学位論文要旨



No 122458
著者(漢字) 大谷,雅人
著者(英字)
著者(カナ) オオタニ,マサト
標題(和) 絶滅危惧植物カッコソウの保全遺伝学的研究
標題(洋)
報告番号 122458
報告番号 甲22458
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3182号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生圏システム学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鷲谷,いづみ
 東京大学 教授 井出,雄二
 東京大学 教授 津村,義彦
 東京大学 助教授 大黒,俊哉
 森林総合研究所 森林遺伝研究領域研究員 上野,真義
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

 近年,世界各地において生物多様性の危機が進行しており,日本でも多くの植物が絶滅の危機に瀕している.そのような種においては,生育地の分断孤立化などによって個体群サイズが低下していることが多い.個体群の縮小に伴い,環境変動や個体群統計学的な変動性による消失リスクの増大に加え,遺伝的多様性の低下や近交弱勢の顕在化などの遺伝的な負の要因による個体群の存続可能性の低下が問題となる.したがって,絶滅危惧植物の保全にあたっては,個体群のサイズや個体群内の遺伝的多様性を評価するとともに,その維持機構にかかわる特性についての理解が欠かせない.

 カッコソウ(Primula kisoana Miquel var. kisoana)は群馬県の鳴神山とその周辺にのみ分布する異型花柱性のクローン植物である.本来は落葉広葉樹林の林床に生育する種であるが,近年では針葉樹の植林により生育適地が減少している.また,園芸のための採集圧がきわめて高く,過剰採集による局所的な絶滅も頻発しており,絶滅危惧種を多く含む日本産サクラソウ属植物の中でも,最も危機的な状況に陥っている可能性が示唆されている.

 本種については,これまで局所的な分布パターンとラメット数の調査は行われているものの,ジェネットの識別に基づく個体群の現状の把握や遺伝的多様性の評価がなされていなかった.また,四国地方に形態的特徴の酷似した別変種シコクカッコソウ(P. kisoana var. shikokiana Makino)が分布しており,鳴神山のカッコソウを系統的に独立した「保全の単位」としてとらえるべきかどうかについて,遺伝的データにもとづく判断が必要とされている.本研究は,カッコソウの保全に必要とされる生態学的,遺伝学的,系統学的な情報を得るとともに,鳴神山個体群の保全・回復のための具体的な戦略を提案することを目的として行った.

群馬県鳴神山におけるカッコソウの現状と遺伝的多様性(第2章)

 鳴神山およびその周辺山域におけるカッコソウの保全生態学的現状(ラメット数,花型,ジェネット数,および遺伝的多様性とそれらの空間パターン)を,現地踏査およびマイクロサテライトを用いたジェネットの識別によって把握した.

 1975年から1992年にかけて桐生市などによって実施された調査では,のべ62パッチ(ラメットの空間的まとまり)に分かれて最大で7,912ラメットが確認されていた.しかし,本研究における2001年から2006年にかけての踏査では,残存が認められたのは10パッチにすぎず,確認されたラメット数も1,500に満たなかった.また,現存パッチのうち,有性生殖に必要な長花柱型および短花柱型の両花型がそろっていたのは1地点のみであった.その他のパッチは非開花か一方の花型のみしか認められず,相互に200m以上隔離されて分布していた.マルハナバチ類による訪花の間接的な証拠である花冠への爪痕は認められたものの,自然条件下での種子生産はきわめて稀であり,6年間の調査を通じて3花茎で確認されたのみであった.パッチの消失と縮小に伴って互いに和合性のあるラメット間の距離が増大した結果,種子生産に結びつく送粉が極端に減少していることが示唆された.

 確認されたすべてのパッチにおいて長さが8cm以上の葉をもつすべてのラメットから葉を採取し,多型性の高い遺伝マーカーであるマイクロサテライト5遺伝子座を用いて遺伝子型を決定した.合計378ラメットを分析した結果,16の遺伝子型が確認され,それらは異なるジェネットに相当するものと推定された.したがって,未発見の残存パッチの存在を最大限考慮したとしても,鳴神山および周辺地域に残存するカッコソウはせいぜい20〜30ジェネットであると判断された.ジェネットの多くは多数のラメットで構成されるクラスターを形成しており,比較的旺盛にクローン成長が行われていることが示唆された.ヘテロ接合度は比較的高い値を示し,鳴神山全体をひとつの個体群として考えた場合,Hardy-Weinberg平衡からの有意なずれは認められなかった.したがって,少なくとも現存するジェネットが種子繁殖により成立した時点では,任意な交配が行われていた可能性が高い.ジェネット間の遺伝的距離と地理的距離の間にはゆるやかな結びつきが認められ,その当時の花粉流動のパターンを反映したものであると推測された.

葉緑体DNAにおける塩基多型を指標としたカッコソウとシコクカッコソウの識別(第3章)

 葉緑体DNAの3つの遺伝子間領域における塩基多型を指標として,カッコソウとシコクカッコソウの系統関係を把握した.また,両者を簡便に識別するための手法を開発するため,カッコソウに特異的な塩基配列を増幅するプライマーを設計した.

 カッコソウ,シコクカッコソウとも,確認されたハプロタイプは全て単独の地域個体群もしくは山域のみに分布しており,双方の間で共有されていたハプロタイプは存在しなかった.カッコソウにおいては,鳴神山周辺のごく狭い範囲にしか分布が認められないにもかかわらず4つのハプロタイプが認められ,第2章における結果と同様,高い遺伝的多様性を保持していることが示唆された.ハプロタイプ間の系統関係をminimum spanning networkと距離行列法に基づく類似樹を用いて推定した結果,カッコソウがシコクカッコソウとは別の単独のクレードを形成することが明らかになった.このことから,保全計画を立案する際に,カッコソウをシコクカッコソウとは異なる進化的に独立な単位(ESU)として,それぞれの保全を計画・実践すべきであることが強く示唆された.一方,シコクカッコソウにおいては,葉試料の採取を行った山域ごとに大きな遺伝的分化が認められたため,それぞれを異なる保全対象として認識し,個別に管理計画を策定することが重要であると示唆された.

 両変種の間で異なる塩基配列を示すことが認められた葉緑体DNAの領域において8つのプライマー組を設計したところ,その半数においてカッコソウに対して特異的なPCR増幅が認められた.これらのマーカーを活用すれば,1回のPCR反応とアガロースゲルによる電気泳動のみでカッコソウとシコクカッコソウの遺伝的差異を視覚化することが可能であり,両変種の識別を簡便に行うことができることが示唆された.

カッコソウの持続的な個体群再生のための効果的手法の確立(第4章)

 個体群サイズを回復するためには,種子繁殖の諸過程が健全に行われる環境を整えることが重要となる.しかし,カッコソウにおいては自然条件下での種子生産が花粉制限によって極端に低下していることが示唆されている.また一般に,植物の生活史において最も生存率が低い過程は実生の定着の段階であり,人為的な援助によってこの段階における適応度を向上させることにより,個体群回復の可能性が増大することが期待される.本章では,人工授粉による種子生産の促進,制御環境下での発芽,育苗と自生地への移植からなる再生プログラムを提案し,桐生市や市民らの協力により,その有効性を順応的な実践によって確かめた.

 自生地に残存するラメットに加え,第3章において開発された識別マーカーにより鳴神山の個体群に由来すると判断された系統保存個体を花粉親あるいは種子親として人工授粉実験を行った結果,異なる花型間の授粉は種子生産の促進に有効であることが示された.

 種子の発芽処理においては,4℃の冷湿処理を2ヶ月実施した後に明24℃/暗10℃の変温条件下におくことで,種子の休眠を打破し,発芽させることが可能であることが示された.しかし,その発芽率は交配組み合わせによって2%から70%程度まで変化し,組み合わせに応じて,近交弱勢に由来すると思われる種子の健全性低下の可能性も示唆された.

 これらの実験において得られた実生をインキュベータ内および圃場において育成した後,落葉広葉樹の優占する谷壁斜面4地点への移植を2004年から2006年にかけて3度にわたって実施した.その結果,15%〜100%のラメットが定着に成功し,移植の翌年には開花に至るものも観察された.

 以上の結果から,人工授粉および制御環境下の発芽ならびに実生定着の保全と生育適地への導入による個体群再生の可能性が示唆された.

結論

 (1)カッコソウがシコクカッコソウとは系統的に異なるESUであることが示された.このことは,きわめて強い採集圧のもとにある本種が「種の保存法」における「国内希少野生動植物種」に指定されることの妥当性を示すものである.(2)鳴神山の個体群における保全生態学的現状がきわめて厳しいものであることを明らかにした一方で,本種の保全のための効果的な種子繁殖促進手法の開発に成功した.それを用いた積極的な保全によって,持続可能な個体群の回復をはかっていく必要がある.(3)現存するジェネットの数が著しく少ない上,自生地ではいまだに強い採集圧をまぬがれていない現状を考えると,自生地外での系統保存が必要である.

審査要旨 要旨を表示する

カッコソウ(Primula kisoana Miquel var.kisoana)は群馬県の鳴神山とその周辺にのみ分布する異型花柱性のクローン植物で,落葉広葉樹林の林床に生育する.近年では針葉樹の拡大造林による生育適地の喪失,園芸のための採集などにより,絶滅危惧種を多く含む日本産サクラソウ属植物の中で,最も危機的な状況に陥っている.また,本種は,四国地方に分布する形態的特徴の酷似した別変種シコクカッコソウ(P.kisoanavar.shikokiana Makino)と近縁であり,鳴神山のカッコソウが系統的に独立した「保全の単位」であるかどうかは,「種の保存法」における国内希少野生動植物種としての指定の要件ともかかわる保全上重要な事項となっている.申請者の研究は,そのようなカッコソウの保全に直接必要とされる生態学的,遺伝学的,系統学的な情報を得ることを目的として実施された.

 鳴神山およびその周辺山域におけるカッコソウ個体群の現状を現地踏査およびマイクロサテライトを用いたジェネットの識別によって把握したところ,10の局所集団に合計1,500ラメット程度が残存するにすぎず,有性生殖に必要な長花柱型および短花柱型の両花型がそろっている局所集団はわずか1地点のみであることが明らかになった.相互に和合性のある局所集団はいずれも隔離的に分布しており,放任受粉条件下での種子生産はきわめて稀であった.異型間の人工授粉で種子が生産されることから,局所集団の消失と縮小に伴い和合性のあるラメット間の距離が増大した結果,有性生殖に困難が生じていることが明らかになった.

 確認されたすべての局所集団の合計378ラメットから葉を採取し,マイクロサテライト5遺伝子座を用いて遺伝子型を決定したところ,16の遺伝子型が確認され,それらは異なるジェネットに相当するものと推定された.したがって未発見の残存パッチが若干存在したとしても,この地域に残存するカッコソウのジェネット数はきわめて限られたものであることが示された.ヘテロ接合度は比較的高い値を示し,当該地域全体をひとつの個体群として考えるとHardy-Weinberg平衡からの有意なずれは認められず,少なくとも現存ジェネットが種子繁殖によって確立した時点では,任意な交配が卓越していた可能性が高い.ジェネット間の遺伝的距離の地理的距離への若干の依存性が認められ,往時の花粉流動パターンを反映したものであると推測された.

 葉緑体DNAの3つの遺伝子間領域における塩基多型を指標として,カッコソウとシコクカッコソウの系統関係を検討したところ、確認されたハプロタイプは全て単独の地域個体群もしくは山域のみに分布しており,カッコソウとシコクカッコソウの間にはハプロタイプの共有はまったく認められなかった.ハプロタイプが認められたカッコソウは,系統的にシコクカッコソウとは別の単独のクレードを形成しており,カッコソウを進化的に独立な単位(ESU)と考えることが妥当なことが示された.他方,シコクカッコソウには,山域ごとに遺伝的分化が認められた.さらに両者を簡便に識別するための実用的な試験法の開発に資するため,カッコソウに特異的な塩基配列を増幅するプライマーを設計し,その有効性を確かめた

 個体群サイズの回復は,保全上きわめて厳しい現状にあるカッコソウの保全において緊急に必要な対策である.そこで,受粉および発芽・実生の定着の生活史段階における人工授粉および制御環境下での発芽促進ならびに実生の育成によって新たなジェネットを確立させ,自生地の生育適地に導入する再生プログラムを提案し,桐生市および市民らとの協働による順応的な実践により,その有効性を確かめた.自生地に残存するジェネットに加え,識別マーカーにより鳴神山の個体群由来であることが確認された系統保存ジェネットを花粉親あるいは種子親として人工授粉を行って得た種子を,4℃の冷湿処理を2ヶ月施した後に明24℃/暗10℃の変温条件下において発芽させ,実生をインキュベータ内および圃場において育成した後,鳴神山の落葉広葉樹の優占する谷壁斜面4地点に移植した.その結果,15%〜100%のラメットの定着成功が認められ,移植の翌年には開花に至るものも認められた.人工授粉および制御環境下で発芽させた実生を自生地に導入することで個体群サイズを拡大することができる可能性が示された.

 本研究は,保全上きわめて深刻な現状にある種の保全を科学的なデータに基づいて計画し,実践上の成果もあげたという意味で,保全生態学上,学術面,実践面で大きな成果をあげたといえる.よって審査委員一同は,本論文が博士(農学)の学位論文として価値のあるものと認めた.

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