学位論文要旨



No 122471
著者(漢字) 井芹,俊恵
著者(英字)
著者(カナ) イセリ,トシエ
標題(和) 犬における持続硬膜外鎮痛法の確立に関する研究
標題(洋)
報告番号 122471
報告番号 甲22471
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3195号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐々木,伸雄
 東京大学 教授 西村,亮平
 東京大学 教授 局,博一
 東京大学 教授 尾崎,博
 東京大学 助教授 桑原,正貴
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要旨

 痛みは生体防御機構として必要不可欠なものであるが、過剰な、あるいは遷延する痛みは大きな苦痛を与えるだけでなく、生体に様々な悪影響をおよぼす。とくに、周術期疼痛は癌性疼痛と並んでその程度が強く、積極的に管理すべきものである。周術期の疼痛に関しては、従来術後鎮痛を中心に考えられてきたが、近年、術中鎮痛の重要性も認識されるようになってきた。一般に用いられる全身麻酔薬は十分な鎮痛(侵害刺激遮断)効果を持たないため、外見上は十分な麻酔状態にあっても、術中刺激に対する過剰な神経内分泌反応や、術後の強い痛みの原因となる痛覚過敏状態の形成を十分に抑制できない。したがって、術中は全身麻酔薬に加えて、十分な侵害刺激遮断のできる鎮痛薬あるいは鎮痛法を加えることが疼痛管理の面からも術後合併症予防の面からも重要である。人ではこの目的のために、全身的にオピオイドを投与する方法と、硬膜外鎮痛・麻酔あるいは脊髄くも膜下麻酔を併用する方法が主に用いられている。その中で、脊髄周囲の硬膜外腔に局所麻酔薬を投与する硬膜外鎮痛は、侵害刺激を脊髄レベルで直接ブロックできること、管理が煩雑な麻薬を用いなくても効果的な鎮痛・侵害刺激遮断ができること、硬膜外にカテーテルを留置することで、術後鎮痛にもそのまま応用可能なことなど優れた特性をもつ。しかしその反面、血圧低下などの副作用を持つことも知られている。犬においても、硬膜外鎮痛は周術期の鎮痛・侵害刺激遮断に有用性が高いと考えられるが、その効果や安全性については不明な点が多い。そこで本研究では、有効性がより高いと期待される局所麻酔薬による持続投与法を用いて、犬における硬膜外鎮痛法を確立することを目的に、安全性を含めて検討した。

 まず、第2章として、薬剤の硬膜外腔への投与方法について検討を行った。最初に、薬剤投与時あるいはカテーテル留置時に、穿刺する針の先端が硬膜外腔にあることを確認するための抵抗消失(LOR)法に空気あるいは生理的食塩水のどちらを用いるべきかについて、CT硬膜外造影法を用いて検討した。その結果、LOR法に空気を用いた場合、薬剤分布が狭く、また空気の塊が脊髄を圧迫する像が観察され、不十分な鎮痛効果や痛みなどの副作用の原因となることが考えられたため、以後は生理食塩水を用いたLOR法に統一した。次に、硬膜外腔への局所麻酔薬投与方法について検討した。なお、今回の研究では、局所麻酔薬としては術中に必要な筋弛緩効果が強く、効果発現も迅速であるリドカインを用いた。まず用量の異なる造影剤を針によって単回投与し、CT硬膜外造影法により検討したところ、薬剤の分布には用量依存性がみられたが、一方で個体によって解剖学的要因によるものと考えられる分布の違いがみられ、この要因は用量の違いよりも薬剤分布に大きく影響した。そこで、この個体差を少なくするために、硬膜外カテーテルを用いて造影剤を投与したところ、針による投与よりも薬剤分布に個体差が少ない結果が得られた。さらに、硬膜外カテーテルを用いて、リドカインの単回投与を1時間おきに繰り返す間欠投与法と、持続投与法を行った時の循環動態の変動幅を観察したところ、間欠投与法は投与のたびに心拍数、呼吸数、また血圧の低下がみられ、循環動態の変動幅が大きいことが明らかとなった。また、血中リドカイン濃度についても、両群でリドカイン投与後に同様に血中濃度が上昇するが、間欠投与法ではリドカインを再投与後、血中濃度の有意な上昇が繰り返される一方、持続投与法では総投与量が多いにもかかわらず、経時的に血中リドカイン濃度が上昇することはなかった。以上の結果から、犬において硬膜外鎮痛を行う上で、硬膜外腔を確認するためには生理食塩水を用いたLOR法が適していること、薬剤分布の個体差を少なくし、循環動態および血中濃度の変動幅を小さくするためには、硬膜外カテーテルを用いた持続投与法が優れていることが明らかとなった。

 次に第3章では、硬膜外腔に投与するリドカインの至適な負荷量および投与速度について検討した。まず、適正な負荷量を調べるために、2%リドカインを0.1、0.2および0.4ml/kg単回投与した場合の、循環動態、呼吸機能、血中リドカイン濃度および鎮痛効果への影響について検討した。その結果、0.2ml/kgを投与した場合、投与5分後から45分後まで血圧が若干低下するものの、心拍数および呼吸機能には影響をおよぼさず、血中リドカイン濃度も安全な範囲にあり、最も適していることが明らかとなった。続いて、持続投与速度を決定するために、2%リドカインを0.2ml/kg負荷投与した後に、0.1、0.2および0.3ml/kg/hrの速度で持続投与し同様の検討を行った。その結果、いずれの投与速度でも、投与5分後以降に血圧の低下が見られたが、投与速度0.3ml/kg/hrでは血中リドカイン濃度が蓄積する傾向にある以外には、投与速度による循環動態および呼吸機能の変化に大きな違いはみられなかった。そこで、鎮痛範囲を指標にさらに投与速度について検討を行った。その結果、上腹部までの手術に必要な鎮痛範囲の脊髄分節レベルである第4胸髄までの鎮痛は、投与速度0.1ml/kg/hrでは120分間維持することができなかったのに対して、0.2ml/kg/hrおよび0.3ml/kg/hrでは120分間維持できた。しかしながら、0.2と0.3ml/kg/hrでは鎮痛効果はほぼ同様であったため、投与速度は0.2ml/kg/hrが適していると考えられた。

 以上の検討で得られた投与方法では、第4胸髄レベルまでリドカインが分布するため、内臓交感神経ブロックによる抵抗血管の拡張、および心臓交感神経ブロックによる心収縮力や心拍数低下に起因する心拍出量減少により、血圧低下が生じることが予想される。そこで、第4章では、この点について詳しい検討を行った。その結果、心拍数の低下は認められなかったが、リドカイン投与中、重度ではないものの一定した血圧の低下、体血管抵抗の低下および心拍出量の低下が認められた。次に、この低血圧を改善する方法について検討するために、主に心拍出量を増加させるドパミン、循環血液量を増加させるヒドロキシエチルデンプン(HES)、および主に末梢血管を収縮させるフェニレフリンを投与した場合の効果を調べた。その結果、いずれの薬剤によっても、リドカインの硬膜外投与による血圧低下は改善された。しかし、HESでは血圧の回復がやや遅れ、前負荷増大によると考えられる心筋の酸素消費量の指標であるRate pressure productが増加した。また、フェニレフリンでは、末梢血管の収縮による後負荷増大によると考えられる心拍出量のさらなる低下が認められた。一方、ドパミンでは大きな副作用が認められず、心拍出量の増大によって投与直後から血圧を回復できた。これらの結果から、リドカイン持続硬膜外投与中の血圧低下の改善には、ドパミンが最も有用性が高いと考えられた。

 最後に、第5章では、前述の検討で得られた結果に基づいて、吸入麻酔薬による全身麻酔下で腹部から後肢までの手術を行った臨床例に対して、リドカインを用いた持続硬膜外鎮痛を併用した場合の効果と問題点について検討した。15症例で吸入麻酔薬の必要量について検討を行ったところ、硬膜外鎮痛を併用した場合のセボフルランMAC-BAR(侵害刺激に対する心拍数あるいは血圧の変動を半数の動物で抑制できる吸入麻酔薬の濃度)は1.34%であった。セボフルラン単独で麻酔を維持した症例のMAC-BARは、著しい血圧低下をきたす恐れが強く測定できなかったが、MAC-BARより低い濃度であるMAC(侵害刺激に対する体動を半数の動物で抑制できる吸入麻酔の濃度)が、犬のセボフルランでは2.1-2.4%と報告されていることから、リドカイン持続硬膜外鎮痛の併用により、セボフルランの必要量を十分に低く抑えられると考えられた。また、27症例で侵害刺激に対する生体ストレス反応の指標として血中コルチゾール濃度を測定したところ、手術中、良好な侵害刺激遮断効果を得ることができた。しかしながら、より頭側に脊髄分節支配のある臓器の操作中に、2症例で体動が、あるいはコルチゾール値の上昇を伴う循環動態の変動が1症例で観察され、鎮痛範囲が不足していた可能性が考えられた。また、この27症例中13症例で血圧低下が観察されたが、そのすべてで輸液量の増加あるいはドパミン投与により正常範囲に改善することが可能であった。さらに、長時間の手術例でも、血中リドカイン濃度は安全な範囲で一定しており、脊髄の損傷を疑わせる所見など、その他の副作用は全例で観察されなかった。これらのことから、リドカインによる持続硬膜外鎮痛は臨床例においても安全に実施することが可能であり、吸入麻酔薬の必要量を大幅に減らす一方で、鎮痛範囲においては優れた侵害刺激遮断効果を持つことが明らかとなった。

 以上の研究から、犬においても硬膜外鎮痛は有用であり、本法の併用によって、良好な術中の侵害刺激遮断効果を得ることができ、吸入麻酔薬の必要量を減少することが可能であることが明らかとなった。また、血圧の低下が副作用として認められたが、これはドパミンを投与することですみやかに改善することが可能であり、十分な安全性を持つと考えられた。実際の実施方法としては、硬膜外カテーテルを用いて、硬膜外腔に2%リドカインを負荷量として0.2ml/kg投与した後、0.2ml/kg/hrの速度で持続投与する方法が一つの指標になると考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

周術期の疼痛に関しては、従来術後鎮痛を中心に考えられてきたが、近年、術中鎮痛の重要性も認識されるようになってきた。一般に用いられる全身麻酔薬は十分な鎮痛(侵害刺激遮断)効果を持たないため、外見上は十分な麻酔状態にあっても、術中刺激に対する過剰な神経内分泌反応や、術後の強い痛みの原因となる痛覚過敏状態の形成を十分に抑制できない。したがって、術中に十分な侵害刺激遮断のできる鎮痛法を実施することが疼痛管理の面からも術後合併症予防の面からも重要である。種々の術中鎮痛法の中で、脊髄周囲の硬膜外腔に局所麻酔薬を投与する硬膜外鎮痛は、侵害刺激を脊髄レベルで直接ブロックできること、管理が煩雑な麻薬を用いなくても効果的な鎮痛・侵害刺激遮断ができること、硬膜外にカテーテルを留置することで、術後鎮痛にもそのまま応用可能なことなど優れた特性をもつ。しかし副作用として、血圧低下などの副作用を持つことも知られている。

 そこで本研究では、犬において、局所麻酔薬の持続投与による硬膜外鎮痛法を確立することを目的に、以下の実験を行った。

 第2章では、薬剤の硬膜外腔への投与方法について検討を行った。最初に、投与後の薬剤の分布について造影剤を用い、CTにより評価した。単回投与と硬膜外カテーテルによる投与を比較したところ、カテーテル投与の方が薬剤分布に個体差が少ない結果が得られた。また実際に短時間作用性のリドカインを硬膜外カテーテルから、1時間おきに間欠投与する方法と、持続投与法を行った時の循環動態を観察したところ、間欠投与法では循環動態の変動幅が大きいことが明らかとなった。また、血中リドカイン濃度についても、持続投与法では総投与量が多いにもかかわらず、経時的に血中リドカイン濃度が上昇することはなかった。

 第3章では、硬膜外腔に投与するリドカインの至適な負荷量および投与速度について検討した。まず、適正な負荷量を2%リドカイン0.1、0.2および0.4ml/kg単回投与で比較した。その結果、0.2ml/kgを投与した場合、血圧が若干低下するものの、心拍数および呼吸機能には影響をおよぼさず、血中リドカイン濃度も安全な範囲にあり、最も適していることが明らかとなった。続いて、持続投与速度を決定するために、2%リドカインを0.2ml/kg負荷投与した後に、0.1、0.2および0.3ml/kg/hrの速度で持続投与し、循環動態と鎮痛効果について検討を行った。その結果、投与速度は0.2ml/kg/hrが適していると考えられた。

 以上の検討でみられた循環機能異常は、第4胸髄レベルまでリドカインが分布するため、内臓交感神経ブロックによる抵抗血管の拡張、および心臓交感神経ブロックによる心収縮力や心拍数低下に起因する心拍出量減少により、血圧低下が生じることが予想された。

 第4章では、この低血圧を改善する方法について検討するために、主に心拍出量を増加させるドパミン、循環血液量を増加させるヒドロキシエチルデンプン(HES)、および主に末梢血管を収縮させるフェニレフリンを投与した場合の効果を調べた。その結果、いずれの薬剤によっても、リドカインの硬膜外投与による血圧低下は改善されたが、それらの中で、ドパミンは大きな副作用なしに、心拍出量の増大によって投与直後から血圧を回復できた。これらの結果から、リドカイン持続硬膜外投与中の血圧低下の改善には、ドパミンが最も有用性が高いと考えられた。

 第5章では、吸入麻酔薬による全身麻酔下で腹部から後肢部位の15頭の犬の手術例に対して、リドカインによる持続硬膜外鎮痛を実施した。その結果、セボフルラン吸入麻酔時のMAC-BAR(侵害刺激に対する心拍数あるいは血圧の変動を半数の動物で抑制できる吸入麻酔薬の濃度)は1.34%であったことから、麻酔に必要な吸入麻酔薬濃度を低下させることが明らかになった。また、27症例で侵害刺激に対する生体ストレス反応の指標として血中コルチゾール濃度を測定したところ、手術中、良好な侵害刺激遮断効果を得ることができた。いくつかの症例で軽度の血圧低下が観察されたが、いずれも輸液量の調節で改善された。

 以上要するに、本研究は従来犬の手術時は用いられなかった、硬膜外へのカテーテル設置による持続的な硬膜外鎮痛法を確立したものであり、臨床上貢献するところは少なくない。よって審査委員一同は本論文を博士(獣医学)として価値あるものと認めた。

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