられなかった。また、本研究で得られた条件安定度定数は大西洋等での既報値の範囲内であり、鉄有機配位子の錯形成能は海域による差が小さいことが明らかになった。

 観測された鉄有機配位子の濃度および条件安定度定数と溶存鉄濃度から、溶存鉄の56〜100%は有機錯体鉄として存在していたと計算された。表層水中の溶存鉄と鉄有機配位子の濃度比は、親潮・黒潮混合域、南極海氷縁域、南太平洋亜熱帯域で0.038〜0.23と低く、鉄有機配位子が溶存鉄を大きく上回ったのに対し、スールー海や親潮域では、逆に鉄有機配位子を上回る溶存鉄の存在が認められた。混合層以深では、南極海氷縁域を除き、鉄有機配位子と溶存鉄の濃度比が約1:1の割合で分布していたことから、太平洋の中深層水では、鉄有機配位子によって溶存鉄濃度が規定されている可能性を認めた。

 太平洋で得られた鉄有機配位子と溶存鉄の濃度比は、他海域における知見と比較すると、大西洋と同程度で、南極海よりも低めであることが示された。海洋全体で比較すると、南極海における深層水の鉄有機配位子濃度は、太平洋や大西洋よりも高いことが明らかになった。

2. 植物プランクトンブルーム期間中の鉄有機配位子の挙動

 鉄有機配位子の起源としては、バクテリアによるシデロフォア生産とともに、植物プランクトンによる放出、動物プランクトンの摂食過程やウイルスの溶菌作用でのクロロフィル分解物等の生成が主要なものと推測されており、これらの寄与は植物プランクトンブルームの発達と衰退の過程で変化することが予想される。そこで、まず親潮域の春季植物プランクトンブルームを対象に、鉄有機配位子の変動を追跡した。

 観測は2003年1〜5月に計3回実施し、4月下旬から5月上旬にかけて珪藻類を主体とする植物プランクトンのブルームが認められた。ブルーム開始前の1〜3月の溶存鉄と鉄有機配位子の濃度比は0.48〜1.0と測点間で変動した。溶存鉄と鉄有機配位子はいずれも表層で濃度が高く、冬季鉛直混合により鉄有機配位子が溶存鉄とともに下層から供給されていると考えられる。その後、ブルームの発達に伴い、栄養塩や溶存鉄と同様に鉄有機配位子濃度も減少した。しかし、その減少量は溶存鉄の半分以下であり、鉄有機配位子はブルーム後も残存する傾向にあることが示された。鉄有機配位子の条件安定度定数は、ブルームの前後で差が無かった。

 次に、栄養塩濃度が高いにも関わらずクロロフィルa濃度が低い、いわゆるHNLC海域である西部北太平洋亜寒帯循環域において、鉄撒布により現場植物プランクトン群集のブルーム形成を促し、そこでの鉄有機配位子の挙動を調べた。鉄撒布後4日目よりクロロフィルa濃度が増加し始め、鉄撒布後10〜12日目に直径10μm以下の植物プランクトンを主体とするブルームがピークに達した。鉄有機配位子濃度は鉄撒布後24時間以内に3〜5倍に増加し、その後の水塊の水平拡散に伴って数日間で撒布前のレベルに戻った。増加した鉄有機配位子濃度は溶存鉄濃度を上回っており、撒布後の溶存鉄の99%以上は有機錯体鉄として存在していたと見積もられた。この鉄有機配位子の増加は、鉄供給に刺激された植物プランクトンが放出したものと推測される。その後、クロロフィルa濃度が減少に転じた鉄撒布後13日目に、鉄有機配位子濃度は再び急激に増加した。この高い鉄有機配位子濃度は観測を終了した鉄撒布後23日目まで認められた。水塊の水平拡散による希釈効果を考慮すると、鉄有機配位子は持続的に生成されていたことになる。このブルームピーク後に生成した鉄有機配位子は、溶菌作用等により流出したクロロフィル分解物の寄与も否定できないが、現場の溶存鉄濃度の変化から判断すると、バクテリアによって生産されたシデロフォアである可能性が高いと考えられ、ブルームピーク後と鉄撒布直後で鉄有機配位子の生成過程は異なる可能性が示唆された。

3. 鉄有機配位子が植物プランクトン群集の増殖に及ぼす影響

 鉄供給や植物プランクトンブルーム衰退に伴う鉄有機配位子の生成が明らかになったことから、鉄有機配位子が植物プランクトン群集の増殖に及ぼす影響について、現場の植物プランクトン群集を含む表層水を用いた船上培養実験により検討した。実験にはモデル配位子として、海洋細菌が生産するシデロフォアと類似の構造をもつデスフェリオキサミンBおよびフェリクロームの2種類の陸上微生物由来シデロフォアと、代表的なポルフィリン化合物であるプロトポルフィリンIXを用いた。

 西部北太平洋亜寒帯のHNLC海域において春季および秋季に実施した実験では、プロトポルフィリンIX鉄錯体あるいはプロトポルフィリンIX単体の添加により植物プランクトンの増殖が促進された。その傾向は直径10 μm以下の植物プランクトンで顕著であり、鉄有機配位子は植物プランクトン群集のサイズ組成にも影響を及ぼすことが明らかになった。一方、デスフェリオキサミンBおよびフェリクロームと錯形成した鉄は現場の植物プランクトンにとって利用し難い形態であることが示された。

 次に、増殖促進作用をもつことが示されたプロトポルフィリンIXの添加効果を、前述の鉄撒布実験において、鉄撒布直後、ブルーム発達期、ピーク時、衰退期の4回にわたり船上培養実験により調べた。プロトポルフィリンIX添加による増殖の促進は、鉄撒布後2日目に採取した植物プランクトン群集においてのみ確認された。他の時期に実施した実験でプロトポルフィリンIXの添加効果が認められなかった理由については、活発な動物プランクトンの摂食やウイルスの溶菌作用によりクロロフィル分解物などのポルフィリン化合物が既に現場の鉄と錯形成していた可能性が挙げられる。また、ブルーム衰退期に実施した無機鉄添加培養実験において、植物プランクトンの比増殖速度が最大に達したのは、現場の鉄有機配位子濃度を上回る高濃度の鉄を添加した場合のみであった。従って、ブルーム衰退期に増加した鉄有機配位子には、生物利用能の低いものが含まれていたと考えられる。

 以上、本研究により、これまで知見の乏しかった太平洋の鉄有機配位子の分布と変動様態が初めて明らかになり、鉄有機配位子は表層では植物プランクトンによる鉄利用を促進あるいは抑制して、その増殖と群集組成に大きな影響を及ぼすことが示された。さらに、鉄有機配位子の濃度や性質は、植物プランクトンブルームの発達と衰退に伴って大きく変化することが明らかになった。従って、鉄有機配位子は高次栄養段階を含む海洋生物生産をボトムアップ制御する要因として、鉄とともに重要な役割を果たしていると考えられる。これらの成果は、海洋への鉄供給量の変化に対する海洋生態系の応答など、気候の変化に伴う海洋生物生産の変動予測に貢献するものと期待される。

審査要旨 要旨を表示する

 鉄の供給は、海洋の生物生産力を制御する主要因のひとつであるが、1994年に海水中の溶存鉄の大部分が有機錯体鉄であることが初めて報告されて以来、鉄の循環や生物利用において鉄有機配位子の役割の解明が必須となってきた。鉄有機配位子の濃度は、大西洋や南極海の一部で溶存鉄と同程度の値が報告されているものの、太平洋を含めた海洋全体における分布や変動の実態は明らかにされていない。本研究では、太平洋における鉄有機配位子の分布を明らかにし、その変動要因として考えられる植物プランクトンブルーム期間中の鉄有機配位子の挙動から、植物プランクトン群集の増殖に及ぼす有機錯体鉄の影響を解明して、生物生産における鉄有機配位子の役割を解明することを目的とした。

