学位論文要旨



No 122445
著者(漢字) 鈴木,基史
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,モトフミ
標題(和) 植物における亜鉛と鉄栄養に関する研究
標題(洋)
報告番号 122445
報告番号 甲22445
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3169号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農学国際専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西澤,直子
 東京大学 教授 妹尾,啓史
 東京大学 教授 米山,忠克
 東京大学 助教授 藤原,徹
 東京大学 助教授 山川,隆
内容要旨 要旨を表示する

 亜鉛と鉄はほぼ全ての生物にとって必須の元素である。世界の農耕地の3分の1を占める石灰質アルカリ土壌では、pHが高いために植物の生育に必要な亜鉛、鉄などが不溶化し、植物が生育に十分な量の金属元素を吸収することができない。肥料として亜鉛や鉄を投入しても、土壌溶液中ですぐに沈殿し、植物が利用できないため、亜鉛欠乏、鉄欠乏は農業上の大きな問題となっている。亜鉛欠乏、鉄欠乏はヒトでも世界中で報告されており、世界の数十億人が十分な亜鉛、および鉄を摂取していないと言われている。ヒトが食品から摂取する亜鉛や鉄は動物由来にせよ、植物由来にせよ、海産物以外は植物が土壌から吸収したものである。そのため、植物による亜鉛や鉄の土壌からの吸収と、植物体内の輸送のメカニズムを解明することは、不良土壌における食糧増産と、作物の亜鉛や鉄含量の増加のために重要な課題である。

 本研究では、亜鉛の吸収、輸送機構について分子レベルからの解明を目的とした。イネ科植物が鉄獲得のために根圏に分泌する「ムギネ酸類」に着目し、ムギネ酸類が亜鉛の吸収、輸送に寄与しているかどうかをオオムギ、イネを用いて調べた。また、マイクロアレイにより、亜鉛欠乏における植物の応答を遺伝子レベルで網羅的に解析することにより、ムギネ酸類以外の亜鉛の吸収、輸送機構と、亜鉛欠乏耐性に関わる因子の探索を行った。

 鉄の吸収、輸送機構に関しては、すでに精力的に研究が行われてきており、分子レベルでの解明が進んでいる。本研究室では、鉄欠乏ストレスに強いオオムギから単離したムギネ酸類生合成に関わる遺伝子を、鉄欠乏に弱いイネに導入して「鉄欠乏耐性イネ」を作出してきた。閉鎖系温室におけるポット試験では、鉄欠乏耐性が現れており、実用化が期待されている。本研究では、鉄欠乏耐性イネの自然天候下での群落としての生育を評価するために、隔離圃場内の石灰質アルカリ土壌水田で栽培試験を行った。圃場栽培の許可を農水省から得るための3年間にわたる生物多様性影響の評価試験を経て、2年間で2回の生育評価試験を行った。その結果、自然条件下でも鉄欠乏耐性能を示す形質転換イネを選抜することに成功した。さらに、肥料による鉄欠乏の改善を目的として、含鉄資材を用いた施用方法も検討した。

1.亜鉛の吸収、輸送におけるムギネ酸類の役割

 「ムギネ酸類」はイネ科植物における土壌からの鉄の吸収に関わっていることが知られている。本研究では、オオムギにおいて亜鉛の吸収にもムギネ酸類が寄与していることを立証した。オオムギにおいては、ムギネ酸類の分泌量が亜鉛欠乏によって増加し、「亜鉛-ムギネ酸類錯体」が亜鉛イオンよりも吸収されやすい形態であることを明らかにした。一方、イネにおいては亜鉛欠乏によってムギネ酸類の分泌量は減少した。また、「亜鉛-ムギネ酸類錯体」よりも亜鉛イオンをよく吸収した。このことはイネ科植物の中でも種によって、ムギネ酸類の亜鉛吸収における寄与率が異なることを示唆している。

 本研究では、さらにムギネ酸類が植物体内における亜鉛の輸送にも関わっているかどうかも調べた。イネでは、亜鉛欠乏により地上部におけるデオキシムギネ酸の内在量が増加した。Positron Emitting Tracer Imaging System (PETIS) 実験により、亜鉛欠乏のイネでは、「亜鉛-ムギネ酸類錯体」が亜鉛イオンよりも植物体内で輸送されやすいことを明らかにした。また、イネ、オオムギともにムギネ酸類生合成経路上の遺伝子の発現量が亜鉛欠乏により地上部で増加した。この発現パターンは鉄欠乏の場合とは異なっていた。このことは、イネ科植物における亜鉛の体内輸送にムギネ酸類が関与していることを示唆している。

