学位論文要旨



No 122467
著者(漢字) 岡嶋,裕志
著者(英字)
著者(カナ) オカジマ,ヒロシ
標題(和) インスリン受容体基質-2を介したインスリン様成長因子の生理作用調節機構の解析
標題(洋)
報告番号 122467
報告番号 甲22467
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3191号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 高橋,伸一郎
 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 千田,和広
 東京大学 助教授 田中,智
 東京大学 助教授 山内,啓太郎
内容要旨 要旨を表示する

 インスリン様成長因子 (IGF)は多くの細胞の増殖・分化の誘導、細胞死の抑制など長期作用から、運動能の亢進や代謝制御など短期作用に至るまで、さまざまな生理活性を発現することが知られているペプチドホルモンである。更に、動物の生理状態に応じて、時期特異的、そして組織・細胞特異的にIGFの適切な生理活性が発現することによって、正常な生命活動を営むことができることが明らかにされつつある。IGFの生理作用調節の特徴として、IGF結合タンパク質 (IGFBP)により生理活性が調節される、他のホルモンや成長因子などの存在下でIGFシグナルが調節され特定の生理活性が発現される点などが挙げられる。したがって、IGFの生理的意義を明らかにするためには、IGF作用調節の分子メカニズムの解明が必須である。

 そこで本研究では、トロピックホルモンによりIGF-Iの細胞増殖活性が増強される内分泌細胞のモデルとして甲状腺細胞を、IGF-Iにより細胞の増殖と運動という異なる作用が誘導され、この活性がIGFBPにより修飾されるモデルとして乳腺上皮細胞を用い、IGF-Iの生理作用調節機構について解析を行った。一般に、IGFは標的細胞の細胞膜上のIGF-I受容体に結合すると、内蔵されたチロシンキナーゼが活性化、主要な基質であるインスリン受容体基質 (IRS)をチロシンリン酸化し作用を発現することが報告されている。IRSのアイソフォームであるIRS-1とIRS-2は、分子構造はよく似ているものの、各基質のノックアウトマウスは異なる表現型を示しており、両基質が異なる機能を有することが示唆されている。そこで、本研究では特に両基質の制御や機能を比較解析し、IGF-Iの生理作用調節機構の解析を進めた。

IGF-I刺激した甲状腺細胞の細胞増殖誘導におけるIRSの機能

 我々は、ラット甲状腺由来正常細胞FRTL-5を予め甲状腺刺激ホルモン(TSH)をはじめとしたcAMP経路を活性化する薬剤で長時間処理(cAMP前処理)すると、IGF-Iに誘導される細胞増殖が相乗的に増強されることを見出している。

 この細胞系をモデルとしてcAMP前処理によるIGF-Iシグナルの増強機構の解析を進めたところ、cAMP前処理に応答して細胞当たりのIRS-1発現量が減少し、逆にIRS-2は増加した。続いてIRS-1、IRS-2の発現抑制がIGF-IのDNA合成誘導活性に与える影響を解析した結果、IRS-2 siRNAによりIGF-Iに応答したDNA合成が抑制されたのに対して、IRS-1 siRNA処理によりDNA合成は影響を受けなかった。更に、IGF-I刺激に応答したIRS-2のチロシンリン酸化はcAMP前処理によって増強され、他の結果も併せると、IRS-2のチロシンリン酸化の増強が細胞増殖の相乗的誘導に必須であることが明らかとなった。

 続いて、IRS-2のチロシンリン酸化増強機構を調べるため、cAMP前処理したFRTL-5細胞より調製したIRS-2免疫沈降物を、活性型IGF-I受容体とATPの存在下でin vitroリン酸化反応に供したところ、対照細胞より調製したIRS-2と比較して、チロシンリン酸化が増強されることが明らかとなった。同様に調製したIRS-2を高塩濃度の緩衝液で洗浄してIRS-2と結合している分子を除去後in vitroリン酸化反応を行うと、cAMP処理によるIRS-2チロシンリン酸化の増強が抑制された。他の結果も併せると、cAMP経路の長時間刺激に応答してIRS-2と他の分子が相互作用し、IRS-2が受容体キナーゼによりチロシンリン酸化されやすくなると考えられた。

 そこで、cAMP長時間処理に応答してIRS-2と相互作用する分子を探索することにした。cAMP処理したFRTL-5細胞から調製したmRNAを用いてcDNA libraryを作成し、これをprey、IRS-2をbaitとしたyeast two-hybrid screeningを行った結果、IRS-2と相互作用する分子をコードする遺伝子を複数取得することに成功した。取得した分子のうち、IRS-2と強く相互作用するgC1qR(補体因子C1qの受容体)に注目して解析を進め、cAMP処理したFRTL-5においてgC1qRがIRS-2と相互作用し、さらにIGF-I受容体とも相互作用しうることが明らかとなった。そこで、gC1qRを過剰発現させた293T細胞をIGF-I刺激したところ、gC1qRを過剰発現させた細胞では対照細胞と比較してIGF-I依存的なIRS-2のチロシンリン酸化が増強され、この際IGF-I受容体の自己リン酸化はgC1qR過剰発現により変化せず、gC1qRはIGF-I受容体ではなくIRSに作用することによりIGF-Iシグナルを修飾する分子であると考えられた。

 これらの結果より、FRTL-5細胞のcAMP経路を長時間刺激すると、IRS-1の発現量が減少、IRS-2の発現量が増加し、さらにgC1qRとIRS-2の相互作用が起こり、IRS-2がIGF-I受容体と相互作用しやすくなるなどして、IRS-2のIGF-I依存性チロシンリン酸化が増強されるという新しい機構の存在が考えられた。

IGF-I刺激した乳腺上皮細胞の運動能亢進におけるIRSの機能

 妊娠に伴って誘導される乳腺組織の発達は、乳腺上皮細胞の増殖、運動が亢進されることにより大きな細胞集団が形成されることから始まり、これらの変化はIGF-Iによって誘導され、IGFBPの一つIGFBP-5によって抑制されることが知られている。また、運動性の高い乳癌細胞ではIRS-2の発現量が多く、IRS-2がIGF-Iの細胞運動能亢進作用に重要な役割を担っている可能性が考えられる。

 そこで、IGF-I刺激に応答して移動形態を示す乳癌組織由来細胞MCF-7を用いてIGF-I、あるいはIGFBP-5で処理した際の細胞運動・細胞接着について検討した。その結果、MCF-7細胞はIGF-Iで刺激すると仮足を形成して細胞が移動し、大きな細胞集団を形成するのに対して、IGFBP-5で処理した細胞では敷石状に強く接着することが分かった。更に、IGF-IとIGFBP-5で同時処理した細胞ではIGF-Iによる細胞集団形成が抑制され、他の結果も併せると、IGFBP-5はIGF-Iの生理活性を抑制すると同時に、単独で細胞接着を誘導する作用があることを発見した。

 続いて、IRS-1、IRS-2がIGF-Iの細胞集団形成誘導に果たす役割を解析した。siRNAを用いてIRS-1の発現を抑制すると細胞増殖が抑制され、逆にアデノウイルスベクターを用いてIRS-1を過剰発現すると細胞増殖が亢進された。一方、IRS-2の発現を抑制すると仮足形成が観察されなくなり、上皮細胞特有の敷石状の形態を示した。更に、IRS-2を過剰に発現すると顕著な運動能亢進を示し、大きな細胞集団を形成するようになった。

 そこで、IGF-I刺激に応答したIRS-1、IRS-2の細胞内局在変化について解析した。IRS-1は細胞質全体および細胞質内に斑点状に存在し、IGF-I刺激に応答した局在変化は観察されなかった。これに対して、IRS-2は無刺激状態では細胞質全体に存在するものの、IGF-I刺激に応答して膜が波打ち運動を起こす部位および伸長した仮足の先端、すなわち細胞膜直下のアクチン重合が盛んな部位に移動することが明らかとなった。更に、最近アクチン重合への関与が明らかになってきているp38 MAP kinaseについても、IRS-2と同様な局在変化が観察され、IGF-I刺激に応答してp38 MAP kinaseは活性化、また、p38 MAP kinase阻害剤を添加すると、IGF-Iに応答した形態変化が抑制されることも見出した。

 他の結果も併せると、IRS-2はIGF-Iに応答して細胞内局在を変え、p38 MAP kinaseの活性化などを介して、細胞膜直下でのアクチン重合の活性化、仮足の形成、ひいては細胞運動を亢進させるという作業仮説が考えられた。

 IRS-1、IRS-2は、いずれもインスリン受容体/IGF-I受容体の基質であり、分子構造も類似していることから、これまでの研究ではお互いが相補的な機能を果たしているという報告がほとんどである。今回の研究成果から、IRS-1、IRS-2はそれぞれ異なる発現制御・修飾を受け、さらにそれぞれが異なる生理活性を仲介している、そして、お互いが競合的に機能している例もあることが明らかとなった。これらの機構を介して、動物の生理状態に応答した時期特異的、組織特異的なIGF-Iの特定の生理活性の誘導が可能となると考えている。本研究の成果が、IGFを用いた臨床研究や応用研究に役立つことを期待している。

審査要旨 要旨を表示する

 インスリン様成長因子(IGF)は多くの細胞の増殖・分化の誘導、細胞死の抑制など長期作用から、運動能の亢進や代謝制御など短期作用に至るまで、さまざまな生理活性を発現することが知られているペプチドホルモンである。更に、動物の生理状態に応じて、時期特異的、そして組織・細胞特異的にIGFの適切な生理活性が発現することによって、正常な生命活動を営むことができることが明らかにされつつある。そこで本研究は、トロピックホルモンによりIGF-Iの細胞増殖活性が増強される内分泌細胞のモデルとして甲状腺細胞を、IGF-Iにより細胞の増殖と運動という異なる作用が誘導されるモデルとして乳腺上皮細胞を用い、IGF-Iの生理作用調節機構について解析を行ったもので、序章と本編が2章、そして総合討論からなる。

 まず、序章では、本研究の背景および意義を概説し、本研究の目的と本論文の構成について述べている。

 第一章では、IGF-I刺激した甲状腺細胞の細胞増殖誘導におけるインスリン受容体基質、IRSの機能について解析している。これまで、ラット甲状腺由来正常細胞FRTL-5を予め甲状腺刺激ホルモン(TSH)をはじめとしたcAMP経路を活性化する薬剤で長時間処理(cAMP 前処理)すると、IGF-Iに誘導される細胞増殖が相乗的に増強されることが見出されている。この細胞系をモデルとしてcAMP)前処理によるIGF-Iシグナルの増強機構の解析を進めたところ、cAMP前処理に応答してIRSのひとつの分子種、IRS-2のタンパク量が増加、さらにIGF-I受容体キナーゼによるチロシンリン酸化されやすさが増加する結果、IRS-2のIGF-I依存性チロシンリン酸化が増強、この増強が細胞増殖の相乗的誘導に必須であることを明らかにした。続いて、IRS-2のチロシンリン酸化されやすさの増加機構を調べたところ、cAMP経路の長時間刺激に応答してIRS-2と他の分子が相互作用し、IRS-2が受容体キナーゼによりチロシンリン酸化されやすくなることを見出した。IRS-2と相互作用する分子を検索・同定した分子のうち、IRS-2と強く相互作用するgC1qR(補体因子C1qの受容体)に注目して解析を進め、cAMP処理したFRTL-5においてgC1qRがIRS-2と相互作用する結果、IGF-Iシグナルを増強、細胞増殖が増強されることを明らかにした。

第二章では、IGF-I刺激に応答して移動形態を示す乳癌組織由来細胞MCF-7を用いてIGF-I、あるいはIGF結合タンパク質(IGFBP)で処理した際の細胞運動・細胞接着について検討した。妊娠に伴って誘導される乳腺組織の発達は、乳腺上皮細胞の増殖、運動が亢進されることにより大きな細胞集団が形成されることから始まり、これらの変化はIGF-Iによって誘導され、IGFBPの一つIGFBP-5によって抑制されることが知られている。また、運動性の高い乳癌細胞ではIRS-2の発現量が多く、IRS-2がIGF-Iの細胞運動能亢進作用に重要な役割を担っている可能性が考えられている。解析の結果、MCF-7細胞はIGF-Iで刺激すると仮足を形成して細胞が移動し、大きな細胞集団を形成するのに対して、IGFBP-5は、IGF-Iとの結合を介さず細胞を敷石状に強く接着させることが分かった。続いて、IRS-1、JRS-2がIGF-Iの細胞増殖誘導、細胞集団形成誘導に果たす役割を解析した。その結果より、IRS-1は核付近の細胞質中でIGF-I依存性細胞増殖誘導に重要な役割を果たしているのに対して、IRS-2はIGF-Iに応答して細胞内局在を変え、PI 3-kinaseやp38 MAP kinaseの活性化などを介して、細胞膜直下でのアクチン重合の活性化、仮足の形成、ひいては細胞運動を亢進させるという作業仮説を提唱している。

 これまでの研究では、IRS-1、IRS-2は、いずれもインスリン受容体/IGF-I受容体の基質であり、分子構造も類似していることから、相補的な機能を果たしているという報告がほとんどである。総合討論では、今回の研究成果から、IRS-1、IRS-2はそれぞれ異なる発現制御・修飾を受け、さらにそれぞれが異なる生理活性を仲介している、そして、お互いが競合的に機能している例もあることが明らかにし、これらの機構を介して、動物の生理状態に応答した時期特異的、組織特異的なIGF-Iの特定の生理活性の誘導が可能となると述べている。

 このように、本研究の成果は、IGFの生理活性発現におけるIRSの差異について、機能の観点から新しい知見を提供したもので、学術上・応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク