学位論文要旨



No 122464
著者(漢字) 新井,良和
著者(英字)
著者(カナ) アライ,ヨシカズ
標題(和) マウス初期胚のエピジェネティクス
標題(洋)
報告番号 122464
報告番号 甲22464
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3188号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 塩田,邦郎
 東京大学 特任教授 八木,慎太郎
 東京大学 助教授 内藤,邦彦
 東京大学 助教授 金井,克晃
 東京大学 助教授 山内,啓太郎
 東京大学 助教授 田中,智
内容要旨 要旨を表示する

緒言

 着床前胚の体外操作は、家畜生産やヒト不妊治療など幅広い分野で応用されている。従来、体外操作胚の正常性はヒトを含め、形態を基に評価されている。しかし、形態的に優れた胚を母体に移植したにも関わらず、着床後の発生異常や出生後も様々な疾病を伴うなど、胚への体外操作の影響は、着床前胚の形態だけでは判別できないのが現状である。

 DNAメチル化は哺乳類のゲノムDNAに見られる唯一の化学修飾である。マウスゲノム上には細胞・組織特異的にメチル化されるゲノム領域が多数発見されている。このようなゲノム領域(T-DMR, Tissue dependently and differentially methylated region)が、細胞種によってそれぞれ異なるDNAメチル化状態を示すことによって、ある細胞種に固有のDNAメチル化プロファイルが形成される。T-DMRはゲノム上の遺伝子領域近傍に位置することが多く、一般にDNAメチル化は近傍の遺伝子発現を抑制する。このことから、細胞のDNAメチル化プロファイルは、細胞種固有のトランスクリプトームを規定する基盤になっていると考えることができる。細胞分化過程では、T-DMRの脱メチル化と新たなメチル化(de novo メチル化)の両方向の変化が起こり、分化細胞固有のDNAメチル化プロファイルが新たに形成される。

 マウス初期発生では、受精後よりゲノム全体で脱メチル化が起こり、精子・卵に固有のDNAメチル化プロファイルが一旦消去されることが、全分化能の再獲得に重要であると一般的に考えられていた。ところが、Dnmt1o遺伝子座では、de novo メチル化を含む各発生ステージ特異的なDNAメチル化変化が生じる。このようなDnmt1o遺伝子座やT-DMRに関する我々の知見は、さらに多くの遺伝子領域でも着床前の発生ステージでDNAメチル化変化が生じ、各ステージ固有のDNAメチル化プロファイルが確立されている可能性を示唆している。DNAメチル化プロファイルが乱されれば、遺伝子発現やゲノムの安定性にも影響し、発生停止や着床後の表現型異常に繋がる可能性も考えられる。

 そこで本論文では、第1章において、T-DMRとして同定された遺伝子座に注目し、着床前初期胚でのDNAメチル化プロファイルの確立を検証することを目的とした。さらに、酸素濃度条件が体外での発生能が異なる近交系、及び雑種F1マウス胚のDNAメチル化プロファイル形成に及ぼす影響を解析した。第2章では、マウス体細胞核移植胚におけるDNAメチル化異常が、体細胞核のDNAメチル化プロファイルの不完全な消去に由来するものだけであるかどうかを検証した。

第1章

「マウス初期胚DNAメチル化プロファイルに対する体外培養の影響」

 体外での着床前胚の発生には酸素濃度条件が大きく影響し、母体内環境の酸素濃度(3-10%)に近い5% O2条件の方が、外気と同じ約20%(20% O2)に比べて胚の発生率は向上する。しかし、現在も20% O2での培養が一般的である。また、20% O2条件におけるマウス初期胚の発生率は、マウスの系統により異なり、近交系マウスの胚盤胞形成率は雑種F1マウスに比べて劣ることが知られている。雑種F1マウスのトランスクリプトームはそれぞれのマウス系統と比較して大きく異なり、さらに精子と卵のマウス系統を入れ替えることでも変化するため、雑種F1個体が示す表現型の変化は、系統間のDNA配列の違いのみによるものではなく、DNAメチル化のようなエピジェネティック機構も関与する可能性が考えられる。

 本章では、まずマウス初期胚でのDNAメチル化プロファイル形成について、5遺伝子座(Dnmt1o、Oct4 DE、mPer1、Sphk1、Sall3)を選び、解析を行った。次に、体外培養条件(酸素濃度)が初期胚のDNAメチル化状態に及ぼす影響の可能性を、近交系マウス胚(B6)と雑種F1マウス胚(BDF1)を用いて検証した。

 着床前胚での遺伝子領域におけるDNAメチル化変化について、Restriction mapping法を用いて解析を行った。母体内より回収された胚では、それぞれの遺伝子領域で発生ステージに応じたDNAメチル化変化が生じ、発生ステージ特異的なDNAメチル化プロファイルが形成されることが明らかとなった。これは、先に報告されている反復配列や非遺伝子領域でのDNAメチル化状態と大きく異なり、遺伝子領域では着床前の発生ステージより、すでにダイナミックなDNAメチル化変化が生じていることを示唆する。

 B6胚、BDF1胚のDNAメチル化プロファイル形成に、体外での酸素濃度条件(20% O2または5% O2)が影響を与えるかどうか検証した。B6胚では、20% O2条件で胚盤胞への発生率は低下し、さらに桑実胚期でBDF1胚と異なる高メチル化状態が複数の遺伝子領域で示された。一方、B6胚も5% O2条件では、胚盤胞への発生率、DNAメチル化状態の乱れが共に改善された。また、BDF1胚では酸素濃度条件によらず、胚盤胞への発生率が高く、母体内より回収された胚に類似したDNAメチル化プロファイルが形成された。以上の結果より、体外での酸素濃度条件は特に近交系マウス胚のDNAメチル化状態に影響し、卵管・子宮(3-10% O2)よりも高い20% O2条件では、胚のDNAメチル化が乱されることが明らかとなった。このことは、着床前胚のDNAメチル化プロファイル情報が、体外操作が及ぼす胚への影響を評価する上で新たな指標となることを示唆している。

第2章

「マウス体細胞核移植胚におけるDNAメチル化プロファイル変化」

 体細胞核移植技術は優良家畜の生産や再生医療など、様々な分野への応用が期待されている。しかし、体細胞クローン動物では分娩期までの発生能が低く、出生に至る個体でも過大仔や胎盤過形成などの表現型異常を示す。このような発生異常の可能性として、核移植胚では、体細胞核がもつ固有のDNAメチル化情報の消去が不完全であることに起因すると考えられていた。一方、第1章から、着床前胚の遺伝子領域におけるDNAメチル化変化は、発生ステージ特異的な脱メチル化と共に、de novo メチル化も伴うことが示された。本章では、着床前のマウス体細胞核移植胚のDNAメチル化プロファイル変化について、第1章で解析された3遺伝子座(Oct4、Dnmt1o、Sall3)のT-DMRに注目した。

 生殖細胞(精子・卵)、核移植胚のドナー細胞(卵丘細胞)の3遺伝子座について、Pyrosequencing法による定量的なDNAメチル化解析を行った。Oct4 では卵丘細胞のみ高メチル化、生殖細胞は低メチル化状態であった。一方、Sall3では生殖細胞、卵丘細胞に共通して低メチル化状態が示された。

 生殖細胞、卵丘細胞のDNAメチル化情報を基に、2細胞期胚でのDNAメチル化変化について解析した。生殖細胞に由来する精子顕微授精(ICSI)胚、体外培養された自然交配卵では、3遺伝子座に共通して、多くの個体で低メチル化状態が示された。一方、核移植胚のOct4では多くの個体で高メチル化状態にあり、卵丘細胞からの脱メチル化が不完全であることが示された。興味深いことに、卵丘細胞でも低メチル化状態であったSall3では、DNAメチル化の亢進が核移植胚にのみ高頻度に生じていた。また、2細胞期で発生停止・遅延した核移植胚では、このようなメチル化亢進が顕著に現れた。

以上の結果より、着床前の核移植胚でのDNAメチル化異常は、メチル化亢進を含む両方向に生じることが明らかとなった。体細胞クローン動物の多くは胎生致死であり、核移植技術には依然として多くの問題が残されている。本結果から、DNAメチル化プロファイルは核移植胚の異常を知る上で有用な情報となることが期待される。

総合討論

 本研究より、組織特異的なDNAメチル化パターン(T-DMR)が形成される5遺伝子座(Oct4、Dnmt1o、mPer1、Sphk1、Sall3)では、メチル化の消去のみでなく、de novoメチル化を含めたダイナミックなメチル化変化が、着床前の発生ステージでも生じていることが明らかとなった。さらに、こうした初期発生の各ステージに特徴的なDNAメチル化状態が、形態的には母体内で発生した胚と違いがない場合でも、体外操作胚により乱されることが本研究で明らかとなった。これは、体外操作がインプリント遺伝子以外の複数の遺伝子領域で、着床前胚のDNAメチル化を乱すことを示した初めての報告である。

 DNAメチル化プロファイルは、ステージごとにダイナミックに変化するものではあるが、DNAメチル基転移酵素の活性により、娘細胞へと受け継ぐことも可能である。本研究で観察されたDNAメチル化プロファイルの乱れがゲノム全般で起こっていた場合、一部の乱れがゲノム上に記憶され、着床後の発生を経て出生後まで残存する可能性も十分考えられる。こうしたDNAメチル化の乱れが、出生後の遺伝子発現をも乱し、表現型異常の原因となる危険性は否定できない。その意味で、本研究で検出された体外培養・操作による初期胚でのDNAメチル化プロファイルの乱れは、ヒトを含む胚の体外操作への注意を喚起するものである。今後、何らかの異常がヒト体外受精児に多く見られた場合、本研究で明らかにした"エピジェネティック異常"も原因究明の糸口として議論されるべきであろう。

 体外操作技術は家畜生産やヒト不妊治療に応用され、我々に多くの恩恵をもたらしている。しかし、本研究で示されたように体外操作は遺伝子領域のエピジェネティック修飾状態を乱し、着床前胚の形態には現れない影響を個体発生に及ぼしている危険性が十分考えられる。今後、DNAメチル化情報は、各種の体外操作による胚への影響を評価する上での新たな指標となり、胚への傷害が少ない培養系・操作法の確立へと繋がることが期待される。

審査要旨 要旨を表示する

 着床前胚の体外操作は家畜生産の幅広い分野で応用されている。従来、体外操作胚の正常性は、ヒトを含め、形態的観察を基に評価され、生まれてきたら胚操作は成功というように、未だに技術の進歩に追いつかず科学とは遠い世界にある。少なくとも、培養や核移植を含む胚操作の段階で、先端の科学概念でどう理解するのかを真剣に向き合う必要がある。エピジェネティクスは発生・分化の新たなパラダイムである。DNAメチル化は哺乳類のゲノムDNAに見られる唯一の化学修飾で、ヒストン修飾とともにエピジェネティクス制御の主要な要因である。DNAメチル化はヒストン修飾の状況も反映することが期待されるので、DNAメチル化情報を得ることは今後の胚の正常性評価の基盤となる。家畜を含め、一般に生物は雑種である。エピジェネティクスの成立は、ウイルスなど外来遺伝子と自己遺伝子の攻防にあり、例えば非コードRNAなどがエピジェネティクス系に影響を与える事実は、その考えを支持している。したがって、雑種と近交系はエピジェネティクス系で重要な問題を含んでいる。このことは、近交系での成績を、一般の動物の生殖に当てはめる限界を意味している。本論文はマウス初期胚について、雑種F1胚の解析と体細胞核移植胚についてDNAメチル化を中心に解析したものである。

 第1章では、近交系と雑種F1マウスの初期胚について、異なった酸素濃度下での発生と5遺伝子(Dnmt1o、Oct4、mPer1、Sphk1、Sall3)のT-DMRのDNAメチル化状況を解析している。体外での着床前胚の発生にも酸素濃度条件は大きく影響し、母体内環境に近い5% O2条件下の方が、外気と同じ約20%(20% O2)に比べて、胚の発生能は向上する。このことは、げっ歯類の卵管・子宮の酸素濃度は3-10%と報告されている結果と合致する。しかし、現在は胚の発生に対して20% O2での培養が一般的である。まず、母体内より回収された胚ではRestriction mappingによるマウス初期胚のDNAメチル化解析により、遺伝子領域ごとに異なる発生ステージ特異的なDNAメチル化パターンが形成されることが明らかになった。(本論文では、それぞれのDNAメチル化パターンの集合をDNAメチル化プロファイルと呼ぶ)。したがって、DNAメチル化プロファイルは初期胚発生時期の指標となることが明らかになった。

 さて、近交系胚は培養を含む体外操作に弱く、通常は胚の体外操作では雑種F1胚が用いられてきた。本実験でも20% O2条件下では、胚盤胞および桑実胚への発生率は、それぞれC57BL/6NCrj(B6)胚では低く、雑種F1胚[C57BL/6NCrjxDBA/2NCrj](BDF1)、では高かった。

 しかし、5% O2条件下では、B6胚の胚盤胞への発生率は大幅に改善された。胚盤胞への発生率が高いBDF1胚では酸素濃度条件によらず、さらに母体内より回収された胚に類似したDNAメチル化プロファイルが形成された。興味深いことに、B6胚DNAメチル化プロファイルは、20% O2条件下では母体回収胚と大きく異なったDNAメチル化プロファイルを示した。しかし、5% O2条件下ではDNAメチル化プロファイルの異常は改善されBDF1胚と近くなった。培養条件下では、近交系胚はF1胚と異なったDNAメチル化プロファイルを示すこと、酸素濃度を下げることで発生能とDNAメチル化プロファイルが改善することが明らかになった。このことは、DNAメチル化情報は、初期胚の発生指標として有用であることを示している。

 第2章では体細胞核移植胚のDNAメチル化プロファイル変化が解析された。まず、生殖細胞(精子・卵)、及び核移植胚のドナー細胞(卵丘細胞)の3遺伝子(Dnmtlo、Oct4、Sall3)T-DMRについて、Pyrosequencingによる定量的なDNAメチル化解析を行い、先の報告結果を確認した。生殖細胞に由来する精子顕微授精(ICSI)胚、及び体外培養した自然交配卵では、3ヶ所の遺伝子座に共通して、多くの個体で低メチル化状態が示された。一方、核移植胚ではOct4において、脱メチル化が不完全であり、多くの個体で高メチル化状態が認められた。興味深いことに、卵丘細胞でも低メチル化状態であったSall3では、DNAメチル化の亢進が核移植胚でのみ高頻度に生じていた。また、2細胞期で発生停止・遅延した核移植胚では、このようなメチル化亢進が顕著に現れた。以上の結果より、着床前の核移植胚でのDNAメチル化異常は、メチル化亢進を含む両方向に生じることが明らかとなった。体細胞クローン動物では分娩期までの発生能が低く、さらに出生に至る個体でも過大仔や胎盤過形成などの表現型異常を示し、核移植技術には依然として多くの問題が残されている。本結果から、DNAメチル化解析はクローン胚の異常を知る上で重要な手段となると期待される。

 以上、本研究では、マウス初期胚のDNAメチル化プロファイル解析を行い、胚発生の指標としてDNAメチル化情報が有効であること、近交系と雑種F1胚は培養下で異なったDNAメチル化プロファイルを示すことなど、基礎生物学として重要な知見が得られた。これらの発見は、DNAメチル化解析は、畜産分野やヒトの不妊治療としての体外培養などの様々な新たな技術開発に対応してゲノムレベルで評価を可能なことを示し、応用面でも貴重な貢献となっている。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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