学位論文要旨



No 122455
著者(漢字) 細谷,将
著者(英字)
著者(カナ) ホソヤ,ショウ
標題(和) 海産魚種苗におけるfree cortisolのストレス応答と健苗性指標としての可能性
標題(洋) Investigation of the free cortisol dynamics under stress and its availability as a quality index of marine finfish seedlings.
報告番号 122455
報告番号 甲22455
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3179号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生圏システム学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 日野,明徳
 東京大学 教授 鈴木,譲
 東京大学 教授 黒倉,壽
 東京大学 助教授 岡本,研
 東京大学 助教授 金子,豊二
内容要旨 要旨を表示する

 沿岸環境の悪化や資源の乱獲を原因とした世界的な水産資源の縮小が続くなか,水産養殖による資源補完や,種苗放流と環境の保全・管理を軸とした栽培漁業による資源涵養の取り組みがなされている.理論上これらの成否は,健苗性とよばれる種苗の健全性に左右されると考えられるが,種苗の質を評価する有効な手法と指標は未だ確立されていない.そこで本研究では,健苗性の新しい評価法として,cortisolの血中濃度変化によって示されるストレス応答に注目した.cortisolは代謝・免疫などに関与し,その異常は個体の成長・成熟・耐病性などを抑制し行動にも反映されるため,これまでcortisol応答に関して多くの知見が蓄積されてきたが,飼育環境下で種苗が受ける長期的ストレスへの応答に関する情報は少ない.また,血中でcortisolはタンパク質と結合した生理的活性を持たない画分(bound cortisol: BC)と遊離した生理的活性を持つ画分(free cortisol: FC)とに分けられるが,魚類では総cortisol(total cortisol: TC)濃度のみが測定されており,FCに関する知見は乏しいばかりか,ストレス応答下でのFCの変化に関する報告は未だみられない.現在,種苗放流では,種苗の質は放流直後の生残と再捕に直ちに影響するため,これらに最も関係が深いとされる稚魚期の行動による評価が行われているが,定量性に乏しいという欠点がある.いっぽう哺乳類では,ストレスを受けた直後の行動パターンがストレス応答系の活性に起因することが示唆されており,魚類においてもcortisol応答が行動特性と相関していれば,定量性の高い強力な指標になると考えられる.本研究では,これらの背景のもと,「飼育環境下で魚類のストレス応答が種苗の質を評価する指標となりうるか」を,血中のTCとFCの変動を精査することで検討した.なお,本研究のうち,第III章および第IV・V章の実験は,カナダのNational Research Council, Institute for Marine Biosciencesにて,また第VI章の実験は,東京大学附属水産実験所にて行った.

 第I章では研究の背景・序論として,縮小傾向にある魚類資源の保全に対し,養殖業と栽培漁業が担う役割,種苗生産過程における問題点,研究課題としてのストレス応答の必要性について説明した.

 第II章では,基本的な実験手法として,実験魚の飼育とサンプリング方法,ストレス指標の測定方法,血漿からのFCの分離法(ultrafiltration)について説明した.ストレスの指標(括弧内は測定方法)としては,血漿中TC&FC(enzyme-linked immunosorbent assay, ELISA),血漿中グルコース(glucose oxidase/peroxidaseを用いたTrinderの変法),組織中の70kDa熱ショックタンパク質(hsp70,Western blotting and chemiluminescent)を用いた.

 第III章では,急性のハンドリングストレスに対するAtlantic cod(Gadus mordua)とhaddock (Melanogrammus aeglefinus)のTC応答の概要を調べ,これらタラ科の魚種(gadoid)が長期的なストレスに対するストレス応答を評価するのに適した魚種であるかを検討した.その結果,Atlantic codはTCの値に個体間でのばらつきが大きいため(CV=175%),ストレス応答の研究には適していないことが示された.また,脊椎動物一般で見られる血漿グルコースのストレス応答がこれらの魚種では認められなかった.いっぽう15℃に馴致したAtlantic codを用いた実験では,ストレスを与えなかった対照群でcortisol濃度が高い値(>100ng/mL)を示していたことから,Atlantic codにとって15℃の水温環境は非常に強いストレッサーとなることが明らかになった.しかし,熱ストレスによるhsp70の発現は認められなかった.Atlantic codに関しては,致死水温以下ではhsp70の発現が見られないという報告もあり,また,共同研究者の追試でも同様の結果が出ている.Haddockも同様にhsp70の発現は認められなかったが,これは本魚種のhsp70の発現に関する初めての報告である.

 第IV章では,haddockの長期的ストレスに対する応答を評価することを目的とし,15秒間の空中曝露によるストレスを4週間毎日与え続け,1週間毎に定常時の血漿中のTC・FC・グルコース,および鰓組織のhsp70の発現を,ストレスを受けなかった対照群と比較した.また,北米で魚類のモデル生物として見なされているAtlantic salmon(海水適応後)を対照種として,同様の実験を行った.Haddockではストレス群でTC・FCともに2週目サンプリング時に10倍の上昇が見られたが,3週目には元のレベルに戻っていた.一方,TCに対するFCの割合(Free%)は1週目のサンプリング時から対照群に対して有意に高く(対照群17%,ストレス群55%),3週目に差はなくなった.この結果,長期的ストレスに対するhaddockのストレス指標としてコルチゾールは2週間程度なら使用に耐えるが,それ以上の期間では適していないこと,またFCを測定し,Free%を求めることで,個体のストレス応答の変化をさらに精査出来る可能性が示された.また,グルコースは第III章と同様に上昇しなかった.一方,Atlantic salmonでは,TC・FC・Free%に変化は見られなかったが,1週目のサンプリング時にグルコースの上昇が見られた.したがって,cortisolを指標とする場合は種毎に評価基準を設定する必要があると考えられた.

 つぎにhaddockについて,ストレス応答系に対する長期的ストレスの影響を調べるため,対照群・ストレス群ともに1回のハンドリングストレスを与え,応答を経時的に比較した.その結果.対照群では,ハンドリングの1時間後にTCは有意に上昇したが,生理活性のあるFCの量はほとんど変化せず,Free%もほとんど上昇しなかった.このことは,haddockの場合1回のハンドリングによる生理的影響が実際には小さいこと,また TCがストレス指標として適当ではないことを示している.一方,ストレス群でTC・FC・Free%の全てが上昇したが,統計的に有意ではなかった.また,6時間後のFCは,対照群に対してストレス群が有意に高い値を示した(対照群7.21ng/mL, ストレス群 24.7ng/mL).このことから,飼育環境にある種苗のストレス応答系を評価するには,急性ストレス応答時のFCを指標とすることが有効と考えられた.いっぽうFree%の増加は,FCの増加速度がTCのそれよりも大きいことを示している.このことは,長期的ストレスによってCBPのcortisol結合容量が低下したことを意味し,CBPを用いたストレスの評価法を検討する価値があると思われる.

 第V章では, Atlantic salmonからのCBPの単離とアミノ酸配列の決定を試みた.まず,肝臓組織のホモジネートとポリクローナル抗ヒトCBP抗体を用いた免疫沈降を行い,抽出分画をLC-MS/MSに供した.しかし,CBPと思われるタンパク質を得られなかった.つぎに血漿を用い,コルチゾールの構造を保持した類似化合物[Cortisol 3-(O-carboxymethyl)oxime]をリガンドとしたアフィニティークロマトグラフィーによる単離を試みたところ,Cortisolを過剰に含む緩衝液を用いて抽出した分画に特異的に現れるタンパク質が確認されたが,CBPと思われるタンパク質を得られなかった.ヒトについて,血中CBP濃度は50ng/ml程度と非常に低いという報告があり,極めて高い抽出効率を持つ方法の検討が必要と考えられた.

 第VI章では,急性ストレスを受けた直後の行動とストレス応答との関係を検討するため,トラフグ(Takifugu rubripes)を用いた実験を行った.水槽の移し替え直後から6分間の行動が活発な群(活発さで上位10%程度)と不活発な群(不活発さで上位10%程度)を3回の行動実験によって抽出し,急性ストレスを与える前(0時間),与えた後1,3,6時間後のTC,FC,グルコース濃度からストレス応答を群間で比較した.その結果,いずれの項目でも活発群は不活発群より長時間にわたって高い値をとる傾向にあったものの,2要因分散分析ではTC・FCともに群間の差はなく,行動とストレス応答を関係づけるには至らなかった.一方,Free%では,ストレスを受ける以前,定常時の値で活発群が非活発群より有意に高かった.これはFree%の差異が移槽直後の行動に反映されている事を示唆し,Free%から種苗の質を評価できる可能性が示された.

 第VII章では.資源増大といった産業的効果のみならず,放流事業を通した資源管理や環境保全に対する社会への意識付けといった効果をも併せ持っている栽培漁業に関連して,放流効果に直接影響する健全な種苗の生産と健苗性の評価方の確立について,ストレス応答の研究から得られた知見をもとに考察した.

審査要旨 要旨を表示する

 人工種苗の放流による沿岸資源の涵養が、水産業による陸域・海域間の物質循環の保全にとって重要であることが、近年世界的に注目されている。種苗放流の成否は、種苗の健全性に左右されると考えられるが、種苗の質を評価する有効な手法は未だ確立されていない。そこで本研究では、健全性の新しい評価法として、cortisolの血中濃度変化によって示されるストレス応答に注目した。血中でcortisolはタンパク質と結合した生理的活性を持たない画分(bound cortisol:BC)と遊離した生理的活性を持つ画分(free cortisol:FC)とに分けられるが、魚類では総cortisol(total cortisol:TC)濃度のみが測定されており、ストレス応答下としてのFCに関する報告はみられない。

 以上を述べた序章(第I章)に続く第II章では、実験手法の確立に至るまでを述べている。

 第III章では、急性のハンドリングストレスに対するAtlantic cod(Gadus mordua)とhaddock(Melanogrammus aeglefinus)のTC応答を調べた。その結果、脊椎動物一般で見られる血漿グルコースのストレス応答がこれら2魚種では認められないこと、またAtlantic codには、水温は非常に強いストレッサーとなることが明らかになった。しかし、hsp70の発現は認められなかった。Haddockも同様であったが、これは本魚種のhsp70の発現に関する初めての報告である。

 第IV章では、長期的ストレスに対する応答を評価するため、毎日15秒間の空中曝露を4週間与え続け、1週間毎に血漿中のTC・FC・グルコース、および鯉組織のhsp70の発現を調べた。HaddockではTC・FCともに2週目に10倍の上昇が見られたが、3週目には元のレベルに戻った。一方、TCに対するFCの割合(Free%)は1週目から対照群に対して有意に高く、3週目に差はなくなった。この結果、haddockではコルチゾールは2週間程度しかストレス指標にならないこと、しかし、Free%を求めることでストレス応答の変化を精査出来る可能性が示された。一方、Atlantic salmonでは、TC・FC・Free%に変化は見られなかったが、1週目にグルコースの上昇が見られ、cortisolを指標とする場合は種毎に評価基準を設定する必要があると考えられた。

 つぎにhaddockについて、上記の長期的ストレス下にある個体と対照群に1回のハンドリングストレスを与え、ストレス応答系に対する長期的ストレスの影響を調べた。その結果。対照群ではハンドリングでTCは上昇したが、生理活性をもつFCはほとんど変化せず、Free%もほとんど上昇せず、TCがストレス指標として適当ではないことが示された。しかし6時間後のFCは有意に高い値を示し、指標としてのFCの有効性が示唆された。いっぽうFree%の増加は、FCの増加速度がTCのそれよりも大きいことを示している。このことは、CBP(cortisol binding protein)の結合容量が低下したことを意味し、CBPを用いたストレスの評価法も検討すべきであると考えられた。

 第V章では、CBPの単離とアミノ酸配列の決定を試みた。しかし、ポリクローナル抗ヒトCBP抗体を用いた免疫沈降の抽出分画からはCBPを得られなかった。また、コルチゾール類似化合物をリガンドとしたアフィニティークロマトグラフィーによる単離からは、特異的に現れるタンパクが確認されたが、CBPと断定し得るものを得られなかった。

 第VI章では、ストレス応答と行動との関係を検討するため、トラフグ(Takifugu rubripes)を用い、活発な群と不活発な群を抽出し、急性ストレスがTC、FC、グルコース濃度に与える影響を比較した。その結果、いずれの項目でも活発群は不活発群より長時間にわたって高い値をとる傾向にあったもののTC・FCともに群間の差はなく、いっぽう、Free%では、活発群の定常時の値が非活発群より有意に高く、種苗の質評価に展開できる可能性があった。

 第VII章では、放流効果に直接影響する健全な種苗の生産と健苗性の評価方の確立について、ストレス応答の研究から得られた知見をもとに考察した。

 以上本研究は、未だ例のない種苗期のストレス応答を、巧みな魚種選択により生理学的な側面から精査したものであり、とくにcortisol binding proteinの挙動に注目すべきという、基礎科学上の成果のみならず種苗生産への応用上も有益となる多くの成果を挙げている。よって審査委員一同は、本研究を博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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