学位論文要旨



No 122447
著者(漢字) 宮成,愛
著者(英字)
著者(カナ) ミヤナリ,アイ
標題(和) 嗅覚刺激に応答するヒト脳内神経ネットワークにおける情報処理機序の解明
標題(洋)
報告番号 122447
報告番号 甲22447
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3171号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農学国際専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 相良,泰行
 東京大学 教授 阿部,啓子
 東京大学 助教授 佐藤,雅俊
 東京大学 助教授 松本,一朗
 生理学研究所 教授 柿木,隆介
内容要旨 要旨を表示する

研究の背景および目的

 香りによって食物の在処を知ったり、交尾相手や天敵の居場所を把握するという、動物の本能的な嗅覚の役割は以前から言われてきた。今まで、動物を対象とした嗅覚の研究では、嗅球から40Hz周波数帯域の波が計測され、アカゲザルにおいては、大脳前頭葉眼窩部に嗅覚中枢が発見された。また、2004年には、BuckとAxel博士が嗅覚レセプターの遺伝子群を同定し、ノーベル生理学・医学賞を受賞している。視覚や聴覚に関するノーベル賞は2、30年前に発表されたが、嗅覚に関する研究では、近年、分子生物学や電気生理学、さらには光学測定法などの手法を用い、やっと受容体レベルで基本的なメカニズムが把握されるようになってきた。したがって、ヒトが香りを感知し、快・不快といった情動を発現するメカニズムは未だ解明されておらず、脳のどの部位でどのような処理が行われているかはほとんど分かっていない現状である。以前は、ヒトにおいても前頭葉眼窩野が嗅覚中枢であろうと言われてきた。しかし近年、MEGやfMRIといったような非侵襲的な脳計測技術を用いて、梨状葉が第1次嗅覚野であり、前頭葉眼窩野は第2次嗅覚野であるという見解が出始めている。

 これまで、ヒトを対象とした嗅覚に関する研究では、ニオイ紙法、ニオイ瓶法、もしくはオルファクトメーター装置等を利用し、ヒトがニオイを嗅ぐといった臭素提示法が一般的だった。しかし、上記提示法では鼻腔内の空気対流により三叉神経をも刺激し、純粋に嗅神経だけを刺激することが困難である。また、嗅ぐという運動をも喚起する。日本の研究者により開発された、TPD(アリナミンR、武田薬品工業株式会社)およびTTFD(アリナミンFR、武田薬品工業株式会社)静脈注射による臭素提示法は、嗅神経を純粋に刺激する方法として、日本の耳鼻科では中枢性の嗅覚障害の診断に一般的に使われている。両供試材料は、ビタミンB1にニオイ成分を添加したもので、静脈注射後約10秒前後から特異的なにんにく臭を喚起する。普通、ヒトがニオイを感じる時は吸気に感じるが、静脈注射による刺激法では呼気にニオイを感じる。また、TTFDは、TPDのニオイ成分の側鎖を置換し、ニオイの程度を抑えたものであり、薬理作用はTPDと全く同じである。さらに、TPD静脈注射による臭素提示法は、日本でのみ行われている方法であり、これまでには脳波を用いた報告があるだけで、MEGやfMRIを用いた研究の報告はない。従って、欧米諸国からみれば非常にオリジナリティーの高い方法であり、上記のような嗅覚研究の現状を打破する方法として有効な臭素提示方法と期待できる。

 本研究では、ニオイ強度の異なるTPDとTTFDを静脈点滴する方法をニオイ刺激として用い、律動的活動や脳内活動部位の特定に有利なMEGおよびfMRIとを併用する方法に着目した。本研究の目的は、嗅覚刺激に関連した(1)周波数帯域別の特徴、(2)反応部位、(3)ニオイ強度による差異を明らかにすることにある。

研究手法

 刺激条件:ヒトがニオイを嗅ぐという行為により発生する三叉神経の活動を抑え、純粋に嗅神経だけを刺激するために、TPD(thiamine propyl disulfide)およびTTFD(thiamine tetrahydrofurfuryl disulfide monohydrochloride)を静脈点滴するという刺激提示法を用いた。

 データ解析法:MEGを経時的に計測しつつ、被験者にTPDおよびTTFDを点滴滴下すると、ニオイ刺激によって賦活された脳部位の信号強度の変化が観測される。MEGデータの解析には、SAM(synthetic aperture magnetometry)法を適用し、事象関連同期(ERS:Event-Related Synchronaization)と事象関連非同期(ERD:Event-Related Desynchronaization)を表す脳内マップを得た(P<0.001、t=4.5)。ここで、様々な刺激や運動に伴いある周波数帯域の振動が増えることを事象関連同期といい、ある周波数帯域の振動が減ることを事象関連非同期という。また、fMRIデータの解析には、MATLAB (Math Works, Sherborn, Massachusetts)上で動く、statistical parametric mapping(SPM2; Wellcome Department of Cognitive Neurology, London, UK)を使用した。SPMでは、どの脳部位も血流の増加はないという仮説に基づき、何もニオイを感じていない時と感じた時の脳全体の血流データを比較し、この仮説をP<0.001で棄却するような脳部位を同定した。

