学位論文要旨



No 122456
著者(漢字) 沈,海花
著者(英字) Shen,Hai Hua
著者(カナ) チン,カイカ
標題(和) 高山湿原の環境不均一性と関連したPrimula nutansの生態生理学的特性
標題(洋) Ecophysiological characteristics of Primula nutans in relation to environmental heterogeneity in an alpine wetland
報告番号 122456
報告番号 甲22456
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3180号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生圏システム学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鷲谷,いづみ
 東京大学 教授 梶,幹男
 東京大学 教授 丹下,健
 東京大学 教授 寺島,一郎
 東京大学 助教授 野口,航
内容要旨 要旨を表示する

研究の背景(第一章)

 土地利用の変化、生息地の破壊、過放牧、環境汚染など、様々な人為的影響によって、生物多様性の減少と生態系健全性の低下が進行している。地球温暖化は、このような複合的要因による生態系機能の劣化をさらに加速させる可能性がある。生物多様性の保全と生態系健全性の維持のためには、環境要因の人為的変化とそれが生態系に及ぼす影響を的確に把握する生態モニタリングが必要である。

 生物からの情報を利用する生態モニタリングは、生物多様性の各階層(ランドスケープ、群集、種、遺伝子)の要素から適切な指標を選んで実施される。その中で、最も一般的なのが、指標種を用いた種レベルでのモニタリングである。指標種は、地理分布が比較的広く、局地の個体群密度が高く、環境変動に対して敏感に反応するなどの特性を持ち、生態系の管理や生物多様性の保全に資するものが望ましい。ある生物種を生態モニタリングの指標種として利用する場合には、まず、その種の生態学的特性を把握しなければならない。

 本研究では、チベット高原の温暖化をはじめとする長期的環境変化に対する生態モニタリングための指標種の候補の一つとしてPrimula nutans Georgi(中国名:天山報春、サクラソウ属)の基本的な生態学的特性を明らかにすることを目的にした。P.nutansを生態学的モニタリングの指標の候補にする理由は、以下の通りである。(1)P.nutansは、アラスカからシベリア、チベット高原までの湿地草原に広く分布している。しかも局所の個体群密度が高い場合が多く、開花期にはピンク色の花が目立つため、踏査においても、遠隔的にも、その分布の広がりの把握が容易である。(2)P.nutansは早春植物であり、同属の他の植物と同様、温暖化に敏感に応答する可能性が高い。(3)P.nutansの主要な分布域の一つであるチベット高原は、地球上最も標高の高い場所の生態系であり、温暖化影響の早期検出と予測において重要な「指標生態系」である。(4)当該高原では、人為的な干渉の度合いの異なる様々な草原が存在しており、土地利用、放牧圧などと温暖化の複合影響の解析に資する指標が求められる。

 P.nutansは、ユーラシア大陸の高山や高原の厳しい環境に広く分布しているが、生育場所の多くは湿原である。一見均一に見えるこれらの湿原では、凹凸微地形が発達し、植物の利用する環境と資源は空間的に不均一に分布していることが予想される。P.nutansの成長・生存に湿原の微環境の不均一性がどのように影響しているかを理解することは、本種の指標特性を多様なスケールで把握するための前提となる。

 そこで、本研究では、P.nutansの生育環境である高山湿原の微地形環境の空間的・時間的不均一性を明らかにし、本種がそれに対してどのような生態的応答を示しているのかを空間分布、成長、形態、生理などの面から分析した。

凹凸微地形による環境不均一性(第二章、第三章)

 高山植物の生育と生存は、微環境に対する依存性が極めて大きい。P.nutansの生育地の凹凸微地形による微環境特性を把握するため、2004年5月に調査地の乱海子湿地(37°36'N,101°21'E,3250m)において、1m×1mのコドラート3つと0.5m×0.5mのコドラート8つを設置し、各コドラートをさらに0.1m×0.1mのサブコドラート(ミクロサイト)に分け、微地形の標高差、光、土壌温度と水分の空間分布と長期的変化を測定した。

 その結果、多くの凹凸は、数十センチから数メートルの間隔で起伏し、標高差が数センチから十数センチの範囲で変化することが分かった。微地形の変化に応じて、光、温度、水分環境も変動し、特に相対光合成光量子密度(PPFD)は微地形の標高差に強く依存することが明らかになった。長期測定の結果から、微凸地の日平均PPFDが30mol m(-2)day(-1)に対して、微凹地ではその60%に満たないことが判明した。また、環境要因の不均一性を表す変異係数(CVs)は、微凸地に比べ、微凹地の方が有意に大きいことが示された。

 これらの結果から、一見均一に見える湿原でも、微凹凸地形の存在によって植物の生育環境は空間的に極めて不均一であることが判明した。

P.nutansの出現と分布パターン(第二章)

 このような不均一性の高い環境に対するP.nutansの応答を把握するため、まず、どのような微小サイト(ミクロサイト)がP.nutansにとって好適なミクロサイト、すなわちセーフサイト(safe site)となりうるかを検討した。各ミクロサイトにおいて、すべてのラメットをマッピングし、その分布位置を記録し、前項で把握した環境要因との関係を分析した。

パッチ状の分布:ミクロサイトあたり、P.nutansのラメット数は「L」字の分布パターン、すなわち、多くのミクロサイトはラメット密度が低く、ごく一部のミクロサイトにのみラメットが集中的に分布していることが示された。

 好適なミクロサイト:P.nutansは、南・西向きの斜面、微凸地の上部において分布密度が高かった。重回帰分析および主成分分析から、相対PPFDが高いほど分布密度が高いことが示された、すなわち、比較的明るいミクロサイトが、P.nutansにとって好適なミクロサイトかと判断された。

 ミクロサイトの「安全度」評価:P.nutansの密度が最も高いミクロサイトの「安全度」を100%として、各ミクロサイトのラメット密度と環境要因から、P.nutansの好適環境条件を分析した結果、P.nutansが出現するミクロサイトの相対的PPFD、土壌水分と温度はそれぞれ0.59-0.85、0.43-0.9(v/v)、14.5-27.5℃であるが、好適ミクロサイトの環境要因はそれよりもずっと狭い範囲内(0.72-0.84、0.45-0.5(v/v)、16.5-18℃)に限定されていることが示された。

 このような好適なミクロサイトとミクロサイトの「安全度」評価手法は、本種を指標とした生態モニタリングにおける定量評価の手法としても有用であると考えられる。

P.nutansの形態可塑性と物質分配(第三章)

 P.nutansの分布可能なミクロサイトは好適なミクロサイトより、環境条件の変動範囲が広いことが明らかになったが、そのような幅広い環境変動に対してP.nutansの形態可塑性・物質分配がどのような応答を示すかを検討した。

 2004年の6月から8月にかけて、一ヶ月一度で、微凸地と微凹地から、それぞれ開花ラメットを20個体採集し、葉のサイズ、葉柄の長さ、花柄の長さを測定し、器官ごとに幹重量を測った。その結果、葉面積や葉柄の長さ、花柄の高さは、微凸地と微凹地のラメット間でその平均値を比較すると、それぞれ2.1cm2対2.7cm2、1.1cm対1.6cm、12cm対18cmであり、いずれも、微凹地の方で顕著に大きかった。また、葉面積あたりの幹重量(LMA)は、微凸地の63gm(-2)に対して微凹地では50gm(-2)であった。さらに、微凹地のラメットは微凸地のラメットより、多くのバイオマスを花柄へ投資することが明らかになった。

 このように、P.nutansは微環境の変動に対して、比較的大きな形態的可塑性を示すことが明らかにされた。このような形態的可塑性と物質分配の変化は、光エネルギーが不足している微環境でもP.nutansの生存において、重要な役割を果たしていると考えられる。

異なる光・温度条件下でのP.nutansの光合成と呼吸特性(第四章)

 微環境の空間的不均一性に対する、P.nutansの形態的可塑性と分布パターンを決める要因をより深く理解するため、光と温度に対する生理生態的応答反応を自生地および人工環境下で測定した。

 2004年の夏に自生地の異なる微環境のもとで生育するラメットについて、光合成と呼吸の温度依存性を測定した結果、最大光合成速度は、測定温度15℃前後で最大となったが、微凹地のラメットの8.6μmol m(-2)s(-1)に比べ、微凸地のラメットは10.8μmol m(-2)s(-1)と有意に高かった。

 つぎに、P.nutansを実験室に持ち帰り、3段階の温度条件と3段階の光条件で栽培し、光合成と呼吸の光・温度依存性を測った。その結果、光合成と呼吸速度に及ぼす温度環境の影響は強光条件より弱光条件で顕著であり、同じ温度条件下では弱光下で栽培したラメットより強光下で栽培したラメットにおいて光合成・呼吸速度が高かった。

 さらに、微地形の光・温度の長期測定データおよび光合成測定データを用いてシミュレーションした結果、ラメットの純生産はミクロサイトの光条件と温度条件に高い依存性を示し、日平均気温が10℃前後で最も高く、その温度条件下では、一日総PPFDが10mol m(-2)day(-1)程度の環境でも正の純生産を示した。

 これらの結果から、微環境の光・温度条件に対して、本種はある程度の順化能力を示すものの、ミクロサイトの光環境と温度環境は物質生産に対して大きな影響をもたらすことが示唆された。

本研究の結論と意義(第五章)

 本研究では、青海・チベット高原に広く分布するP.nutansを、この「指標生態系」における生態モニタリングの指標種候補として、基礎的な生理生態学的特性の検討を行った。P.nutansの生育環境は、ミクロスケールでの時間的・空間的不均一性が極めて高いため、微小スケールでの環境変動に注目して生理生態学的な解析を行った。

 P.nutansは、高い形態的可塑性と生理的馴化によって、微凹凸地形に基づく環境変動に応答できるが、相対的に明るいミクロサイトが好適で「安全性」の高いミクロサイトであることが判明した。また、明るく、日平均気温が10℃以下の冷涼なミクロサイトで良好な物質生産を示すことが判明した。

 本研究により、P.nutansを生態モニタリングの指標種とするために必要な基礎的な知見が得られた。また、本研究でその有効性が確かめられたミクロサイトの「安全度」や微環境の不均一性に対する指標種の応答特性に関する評価手法は、生態モニタリングの指標種の選定とその利用においても寄与するものである。

審査要旨 要旨を表示する

 地球規模でも地域においても急激な生態系の変化が起こりつつある現在、環境要因の人為的変化、とくに地球温暖化が他の要因と輻輳して及ぼす影響を的確に把握するための生態モニタリングは、生物多様性の保全と生態系の健全性維持のための重要課題となっている。現在、国際規模での組織化が進められつつある「地球観測」においても、生物多様性・生態系の観測は、重要な領域の一つとして位置づけられている。申請者の研究は、ユーラシア大陸を中心とする北半球における生態モニタリングの指標種の候補であるPrimula nutans Georgi(中国名:天山報春、サクラソウ属)の基本的な生態学的特性を明らかにすることを目的にしたものである。

 P.nutansは、アラスカからシベリア、チベット高原までの湿地草原に広く分布し、局所個体群密度が高い。早春植物であり、同属の他の種と同様、温暖化に敏感に応答する可能性が大きい。P.nutansの主要な分布域の一つであるチベット高原は、地球上最も標高の高い生態系として、温暖化の生態影響の早期検出および予測において重視すべき「指標生態系」でもある。本種の代表的な生育場所は高山湿原であるが、そこには、微小なスケールで起伏する特有な地形が発達し、それに伴って植物にとっての環境と資源は空間的に不均一に分布する。P.nutansの物質生産と成長にこのような微小スケールでの不均一性がどのように影響しているかを理解することは、より高次のスケールでの本種の環境応答を把握するための前提となる。申請者の研究は、そのような目的で実施されたものであり、生理生態学的アプローチによって微小スケールでの環境の不均一性とそれに対する本種の生態的応答を明らかにしたものである。