2.マイクロアレイを用いた亜鉛欠乏誘導性遺伝子群の網羅的解析

 亜鉛欠乏に応答するイネの遺伝子を網羅的に解析することにより、ムギネ酸類以外の亜鉛の吸収、輸送機構や亜鉛欠乏耐性に関わる因子の探索を行った。(i) 亜鉛欠乏により発現量が根と地上部の両方で増加するトランスポーター遺伝子から新規亜鉛トランスポーターOsZIP4を単離した。OsZIP4は亜鉛欠乏以外の金属欠乏には応答しなかった。in situハイブリダイゼーションによる解析では、OsZIP4の発現は根では根端分裂組織と維管束細胞にのみ観察された。このため、OsZIP4は土壌からの亜鉛の吸収には関与しておらず、植物体内の亜鉛の輸送に関わっていることが示唆された。(ii) 亜鉛欠乏イネの根、地上部ではデンプン合成に関わる遺伝子群の発現誘導が見られ、デンプン顆粒も観察された。亜鉛は糖代謝の酵素活性に必要とされており、亜鉛欠乏により代謝されにくくなった単糖がデンプンに変換されていると考えられた。根では特にカスパリー線に近接する細胞にデンプン顆粒が見られ、浸透圧ストレスとの関連が予想される。(iii) 亜鉛欠乏イネの地上部では、2種類の不活性型RNaseの発現誘導が見られた。一方、活性型RNaseの発現誘導は見られなかった。しかし、亜鉛欠乏の地上部から粗抽出したタンパク質はRNAの分解活性能が高かった。粗抽出タンパク質とRNAをインキュベートする際に亜鉛を加えると、RNAの分解活性は抑制された。このことから、RNAの分解活性は転写レベルで制御されているのではなく、タンパク質レベルで制御されていることが示唆された。2種類の不活性型RNaseは発現量が多いことからも貯蔵タンパク質としての役割を持っていることが予想される。(iv) 亜鉛欠乏イネの地上部ではPR-1, chitinase, glucanase, osmotinなどの感染特異的タンパク質 (PR) 遺伝子の発現誘導が見られた。PR遺伝子の発現はzinc fingerモチーフを含んだWRKY転写因子によって制御されることが知られており、亜鉛欠乏下ではWRKY転写因子による制御が正常に機能しなくなる可能性がある。また、glucanaseの必要以上の発現は植物自身の細胞壁を破壊し、亜鉛欠乏に典型的な葉の茶色い斑点症状の原因となっている可能性がある。 (iv) 亜鉛欠乏により根と地上部の両方で誘導される遺伝子から、亜鉛栄養の恒常性の維持に関わっている因子を探索した。細胞内亜鉛輸送に関わると予想されるmetallothionineや亜鉛欠乏特異的に応答するMADS-box転写因子を同定した。

3.隔離圃場における鉄欠乏耐性イネ生育評価試験

 閉鎖系温室で選抜された「鉄欠乏耐性イネ」を将来実用化するためには、野外圃場で生育を評価する必要がある。自然天候下で群落としての生育を評価することによって、鉄欠乏耐性イネの農業利用が現実的なものとなる。本研究では、第一種使用規定による隔離圃場での栽培許可を農水省から得るために3年間にわたる生物多様性の評価試験を行い、その後2年間2回の生育評価試験を行った。9項目における生物多様性評価試験では、いずれの試験においても生物多様性への影響は見られなかった。圃場実験に用いた6種類の形質転換イネは、いずれもムギネ酸類の生合成にかかわるオオムギの酵素遺伝子を導入したものである。この中で、HvNAS1 genomeを導入したイネと、IDS3 genomeを導入したイネの生育が石灰質アルカリ土壌水田で良好な生育を示した。HvNAS1の発現によって、ムギネ酸類の分泌量の増加と、植物体内の鉄の転流が促進されたことが示唆される。また、イネは通常デオキシムギネ酸しか分泌しないが、IDS3の発現により、ムギネ酸など他のムギネ酸類も分泌され、鉄の吸収能が増加したことが示唆される。本研究では、栽培の許可書類を作成した6種類のイネについて1ラインずつしか検定できなかったが、他のラインの検定を行うことによって、さらに鉄欠乏耐性能が高い形質転換イネを選抜することが期待される。

4.石灰質アルカリ土壌における鉄資材の評価試験

 イネは鉄を「鉄-ムギネ酸類錯体」として吸収するだけでなく、二価鉄イオンの形態でも吸収することを分子生物学的に明らかにした。その知見から、二価鉄を含んだ資材による石灰質アルカリ土壌における鉄欠乏症状の改善を試みた。石灰質アルカリ土壌畑で鉄や亜鉛など微量要素を含んだ被覆肥料を陸稲の根元からある程度距離を置いて施肥したところ、微量要素を含まない被覆肥料を施肥したものよりも良好な生育を示した。また、酸化第一鉄 (FeO) を主成分とする鉄資材をポット試験で検定したところ、接触施用、全層施用の両方で効果が現れた。この資材では接触施用による害も見られなかった。

参考文献Suzuki M, Takahashi M, Tsukamoto T, Watanabe S, Matsuhashi S, Yazaki J, Kishimoto N, Kikuchi S, Nakanishi H, Mori S, Nishizawa NK. (2006) Biosynthesis and secretion of mugineic acid family phytosiderophores in zinc-deficient barley. The Plant Journal, 48, 85-97Ishimaru Y, Suzuki M, Tsukamoto T, Suzuki K, Nakazono M, Kobayashi T, Wada Y, Watanabe S, Matsuhashi S, Takahashi M, Nakanishi H, Mori S, Nishizawa NK. (2006) Rice plants take up iron as an Fe(3+)-phytosiderophore and as Fe(2+). The Plant Journal, 45, 335-346Ishimaru Y, Suzuki M, Kobayashi T, Takahashi M, Nakanishi H, Mori S, Nishizawa NK. (2005) OsZIP4, a novel zinc-regulated zinc transporter in rice. Journal of Experimental Botany, 56, 3207-3214Kobayashi T, Suzuki M, Inoue H, Itai RN, Takahashi M, Nakanishi H, Mori S, Nishizawa NK. (2005) Expression of iron-acquisition-related genes in iron-deficient rice is co-ordinately induced by partially conserved iron-deficiency-responsive elements. Journal of Experimental Botany, 56, 1305-1316森川クラウジオ健治、三枝正彦、山本理恵、中西啓仁、鈴木基史、西澤直子、森敏 (2004) Fe欠乏耐性遺伝子組み換えイネの環境への評価 複合生態フィールド教育研究センター報告 第20号 5-9頁
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1.亜鉛の吸収、輸送におけるムギネ酸類の役割

 「ムギネ酸類」はイネ科植物における土壌からの鉄の吸収に関わっていることが知られている。本研究では、オオムギにおいて亜鉛の吸収にもムギネ酸類が寄与していることを立証した。オオムギにおいては、ムギネ酸類の分泌量が亜鉛欠乏によって増加し、「亜鉛-ムギネ酸類錯体」が亜鉛イオンよりも吸収されやすい形態であることを明らかにした。一方、イネにおいては亜鉛欠乏によってムギネ酸類の分泌量は減少した。また、「亜鉛-ムギネ酸類錯体」よりも亜鉛イオンをよく吸収した。このことはイネ科植物の中でも種によって、ムギネ酸類の亜鉛吸収における寄与率が異なることを示唆している。

 本研究では、さらにムギネ酸類が植物体内における亜鉛の輸送にも関わっているかどうかも調べた。イネでは、亜鉛欠乏により地上部におけるデオキシムギネ酸の内在量が増加した。Positron Emitting Tracer Imaging System (PETIS) 実験により、亜鉛欠乏のイネでは、「亜鉛-ムギネ酸類錯体」が亜鉛イオンよりも植物体内で輸送されやすいことを明らかにした。また、イネ、オオムギともにムギネ酸類生合成経路上の遺伝子の発現量が亜鉛欠乏により地上部で増加した。この発現パターンは鉄欠乏の場合とは異なっていた。このことは、イネ科植物における亜鉛の体内輸送にムギネ酸類が関与していることを示唆している。

2.マイクロアレイを用いた亜鉛欠乏誘導性遺伝子群の網羅的解析

 亜鉛欠乏に応答するイネの遺伝子を網羅的に解析することにより、ムギネ酸類以外の亜鉛の吸収、輸送機構や亜鉛欠乏耐性に関わる因子の探索を行った。(i) 亜鉛欠乏により発現量が根と地上部の両方で増加するトランスポーター遺伝子から新規亜鉛トランスポーターOsZIP4を単離した。OsZIP4は亜鉛欠乏以外の金属欠乏には応答しなかった。in situハイブリダイゼーションによる解析では、OsZIP4の発現は根では根端分裂組織と維管束細胞にのみ観察された。このため、OsZIP4は土壌からの亜鉛の吸収には関与しておらず、植物体内の亜鉛の輸送に関わっていることが示唆された。(ii) 亜鉛欠乏イネの根、地上部ではデンプン合成に関わる遺伝子群の発現誘導が見られ、デンプン顆粒も観察された。亜鉛は糖代謝の酵素活性に必要とされており、亜鉛欠乏により代謝されにくくなった単糖がデンプンに変換されていると考えられた。根では特にカスパリー線に近接する細胞にデンプン顆粒が見られ、浸透圧ストレスとの関連が予想される。(iii) 亜鉛欠乏イネの地上部では、2種類の不活性型RNaseの発現誘導が見られた。一方、活性型RNaseの発現誘導は見られなかった。しかし、亜鉛欠乏の地上部から粗抽出したタンパク質はRNAの分解活性能が高かった。粗抽出タンパク質とRNAをインキュベートする際に亜鉛を加えると、RNAの分解活性は抑制された。このことから、RNAの分解活性は転写レベルで制御されているのではなく、タンパク質レベルで制御されていることが示唆された。2種類の不活性型RNaseは発現量が多いことからも貯蔵タンパク質としての役割を持っていることが予想される。(iv) 亜鉛欠乏イネの地上部ではPR-1, chitinase, glucanase, osmotinなどの感染特異的タンパク質 (PR) 遺伝子の発現誘導が見られた。PR遺伝子の発現はzinc fingerモチーフを含んだWRKY転写因子によって制御されることが知られており、亜鉛欠乏下ではWRKY転写因子による制御が正常に機能しなくなる可能性がある。また、glucanaseの必要以上の発現は植物自身の細胞壁を破壊し、亜鉛欠乏に典型的な葉の茶色い斑点症状の原因となっている可能性がある。 (iv) 亜鉛欠乏により根と地上部の両方で誘導される遺伝子から、亜鉛栄養の恒常性の維持に関わっている因子を探索した。細胞内亜鉛輸送に関わると予想されるmetallothionineや亜鉛欠乏特異的に応答するMADS-box転写因子を同定した。

3. 隔離圃場における鉄欠乏耐性イネ生育評価試験

 閉鎖系温室で選抜された「鉄欠乏耐性イネ」を将来実用化するためには、野外圃場で生育を評価する必要がある。自然天候下で群落としての生育を評価することによって、鉄欠乏耐性イネの農業利用が現実的なものとなる。本研究では、第一種使用規定による隔離圃場での栽培許可を農水省から得るために3年間にわたる生物多様性の評価試験を行い、その後2年間2回の生育評価試験を行った。9項目における生物多様性評価試験では、いずれの試験においても生物多様性への影響は見られなかった。圃場実験に用いた6種類の形質転換イネは、いずれもムギネ酸類の生合成にかかわるオオムギの酵素遺伝子を導入したものである。この中で、HvNAS1 genomeを導入したイネと、IDS3 genomeを導入したイネの生育が石灰質アルカリ土壌水田で良好な生育を示した。HvNAS1の発現によって、ムギネ酸類の分泌量の増加と、植物体内の鉄の転流が促進されたことが示唆される。また、イネは通常デオキシムギネ酸しか分泌しないが、IDS3の発現により、ムギネ酸など他のムギネ酸類も分泌され、鉄の吸収能が増加したことが示唆される。本研究では、栽培の許可書類を作成した6種類のイネについて1ラインずつしか検定できなかったが、他のラインの検定を行うことによって、さらに鉄欠乏耐性能が高い形質転換イネを選抜することが期待される。

4. 石灰質アルカリ土壌における鉄資材の評価試験

 イネは鉄を「鉄-ムギネ酸類錯体」として吸収するだけでなく、二価鉄イオンの形態でも吸収することを分子生物学的に明らかにした。その知見から、二価鉄を含んだ資材による石灰質アルカリ土壌における鉄欠乏症状の改善を試みた。石灰質アルカリ土壌畑で鉄や亜鉛など微量要素を含んだ被覆肥料を陸稲の根元からある程度距離を置いて施肥したところ、微量要素を含まない被覆肥料を施肥したものよりも良好な生育を示した。また、酸化第一鉄 (FeO) を主成分とする鉄資材をポット試験で検定したところ、接触施用、全層施用の両方で効果が現れた。この資材では接触施用による害も見られなかった。

 以上、本論文は植物の亜鉛の吸収と輸送を中心にして亜鉛栄養に関わる因子を明らかにし、また鉄栄養の分子生物学知見を応用して圃場での石灰質アルカリ土壌における栽培技術を確立したものであり、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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