学位論文要旨



No 122431
著者(漢字) 渡辺,佑基
著者(英字)
著者(カナ) ワタナベ,ユウキ
標題(和) バイカルアザラシの潜水行動に関する研究
標題(洋)
報告番号 122431
報告番号 甲22431
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3155号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮崎,信之
 東京大学 教授 寺崎,誠
 東京大学 教授 青木,一郎
 東京大学 教授 白木原,國雄
 東京大学 助教授 佐藤,克文
内容要旨 要旨を表示する

 バイカル湖は、ロシアのシベリア連邦管区南部に位置する淡水湖である。世界中の淡水湖の中で、バイカル湖の形成年代は2500万年前と最も古く、最大水深は1637mと最も深く、また容積は23000km3と最も大きい。バイカル湖の固有種であるバイカルアザラシPhoca sibiricaは、食物連鎖の最高位を占め、バイカル湖という固有の生態系で重要な役割を果たしている。また、バイカルアザラシは、3科18属34種の鰭脚類のうち、淡水に生息する唯一の種である。

 性成熟年齢、出産時期、授乳期間等の生活史調査や個体数の推定など、バイカルアザラシについての基本的な生物学は、主にロシア人研究者によってなされてきた。しかし、バイカルアザラシの行動生態、とりわけ、彼らの生活の大部分を占める潜水行動についてはほとんどわかっていない。過去の研究では、人工衛星を使ってデータを転送するタイプの記録計を用いて、潜水深度と潜水時間の大まかな頻度分布を得た例があるに過ぎない。

 本研究では、回収してデータを読み取るタイプの記録計(データロガー)を用い、バイカルアザラシの潜水行動を詳細に調べた。このデータロガーは、水深、遊泳速度、経験水温、加速度など多種のパラメータを高頻度で記録することができる。潜水深度や潜水時間が分かるだけでなく、生態学や生理学の視点から幅広いデータの解釈が可能である。バイカル湖という生態系をバイカルアザラシがどう利用しているか、その摂餌行動を明らかにすることを本研究の目的の一つとした。また、海生哺乳類にとって特異な淡水という環境に注目し、アザラシが潜水中に受ける浮力の影響を調べた。浮力への対応という、他の海生哺乳類にも当てはまる生理学的知見を得ることをいま一つの目的とした。

1. 自動切り離しデータロガー回収システムの開発

 バイカルアザラシは、決まった上陸場をもたず、また警戒心が非常に強い動物であるため、機器を装着した個体を再捕獲することが困難である。そこで本研究では、動物の体からデータロガーをタイマーで切り離し、VHF電波を用いて回収する独自のシステムを開発した。このシステムは、他の鰭脚類はもとより、魚類、ウミガメ類など幅広い海洋動物に応用が可能である。

2. 摂餌行動

 自動切り離しデータロガー回収システムを用いて、バイカルアザラシの詳細な潜水行動データを初めて得ることができた。また、小型のデジタル静止画像ロガーを併用することにより、バイカルアザラシの摂餌行動を明らかにした。

 バイカルアザラシは、昼夜で異なる摂餌行動を示した。昼間、彼らは、50 m程度の潜水を繰り返し、カジカの仲間であるComephorus sp.など中層性の魚を捕食していた。おそらくは視覚を使い、下から獲物に近づいて加速して捕らえていた。一方、夜間には、Macrohectopus branickiiなど日周鉛直移動するヨコエビ類を追いかけ、210m以浅の広い範囲で潜水深度を変化させていた。ヨコエビ類のパッチに入って速度を落とし、ヒゲによる触覚で捕らえていたと考えられる。

3. 浮力への対応

 海生哺乳類は、潜水中に浮力の影響を強く受ける。浮力の大きさは動物の体密度によって決まり、動物の体密度はおもに体脂肪率に依存することが知られている。海生哺乳類の体脂肪率は季節変動するので、浮力もそれに応じて変化しているはずである。しかし、浮力の変化に彼らがどう対応しているのか、エネルギー収支に関わる重要な問題にも関わらず、ほとんど分かっていない。

 そこで本研究では、バイカルアザラシ一頭に、データロガーと鉛の重りを取り付けた。重りを一定時間で切り離すことにより、同一個体から、重り有りの状態(体密度が高い状態)と重り無しの状態(体密度が低い状態)の2つの状態の行動データを得ることができた。

 重り有りの状態と無しの状態では、潜水中のストロークパターンが異なっていた。重り有りの状態では、アザラシは、脚鰭の動きを止めて重力を利用する「グライディング泳法」で潜行し、連続的にストロークして浮上した。一方、重り無しの状態では、潜行時も浮上時も、ストロークとグライドを交互に行う「ストローク&グライド泳法」を使うことが多かった。このように、アザラシは、浮力の変化に対し、泳法を変えることで対応することが明らかになった。本研究では、1.5kgの鉛の重りを取り付けてアザラシの体密度を増やしたが、これは、体脂肪率が14%減ったことに相当する。野生のアザラシは、換毛期や授乳期に絶食し、年間で20%も体脂肪率を変化させることから、本研究で見られた泳法の変化は、自然状態でも起きていると考えられる。

4. 潜水行動データを用いた体脂肪率の推定

 海生哺乳類の多くの種が、生息環境の悪化等の理由により近年個体数を減少させている。有効な保護政策を立案するためには、彼らの生態を理解し、個体数を把握するとともに、彼らの健康状態を知ることが重要である。体脂肪率は、ヒトでも野生動物でも、健康状態の指標として有用である。しかし、生きた野生動物の体脂肪率を推定することは容易でない。本研究では、潜水行動データからバイカルアザラシの体脂肪率を推定した。

 アザラシは、潜り始めこそ脚鰭を左右に打ち振るって推進力を発生させるが、潜行の途中で鰭の動きを止め、あとは重力に身を委ねて沈んでいく。そのグライディング区間の速度を物理モデルに当てはめることで、動物の体密度を計算した。算出した体密度をもとに、本研究で用いたアザラシの体脂肪率を45%と推定した。グライディングは、バイカルアザラシに限らず海生哺乳類に幅広く見られる行動であり、本研究の手法が他種に応用されることが期待される。

5. 他のアザラシ類との比較

 本研究で得られたバイカルアザラシの平均潜水時間(6.9分)、平均最大潜水時間(13.6分)、平均潜水深度(68.5m)、平均最大潜水深度(232.9m)を他のアザラシ類と比較した。バイカルアザラシは、平均58kgという小さな体の割に、長く深い潜水を行うことが明らかになった。バイカルアザラシの血液中のヘモグロビン濃度(27.4g 100ml(-1))および筋肉中のミオグロビン濃度(6.9g 100g(-1))は、他のアザラシ類に比べ高い水準にある。バイカルアザラシは、とりわけ潜水に適した生理的特徴をもち、それを生かして長く深い潜水を行っていることが示唆される。また、日周鉛直移動する餌を捕食しているという生態的な要因も関わっていると考えられる。

 バイカルアザラシの潜水中のストロークパターンを、これまでに知られている他のアザラシ類と比較した。バイカルアザラシは、顕著な負の浮力の傾向を示し、他のアザラシ類よりも長いグライディングを潜行時にすることが分かった。これは、バイカル湖という淡水の物理的特性が影響していると考えられる。海水に比べて密度が低い淡水では、動物の体が沈みやすく、従って潜行時のグライディングがしやすいのであろう。グライディングはエネルギー節約によい移動方法であることが知られており、少なくとも潜行に関しては、淡水という環境がバイカルアザラシに有利にはたらいているようである。しかし、潜行時に楽をすれば、浮上時には逆にハードワークを強いられるはずである。潜行、浮上を含めた潜水サイクルにおいて、どのような浮力、どのようなストロークパターンが最も効率的であるのか、さらなる調査が必要である。

審査要旨 要旨を表示する

 バイカルアザラシPhoca sibiricaは、ロシアのバイカル湖に固有の鰭脚類である。生活史の調査や個体数の推定など、本種の基本的な生物学は、主にロシア人研究者によってなされてきた。しかし、彼らの行動生態、とりわけ、生活の大部分を占める潜水行動についてはほとんどわかっていない。本研究では、マイクロデータロガーを用いてバイカルアザラシの潜水行動を詳細に調べ、アザラシの摂餌行動を明らかにするとともに、潜水中に受ける浮力の影響を調べ、他の海生哺乳類と比較し、淡水に生息するバイカルアザラシの潜水行動の特性を明らかにすることを目的とした。

 第1章では、独自に開発し、本研究で使用した装着・自動切り離し・回収システムについて述べる。バイカルアザラシは決まった上陸場をもたず警戒心が非常に強い動物であることから、機器を装着した個体を再捕獲することが困難であるため、動物の体からデータロガーをタイマーで切り離し、VHF電波を用いて回収することができるシステムの開発が待たれていた。ここでは、開発した一連の装着・自動切り離し・回収システムについて概説した。

 第2章では、データロガーと静止画像ロガーから得られた情報から、バイカルアザラシが昼夜で異なる摂餌行動することを明らかにした。昼間、彼らは、水深50m程度の潜水を繰り返し、カジカの仲間であるComephorus sp.を捕食していた。一方、夜間には、水深210m以浅の広い範囲で潜水深度を変化させていた。この鉛直移動がMacrohectopus branickiiなどのヨコエビ類の日周鉛直移動とよく一致することから、バイカルアザラシは、夜間、ヨコエビ類を捕食していることが示唆された。

 第3章では、バイカルアザラシの浮力の大きさは体密度によって決まり、体密度はおもに体脂肪率に依存することを明らかにした。海生哺乳類の体脂肪率は季節により大きく変動するので、浮力もそれに応じて変化しているはずであるが、浮力の変化に彼らがどう対応しているのか、エネルギー収支に関わる重要な問題にも関わらず、これまでほとんど分かっていない。そこで、野生のバイカルアザラシ一頭にデータロガーと鉛の重りを取り付け、重りを一定時間で切り離すことにより、同一個体から重り有りの状態(体密度が高い状態)と重り無しの状態(体密度が低い状態)の2つの状態の行動データを得た。重り有りの状態と無しの状態では、潜水中のストロークパターンが異なっていた。重り有りの状態では、アザラシは、脚鰭の動きを止めて重力を利用する「グライディング泳法」で潜行し、連続的にストロークして浮上した。一方、重り無しの状態では、潜行時も浮上時もストロークとグライドを交互に行う「ストローク&グライド泳法」を使うことが多かった。このように、バイカルアザラシは、浮力の変化に対し、泳法を変えることで対応することが明らかになった。

 第4章では、潜水行動データから体脂肪率の推定を行った。体脂肪率は、ヒトでも野生動物でも健康状態の指標として有効である。しかし、生きた野生動物の体脂肪率を推定することは容易でない。ここでは、潜水行動データからバイカルアザラシの体脂肪率を推定した。アザラシは、潜り始めこそ脚鰭を左右に打ち振るって推進力を発生させるが、潜行の途中で鰭の動きを止め、あとは重力に身を委ねて沈んでいく。そのグライディング区間の速度を物理モデルに当てはめることで、動物の体密度を計算した。算出した体密度をもとに、本研究で用いたバイカルアザラシの体脂肪率を45%と推定した。

 第5章では、本研究で得られたバイカルアザラシの平均潜水時間(6.9分)、平均最大潜水時間(13.6分)、平均潜水深度(68.5m)、平均最大潜水深度(232.9m)を他のアザラシ類と比較した。バイカルアザラシは、平均58kgという小さな体の割に長く深い潜水を行うことが明らかになった。バイカルアザラシの血液中のヘモグロビン濃度(27.4g 100ml(-1))および筋肉中のミオグロビン濃度(6.9g 100g(-1))は、他のアザラシ類に比べ高い水準にある。バイカルアザラシは、とりわけ潜水に適した生理的特徴をもち、それを生かして長く深い潜水を行っていることが示唆された。また、日周鉛直移動する餌を捕食しているという生態的な要因も関わっていると考えられた。バイカルアザラシの潜水中のストロークパターンを、これまでに知られている他のアザラシ類と比較した。バイカルアザラシは、顕著な負の浮力の傾向を示し、他のアザラシ類よりも長いグライディングを潜行時にすることが分かった。これは、バイカルアザラシが生息するバイカル湖が淡水であるという物理的特性が影響していると考えられた。海水に比べて密度が低い淡水では、動物の体が沈みやすく、潜行時のグライディングがしやすいことが推察された。

 以上、本研究は、淡水に生息するバイカルアザラシの潜水行動を明らかにするとともに、バイカル湖におけるバイカルアザラシを中心とする生物相互関係の解明に極めて有意義な知見を得たことから、学術上、応用上貢献することが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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