 調査地においては数十センチから数メートルの間隔で標高差数センチから十数センチの起伏が認められ、それにともない微小スケールにおいて、光、温度、水分環境が変動していることが観測された。とりわけ、光利用性(相対光合成光量子密度、PPFD)は微地形の標高差に強く依存し、生育中期の微凸地の日平均PPFDが30mol m(-2)day(-1)であるのに対して、微凹地ではその60%に満たないことが判明した。また、変動係数(CVs)で環境要因の不均一性をみてみると、微凸地に比べて微凹地で有意に大きかった。一見均一に見える湿原でも、微小な起伏の存在によって、植物の生育環境は空間的に極めて不均一であることが明らかにされた。

 P.nutansは、南-西向きの斜面、微凸地の上部において分布密度が高く、重回帰分析および主成分分析の結果からは、光利用性が高いミクロサイトほど分布密度が高いことが示された。このことから、比較的明るいミクロサイトがP.nutansにとっての好適なミクロサイトと判断された。また、ミクロサイトの環境の好適性は、相対的な分布密度である「安全度」指標によって把握することが妥当なことが示された。そのような指標および評価手法は、生態モニタリングにおける定量的評価手法の基礎となるものである。

 ミクロスケールにおける環境不均一性に対し本種の形態可塑性・物質分配の応答を、微凸地と微凹地のそれぞれから生育期を通じて定期的に開花ラメット20個体を採集して、形態パラメータおよび器官ごとの乾質量を測定したところ、葉面積、葉柄の長さ、花柄の高さは、いずれも微凹地のラメットで有意に大きく、P.nutansは、比較的大きな形態的可塑性によって環境の空間的不均一性に対処していることが判明した。また、このような形態的可塑性は、光エネルギーが不足しがちな微環境における本種の物質生産に少なからず寄与していることが示唆された。

 本種の光と温度に対する生態生理的応答反応を、自生地および人工的な制御環境下で測定したところ、測定温度15℃前後で最大光合成速度は最大となり、その値は、微凹地のラメットでは8.6μmol m(-2)s(-1)、微凸地のラメットでは10.8μmol m(-2)s(-1)であり、両者の間に有意差が認められた。実験室の光と温度を制御した環境下で栽培したラメットの光合成と呼吸の光・温度依存性を測定したところ、光合成と呼吸速度に及ぼす温度の影響は有意に異なり、同じ温度条件下では、弱光下で栽培したラメットに比べて強光下で栽培したラメットの光合成・呼吸速度が高く、光環境に対する明らかな生理的馴化が認められた。現地の異なるミクロサイトにおける光・温度の長期測定データおよびここで得られた光合成データを用いてシミュレーション計算をした結果、ラメットの純生産はミクロサイトの光条件と温度条件に高い依存性を示し、日平均気温が10℃前後のミクロサイトで最も高いこと、日総PPFDが10mol m(-2)day(-1)程度の環境においても正の純生産を示すことが示唆された。これらの結果から、本種はある程度の馴化能力を示すものの、ミクロスケールでの光環境と温度環境の変動は物質生産に大きな影響をもたらすことが示唆された。

 以上のように、本研究では、青海・チベット高原に広く分布する、P.nutansを、当該「指標生態系」における生態モニタリングの指標種候補として、その基礎的な生態生理学的特性の把握がなされた。本種は、高い形態的可塑性と生理的馴化によって微小スケールで起伏する地形に応じた環境不均一性に対処するが、相対的に明るいミクロサイトおよび日平均気温が10℃以下の冷涼なミクロサイトでとりわけ良好な物質生産が認められることなど、「温暖化」にかかわる生態モニタリングに必要な基礎的知見が得られた。

 本研究は、学術分野でも国際的な組織化が進みつつある「地球観測」において、必要性の認識が高まりつつある生物多様性・生態系のモニタリング、すなわち、指標種を用いた生態モニタリングに具体的に寄与する学術面ならびに実践面での成果をあげた。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値のあるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク