学位論文要旨



No 122469
著者(漢字) 長,克武
著者(英字)
著者(カナ) チョウ,ヨシタケ
標題(和) 臓器間連携によるインスリン抵抗性補償機構の解明
標題(洋)
報告番号 122469
報告番号 甲22469
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3193号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 高橋,伸一郎
 東京大学 教授 塩田,邦郎
 東京大学 教授 西原,眞杉
 東京大学 教授 千田,和広
 東京大学 助教授 加藤,久典
内容要旨 要旨を表示する

 成長ホルモン (GH) は、脳下垂体から分泌され、動物個体の成長と代謝の調節に重要な役割を果たしている。GHの分泌不全は成長遅滞を引き起こすが、GHの過剰分泌はインスリン抵抗性を引き起こし、いずれも臨床上大きな問題となっている。

 我々の研究グループでは、GHの代謝調節活性をin vivoレベルで研究するために、ヒト成長ホルモン (hGH) 遺伝子導入ラットの作出を進め、複数の系統の遺伝子導入ラットの作出に成功している。そのうちの一系統のトランスジェニックラット(以下TGと略す)は、生後10週齢においてhGHの過剰分泌が認められ、高インスリン血症を示していたが、驚いたことに血糖値の異常は認められなかった。各臓器の糖取り込み能について検討したところ、野生型ラット (以下WTと略す) と比較して、TGでは筋肉と脂肪組織においてインスリン依存的な糖取り込み能は低下、インスリン抵抗性を示していた。これに対して、TGの肝臓においては基底状態での糖取り込み能が亢進、脂肪及びグリコーゲンの過剰蓄積による肝肥大が認められた。

 そこで本研究では、このTGをモデルとして、インスリン抵抗性の新しい補償機構を明らかにすることを目的とした。これまでの研究成果より、肝臓でのインスリン応答が亢進、取り込んだ糖を脂質やグリコーゲンに合成して蓄積する結果、血糖値が正常に維持されるというインスリン抵抗性補償機構の存在を仮定、研究を進めた。

TG肝臓におけるインスリン抵抗性補償作用の解析

 まず、10週齢TGラットの表現型を糖代謝の指標を中心に検討した。TGの血中インスリン値は、WTと比較して自由摂食時と絶食時どちらにおいても有意に高値を示し、インスリン負荷試験においてもTGのインスリン対する応答性は低下、インスリン抵抗性の発生が確認された。しかし、耐糖能試験では両者に有意な差は認められなかった。ピルビン酸負荷試験では、TGはピルビン酸投与後の血糖値の上昇が緩やかで、肝臓の糖新生が抑制されていることがわかった。また、TG肝臓では脂肪蓄積が激しく、糖取り込み量も有意に増加していることを確認した。これら一連の結果は、TG肝臓においてインスリンシグナルが増強されている可能性を示していた。

 そこで、WT、TGの初代培養肝細胞を用いて、インスリンシグナルを解析した。一般に、インスリンがインスリン受容体 (IR) に結合すると内蔵されているチロシンキナーゼを活性化し、IRを自己リン酸化するとともにインスリン受容体基質 (IRS)-1, 2をチロシンリン酸化する。チロシンリン酸化されたIRSを認識してホスファチジルイノシトール 3-リン酸化酵素 (PI 3-kinase) が結合・活性化されることで下流にシグナルが伝達され、広範な生理活性が発現すると考えられている。TG肝細胞では、インスリン刺激に応答したIRとIRS-1のチロシンリン酸化の亢進は認められなかったが、IRS-2のチロシンリン酸化はTGにおいて有意に増強していることを発見した。これを良く反映してIRS-2に結合しているPI 3-kinase活性も有意に上昇していた。

 次に、増強されたインスリンシグナルがどのようにインスリンの生理作用に反映されているかを、糖・脂質代謝酵素の発現量を指標に解析した。インスリン処理したTG肝細胞では、脂肪酸合成酵素、アセチル-CoAカルボキシラーゼ、グルコキナーゼなど脂肪合成酵素群のインスリンに依存したmRNA量の増加が増強され、グルコース-6-ホスファターゼ、ホスホエノールピルビン酸カルボキシラーゼなど糖新生酵素のインスリンに依存したmRNA量の減少が更に強められていた。

 他の結果も併せ、TG肝臓では、インスリンシグナルの増強を介して、糖から脂質への合成が促進する一方で、糖新生が抑制され、糖利用が増加、糖放出が抑制、その結果、筋肉と脂肪における糖取り込み能の低下を補償していると結論した。

TGにおけるインスリン抵抗性の発生とインスリン抵抗性補償作用の誘導の連関の解析

 TGにおけるインスリン抵抗性と肝臓における補償作用の発現時期を明らかにするため、2.5 (離乳前)、5、10週齢のWTとTGの血中インスリン値、血糖値、肝細胞のインスリンシグナルを調べた。血中インスリン値は、2.5週齢では、WTとTG間で差は認められず、5週齢と10週齢においてそれぞれ1.80倍、5.25倍と有意に高値を示した。血糖値はいずれの週齢においても有意な差は認められなかった。一方、インスリン刺激に応答したIRS-2のチロシンリン酸化とIRS-2に結合するPI 3-kinaseの活性、インスリン処理に応答した脂質合成酵素の発現量の増加は5週齢より増強され、脂肪の過剰蓄積もこの時期より確認された。

 TGラットは過食、肥満を呈することが明らかになっているので、離乳後よりpair-feeding試験を行い、過食・肥満がインスリン抵抗性の発生、補償作用の誘導に与える影響を検討した。Pair-feedingによりTGの体重はWTと比較して有意な差は認められなくなったが、血中インスリン値は、pair-fed TGでWTと比較して6倍と有意に高値を示し、肝臓のインスリンシグナルも増強されていた。

 以上の結果から、TGラットにおけるインスリン抵抗性の発生と補償作用の誘導は、過食・肥満を介しておらず、hGHの長期間の暴露により起こるインスリン抵抗性が補償作用を誘起している可能性が考えられた。

TG肝臓におけるインスリンシグナルの増強機構と糖・脂質代謝酵素群の転写制御機構の解析

 インスリン抵抗性の補償作用の誘導に、TG肝臓におけるIRS-2のインスリン依存性チロシンリン酸化の増強が重要であることを示すために、small hairpin RNA法を用いてTGの初代培養肝細胞のIRS-2タンパク量を減少させ、インスリンシグナル及び生理活性の変動を検討した。その結果、IRS-2の発現量を抑制すると、IRS-2タンパク量あたりのインスリン依存性チロシンリン酸化量はむしろ増加し、下流のシグナルや糖・脂質代謝酵素の発現は増強されたまま維持されていることがわかった。これらの結果から、TG肝臓のIRS-2は、インスリン受容体によりチロシンリン酸化されやすくなっている可能性が考えられた。そこで、WTとTG肝細胞からそれぞれIRS-2を調製し、インスリン受容体とATP存在下in vitroリン酸化反応を行ったところ、WT 肝細胞より調製したIRS-2と比較して、TG 肝細胞より調製したIRS-2は、強くチロシンリン酸化されることを見出した。さらに、高塩濃度の緩衝液で予め免疫沈降物を洗浄しIRS-2と相互作用するタンパク質を除去後、in vitroリン酸化反応を行ったところ、TG肝細胞より調製した IRS-2のチロシンリン酸化の増強は観察されなくなった。他の結果も併せると、TG 肝細胞では、IRS-2は何らかタンパク質と相互作用し、インスリン受容体のより良い基質になっていると考えられた。

 これまでに、インスリンは肝臓のPI 3-kinaseの活性の上昇を介し、転写因子sterol regulatory element binding protein (SREBP)-1cの発現量を遺伝子レベルで亢進させ、脂質合成酵素の発現を誘導することが明らかとなっている。この機構として、インスリンが核内受容体型転写因子であるliver X receptor (LXR) の内在性リガンドを産生、活性化されたLXRがSREBP-1cの発現を上昇させるモデルが提唱されている。そこで、TG肝細胞において、このような機構が脂質合成酵素の発現の増強に関わっているかどうかを検討した。インスリンでWT、TG初代培養肝細胞を処理したところ、TG肝細胞のSREBP-1cの発現量はWT肝細胞に比べ有意に増加し、この増加はLXRのアンタゴニストであるアラキドン酸の添加により部分的に抑制された。次に、LXRの合成アゴニストT0901317でWT、TGの初代培養肝細胞を処理し、SREBP-1cをはじめとしたLXRの標的遺伝子の発現量を解析した。その結果、TG肝細胞では、これらの遺伝子発現量が有意に増加した。これらの結果より、TG肝細胞においては、インスリンシグナルの増強によりLXRの内在性リガンドの産生が増加すると同時に、LXRのリガンドに対する応答性が亢進、これらがSREBP-1cの発現量の増加を促し、脂肪合成酵素群の発現誘導が増強されると結論した。

 本研究により、GHのトランスジェニックラットをモデルとして、「筋肉・脂肪でインスリン抵抗性が発生しているが、肝臓においてインスリンシグナルが増強され、取り込んだ糖を脂質・グリコーゲンとして貯蔵、すなわち糖利用が増加、同時に糖新生が抑制され、糖放出が減少、その結果、肝臓の糖取り込みが増加し、他臓器で起こるインスリン抵抗性を補償する」という糖代謝の新しい恒常性維持機構の存在を明らかにすることができた。このような臓器間連携を介した血糖値を正常に維持する機構の解明は、インスリン抵抗性の新たな治療法の開発につながると期待している。

審査要旨 要旨を表示する

 成長ホルモン(GH)は、動物個体の成長と代謝の調節に重要な役割を果たしている。GHの分泌不全は成長遅滞を引き起こすが、GHの過剰分泌はインスリン抵抗性を引き起こす。申請者らは、GHの代謝調節活性をin vivoレベルで研究するために、ヒト成長ホルモン(hGH)遺伝子導入ラットの作出を進め、複数の系統の遺伝子導入ラットの作出に成功している。そのうちの一系統のトランスジェニックラット(以下TGと略す)は、hGHの過剰分泌が認められ、高インスリン血症を示していたが、驚いたことに血糖値の異常は認められなかった。各臓器の糖取り込み能について検討したところ、野生型ラット(以下WTと略す)と比較して、TGでは筋肉と脂肪組織においてインスリン依存的な糖取り込み能が低下、これに対して、TG肝臓においては基底状態での糖取り込み能が亢進、脂肪及びグリコーゲンの過剰蓄積による肝肥大が認められた。本研究は、このTGをモデルとしてインスリン抵抗性の新しい補償機構を明らかにしたもので、論文は、序章、本編が3章、そして総合討論よりなる。

 まず、序章では、本研究の背景および意義を概説し、本研究の目的と本論文の構成について述べている。

 第一章では、TG肝臓におけるインスリン抵抗性補償作用の解析を行っている10週齢TGは高インスリン血症、糖取り込みのインスリン応答性低下を示し、インスリン抵抗性の発生が確認された。しかし、耐糖能試験では両者に有意な差は認められず、ピルビン酸負荷試験により肝臓の糖新生が抑制されていることがわかった。そこで、WT、TGの初代培養肝細胞を用いて、インスリンシグナルを解析した。その結果、TG肝細胞では、インスリン刺激に応答したインスリン受容体とインスリン受容体基質(IRS)-1のチロシンリン酸化の亢進は認められなかったが、IRS-2のチロシンリン酸化は有意に増強していることを発見した。これを良く反映してIRS-2に結合しているPI 3-kinase活性も有意に上昇していた。更に、インスリン処理したTG肝細胞では、脂肪合成酵素群のインスリンに依存したmRNA量の増加が増強され、糖新生酵素のインスリンに依存したmRNA量の減少が更に強められていることが明らかとなった。他の結果も併せ、TG肝臓では、インスリンシグナルの増強を介して、糖から脂質への合成が促進する一方で糖新生が抑制され、糖利用が増加、糖放出が抑制、その結果、筋肉と脂肪における糖取り込み能の低下を補償していると結論している。

 第二章では、TGにおけるインスリン抵抗性の発生とインスリン抵抗性補償作用の誘導の連関の解析を進めている。TGラットは過食、肥満を呈することが明らかになっているので、離乳後よりpair-feeding試験を行い、過食・肥満がインスリン抵抗性の発生、補償作用の誘導に与える影響を検討した。他の結果も併せ、TGラットにおけるインスリン抵抗性の発生と補償作用の誘導は、過食・肥満を介しておらず、hGHの長期間の暴露により起こるインスリン抵抗性が補償作用を誘起している可能性を示した。

 第三章では、TG肝臓におけるインスリンシグナルの増強機構と糖・脂質代謝酵素群の転写制御機構の解析を行っている。まず、TG肝細胞では、IRS-2は何らかタンパク質と相互作用し、インスリン受容体のより良い基質になっていることを示した。一方、インスリンは肝臓のPI 3-kinaseの活性の上昇を介し、転写因子SREBP-1cの発現量を遺伝子レベルで亢進させ、脂質合成酵素の発現を誘導することが明らかとなっている。この分子機構を検討した結果より、TG肝細胞では、インスリンシグナルの増強によりLiver X receptor(LXR)の内在性リガンドの産生が増加、同時にLXRのリガンドに対する応答性が亢進、これらがSREBP-1cの発現量の増加を促し、脂肪合成酵素群の発現誘導が増強されることを明らかにした。

 総合討論では、他のグループの研究成果と本研究により得られた結果を比較検討し、「筋肉・脂肪でインスリン抵抗性が発生しているが、肝臓でインスリンシグナルが増強され、取り込んだ糖を脂質・グリコーゲンとして貯蔵、すなわち糖利用が増加、同時に糖新生が抑制され、糖放出が減少、その結果、肝臓の糖取り込みが増加し、他臓器で起こるインスリン抵抗性を補償する」という糖代謝の新しい恒常性維持機構の存在を明らかにすることができたと結論している。

 本研究のような臓器間連携を介した血糖値を正常に維持する機構の解明は、インスリン抵抗性の新たな治療法の開発につながるもので、学術上・応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク