学位論文要旨



No 122468
著者(漢字) 柴田,倫宏
著者(英字)
著者(カナ) シバタ,ミチヒロ
標題(和) インスリン抵抗性発生に関わるPI 3-kinaseの新しい活性制御機構の解明
標題(洋)
報告番号 122468
報告番号 甲22468
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3192号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 高橋,伸一郎
 東京大学 教授 塩田,邦郎
 東京大学 教授 千田,和広
 東京大学 助教授 加藤,久典
 東京大学 助教授 山内,啓太郎
内容要旨 要旨を表示する

 肥満、老化、高血糖などの生理状態では様々な組織において活性酸素種の産生が亢進し、酸化ストレスが生じることが知られており、近年、この酸化ストレスが、インスリン抵抗性の発生や糖尿病の病態に深く関与していることが示唆されている。したがって、酸化ストレスによるインスリンシグナルの修飾機構を明らかにする研究は、インスリン抵抗性の発生から糖尿病の発症までの一連のメカニズムを理解する上で、極めて意義深いということができる。

 本研究では、脂肪細胞の細胞モデルとして汎用されている3T3-L1脂肪細胞を用い、まず、酸化ストレスがインスリン生理活性およびインスリンシグナルに及ぼす影響を解析した。その結果、脂質リン酸化酵素であるIa型phosphatidylinositol 3'OH-kinase (PI 3-kinase) の活性が酸化ストレスにより抑制され、インスリン依存性糖取り込みが抑制されることが明らかになった。続いて、酸化反応に応答したPI 3-kinaseの活性調節機構を分子レベルで検討し、PI 3-kinaseのシステイン (Cys) 残基の修飾がPI 3-kinaseの活性を制御しているという新しいメカニズムの存在を見出した。

酸化ストレスに応答したインスリン抵抗性発生機構の解明

 パラコート (PQ) は、細胞内で活性酸素種を発生させ酸化ストレスを与えることが明らかにされている。そこで、PQで前処理した3T3-L1脂肪細胞をインスリンで処理後糖取り込み活性を測定したところ、PQ処理群では未処理群に比べインスリン依存的な糖取り込み活性が抑制されることが明らかとなった。以後、このモデル細胞を用いて酸化ストレスによるインスリンシグナル抑制機構を詳細に解析した。

 一般に、脂肪細胞をはじめとしたインスリンの標的細胞では、インスリンが細胞膜上のインスリン受容体 (IR) に結合すると、IRに内蔵されたチロシンキナーゼが活性化され、インスリン受容体基質 (IRS) などの基質がチロシンリン酸化される。次いで、IRSのリン酸化チロシン残基を認識してSH2ドメインを有したPI 3-kinase p85調節サブユニットが結合し、p110触媒サブユニットが活性化される。このIRS-PI 3-kinase経路の活性化は、シグナル系下流のセリン・スレオニンキナーゼAktの活性化などを引き起こし、糖輸送担体であるglucose transporter 4 (GLUT4) が細胞質内の小胞から細胞膜表面上へ移行、糖取り込みが促進されると考えられている。

 まず、PQ前処理がインスリンの細胞内シグナルに及ぼす影響を解析したところ、インスリン依存的なIR・IRSのチロシンリン酸化およびIRSに結合するPI 3-kinase量は、PQ前処理により変化しなかった。ところが、インスリン依存的なIRS結合性PI 3-kinaseの活性化はPQ処理により抑制され、同時にAktのインスリン依存的なリン酸化およびGLUT4の細胞膜への移行も抑制されることを発見した。

 続いて、インスリンシグナルにおける酸化ストレスの作用点をより詳細に明らかにするため、アデノウイルスベクターを用いてmyristoylated Akt (myr-Akt) 発現させた3T3-L1脂肪細胞を用いた解析を行った。myr-Aktはミリストイル化部位を付加したAkt変異体であり、生体膜上に局在化して恒常的に活性型となる。myr-Aktを発現した 3T3-L1脂肪細胞では、インスリン非存在下でもAktの下流のシグナルが伝達される結果、糖取り込みが促進されたが、この細胞をPQ前処理してもmyr-Akt依存的なGLUT4の細胞膜移行および糖取り込みは抑制されない、つまりPQはAktの下流のシグナル伝達および、糖取り込み活性を抑制しないことが明らかとなった。

 これら一連の結果より、PQ処理によって生じた酸化ストレスは、チロシンリン酸化IRSとPI 3-kinaseの相互作用以降の段階で、何らかの機構を介してPI 3-kinase活性を抑制することが明らかとなった。

Ia型 PI 3-kinaseの新しい活性調節機構の解明

 酸化ストレスによるPI 3-kinaseの活性制御機構を明らかにするため、標的となるPI 3-kinaseのアイソフォームの同定、酸化ストレスによりPI 3-kinaseと相互作用しキナーゼ活性を抑制するタンパク質の存在の可能性の検討、そして酸化反応によるPI 3-kinaseのCys残基の修飾がキナーゼ活性に及ぼす影響の解析を進めた。

 3T3-L1脂肪細胞には、Ia型PI 3-kinaseの触媒サブユニットの複数のアイソフォームのうち、主にp110αとp110βが発現している。そこで、各アイソフォームのsiRNAによるノックダウンがインスリン依存的な糖取り込みに及ぼす影響を調べた。その結果、p110αに対するsiRNAを3T3-L1脂肪細胞に導入した際には、インスリン依存的な糖取り込みが顕著に抑制されたが、p110βに対するsiRNAを導入した際にはp110αノックダウンのような大きな効果は観察されなかった。この結果から、通常の状態ではp110αがインスリン依存的な糖取り込みに重要な役割を果たしていると結論した。

 PI 3-kinaseの活性は、チロシンリン酸化IRSやrasなどのタンパク質との相互作用によって修飾されることが明らかになっている。そこで、酸化ストレスに応答してPI 3-kinaseに相互作用するタンパク質がPI 3-kinaseの活性を抑制している可能性を検討するため、PQ処理後の3T3-L1脂肪細胞においてPI 3-kinaseと相互作用しているタンパク質を精製、可視化することにした。まず、3T3-L1脂肪細胞はどのような手法を用いても遺伝子導入効率が低いため、coxsackie and adenovirus receptor (CAR) を安定的に発現したCAR発現3T3-L1脂肪前駆細胞を作製、アデノウィルスによる遺伝子導入効率を上昇させた。一方、PI 3-kinaseと相互作用するタンパク質は、PI 3-kinase p110αcDNAに2つのtagを融合したタンパク質を3T3-L1脂肪細胞に発現、そのtagを用いて2段階の精製を行う、tandem affinity purification (TAP) 法で精製した。すなわち、CAR発現3T3-L1細胞を脂肪細胞へ分化させた後、TAP法に用いるtagを融合したp110αを発現する組換えアデノウィルスを感染、PQ処理をした後、p110αに結合するタンパク質をTAP法によって精製した。精製したタンパク質をSDS-PAGEに供した後、銀染色により可視化、PQ未処理群のp110αと相互作用しているタンパク質と比較したが、PQ処理によってp110αに相互作用するタンパク質のパターンは大きく変化しなかった。

 活性酸素種は、多くの酵素のシステイン残基のチオール基 (Cys-thiol) を酸化し、その活性を修飾する。そこで、p110αのCys-thiolの修飾がPI 3-kinase活性に及ぼす影響を解析することにした。その結果、(1)PI 3-kianseを免疫沈降で精製した後、in vitroでH2O2処理するとPI 3-kinaseの活性が抑制される、(2)還元剤であるdithiothreitolをPI 3-kinaseの免疫沈降物に作用させるとPI 3-kinase活性は上昇する、(3)Cys-thiolのアルキル化剤であるN-ethylmaleimideで細胞抽出液を処理した後、PI 3-kianseを免疫沈降で精製し、PI 3-kinase活性を測定したところ、その活性は著しく抑制されるなどの結果を得た。これらの結果は、酸化によるPI 3-kinase活性発現修飾にはCys残基が重要な役割を果たしていることを示している。次に、p110で種間・アイソフォーム間で良く保存されている12個のCys残基をそれぞれSerに置換したp110α変異体 (CS変異体) を作製し、HEK293T細胞に発現させた後、免疫沈降によってCS変異体を精製、in vitroでその活性を測定した。その結果、主にキナーゼドメイン付近の複数のCS変異体では、PI 3-kinase活性が野生型p110αと比較して抑制されることが明らかとなった。これらの結果は、複数の特異的な部位のCys-thiolの酸化によりPI 3-kinaseの酵素活性が抑制される可能性を強く示している。

 本研究の成果より、「脂肪細胞においては、酸化ストレスは、糖取り込み促進に重要なPI 3-kinaseのp110α触媒サブユニットのキナーゼドメイン付近のシステイン残基のチオール基を酸化し、その結果PI 3-kinaseの活性が抑制される。この抑制は、GLUT4の細胞膜移行の阻害を引き起こし、インスリン依存性糖取り込みを抑制、インスリン抵抗性が起こる」という作業仮説が考えられた。老齢化が急速に進む現代社会において、寿命延長に伴う酸化ストレス増加が種々の代謝性疾病を引き起こし、これらが大きな問題になりつつある。今回、明らかとなったPI 3-kinaseの新しい活性修飾機構は、これらの問題の解決に新しい観点を提供するものと期待している。

審査要旨 要旨を表示する

 肥満、老化、高血糖などの生理状態では様々な組織において活性酸素種の産生が亢進し、酸化ストレスが生じることが知られており、近年、この酸化ストレスが、インスリン抵抗性の発生や糖尿病の病態に深く関与していることが示唆されている。本研究は、脂肪細胞の細胞モデルとして汎用されている3T3-L1脂肪細胞を用い、まず脂質リン酸化酵素であるIa型phosphatidylinositol 3'OH-kinase(PI 3-kinase)の活性が酸化ストレスにより抑制され、インスリン依存性糖取り込みが抑制されることが明らかにし、続いてPI 3-kinaseのアイソフォームの機能の共通点・相違点について解析、最後に酸化反応に応答したPI 3-kinaseの活性調節機構を分子レベルで検討したもので、論文は、序論、本編が3章、そして総合討論よりなる。

 まず、序章では、本研究の背景および意義を概説し、本研究の目的と本論文の構成について述べている。

 第一章では、細胞内で活性酸素種を発生させ酸化ストレスを与えることが明らかになっているパラコート(PQ)で前処理した3T3-L1脂肪細胞をインスリンで処理後、インスリンシグナルおよび糖取り込み活性を検討している。その結果、インスリン依存的なインスリン受容体のチロシンリン酸化およびインスリン受容体基質、IRSのチロシンリン酸化およびIRSに結合するPI 3-kinase量は、PQ前処理により変化しなかったが、インスリン依存的なIRS結合性PI 3-kinaseの活性化はPQ処理により抑制され、同時にその下流シグナルおよびインスリン依存的糖輸送体、GLUT4の細胞膜への移行も抑制された。この際、PQ処理により、インスリン依存的な糖取り込み活性が抑制されることも明らかにしている。その他の結果も併せ、PQ処理によって生じた酸化ストレスは、チロシンリン酸化IRSとPI 3-kinaseの相互作用以降の段階で、PI 3-kinase活性を抑制すると結論している。

 第二章では、3T3-L1脂肪細胞に発現している、Ia型PI 3-kinaseの触媒サブユニットの複数のアイソフォーム、p110αとp110βがインスリン依存的な糖取り込みに果たす役割について調べている。その結果、通常の状態では主にp110αがインスリン依存的な糖取り込みに関与しているが、p110αの発現が抑制されると、p110βがこの機能を相補することがわかった。PI 3-kinaseの活性は、チロシンリン酸化IRSやrasなどのタンパク質との相互作用によって修飾されることが明らかになっているので、p110αとp110βに相互作用するタンパク質をtandem affinity purification(TAP)法で調べた。p110αとp110βは、複数種の異なるタンパク質との結合が観察され、このようなタンパク質によって、アイソフォーム間の機能の差異が生じるものと考察している。

 第三章では、酸化ストレスによりPI 3-kinaseと相互作用しキナーゼ活性を抑制するタンパク質の存在の可能性の検討、そして酸化反応によるPI 3-kinaseのCys残基の修飾がキナーゼ活性に及ぼす影響の解析を進めている。酸化ストレスによってp110αと相互作用しているタンパク質には大きな変化は観察されなかった。一方、酸化によるPI 3-kinase活性発現修飾には、Cys-thiolの修飾が重要な役割を果たしていることを見出した。そこで、p110で種間・アイソフォーム間で良く保存されている12個のCys残基をそれぞれSerに置換したp110a変異体(CS変異体)を作製、その活性を測定した結果、複数の特異的な部位のCys-thiolの酸化によりPI 3-kinaseの酵素活性が抑制される可能性が示された。

 総合討論では、本研究の成果をまとめ、「脂肪細胞においては、酸化ストレスは、糖取り込み促進に重要なPI 3-kinaseのp110α触媒サブユニットのキナーゼドメイン付近のシステイン残基のチオール基を酸化し、その結果PI 3-kinaseの活性が抑制される。この抑制は、GLUT4の細胞膜移行の阻害を引き起こし、インスリン依存性糖取り込みを抑制、インスリン抵抗性が起こる」という作業仮説を提唱し、この新規性について論議している。

 このように、本研究の成果は、酸化ストレスによるインスリン抵抗性の新しい発生機構をPI 3-kinaseの活性抑制から明らかにしたもので、学術上・応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク