学位論文要旨



No 122454
著者(漢字) 野田,響
著者(英字)
著者(カナ) ノダ,ヒビキ
標題(和) 絶滅が危惧されるクローン植物サクラソウの生態生理学的特性化
標題(洋) Ecophysiological characterization of endangered clonal herbaceous species Primula sieboldii.
報告番号 122454
報告番号 甲22454
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3178号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生圏システム学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鷲谷,いづみ
 東京大学 教授 梶,幹男
 東京大学 教授 丹下,健
 東京大学 教授 寺島,一郎
 東京大学 助教授 野口,航
内容要旨 要旨を表示する

研究の背景および目的

 サクラソウ Primula sieboldii E. Morren は、北海道から九州まで広く分布する異型花柱性のクローン植物である。繁殖システムの進化や維持機構を解明するためのモデル植物として、また、かつては身近な環境で比較的普通に見られた絶滅危惧植物として、繁殖生態学や保全生態学の研究がこれまで多く行われてきた。そのため、野生植物として、日本で最も生物学的・生態学的知見が蓄積している種のひとつとなっている。本研究では、それぞれの生育場所での存続にとって重要な意義があるにも関わらず、これまで十分な知見が蓄積しているとはいえない栄養成長に関わる特性、すなわち物質生産とクローン成長に関して生理生態学的手法を用いて研究した。

 サクラソウは、同一ジェネット(遺伝的な意味における個体)のラメット(生理的に独立した個体)が生理的に完全に独立するタイプのクローン植物である。クローン植物のジェネットはクローン成長で増えた複数のラメットから構成される。サクラソウのラメットの寿命は1年に満たないが、ひとつのジェネットは時として1,000を越すラメットから構成されることがあり、その寿命は非常に長いものと推測される。サクラソウ個体群の持続性には、有性繁殖に由来する新たなジェネットの定着ともに、ジェネットの存続性が大きな影響を与える。多数のラメットからなる大きなジェネットは、食害・病害やストレスをもたらす環境変動などによりすべてのラメットを一度に失う可能性は低く、ジェネットの存続性はクローン成長によるラメットの数の増減に依存する。物質生産量が大きければ、多くのラメットを生産できる可能性があり、逆に物質生産が不十分な場合には新しいラメットを残さずに死亡する場合もある。ただし、これらのラメットの動態は物質生産の多寡とともに、呼吸による損失量に依存する。

 サクラソウの自生地は一部の例外を除き、火山周辺に分布する。本来は火山活動に伴う攪乱で生じる明るい立地を生育場所としていたものが、野焼き・下草刈り・放牧など、伝統的な管理によって維持される草原や落葉樹林林床の、少なくとも春先に明るい環境で維持されてきたものと考えられている。しかし、伝統的管理の放棄による植被の発達、常緑樹の植林などによる1年を通した光環境の悪化は、開発による自生地の消失とともにサクラソウの絶滅要因であると考えられている。光環境の悪化は、純生産量の減少を通じ、クローン成長の失敗やラメットの死亡を介してジェネットそのものの衰退と消滅をもたらしている可能性がある。

 本研究では、光環境の悪化がサクラソウのジェネットの存続性に及ぼす影響を検討するため、1. 光環境がサクラソウの形態的・生理的特性および物質生産及ぼす影響、2. 光に対する可塑性とクローン成長特性のジェネット間変異の可能性について明らかにすることを目的とした。さらに、3. 光条件が悪化した条件のもとでのジェネットの存続に大きく関わるサクラソウの呼吸による物質利用戦略についても検討した。

異なる光・土壌水分条件の生理的・形態的特性およびバイオマス蓄積への影響

 サクラソウの物質生産への光環境と土壌水分条件の影響を検討するため、光条件(強光;相対光量子密度68%、中程度;38%、弱光;5%)と土壌水分条件(湿潤;1日に1度潅水、乾燥処理区;週に1度潅水)を組み合わせた環境処理区を設定し、自生地から移植したサクラソウラメットを展葉開始から開花期が終わるまでの期間(これを実験期間とする)生育させ、形態的特性(バイオマス分配と分配されたバイオマスを用いた形態形成)、個葉の光合成特性ならびに水利用特性およびラメットの相対成長率を測定した。

 強光処理区における最大光合成速度は弱光処理区の1.7倍、暗呼吸速度は2倍であり、光合成特性において明らかな光馴化が認められた。さらに、形態的特性としては、弱光処理区で葉柄の伸長が認められた。他の草本植物に被陰された場合、この反応は光の獲得において有効であると考えられる。土壌水分条件に対しても、乾燥処理区では水利用効率が湿潤処理の2倍となるといった生理的な馴化に加え、根へのバイオマス分配の増加、葉面積の減少などの形態的可塑性が認められた。これらの形態的・生理的可塑性の寄与により、実験期間中に枯死したラメットは実験に使用した108ラメットのうち2ラメットのみであった。生存ラメットは、弱光処理区で生育したものでさえ実験期間中の相対成長率が正の値を示し、翌年のラメットとなる無性芽も形成していた。以上のことから、サクラソウは形態的・生理的可塑性を持つことにより、幅広い光・土壌水分条件で生育可能であることが示された。その一方で、強光・湿潤処理区で生育させたラメットの相対成長率は他の条件で育ったものを大きく凌いでいた。

光に対する可塑性とクローン成長特性のジェネット間変

 光馴化特性とクローン成長特性(ひとつのラメットがクローン成長で生産する無性芽の数とサイズ)のジェネット間変異の可能性を検討するため、展葉開始前に採取した生育微環境が異なる3ジェネットのラメットを、強光処理区(相対光量子密度67%)と弱光処理区(4%)で生育させ、ラメットの光合成特性とクローン成長特性を測定した(実験1年目)。さらに、ラメットの前年の環境条件の影響を、ジェネットの特性から分離するために、翌年、実験1年目に強光処理区で生育させたラメットから、クローン成長で新たに生じたラメットを同様の2段階の光処理区で生育させ、同様の測定を行った(実験2年目)。

 実験1年目には強光処理区で生育させたラメット間で最大光合成速度にジェネット間の変異が認められたが、実験2年目には、これらの変異はまったく認められなかった。実験1年目に認められたジェネット間の変異はラメットの前年の環境条件を反映したものである可能性が高く、サクラソウの光条件への可塑性にはジェネット間の変異は認められないと判断された。一方、クローン成長特性のジェネット間変異は大きく、実験1年目、2年目ともに、大きな芽を少数つくる性質の強いジェネットがある一方で、小さな芽を数多くつくる傾向が顕著なジェネットも認められた。大きな芽には花芽が含まれるため、このような特性の違いは、開花率の違いに反映される。すなわち、ジェネット間にみられる新芽へのバイオマス分配の特性は、開花と栄養成長のバランスを支配すると推測される。

呼吸の季節的変化と年間の炭素収支

 サクラソウが地上部を持たない期間を含む、フェノロジーの各時期の呼吸による物質消費特性を明らかにするため、北海道の自生地由来のラメットを、野外における温度・光環境の季節変化をシミュレートした環境下で8.5ヶ月間生育させ、物質生産期(自然条件における春に相当;2.5ヶ月)、落葉から低温を経験するまでの期間(夏から秋;5ヶ月)、低温条件を経験した後(冬から早春;1ヶ月)の3つの期間にわたり、植物体全体(物質生産期は地上部/地下部のそれぞれについて)の呼吸速度とその温度依存性を測定した。呼吸速度は物質生産期に最も高く、落葉後には物質生産期の地下部の呼吸速度の1/5まで低下し、低温条件を経験した後に再び上昇するという顕著な季節変化を示した。呼吸速度と光合成速度、およびバイオマス変化から全実験期間のラメット全体の炭素収支を推定したところ、光合成で生産した炭水化物のうち87%が呼吸により消費されていた。物質生産期間の呼吸速度が全実験期間を通して維持されていたと仮定した場合、その炭素収支は、呼吸による消費量が光合成生産量を61%も上回る計算になる。以上の結果より、落葉後から低温を経験するまでの期間における呼吸速度の大幅な低下がラメットの年間の物質収支を正の値にすることに寄与していることが示された。

結論

 以上の結果から、サクラソウは形態的・生理的特性における可塑性により幅広い光・土壌水分条件の下で生育は可能であるものの、明るく湿潤な条件で良好な物質生産を行うことが示された。しかし、これらの光に対する形態的・生理的可塑性にはジェネット間の変異は認められなかった。一方、クローン成長特性にはジェネット間で変異があり、小さな芽を多数つくることでクローンの拡大を優先するジェネットから、クローン成長を犠牲にして、開花株を高い比率で作るジェネットのように幅広い生活史戦略が存在することが示唆された。また、サクラソウの呼吸速度にみられる、落葉後の"休眠"と呼べるほどの大幅な低下を伴う季節変化は、呼吸による損失を抑え、ラメットの年間を通じた正の総生産量に寄与していることが示された。

 以上の結果から、サクラソウのジェネットは光条件が悪化した環境下でも、わずかな生産量に頼ってラメットを更新しながら存続することが可能であると推測される。植林やササの繁茂で光条件が悪化した生育地においては、サクラソウが衰退している場合にも、伐採や植生管理などで光環境を改善すれば、細々と生き残っていたジェネットから個体群が回復する可能性が示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

 サクラソウは、かつては全国の火山の周囲の落葉樹林、草原、水田の周囲などの明るく湿った立地に比較的普通にみられる植物であったが、現在では、著しく減少し、絶滅が危惧される植物種として環境省のレッドリストに掲載されている。リゾート開発などの開発行為に加え、拡大造林による常緑針葉樹林化や落葉広葉樹林・草原における伝統的管理の放棄が、生育環境の変化を通じて絶滅要因の一つとなっていると推測されている。光利用性や水利用性の悪化は、純生産量の減少を通じてクローン成長や有性生殖に深刻な影響を及ぼす可能性が大きい。申請者の研究は、サクラソウの保全のための自生地の管理・再生に資する指針を得るために、サクラソウのジェネットの存続性に及ぼす光利用性および水利用性の影響を定量的に把握することをめざし、1.光と水の利用性がサクラソウのラメットの形態的・生理的特性および物質生産に及ぼす影響、2.光に対する形態的・生理的可塑性とクローン成長特性のジェネット間変異、3.光利用性の低い場所でのジェネットの存続性に大きく影響する物質利用戦略としての呼吸活性の季節変化などについて、北海道日高地方の自生地における野外実験および室内実験によって詳細な検討を加えたものである。

 光環境と土壌水分条件が物質生産と可塑的形態形成に及ぼす影響は、光利用性(強光:相対光量子密度68%、中程度:38%、弱光:5%)および水利用性(湿潤:1日に1度潅水、乾燥:週に1度潅水)の異なる処理区を自生地に設けた網室内に設定し、サクラソウの形態的特性、個葉の光合成特性ならびに水利用特性および相対成長率を測定することによって把握した。最大光合成速度および暗呼吸速度の明らかな光馴化、および乾燥処理区において水利用効率が湿潤処理の2倍となる生理的馴化に加え、根へのバイオマス分配や葉面積/バイオマス比などの形態的特性においても可塑性が認められた。実験に使用した108ラメットのほぼすべてのラメットが正の相対成長率を示し、無性芽を形成したことは、形態的・生理的可塑性が、幅広い光・土壌水分条件における本種の生育を可能にしていることを示唆する。

 クローン成長パターンを決める内的要因としての光馴化特性およびクローン成長特性のジェネット間変異の検討においては、前年の生育環境の影響をコントロールするために2年間にわたる実験を実施した。展葉開始前に採取した生育微環境が異なる3ジェネットのラメットを、強光処理区(相対光量子密度67%)と弱光処理区(4%)で生育させ、ラメットの光合成特性とクローン成長特性を測定し、強光処理区で生育させたラメットに形成された無性芽から発達したラメットを用いて翌年に同様の実験を行った。1年目には強光処理区で生育させたラメット間で最大光合成速度にジェネット間の変異が認められたが、2年目の実験では、そのような変異は消失した。したがって、1年目の実験で認められたジェネット間変異は自生地における前年の環境が異なることによる前歴効果でありジェネット間変異は認められないと結論された。それに対して、開花率の違いをもたらす芽のサイズにかかわるクローン成長特性には明らかなジェネット間変異が認められた。

 野外における温度・光環境の季節変化をシミュレートした室内の制御環境の下でサクラソウを生育させ、物質生産期、落葉から低温を経験するまでの期間、低温条件を経験した後の3期間について呼吸速度とその温度依存性を測定し呼吸活性の季節的変化および年間の炭素収支を検討した。呼吸速度は物質生産期には比較的高い値を示すが、落葉後には物質生産期の呼吸速度の1/5程度にまで低下し、低温条件を経験した後に再び上昇した。呼吸速度と光合成速度、およびバイオマス変化から全実験期間のラメット全体の炭素収支を推定したところ、光合成で生産した炭水化物のうち87%が呼吸により消費されていた。

 これらの実験を通じて、サクラソウの生育適地は明るく湿潤な環境であるものの形態的・生理的可塑性によって幅広い光・土壌水分条件の下でジェネットを維持することが可能なことが示された。また、栄養成長と繁殖成長のバランスにかかわるクローン成長特性にはジェネット間に変異が認められること、落葉後の"休眠"ともいえる大幅な呼吸速度の低下は、呼吸による損失を抑え、年間総生産量を正に保つことに寄与していることなどが示唆された。このような生理特性を持つ本種は、生育場所の光条件が悪化した場合にもラメットを更新しながらしばらくの間はその場でジェネットを存続させることが可能であることが推測される。したがって、常緑針葉樹の植林やササの繁茂等で光条件が悪化して著しい衰退が認められている生育場所においても、伐採や刈り取りなどの植生管理によって光環境を改善すれば、生残ジェネットから個体群が回復することが期待される。

 生理生態学的なアプローチによって得られた以上の知見は、クローン植物の栄養成長戦略の理解の深化を通じて当該研究領域に寄与する一方で、絶滅危惧種である本種の自生地の保全・再生のための管理に実践的な指針を与えるという意味において応用的な意義も大きい。したがって、本研究は、学術面、実践面の両面で十分な成果をあげたといえる。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値のあるものと認めた。

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