学位論文要旨



No 122463
著者(漢字) 増田,純弥
著者(英字)
著者(カナ) マスダ,ジュンヤ
標題(和) ストレス反応の性差におけるエストロジェンの役割に関する研究
標題(洋)
報告番号 122463
報告番号 甲22463
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3187号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西原,眞杉
 東京大学 教授 吉川,泰弘
 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 助教授 武内,ゆかり
 東京大学 助教授 山内,啓太郎
内容要旨 要旨を表示する

 生物は自己の生存率を高めるようないわゆる「個体の維持」の機構と、次世代をより多く残すため繁殖効率を高めるようないわゆる「種の維持」の機構をもつ。我々ヒトを含む哺乳類は、外部環境の変化に応じて内部環境の恒常性を維持する働きをもっている。ホメオスタシスと呼ばれるこの現象は、個体が生命を維持する上で重要な機構である。暑熱や放射線、飢餓、細菌感染などの生体内部の恒常性を脅かすようなストレス刺激が生体に加えられると、その情報は脳に伝えられ、種々の神経系を活性化する。次いで、視床下部−下垂体−副腎(Hypothalamus - Pituitary - Adrenal)からなるHPA系を賦活化し、視床下部室傍核からの副腎皮質刺激ホルモン放出ホルモン(CRH)の分泌や下垂体からの副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)の分泌を促す。最終的に副腎皮質から分泌の増大するグルココルチコイド(GC)は血糖値の上昇などを介し、ストレスに対して抵抗するためのエネルギーを全身に送る。一方、哺乳類は雌と雄による有性生殖により種を維持する。単細胞生物の多くに見られる細胞分裂による無性生殖では、突然変異が起こらない限り、全ての個体が同じ形質をもち、環境の変化によっては壊滅的な影響を免れない。有性生殖では、体細胞とは別に生殖細胞を分化させ、雌雄の遺伝形質を組合せ、新たな形質を獲得した次世代をつくり、個体の形質に多様性をもたせることで環境の変化に抵抗する。「個体の維持」の機構と「種の維持」の機構、いずれも生物が外部環境の変化に対して適応する手段として進化してきたと考えることができるが、それぞれの機構は独立したものではなく互いに密な連携をとっており、個体維持の機構を個体の中の生殖細胞を維持する機構と捉えると、二つの機構は環境の変化に抵抗して種を残すためのひとつの機構であると考えられる。ところが、哺乳類では生殖戦略上、雌と雄の役割や行動が大きく異なることから、それに伴い個体維持の機構も雌雄で異なることが想像される。実際、HPA系の活性には性差が存在することがよく知られており、ラットの場合、ACTH及び主要なGCであるコルチコステロン(CS)の分泌量は、安静時、ストレス時ともに雄性ラットより雌性ラットで高い。しかし、この性差の生じる機序や生理学的意義は不明である。この原因として考えられるものに、雌雄で最も異なる生理状態の一つである性ステロイド環境の違いとHPA反応を制御している脳の性差があるが、本研究では、雌性動物における主要な性ステロイドであるエストロジェンに着目し、HPA反応に対するエストロジェンの影響やその作用部位を検討することで、HPA反応における性差の発現機序を解明することを目的とした。

 本研究は二部構成となっており、まず第一章では、どのような条件下でエストロジェンがHPA反応に影響を及ぼすのかを検討するために、様々なエストロジェン条件下のラットにストレスを負荷し、血中CS濃度と血糖値の変化を観察した。次いで第二章では、HPA反応に影響を与えるエストロジェンの作用部位を検討するために、脳の特定の部位にエストロジェンを投与したラットにストレスを負荷し、血中CS濃度の変化を観察した。

 第一章において、HPA反応に対するエストロジェンの影響の検討には、無処置の雄及び発情前期雌群、卵巣摘出(OVX)群、OVX後エストラジオール(E2)を補充した群(OVX+E2)、精巣摘出(ORX)群、ORX後E2を補充した群(ORX+E2)を用意した。さらに、脳の性分化の関与について検討するために、新生期にアンドロジェンを投与して脳を雄性化した雌のOVX群と、それにE2を補充した群を用意した。それぞれに1時間の緊縛ストレスを負荷し、頸静脈に留置したカテーテルより経時的に採血を行い、血中CS濃度と血糖値を測定した。その結果、無処置の雌では安静時、ストレス時ともに雄よりも有意に高いCS濃度が見られ、従来言われているHPA系の活性の性差が確認できた。また、その時の血糖値は、雌雄ともにストレス負荷に伴い上昇し、さらにストレス負荷中の血糖値は雌で有意に高いことが観察され、HPA反応の性差がストレス時の血糖値に反映されていることが明らかとなった。OVXでは無処置の雌よりストレス時のCS濃度の上昇が有意に減弱したが、OVX+E2では無処置の雌と同程度のCS分泌が見られた。また、OVX+E2でOVXよりもストレス時、有意に高い血糖値が見られた。一方、ORXとORX+E2の間には、CS濃度、血糖値ともに有意な差は認められなかった。さらに、脳を雄性化した雌では、E2によりCS濃度及び血糖値に有意な変化は見られなかった。以上の結果より、HPA反応の性差は雌型の脳にエストロジェンが作用することによりはじめて発現することが明らかとなった。また、ストレス時に雌において雄より高い血糖値が見られたこと、OVX+E2においてOVXより高い血糖値が見られたことから、HPA反応の性差の生理学的意義の少なくとも一つは、雌におけるストレス時の血糖値上昇の増強にあると考えられた。

 次に第二章において、エストロジェンの作用部位の検討には、HPA反応を制御し、且つエストロジェン受容体(ER)の発現している視床下部室傍核及び扁桃体に着目した。そして、OVXの室傍核または扁桃体にコレステロール(Chol)あるいはE2を投与した群、またOVX+E2の扁桃体にCholまたはERアンタゴニストであるICI182,780を投与した群を用意した。さらに、ERには、ERα、βの二種類あることが知られているが、エストロジェンによるHPA反応の増強がどちらを介したものかを検討するために、OVXの扁桃体にERα及びβのアゴニストであるPPT及びDPNを投与した群を用意した。それぞれに1時間の緊縛ストレスを負荷して経時的に採血を行い、血中CS濃度を測定した。その結果、OVXの室傍核または扁桃体へのE2の投与では、扁桃体にE2を投与した群でのみCS分泌に有意な増強が見られた。一方、OVX+E2の扁桃体にICI182,780を投与した群では、Chol投与群に比べ、CS分泌に有意な低下が見られた。さらに、扁桃体へのPPTまたはDPNの投与では、DPN投与群でのみCS分泌の有意な増強が見られた。以上の結果より、エストロジェンは扁桃体を介してHPA反応を増強することが示唆され、一方、室傍核に発現しているERはエストロジェンによるHPA反応の増強に関与していないことが示唆された。さらにOVXの扁桃体に投与したPPTはHPA反応を増強せず、DPNはHPA反応を増強したことから、エストロジェンは扁桃体に存在するERβを介してHPA反応を増強することが示唆された。扁桃体の破壊はHPA反応を減弱し、刺激はHPA反応を亢進させることから、扁桃体はHPA反応を増強する部位だと考えられており、また、一般にストレス反応に関連した扁桃体からHPA系への情報は、扁桃体のGABA神経から分界条床核のGABA神経を経て室傍核のCRH神経へと伝えられると考えられている。扁桃体のGABA神経はERを多量に発現していることから、エストロジェンの作用もこの経路を経ているものと考えられる。一方、ERα、βKOマウスの研究から、ERαは性行動の誘起など、エストロジェンの生殖機能に対する作用を担うことが知られているが、ERβの役割はあまり明らかになっていない。今回の結果から、ERβの中枢における役割の少なくとも一つが、HPA反応の増強であることが考えられた。

 以上、本研究により、ストレス刺激が加えられた際、その情報が脳に伝えられ、HPA系を活性化し、副腎皮質からのグルココルチコイドの分泌が増加するのは、雌雄ともに共通だが、雌型の脳をもち、卵巣をもつ雌では、卵巣から分泌されるエストロジェンが、扁桃体のERβを介してHPA反応を増強し、HPA反応の性差を作り出していることが明らかとなった。また、その性差は血糖値にも反映され、HPA反応の性差の生理学的意義少なくとも一つは、雌におけるストレス時の血糖値上昇の増強にあると考えられた。

 一般にストレスは生殖機能を抑制すると言われているが、一方でグルココルチコイドが生殖機能に対し保護的に働くことも報告されており、雌において卵胞の発育状態に応じて血中濃度の変化するエストロジェンがHPA反応を増強することは、生殖機能の維持の観点から合目的的であると考えられた。また、排卵に必要なLHのサージ状分泌には、十分な血糖が必要であることから、例えば、雌に見られる増強されたHPA反応は、ストレス時の血糖値上昇の増強を介して、排卵を促すLHの分泌を維持している可能性が考えられる。この雌におけるエストロジェンによるHPA反応の増強は、雌雄ともにもっている個体維持の機構が、生殖戦略上、雄とは役割の異なる雌に合わせて積極的に変化してきたものと考えられる。一方、うつ病やPTSDなどHPA活性との関連が考えられる様々な疾病があるが、そもそものHPA活性が男女間で異なることから、その理解や治療にも男女差を念頭に置く必要がある。本研究は、生物がもつ基本的な個体と種の維持機構の雌雄差に関する理解を深めるだけでなく、性差医学の分野においても男女差を理解する一助になると期待できる。

審査要旨 要旨を表示する

 我々ヒトを含む哺乳類は、外部環境の変化に応じて内部環境の恒常性を維持する働きをもっている。暑熱や放射線、飢餓、細菌感染などの生体内部の恒常性を脅かすようなストレス刺激が生体に加えられると、その情報は脳に伝えられ、種々の神経系を活性化する。次いで、視床下部-下垂体-副腎からなるHPA系を賦活化し、視床下部室傍核からの副腎皮質刺激ホルモン放出ホルモン(CRH)の分泌や下垂体からの副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)の分泌を促す。最終的に副腎皮質から分泌の増大するグルココルチコイド(GC)は血糖値の上昇などを介し、ストレスに対して抵抗するためのエネルギーを全身に送る。哺乳類ではHPA系の活性には性差が存在することが知られており、ラットの場合、ACTH及び主要なGCであるコルチコステロン(CS)の分泌量は、安静時、ストレス時ともに雄性ラットより雌性ラットで高い。本研究では、雌性動物における主要な性ステロイドであるエストロジェンに着目し、HPA反応における性差の発現機序とその生理学的意義を解明することを目的とした。そこで、まず第一章では、どのような条件下でエストロジェンがHPA反応に影響を及ぼすのかを検討するために、様々なエストロジェン条件下のラットにストレスを負荷し、血中CS濃度と血糖値の変化を観察した。次いで第二章では、HPA反応に影響を与えるエストロジェンの作用部位を検討するために、脳の特定の部位にエストロジェンを投与したラットにストレスを負荷し、血中CS濃度の変化を観察した。

 第一章において、HPA反応に対するエストロジェンの影響の検討には、無処置の雄及び発情前期雌群、卵巣摘出(OVX)群、OVX後エストラジオール(E2)を補充した群(OVX+E2)、精巣摘出(ORX)群、ORX後E2を補充した群(ORX+E2)を用意した。さらに、脳の性分化の関与について検討するために、新生期にアンドロジェンを投与して脳を雄性化した雌のOVX群と、それにE2を補充した群を用意した。それぞれに1時間の緊縛ストレスを負荷し、頸静脈に留置したカテーテルより経時的に採血を行い、血中CS濃度と血糖値を測定した。その結果、HPA反応の性差は雌型の脳にエストロジェンが作用することによりはじめて発現することが明らかとなった。また、ストレス時に雌において雄より高い血糖値が見られたことから、HPA反応の性差の生理学的意義の少なくとも一つは、雌におけるストレス時の血糖値上昇の増強にあると考えられた。

 次に第二章において、エストロジェンの作用部位の検討には、HPA反応を制御し、且つエストロジェン受容体(ER)の発現している視床下部室傍核及び扁桃体に着目した。そして、OVXの室傍核または扁桃体にコレステロール(Chol)あるいはE2を投与した群、またOVX+E2の扁桃体にCholまたはERアンタゴニストであるICI182,780を投与した群を用意した。さらに、ERには、ERα、βの二種類あることが知られているが、エストロジェンによるHPA反応の増強がどちらを介したものかを検討するために、OVXの扁桃体にERα及びβのアゴニストであるPPT及びDPNを投与した群を用意して実験を行った。その結果、エストロジェンは扁桃体に存在するERβを介してHPA反応を増強することが明らかとなった。ERαは性行動の誘起など、エストロジェンの生殖機能に対する作用を担うことが知られているが、ERβの役割はあまり明らかになっていない。今回の結果から、扁桃体に発現するERβの役割の少なくとも一つが、HPA反応の増強であることが考えられた。

 以上、本研究により、ストレス刺激が加えられた際、副腎皮質からのグルココルチコイドの分泌が増加するのは雌雄ともに共通だが、雌型の脳をもち、卵巣をもつ雌では、卵巣から分泌されるエストロジェンが扁桃体のERβを介してHPA反応を増強し、HPA反応の性差を作り出していることが明らかとなった。この雌におけるエストロジェンによるHPA反応の増強は、雌雄ともにもっている個体維持の機構が、生殖戦略上、雄とは役割の異なる雌に合わせて積極的に変化してきたものと考えられる。一方、うつ病やPTSDなどHPA活性との関連が考えられる様々な疾病があるが、その理解や治療にも男女差を念頭に置く必要がある。本研究は、生物がもつ基本的な個体と種の維持機構の雌雄差に関する理解を深めるだけでなく、性差医学の分野においても男女差を理解する一助になると期待でき、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものとして認めた。

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