学位論文要旨



No 122466
著者(漢字) 岩谷,美沙
著者(英字)
著者(カナ) イワタニ,ミサ
標題(和) サリドマイドのエピジェネティック薬理作用に関する研究
標題(洋)
報告番号 122466
報告番号 甲22466
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3190号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 塩田,邦郎
 東京大学 教授 中山,裕之
 東京大学 特任教授 八木,慎太郎
 東京大学 助教授 松本,芳嗣
 東京大学 助教授 高橋,伸一郎
 東京大学 助教授 田中,智
内容要旨 要旨を表示する

序論

 1950年代に睡眠薬として用いられていたサリドマイドは、その催奇形性により世界的な薬害をもたらした。一方、現在では様々なガンや自己免疫性疾患の治療に有効であり、使用される疾患の数は100を超える。サリドマイドの作用機序として主にTNF-αが関連する分子伝達系の関与が示唆されている。

 エピジェネティック機構はDNAメチル化とヒストン修飾によって維持され、細胞世代を超えても継承される遺伝子発現記憶装置である。正常細胞、組織のDNAメチル化プロファイルの比較により、組織特異的メチル化可変領域(T-DMR)の存在が示され、ゲノム全体に存在するT-DMRにおけるDNAメチル化状態が、細胞種に固有のDNAメチル化プロファイルを形成している。DNAメチル化プロファイルの形成にはDNAメチル基転移酵素(Dnmt)の他、ヒストン修飾も関与する。これらの酵素欠損胚は胎性致死、発生異常となる。さらに、いくつかのエピジェネティック制御因子の変異は疾患につながる。これらの結果は、正常なDNAメチル化プロファイルの形成が正常な胚発生、個体の維持に重要な役割を果たすことを示唆している。

 分化多能性をもつ胚性幹細胞(ES細胞)はin vitro、in vivoにおける細胞分化誘導の系が確立しており、三胚葉に分化することができる。ES細胞から胚様体、胚様体からテラトーマ形成過程においては、それぞれ固有の遺伝子座セットでDNAメチル化状態の変化が起こり、胚様体、テラトーマ固有のDNAメチル化プロファイルが形成される。従って、ES細胞、胚様体、テラトーマを用いることにより、DNAメチル化プロファイルの形成と、それに伴う細胞分化に及ぼすサリドマイドの影響を調べることができる。

 本研究ではサリドマイドの薬理作用にエピジェネティック状態の変化が含まれるかを調べるため、胚様体のDNAメチル化プロファイルの形成過程にサリドマイドが及ぼす影響を解析した。In vitro系におけるサリドマイドの研究で生じる問題は、水に対する不溶性である。サリドマイドの溶媒として、ジメチルサルフォキシド(DMSO)を用いた。しかし、DMSO自体が細胞機能に対して様々な影響を与え、特に細胞の分化を誘導する作用を持つ。これまでDMSOがエピジェネティック状態に影響を与えるか否かは報告がない。第一章では胚様体のDNAメチル化プロファイルの形成にDMSOが及ぼす影響を検証した。第二章ではDNAメチル化プロファイルの解析により、胚様体、ES細胞においてサリドマイドがDNAメチル化状態に変化をもたらす遺伝子座を特定した。さらに、ES細胞の分化誘導系を用い、サリドマイドが細胞分化に与える影響を解析した。

第一章

 0.1%(v/v)DMSO処理胚様体を用い、繰り返し配列におけるDNAメチル化状態への影響を調べた。内在性レトロウイルス由来繰り返し配列やマイナーサテライト繰り返し配列においてはメチル化が誘導された。遺伝子領域を含むゲノム全体のDNAメチル化プロファイルへの影響を解析すると、約2000箇所のうち、DMSO処理によって11箇所の遺伝子座で脱メチル化、4箇所でメチル化が誘導された。さらにマイクロアレイ法を用い遺伝子上流域のDNAメチル化状態を解析し、2箇所のメチル化領域、3箇所の脱メチル化領域を発見した。DMSOによりDNAメチル化プロファイルの変化が見られたことから、エピジェネティック制御因子の発現状態を解析した。すると、DMSO濃度[0.02-1%(v/v)]に伴ってDnmt3aの mRNAレベルの上昇が見られた。ウェスタンブロッティング法による解析では、Dnmt3aとそのアイソフォームであるDnmt3a2のタンパク質レベルの上昇が認められた。DMSOはエピジェネティック制御因子であるDnmt3a発現の上昇、ゲノム全体の特定遺伝子座のDNAメチル化状態の変化を引き起こすことによって、エピジェネティックプロファイルに影響を与えることが明らかとなった。

第二章

 胚様体のDNAメチル化プロファイルの形成過程における(±)-サリドマイドの影響をRLGS法によって調べた。約2000箇所の遺伝子座のうち7箇所で脱メチル化、2箇所でメチル化が誘導された。さらにDNAメチル化状態が変化する遺伝子座を特定するため、マイクロアレイ法により遺伝子上流域におけるDNAメチル化状態の解析を行った。その結果、サリドマイドによってメチル化される領域を8箇所、脱メチル化される領域を4箇所発見した。その中には、転写因子であるPou2f1遺伝子のメチル化誘導やコアヒストンのサブタイプであるH3.2遺伝子の脱メチル化などが認められた。またサリドマイドによってDNAメチル化状態が変化する12の遺伝子領域のうち、6箇所ではヒト、マウス間で高い相同性を示した。次にDNAメチル化状態の変化が表現型変化を伴うかについて検討した。胚様体では、(±)-サリドマイド処理による顕著な変化は見られないものの、光学異性体である(-)-サリドマイド存在下においては胚様体同士の接着が観察された。未処理胚様体あるいはサリドマイド処理胚様体を用い、サリドマイド投与下でテラトーマを形成させると、(±)-サリドマイド及び(-)-サリドマイド投与群で軟骨形成の促進が観察され、その効果は胚様体形成時からの処理検体で顕著であった。このことは、胚様体形成時に起きたサリドマイドによるDNAメチル化状態の変化と、その後の表現型変化との関連を示唆している。さらに異なる細胞種におけるサリドマイドによるDNAメチル化状態の変化を調べるため、未分化ES細胞を用いて解析を行い、それぞれ5箇所の脱メチル化、メチル化遺伝子座を発見した。胚様体とES細胞間で、影響を受けた遺伝子座を比較すると、1箇所のDNAメチル化状態の変化が一致した。

総括

 本研究では、ES細胞から胚様体へ分化する系において、サリドマイドがDNAメチル化プロファイルの形成に影響を与えることを明らかにした。そしてES細胞から胚様体、胚様体からテラトーマへの分化過程におけるサリドマイド投与により、テラトーマ中の細胞種の割合が変化し、軟骨組織の出現頻度が上昇することを示した。

 DNAメチル化は遺伝子発現のオン・オフを決定する。そしてこの遺伝子発現記憶装置は細胞世代を超えて継承される。ゲノム中に多数存在するT-DMRのDNAメチル化状態の組み合わせであるDNAメチル化プロファイルは、細胞分化、個体発生過程において形成されていく。サリドマイド処理した胚様体のRLGS解析では、約2000箇所の遺伝子座のうち、DNAメチル化状態が変化した遺伝子座は9箇所存在した。マイクロアレイ法を用いたDNAメチル化解析では、RLGS法とは異なる領域においてDNAメチル化状態の変化を確認した。その中には、サリドマイドの分子機構に重要とされるTNF-αの情報伝達経路への関与が示唆される分子、Pou2f1、エピジェネティック機構に関与することが示唆されているコアヒストンのサブタイプ、H3.2が含まれていた。

 DNAメチル化状態に影響を受ける遺伝子座は、DMSOとサリドマイドでは異なっており、またサリドマイドとDMSOの組み合わせにより、DMSO処理で起こったDNAメチル化状態の変化が失われる遺伝子座が存在した。DNAメチル化プロファイルの形成には、Dnmt3aなどのDnmtだけでなく、G9aのようなヒストン修飾酵素も関与する。DMSO処理ではDnmt3aの発現上昇が、サリドマイド処理ではコアヒストンのサブタイプ、H3.2遺伝子領域のDNAメチル化状態の変化が認められた。そしてヒストン修飾はサブタイプ特異的に起こることが報告されつつある。従って、サリドマイド、DMSOによって胚様体のDNAメチル化プロファイルが変化する過程にこれらの因子が関与すること、また関与する因子の違いが異なる遺伝子座のメチル化状態に影響を与える要因であることが示唆される。

 多くの遺伝子座におけるヒト、マウス間のDNAメチル化状態、ヒストン修飾状態の共通性が近年報告されている。サリドマイドによってDNAメチル化状態が変化する12の遺伝子領域のうち6箇所ではヒト、マウス間で高い相同性が見られた。このことは今回の結果のヒトへの応用の可能性を示唆している。その一方、サリドマイドによってDNAメチル化状態が影響を受ける遺伝子座は細胞種によって異なることから、サリドマイドが有効とされている疾患、例えば白血病やガンなどの細胞のDNAメチル化解析によって新しい標的遺伝子座が特定される可能性も高い。

 本研究では、サリドマイドが細胞分化とDNAメチル化プロファイルの形成に影響を与えることを示すことにより、サリドマイドのエピジェネティック薬理作用を明らかにした。この成果により、サリドマイドの薬理作用を新しい観点から解釈することが可能となったと同時に、薬剤がエピジェネティック状態へ与える影響を解析する重要性が示された。

審査要旨 要旨を表示する

 1950年代に睡眠薬として用いられていたサリドマイドは、その催奇形性により世界的な薬害をもたらした。一方、現在では様々なガンや自己免疫性疾患など慢性疾患の治療に有効であり、使用される疾患の数は100を超える。サリドマイドの作用機序は主にTNF-αが関連する分子伝達系の関与が示唆されている。また、DMSOは水に難溶性物質の溶媒として多くの実験系に利用されて、また、様々な細胞の凍結保存時の保護剤としても汎用されている。さらに、DMSOは血球系細胞など一部の特殊な細胞の分化誘導剤としても使用されてきている。エピジェネティック機構はDNAメチル化とヒストン修飾によって維持され、細胞世代を超えても継承される遺伝子発現記憶装置である。ゲノムには組織特異的にメチル化される領域(T-DMR)が多数存在し、細胞の種類固有のDNAメチル化プロファイルを形成している。DNAメチル化プロファイルの形成は、胚発生や個体のホメオスタシスの維持に重要な役割を果たしているのである。DNAメチル化プロファイルの変化は、細胞の不可逆的な遺伝子発現の変化を意味する。これらを考えると、エピジェネティックス情報は、サリドマイドを含む様々な慢性疾患治療薬の主作用あるいは副作用を評価する上で重要な情報となることは論を待たない。本論文は、マウスのES細胞の未分化状態と胚様体形成におけるDNAプロファイル形成に及ぼす影響を中心に、サリドマイドとその溶媒として使用したジメチルサルフォキシド(DMSO)の薬理作用にエピジェネティックス変化が含まれている可能性について研究したもので、二章から成る。

 第一章では、DMSOのエピジェネティックス作用について検討した。胚性幹細胞(ES細胞)はin vitro、in vivoにおける細胞分化誘導の系が確立しており、三胚葉に分化することができる。ES細胞から胚様体、胚様体からテラトーマ形成過程においては、それぞれ固有の遺伝子座セットでDNAメチル化変化が起こり、胚様体、テラトーマ固有のDNAメチル化プロファイルを形成する。まず、0.1%(v/v)DMSO存在下で形成された胚様体のDNAメチル化状態を調べたところ、DMSOを含まない培養で形成された胚様体に比べ、内在性レトロウイルス由来繰り返し配列やマイナーサテライト繰り返し配列のDNAメチル化が亢進された。そこで、さらにRestriction Landmark Genomic Scanning(RLGS)により、遺伝子領域約2000領域に焦点を当てDNAメチル化プロファイルへの影響を解析したところ、DMSO処理によって11の遺伝子領域で脱メチル化、4領域でメチル化が誘導されることが明らかになった。さらに遺伝子上流域に焦点をあてたDNAマイクロアレイによる解析の結果、2箇所のメチル化領域、3箇所の脱メチル化領域が発見された。DMSOはDNAメチル化プロファイルに影響をあたえるのである。興味深いことに、DMSO濃度[0.02-1%(v/v)]に伴ってDnmt3a mRNAと同酵素タンパク質の発現の上昇が見られた。

 第二章ではサリドマイドが胚様体形成時のDNAメチル化プロファイルにおよぼす影響が解析された。興味深いことに、光学異性体である(-)-サリドマイド(100μg/ml)存在下において胚様体同士の細胞接着が誘導された。また、(±)-サリドマイド(100mg/kgBW)及び(-)-サリドマイド(100mg/kgBW)処理胚様体由来のテラトーマ形成実験で軟骨形成の促進が観察された。サリドマイドが、形質の発現に不可逆的な影響をあたえることは間違いない。そこで、RLGSによりDNAメチル化プロファイルを解析すると、(±)-サリドマイド(100μg/ml)により、約2000領域の遺伝子座のうち7領域で脱メチル化、2領域でメチル化が誘導されることが明らかになった。さらに、DNAマイクロアレイ解析により、サリドマイドによってメチル化される8領域、および脱メチル化される4領域が発見され同定された。興味深いことに、これらの中には、TNF-αの制御下の転写因子Pou2f1遺伝子のメチル化亢進と、抑制型のエピジェネティックス制御に関与すると注目されるコアヒストン・サブタイプH3.2遺伝子の脱メチル化などが含まれる。サリドマイドでDNAメチル化状態が変化する12の遺伝子領域のうち、7領域はヒト-マウス間で共通であった。

 サリドマイドの主・副作用、あるいは、DMSOの分化誘導作用は、ともに不可逆的な変化を説明できるものでなければならないが、これまでのサリドマイドの薬効の分子機構解析は、形態観察や細胞質内生化学、あるいは、DNAの損傷といった枠内での研究にとどまっていた。本研究ではサリドマイドおよびDMSOが、DNAメチル化プロファイルに影響を与えることを明らかにした。これらの研究成果は、細胞の分化に関する基礎科学としての価値がある。また、薬物・化合物の評価および創薬標的探索からも新たな方法論を提供し、サリドマイドの作用を新しい観点から解釈することを可能にする、応用科学としても評価できる。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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