研究結果

 MEGによる実験結果:TPD(強いニオイ刺激)とTTFD(弱いニオイ刺激)両供試材料ともに優位に見られた律動的変化(ERD:事象関連非同期)は、以下の脳部位における周波数帯域であった。(1)β波帯域(13-30Hz):中心前回(右)、上前頭回(両側)、中前頭回(両側)、(2)lowγ波帯域(30-60Hz):上前頭回(左)、上頭頂小葉(左)、中前頭回(両側)、(3)highγ波帯域2(100-200Hz):下前頭回(右)。また、TPDによる強いニオイ刺激においては、左半球の頭頂葉、側頭葉、後頭葉に事象関連非同期が見られたのに対し、TTFDによる弱いニオイ刺激においては、右半球の頭頂葉、側頭葉、後頭葉に事象関連非同期が見られた。

 fMRIによる実験結果:グループ解析(12名、P<0.001(uncorrected))において、両供試材料共に、優位に血流量の増加が見られた部位は前頭葉であった。最も活動した領域は、前頭葉眼窩野(左) (Brodmann's Area: BA 11) [x=-22,y=48,z=-12; Talairach coordinates]である。TPD(強いニオイ刺激)による主な血流量の増加は、前頭葉、視床下核、島に見られた。最も活動した領域は、視床下核(左) [x=-16,y=-8, z=-6]である。さらに、中心前回(右) (BA 6) [x=30, y=-5, z=48]や島(右) [x=34, y=12, z=16]にも血流量の増加が見られた。TTFD(弱いニオイ刺激)による主な血流量の増加は、上前頭回と小脳に見られた。最も活動した領域は、上前頭回(右) (BA 11) [x=16, y=56, z=-11]である。また、全体的に、血流量の増加は、第2次嗅覚野には見られたものの、第1次嗅覚野には見られなかった。

 なお、動物の研究により、第1次嗅覚野は梨状葉、嗅上皮質、そして海馬を含む領域(BA 28,34)であり、第2次嗅覚野は前頭葉眼窩野(BA 10,11,32,47)であると言われている。

考察

 嗅球から観測される40Hzの波は、動物を対象とした先行研究において良く報告されてきた。また、嗅覚刺激に応答する脳の律動的変化に関する研究は、これまでヒトにおいては脳波を用いて行われてきた。しかし、結果にばらつきがあるために一致した見解が得られていない。脳波は、ニューロンの活動により発生する電場を見るものである。大脳新皮質と頭表の間には、頭皮、頭蓋骨、脳脊髄液という導電率の違う三層が存在する。その比率は大脳新皮質を1とすると、約1対1/80対3である。したがって、電場は大脳新皮質と頭表の間にある組織の導電率の違いにより、頭表に現れるまでに減衰する。つまり、透磁率が一定な磁場を計測するMEGに比べて空間分解能が低い。そのため、比較的深部にあり、広がりを持って活動すると考えられる嗅覚に関連した脳部位の特定およびその律動的変化の解析において、ばらつきがあったと考えられる。MEGは、ニューロンの活動により発生する磁場を見るため、透磁率が一定であり、歪むことなく頭表に現れる。したがって、MEGは、脳波に比べて空間分解能が高いという利点を持ち、数ミリ単位で同定できる。ニオイ刺激に応答する脳神経細胞活動に伴うわずかな律動的変化とその部位を、より正確に捉えることができるのである。

 fMRI脳計測装置を用い、第1次嗅覚野および第2次嗅覚野を捉えようとする試みは、他の感覚野同様、近年盛んに行われている研究テーマである。第2次嗅覚野に関してはその活動を捉えやすいものの、第1次嗅覚野の活動は捉え難く、例え捉えることができたとしても、非常に小さな反応かもしくは安定した活動ではなかった。いくつかの論文では、この現象を第1次嗅覚野の「habituation:慣れ」もしくは「desensitization:感受性鈍磨」として表現している。梨状葉(第1次嗅覚野)における瞬時の慣れの現象は、電気生理学的な手法を用いたネズミの研究で報告されている。fMRIの研究においては、第2次嗅覚野の活動は捉えられたものの、第1次嗅覚野の活動は捉えることができなかった。これは、上記のような先行研究を考慮すれば、第1次嗅覚野に慣れの現象が生じたためと考えるのが妥当である。言い換えれば、第1次嗅覚野は慣れの現象を生じやすいため、MRのスキャナではその時間分解能に限界があり、可視化することが難しい。

 また、Sobelら(Sobel et al.,1998)は、被験者が能動的にニオイを嗅ぐという「sniffing method」を用い、ニオイのあるなしに関係なく梨状葉(第1次嗅覚野)と前頭葉眼窩野(第2次嗅覚野)の活動を報告した。さらに、受動的にニオイを嗅ぐ方法「smelling method」では、前頭葉眼窩野の活動のみを報告している。つまり、第1次嗅覚野が活動するためには、受動的なsmellingではなく、「嗅ぐ」という行為自体が重要ではないかと考えられる。

 静脈注射による嗅覚刺激では、注射後10分経過した後にも呼気にニオイ物質が残留することが分かっている。静脈注射による嗅感覚の機序は、肺に届いたニオイ物質が呼気に排出されることと同時に、後鼻腔から直接嗅上皮を刺激する。従って、静脈注射による嗅覚刺激は、結果的に長時間のニオイ刺激掲示と同じであり、また、嗅感覚はsniffingではなくsmellingで始まると考えられる。以上のことをまとめると、第1次嗅覚野が活動するためには、能動的にニオイを嗅ぐという行為が必要であり、また、慣れの現象を生じる前の早い時間帯であることが重要である。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究では、ヒトがニオイを嗅ぐという行為により発生する三叉神経の活動を抑え、純粋に嗅神経だけを刺激するために、ニオイ強度の異なるTPDおよびTTFDを静脈点滴するという刺激提示法を用い、律動的活動や脳内活動部位の特定に有利なMEGおよびfMRIとを併用する方法に着目した。本研究の目的は、嗅覚刺激に関連した(1)周波数帯域別の特徴、(2)反応部位、(3)ニオイ強度による差異を明らかにすることにある。

 MEGを経時的に計測しつつ、被験者にTPDおよびTTFDを点滴滴下すると、ニオイ刺激によって賦活された脳部位の信号強度の変化が観測される。MEGデータの解析には、SAM(Synthetic Aperture Magnetometry)法を適用し、事象関連同期(ERS:Event-Related Synchronaization)と事象関連非同期(ERD:Event-Related Desynchronaization)を表す脳内マップを得た。ここで、様々な刺激や運動に伴いある周波数帯域の振動が増えることを事象関連同期といい、ある周波数帯域の振動が減ることを事象関連非同期という。また、fMRIデータの解析には、MATLAB(Math Works,Sherborn,Massachusetts)上で動作する、Statistical Parametric Mapping(SPM2;Wellcome Department of Cognitive Neurology,London,UK)を使用した。SPMでは、どの脳部位も血流の増加はないという仮説に基づき、何もニオイを感じていない時と感じた時の脳全体の血流データを比較し、この仮説をP<0.001で棄却するような脳部位を同定した。

 MEGによる実験結果では、TPD(強いニオイ刺激)とTTFD(弱いニオイ刺激)両供試材料ともに優位に観られた律動的変化(ERD)は、以下の脳部位における周波数帯域であることが分かった。(1)β波帯域(13-30Hz):中心前回(右)、上前頭回(両側)、中前頭回(両側)、(2)lowγ波帯域(30-60Hz):上前頭回(左)、上頭頂小葉(左)、中前頭回(両側)、(3)highγ波帯域2(100-200Hz):下前頭回(右)。また、TPDによる強いニオイ刺激においては、左半球の頭頂葉、側頭葉、後頭葉にERDが見られたのに対し、TTFDによる弱いニオイ刺激においては、右半球の頭頂葉、側頭葉、後頭葉にERDが観られた。

 fMRIによる実験結果では、被検者12名を対象としたグループ解析において、両供試材料に対して、優位に血流量の増加が見られた部位は前頭葉であり、特に、最も活動した領域は、前頭葉眼窩野(左)(BA11)であった。TPDの強い刺激により最も活動した領域は、視床下核(左)であった。さらに、中心前回(右)(BA6)や島(右)にも血流量の増加が見られた。TTFDの弱い刺激により最も活動した領域は、上前頭回(右)(BA11)であった。また、全体的に、血流量の増加は、第2次嗅覚野には観られたものの、第1次嗅覚野には観られなかった。

 MEGによる計測より、次に示す結果が得られた。

1)周波数帯域別の特徴として、比較的高周波成分がニオイの処理に関与している。

2)反応部位として、前頭葉を中心とした脳神経細胞のネットワークがニオイの情報処理に関与している。

3)ニオイ強度による差異に関して、強いニオイ刺激と弱いニオイ刺激に対する処理過程は、大脳半球で異なる。

 また、fMRIによる計測より、以下に示す結果が得られた。

1)第1次嗅覚野の活動開始時期は、能動的にニオイを嗅ぐという行為と、慣れの現象が生じる前の早い時間帯である。

2)第2次嗅覚野は、ニオイの強度に関係なく活動する。

3)強いニオイ刺激と弱いニオイ刺激に対する脳内処理過程は異なる。

 また、研究手法について、ニオイ強度の異なるアリナミン静脈注射による臭素提示法は、嗅覚関連脳神経細胞活動の機序を解明する手法として有用であること、さらに、MEG計測およびfMRI計測は、周波数帯域別の特徴、反応部位、ニオイ強度による変化を可視化することが可能であり、嗅覚における脳機能解明に基礎的知見を提供する手法として有用であることなどを確認した。

 以上の審査結果より、審査委員一同は本論文の学術的な独創性と研究結果の重要性を高く評価し、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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