 第一段階として太平洋における鉄配位子の分布を明らかにした。太平洋およびその縁辺海であるベーリング海、東シナ海、南シナ海、セレベス海と、スールー海および南極海太平洋区において、微量金属の汚染防止に配慮したクリーン採水を行い、溶存の鉄有機配位子の濃度と錯形成能の指標となる条件安定度定数を配位子交換平衡−吸着濃縮カソーディックストリッピングボルタンメトリー法により測定した。

 表層水の鉄有機配位子は、南極海氷縁域で高く、西部北太平洋亜寒帯循環域で低かった。また、季節的に植物プランクトンブルームが生じる海域では、測点間で濃度が大きく変動した。親潮・黒潮混合域、南極海氷縁域、南太平洋亜熱帯域の表層水中では、溶存鉄の大部分は有機錯体鉄として存在していることが示された。混合層以深では、南極海氷縁域で高濃度存在していたが、南北太平洋の深層水の間には差異はみられなかった。鉄有機配位子の条件安定度定数は深度や海域による差異はみられなかった。また、本研究で得られた条件安定度定数は大西洋等での既報値の範囲内であり、鉄有機配位子の錯形成能は海域による差が小さいことが明らかになった。また、南極海氷縁域を除き、鉄有機配位子と溶存鉄の濃度が比例関係にあったことから、太平洋の中深層水では、鉄有機配位子によって溶存鉄濃度が規定されている可能性を認めた。

 次に、植物プランクトンブルーム期間中における鉄配位子の動態解析を行った。栄養塩濃度が高いにも関わらずクロロフィルa濃度が低い、いわゆるHNLC海域である西部北太平洋亜寒帯循環域において、鉄撒布により人為的に植物プランクトンブルームを発生させて経時観測を行なった。鉄撒布後10〜12日目にブルーム自体はピークに達したが、鉄有機配位子濃度の変動は、鉄散布後速やかに起こり、鉄撒布後24時間以内に大幅に増加し、その後の水塊の水平拡散に伴って数日間で撒布前のレベルに戻った。この増加は、鉄供給に刺激された植物プランクトンが鉄の取り込みを有利にするために放出したものと推測される。その後、ブルーム水塊のクロロフィルa濃度が減少に転じると同時に鉄有機配位子濃度は再び急激に増加した。この高い鉄有機配位子濃度は観測を終了した鉄撒布後23日目まで認められた。水塊の水平拡散による希釈効果を考慮すると、鉄有機配位子は持続的に生成されていたことになる。このブルームピーク後に生成した鉄有機配位子は、溶菌作用等により流出したクロロフィル分解物の寄与も否定できないが、現場の溶存鉄濃度の変化から判断して、バクテリアによって生産されたシデロフォアである可能性が高いと考えた。

 第三段階として、鉄有機配位子が植物プランクトン群集の増殖に及ぼす影響を、現場の植物プランクトン群集を用いた船上培養実験により検討した。モデル配位子として、海洋細菌が生産するシデロフォアと構造が類似したデスフェリオキサミンBとフェリクロームの2種類の陸上微生物由来シデロフォアと、代表的なポルフィリン化合物であるプロトポルフィリンIXを用いた。その結果、プロトポルフィリンIX鉄錯体の添加により植物プランクトンの増殖が促進され、その傾向は小型の植物プランクトンで顕著であり、鉄有機配位子は植物プランクトン群集のサイズ組成にも影響を及ぼすことが明らかになった。一方、デスフェリオキサミンBおよびフェリクロームと錯形成した鉄は現場の植物プランクトンにとって利用し難い形態であることが示された。

 以上のことから、これまで知見の乏しかった太平洋の鉄有機配位子の分布と変動様態が初めて明らかになり、鉄有機配位子は表層では植物プランクトンによる鉄利用を促進あるいは抑制して、海洋の生物生産力の制御要因として大きな影響を及ぼすことが示された。このように本研究は鉄の循環における鉄有機配位子の機能を解明する上で新たな展開を与え、学術上も応用上も極めて貢献するところが大きい。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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