学位論文要旨



No 122453
著者(漢字) 西原,昇吾
著者(英字)
著者(カナ) ニシハラ,ショウゴ
標題(和) 水田生態系におけるゲンゴロウ類の保全生態学的研究
標題(洋)
報告番号 122453
報告番号 甲22453
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3177号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生圏システム学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鷲谷,いづみ
 東京大学 教授 樋口,広芳
 東京大学 助教授 宮下,直
 国立環境研究所 生態系影響評価研究室室長 高村,典子
 京都大学 教授 椿,宜高
内容要旨 要旨を表示する

第1章 研究の背景と目的

 湖沼、河川などの水辺の生物多様性の低下は世界的に深刻な問題となっている。日本では、農耕などの人間活動の発展に伴い、河川の後背湿地や氾濫原の改変・消失がもたらされたが、水田・ため池・水路などが、一時的〜永続的止水域として、水生生物に生息場所を提供してきた。しかし、農薬の使用や圃場整備に加え、近年では、伝統的な管理の衰退、侵略的外来種の侵入などによって、里地の自然は大きく変容し、それに伴い、多くの水生生物が絶滅の危機に瀕している。

 水田農業と密接な関わりをもつ水生生物を持続的に保全するためには、それらの生物の生活史や分布特性を把握し、管理の形態や水準の変化、侵略的な外来種の影響を分析・評価し、得られた生態学的知見に基づいて、地域住民の参加による保全対策を実施する必要がある。

 ゲンゴロウ類はあらゆる水域に生息し、高次の捕食者として水辺の環境指標種として重要である。しかし、上述の原因や高い採集圧のために、近年では減少の一途を辿っており、シャープゲンゴロウモドキなどの絶滅危惧種の保全は緊急性の高い課題となっている。しかし、生息の現状や生態に関する既存の知見はきわめて限られたものでしかない。

 本研究では、水田周辺に生息するゲンゴロウ類を保全するために、次の3つを目的とし、文献資料に基づく情報収集および、石川県能登半島や千葉県房総半島での現地調査を実施した。

1. わが国におけるゲンゴロウ類の生息と保全の現状、とくに、絶滅危惧I類のシャープゲンゴロウモドキの現状を把握する。

2. 水田周辺に生息するゲンゴロウ類の生活史、分布特性、個体数の経年変化などの生態学的知見を得る。また、伝統的な農業形態である、ため池や水田の管理放棄がゲンゴロウ類に与える影響を明らかにする。

3. ため池の利用の現状を把握し、また、管理水準が低下したため池において猛威をふるっている侵略的外来種オオクチバスがゲンゴロウ類に与える影響と防除の効果を明らかにする。

 さらに、これらの知見に基づき、伝統的なため池の水管理の復活や侵略的外来種の防除などを組み込んだ、ゲンゴロウ類保全のための協働プログラムとその効果を実践的に検討した。

第2章 水田とその周辺に生息するゲンゴロウ類の現状と保全

2−1 日本のゲンゴロウ類の生息現状

 水田および周辺のため池などに生息するゲンゴロウ類は、休耕田の乾燥化、ため池の管理放棄、大規模開発、採集圧や侵略的外来種の侵入などの様々な要因が重なり、現在では危機的な生息状況にある。わが国のゲンゴロウ類133種のうち、2006年版の環境省RDBには20種が掲載されている。また、ゲンゴロウ類の生息状況を把握するために、全国各都道府県が刊行した最新のRDBを比較検討したところ、いずれかのランクに掲載されている種は計99種であった。分布都道府県数に対するRDB掲載都道府県数の割合を算出した結果、掲載率の高い種類は、ゲンゴロウ、コガタノゲンゴロウ、シャープゲンゴロウモドキなど、水田依存性の中〜大型のゲンゴロウ類であった(掲載率54.5〜95.7%)。また、それらのうち、スジゲンゴロウは8府県、コガタノゲンゴロウは6府県、シャープゲンゴロウモドキは4都府県、ゲンゴロウは2県で絶滅種として掲載されていた。水辺環境の消失の著しい神奈川県では、これらに加えてツブゲンゴロウなど4種類の小型種もRDBに掲載されていた。

2−2 シャープゲンゴロウモドキの生息と保全の現状

 比較的情報の多いシャープゲンゴロウモドキについて現地調査および文献収集によって現状把握を試みたところ、戦前に知られていた生息地ではすべて確認できないことが判明した。1984年の千葉県での再発見以降、生息地の発見が各地で相次いだが、その後、それらの生息地は急速に失われ(全国6割減)、石川県以外で生息が認められた6県においても、それぞれの県に残されている生息地はそれぞれ数ヶ所以下であることも明らかになった。比較的多くの生息地が残されている石川県においても、休耕田の乾燥化、ため池の管理放棄、大規模開発、採集圧や侵略的外来種の侵入などによって一層の減少が危惧される状況であった。一方、保全条例の制定や休耕田の湛水化など、保全に向けた取り組みが開始されているものの、本種のおかれている現状からみればその不十分さが否めないことが明らかになった。

第3章 能登半島における、ため池・水田における絶滅のおそれのあるゲンゴロウ類の標識再捕獲による生活史と生態の解明

3−1 ため池・水田における絶滅のおそれのあるゲンゴロウ類の分布、個体数の季節的経年的変化

 シャープゲンゴロウモドキをはじめとする多くの水生生物が残存する石川県能登半島の平野部においても、伝統的な農業形態の衰退、侵略的外来種の侵入などによるゲンゴロウ類の生息の危機が生じている。絶滅の恐れのある5種類のゲンゴロウ類、シャープゲンゴロウモドキ、ゲンゴロウ、クロゲンゴロウ、マルコガタノゲンゴロウ、マルガタゲンゴロウが残存する地域のうち、生息地が最も(20ヶ所)集中している1km四方の地域におけるため池、水路、水田、休耕田、自然湿地などの、タイプの異なる生息場所において、2003〜2006年にゲンゴロウ類の分布、個体数の季節的・経年的変化を調査した。

 その結果、シャープゲンゴロウモドキは、休耕田、ため池、自然湿地に、ゲンゴロウは、ため池に、クロゲンゴロウは、すべての水域に、マルコガタノゲンゴロウは、ため池に、マルガタゲンゴロウは、ため池、自然湿地に主に生息していることが示された。

 季節的には、シャープゲンゴロウモドキは春と秋に個体数が多く、新成虫は7月に出現した。他の種類は春〜初夏に個体数が多く、新成虫は夏〜初秋に出現した。

 2003〜2006年にかけて、ゲンゴロウの個体数は8分の1程度にまで減少した。クロゲンゴロウの個体数はほぼ一定していたが、他の3種類の個体数は、年次変動が大きかった。標識個体の再捕獲調査から、ゲンゴロウ、クロゲンゴロウでは3年以上、シャープゲンゴロウモドキ、マルガタゲンゴロウでは2年以上生存する個体が認められた。ゲンゴロウ、クロゲンゴロウ、シャープゲンゴロウモドキの一部の個体は、時として、約25〜700m離れたため池間で移動していることが判明した。

3−2 ため池、水田の管理放棄がゲンゴロウ類に与える影響

 5種類のゲンゴロウの分布および生息個体数はため池の管理との間に相関が認められた。管理放棄されたため池では生息が確認されなかった。調査期間中に約半数のため池で管理が放棄され、水田の休耕化も進んだ。それに伴ってゲンゴロウの個体数は減少した。また、乾燥化の進んだ休耕田では、シャープゲンゴロウモドキの個体数は減少した。

第4章 ため池管理とゲンゴロウ類の保全―特にオオクチバスの影響を軽減するための対策

4−1 ため池の利用現状の分析

 石川県能登半島の平野部のため池219ヶ所の利用・管理の現状について、2003年に現地調査を行ったところ、約半数のため池が管理放棄されていることが判明した。また、ため池台帳に記載された140ヶ所の中〜大規模なため池の所有者へのアンケート調査からは、16ヶ所のため池で水利用が行われなくなっており、10ヶ所のため池で水管理が行われていないことが判明した。

4−2 侵略的外来種オオクチバスがゲンゴロウ類に与える影響と防除の効果

 侵略的外来種オオクチバスやアメリカザリガニの侵入は水辺の生態系に大きな影響を与えている。

 オオクチバスが侵入した、シャープゲンゴロウモドキなどのゲンゴロウ類の生息するため池において、侵入前後で、ゲンゴロウ類や餌となる水生昆虫類の個体数を比較した結果、いずれもその個体数を大きく減少させたことが判明した。侵入後8年以上を経た池では、周辺の未侵入の池にみられる大型ゲンゴロウ類がまったく確認されなかった。捕獲したオオクチバスの胃内容物数の70〜80%は水生昆虫であった。これらの結果、オオクチバスがゲンゴロウ類などの水生昆虫に影響を及ぼしていることがわかった。

 伝統的なため池の水管理である水抜きを復活することにより、オオクチバスを防除し、ゲンゴロウ類の保全を実践的に検討した。オオクチバスの防除には水抜きが必須ともいえ、水の抜けないため池では、若干の防除の効果は見られたものの、残存個体が繁殖し、重ねての防除が必要となった。防除により水生昆虫は徐々に回復し、2年後には、シャープゲンゴロウモドキの繁殖が確認された。一方で、侵入後の経過が長いため池の場合には、回復に時間がかかったが、防除後2年を経て、クロゲンゴロウの繁殖が確認された。

第5章 農村地域におけるゲンゴロウ類の保全対策

 本研究の結果により、ゲンゴロウ類のおかれたきわめて厳しい生息現状が判明した。そのため、多くの絶滅危惧種の残存する、ホットスポットともいえる地域における、住民を巻き込んだ保全対策が重要である。能登半島のゲンゴロウ類の生息地では、本研究成果をふまえ、オオクチバスの防除および地域への様々な啓発活動が実施され、土地改良区など地域の主体が中心となる、ため池の水管理が復活し、ゲンゴロウ類の保全を目的とする休耕田の湛水化などの取り組みが開始された。これらの協働プログラムは開始されたばかりであり、今後の長期的な保全のためには、地域づくりの一環としての、一層多くの人々を巻き込んだ取り組みが実現するよう、地域社会の実情にあった保全の体制やプログラムを検討することがのぞまれる。

審査要旨 要旨を表示する

 今日、湿地や淡水生態系の生物多様性の低下は、地球規模の深刻な環境問題の一つとして認識されている。日本においては、これまで氾濫原湿地の代替として水生生物に生息場所を提供してきた水田・ため池・水路などでも水生生物の絶滅の危機が高まっている。水域における高次の捕食者として環境指標種としても重要なゲンゴロウ類も農業生態系の変容や高い採集圧などによって減少の一途を辿っており、シャープゲンゴロウモドキなどの絶滅危惧種の保全は、里地地域の生物多様性保全上の重要課題の一つとなっている。しかし、ゲンゴロウ類の生息の現状や生態に関する既存の知見は乏しく、その保全のための実態把握と生態学的情報の収集が緊急にもとめられている。

 申請者は、1)わが国におけるゲンゴロウ類、とりわけ絶滅危惧I類のシャープゲンゴロウモドキの生息および保全の現状把握、2)現在でも比較的良好なゲンゴロウ相が残されているモデル地域における多数のため池を対象とした調査にもとづくゲンゴロウ類の個体数に影響を及ぼす環境要因の分析、3)同地域におけるゲンゴロウ類の生活史、分布特性などの生態学的知見および個体数の経年変化の把握、4)侵入・駆除に伴う水生昆虫相の変化の把握および胃内容物分析によるオオクチバスのため池への侵入がゲンゴロウ類に及ぼす影響の検討を行い、これらの研究成果にもとついて保全のための具体的な対策を提案した。

 全国的な現状は、環境省のレッドデータブック(RDB)および各都道府県のRDBにおけるゲンゴロウ類に関する記述を参照・整理することによって把握した。日本に生息するゲンゴロウ類133種のうち、2006年版の環境省RDBに掲載されているのは22種、全国各都道府県が刊行した最新のRDBにおいて絶滅危惧のいずれかのランクに掲載されている種は99種に上り、ゲンゴロウ類の衰退が全国的に進行していることが明らかになった。戦前に知られていた生息地はすべて、1980年代以降に発見された生息地はその60%が消失していた。RDBや文献において主要な衰退要因としてあげられていたのは、休耕田の乾燥化、ため池の管理放棄、大規模開発、採集圧や侵略的外来種の侵入などであった。

 現在でも比較的多くの生息地が残されている能登半島北部において、219ヶ所のため池を対象に管理の現況を現地調査およびアンケート調査で把握したところ、約半数において管理が放棄されている実態が明らかになった。128ヶ所のため池の現地調査の結果にもとづき、中〜大型種(シャープゲンゴロウモドキ、ゲンゴロウ、クロゲンゴロウ、マルコガタノゲンゴロウ、マルガタゲンゴロウ)の種数を環境要因(池の面積、管理の有無、浮葉植物の有無、護岸の近代化の有無、外来魚の侵入の有無)を独立変数とした回帰モデルで記述することを試みた。その際、空間分布の自己相関を考慮するため、GIS上で記録した池の重心の座標値(x:経度、y:緯度)にもとづく空間変数(x,y,xy,x2,y2,x3,y3,x2y,xy2)を独立変数に加えた。AICを基準とした変数選択により面積以外の4つの変数が選択され、有意な回帰モデルが得られた(p<0.0001)。そのうち、「管理有」および「浮葉植物有」は、有意ではないものの種数に対して正に寄与する傾向がみとめられた。なお、「浮葉植物有」は、抽水植物の存在量とも相関する豊かな水辺植生を指標する変数である。

 ホットスポットともいえる地域において、ため池、水田、休耕田などタイプの異なる生息場所ごとに、4年間にわたって季節を通じてゲンゴロウ類の個体数および移動を標識再捕獲法によって調査したところ、シャープゲンゴロウモドキは休耕田・ため池・自然湿地、ゲンゴロウ・マルコガタノゲンゴロウはため池、マルガタゲンゴロウはため池・自然湿地、クロゲンゴロウはすべての水域を生息場所としていることが示された。ゲンゴロウ、クロゲンゴロウ、シャープゲンゴロウモドキの標識個体の約35〜700m離れたため池間の移動が確認された。再捕獲によって確認された最長の生存期間は、ゲンゴロウ・クロゲンゴロウで4年、マルガタゲンゴロウで3年、シャープゲンゴロウモドキで2年であった。いずれの種においても、生息個体数の池の環境要因への回帰においては、有意なモデルの独立変数として面積、「管理有」、「浮葉植物有」が選択され、面積はシャープゲンゴロウモドキ以外で、「管理有」は5種すべてで、「浮葉植物有」はマルコガタノゲンゴロウ以外において、それぞれ有意な正の効果を示した。

 オオクチバスの侵入がみられた一部の池において侵入前後で、ゲンゴロウ類や餌となる水生昆虫の個体数を比較したところ水生昆虫はいずれも顕著な減少を示し、侵入後数年以上を経た池においては中〜大型ゲンゴロウ類がまったく確認されなかった。捕獲したオオクチバスの胃内容物に占める水生昆虫の比率は高く、オオクチバスがゲンゴロウ類などの水生昆虫に影響を及ぼしていることが示唆された。この問題に対処するため、池の水抜きを伴うオオクチバスの駆除の効果を実践的に検討した。駆除実施後の水生昆虫相の回復を確認した。

 本研究の結果から、管理放棄、水辺植生の喪失、侵略的外来種の侵入などの生息場所の環境変化や強い採集圧などの影響によってゲンゴロウ類がきわめて厳しい状況におかれていることが判明した。申請者は、本研究の成果にもとづき、地域を巻き込んだ協働プログラムの実施を含む保全対策の実践にも精力的に取り組んできた。本研究は、ゲンゴロウ類の保全のための研究として、学術面でも実践面でも十分な成果をあげたといえる。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値のあるものと認めた。

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