学位論文要旨



No 122476
著者(漢字) 尾形,庭子
著者(英字)
著者(カナ) オガタ,ニワコ
標題(和) 探知犬の効率的育成の基盤となる行動的および遺伝的特性に関する研究
標題(洋)
報告番号 122476
報告番号 甲22476
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3200号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 西原,眞杉
 東京大学 教授 千田,和広
 東京大学 助教授 桑原,正貴
 東京大学 助教授 武内,ゆかり
内容要旨 要旨を表示する

 犬の気質に関する研究としては1950年代から60年代にかけて行われたScott & Fullerによるものがもっとも有名であり、気質形成における初生期環境の影響や情動反応性と訓練性能の関連など重要な発見が相次いだが、その後これに匹敵するような規模の研究は行われておらず、気質の生物学的基盤については今なお不明な点が数多く残されている。一方で経験的な観点からは、使役犬の訓練士など業務上多数の個体に接する専門家もまた作業能力や行動の表現型に影響を与える「気質」の重要性を認識しているとの報告があるが、そうした研究の多くは主観的行動評価に基づいており、評価基準や評価すべき表現型の定義づけが明確でなく、また生理学的指標の裏づけがないといった欠点があった。気質の生物学的基盤を明らかにすることは、基礎科学的な観点から興味深いばかりでなく使役犬の効率的育成への寄与といった応用科学的観点からも重要であり、客観的な指標に基づく研究の進展が待たれている。

 本研究はこのような現況を踏まえて、当研究室で進められている犬の気質に関する行動遺伝学的研究の一環として実施した。先行研究より、犬の気質関連遺伝子における多型の出現率には犬種差のあること、気質(行動特性)の犬種差が一部の遺伝子多型と関連すること、米国の盲導犬育成施設で行った調査では特定の遺伝子多型に合否との関連が存在する、といったことが明らかにされてきた。そこで本研究では麻薬探知犬の育成で国際的評価の高いオーストラリア税関の全面的協力を受け、盲導犬と同じラブラドールレトリバーという犬種でありながら全く異なる行動特性が必要とされる探知犬を研究対象とすることで、まず探知犬特有の行動特性を明らかにし、次に行動特性の評価結果と遺伝子多型との関連性について解析を行った。探知犬に求められる作業内容は非常に特化したものであるが、オーストラリア税関は10年以上前からその作業内容に見合う行動特性を強化させた世界で唯一の繁殖コロニーを維持している。

 本論文は5章から構成され、第1章において背景と目的を論じた後、第2章から第4章では本研究で実施した調査と実験について記述し、第5章において本研究で得られた成果をもとに総合的な考察を行った。

 まず第2章では、オーストラリア税関から探知犬候補ラブラドールレトリバー101頭分の行動評価スコアを入手し解析を行った。このコロニーでは生後3、6、12ヶ月齢時に探知犬として必要な行動をCRH(Chase, Retrieve and Hunt)testと呼ばれる8項目から成る方法で、また探知犬として望ましい気質をTemperament testと呼ばれる7項目から成る方法で、それぞれ評価している。また、生後2ヶ月から12ヶ月までは、子犬をパピーウオーカーと呼ばれる協力者の家庭に預託するが、その間に毎月、税関スタッフが各家庭を訪問し、探知犬として望ましい行動を強化するための3項目からなる「強化訓練」を実施し、その結果についても評価している。本章では、医学的理由により育成過程で排除された8頭をのぞく計93頭のうち、6ヶ月齢と12ヶ月齢においてCRHテストの記録が完備していた個体70頭(合格41頭、不合格29頭)と、そのうちさらにTemperamentテスト記録も完備していた個体52頭(合格29頭、不合格23頭)を用いて詳細な解析を行った。すなわちCRHテストについては8項目を因子分析により、またTemperamentテストについては7項目中スコアに偏りの見られた3項目を除いた4項目を用いて主成分分析により、それぞれ合否判定に関与する要因を探索した。

 その結果、CRHテストでは6ヶ月齢と12ヶ月齢のいずれにおいても3因子が抽出され、執着心、所有欲、独占欲という因子の構成成分から所有欲成分と名付けた因子2では、12ヶ月齢での因子得点について探知犬としての合否群間で有意差が認められた。一方、Temperamentテストでは、どちらの月齢でも主成分は一つに収束されたが、やはり12ヶ月齢において主成分得点に合否間での有意差が認められた。一方、強化訓練について上記CRHテストスコアの完備した個体70頭の結果を月ごとにまとめて主成分分析を行い合否との関連を調べたところ、各月齢の主成分は一つに収束され11ヶ月齢と12ヶ月齢時において合否群間で主成分得点に有意差がみられた。

 次の第3章においては、気質関連遺伝子の多型を探索した上で(第1節)、探知犬候補個体における多型の出現頻度を調べ2章で抽出された合否に影響を与える行動評価成分との関連を検討した(第2節)。第1節ではまず気質関連遺伝子の候補として4種の興奮性アミノ酸トランスポーター遺伝子に着目し、そのORFの塩基配列について、遺伝的背景の異なる10頭のビーグル犬から採取した遺伝子配列を比較することによって多型部位を検索した。その結果、Solute carrier family 1 (glial high affinity glutamate transporter)の member 6(SLC1A6: EAAT4)遺伝子において翻訳開始コドンより1060番目に一塩基多型(G1060A)が見出された。しかし、5犬種(ゴールデンレトリバー、ラブラドールレトリバー、マルチーズ、ミニチュアシュナウザー、シバイヌ)由来のゲノムDNAを解析したところ本多型は認められなかったため、これは犬種(ビーグル)特異的な多型ではないかと推測された。一方、同 family 1 member 2(SLC1A2: GLT-1)遺伝子では、翻訳開始コドンより129番目と471番目の2カ所にアミノ酸置換を伴わない一塩基多型(C129T、T471C)が同定され、これらの一塩基多型について5犬種で解析したところ、C129T はゴールデンレトリバー、ラブラドールレトリバー、シバイヌの3犬種で、また T471C は5犬種すべてにおいてその存在が認められたことより、これらが気質関連遺伝子の多型マーカーとして有用であるものと推察された。そのため第2節では本研究で対象とした探知犬の血液サンプルを入手してDNAを抽出し、各多型の遺伝子型を決定した。解析した気質関連候補遺伝子多型マーカーは本章第1節で検索したSLC1A2遺伝子を含む一塩基多型をもつ7遺伝子と挿入・欠失を伴う多型を持つ2遺伝子の合計9遺伝子16多型部位である。続いて、2章にて抽出された合否に影響を与える成分と各多型について関連を解析したところ、12ヶ月齢のTemperament主成分得点(n=54)とTyrosine Hydroxylase(TH)G168アレルおよびCatechol-O-methyltransferase (COMT)482Aアレルが、11ヶ月齢強化訓練主成分得点(n=68)とSerotonin receptor 1A(HTR1A)808Aアレルが、有意に関連することが判明した。これらの結果より、探知犬の合否には複数の遺伝子多型が影響していることが推察された。

 そこで第4章では、第2章および第3章で得られた知見をもとに探知犬における遺伝子多型と行動特性の関係について総合的な解析を試みた。まず第2章において合否両群間で有意差の認められた12ヶ月齢CRHテストにおける因子1(探索成分)、因子2 (所有欲成分)、因子3(活動性成分)の因子得点、Temperamentテストの主成分得点および強化訓練スコア(11ヶ月齢)主成分得点をそれぞれ目的変数とし、第3章2節で解析した9遺伝子マーカーのアレル型と各個体の性別および被毛色を説明変数として、すべてのスコアがそろった50頭を用いて重回帰分析を実施した。その結果、合否に有意差が認められたCRHテストの所有欲成分については、Dopamine receptor D2遺伝子多型、DRD4遺伝子多型および黒の被毛色が影響を与えていることが明らかとなった。またTemperamentテストにおける主成分得点に対しては、COMT遺伝子上のG482A多型と黒の被毛色が、11ヶ月齢時の強化訓練スコア主成分得点に対しては、HTR1B遺伝子上のC660G多型とHTR1A遺伝子上のC808A多型がそれぞれ有意な影響を与えていることが判明した。さらに同個体群を用いて、合否結果を目的変数とし、12ヶ月齢の行動評価と強化訓練スコア(11ヶ月齢)に性別、被毛色を加えて説明変数として判別分析を行ったところ(n=47)、有意な説明変数は11ヶ月齢の強化訓練主成分得点と12ヶ月齢のTemperament主成分得点となり、その判別率は70.2%であった。一方で6ヶ月齢の同項目を説明変数とした場合(n=47)は、6ヶ月齢のTemperament主成分得点のみが関連する説明変数となったが、その判別率は53.2%で、かなり精度に欠けることが明らかとなった。これらの結果より、現状の評価方法のみからでは、12ヶ月齢のデータを待たなくては合否予測が困難であることが示唆された。そこで性別と被毛色に加えて9遺伝子マーカーを説明変数として早期予測を試みたところ、7ヶ月齢時の強化訓練主成分得点を用いれば(n=46)、7ヵ月齢の強化訓練主成分、COMT遺伝子G216アレル、TH遺伝子180Aアレルが有意な説明変数となり、その判別率は71.7%となることが明らかとなった。これは上記12ヶ月齢の判別率を上回るものであり、このことから強化訓練主成分得点と遺伝子マーカーを説明変数として併用することにより、より効率のよい新たな合否予測方法を開発できる可能性が示された。

 以上、本研究では、安定した繁殖コロニーが維持されているオーストラリア探知犬群を対象として、既存の行動評価方法を客観的に解析し、探知犬の合否と関連する項目を抽出した。次に気質関連遺伝子の多型マーカーを探索し、探知犬候補個体群を対象として、これまであまり重視されていなかった「強化訓練スコア」を中心に行動評価の統計成分と遺伝子マーカーの情報を併せて判別分析を適当したところ、7ヶ月齢という比較的早期のデータをもとに探知犬としての最終的な合否を一定の精度で予測できることが示された。今後、さらに個体数を増やし再現性を確認する必要はあるものの、本研究の成果は、従来からの行動評価に遺伝子多型マーカーという新たな指標を導入することで、候補犬の適性判断や合否予測時期をより早期にまたより高い精度で行える可能性を示すものであり、同時に探知犬のみならず盲導犬など他の使役犬の育成にも応用可能な行動遺伝学的評価方法の基盤作りの重要性をあらためて示唆するものと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 犬の気質に関しては、主に経験的な観点から作業能力や行動の表現型に影響を与える「気質」の重要性を示す報告はみられるが、科学的な観点から気質の生物学的基盤を明らかにしようとした研究は殆どない。本研究では、麻薬探知犬の育成において国際的評価の高いオーストラリア税関の全面的協力を受け、盲導犬と同じラブラドールレトリバーという犬種でありながら、盲導犬とは全く異なる行動特性が求められる探知犬を研究対象とすることで、まず探知犬特有の行動特性について解析がなされ、次に行動特性の評価結果と遺伝子多型との関連性について検討が行われた。本論文は5章から構成され、まず第1章において背景と目的が論じられた後、第2章から第4章では本研究で実施された調査と実験について記述され、最後の第5章において本研究で得られた成果をもとに総合的な考察が展開されている。

 第2章では、オーストラリア税関から入手した探知犬候補ラブラドールレトリバー93頭分の行動評価スコアについて詳細な解析が行われた。このコロニーでは生後3、6、12ヶ月齢時に探知犬として必要な行動がCRH(Chase, Retrieve and Hunt)テストおよびTemperamentテストと呼ばれる方法で評価される。また、生後2ヶ月から12ヶ月までは、探知犬として望ましい行動を強化するための「強化訓練」が実施され、その結果も評価されている。本章では、6ヶ月齢と12ヶ月齢でのCRHテスト成績を因子分析により、またTemperamentテスト成績については主成分分析により、それぞれ合否判定に関与する要因が探索された。その結果、CRHテストでは所有欲成分と名付けられた12ヶ月齢での因子得点が、Temperamentテストでは12ヶ月齢の主成分得点がそれぞれ合否問で有意差を示した。一方、強化訓練については11ヶ月齢と12ヶ月齢時において合否群間で主成分得点に有意差がみられた。

 第3章においては、まず気質関連遺伝子候補として4種の興奮性アミノ酸トランスポーター遺伝子に着目し、それらのORF塩基配列について多型部位が検索された。その結果、Solute carrier family 1(glial high affinity glutamate transporter)のmember 6(SLC1A6:EAAT4)遺伝子において翻訳開始コドンより1060番目に一塩基多型(G1060A)が見いだされたが、5犬種ゲノムの比較よりこれは犬種(ビーグル)特異的な多型ではないかと推測された。一方、同family 1 member 2(SLC1A2:GLT-1)遺伝子では、翻訳開始コドンより129番目と471番目の2カ所にアミノ酸置換を伴わない一塩基多型(C129T、T471C)が同定され、C129Tはゴールデンレトリバー、ラブラドールレトリバー、シバイヌの3犬種で、またT471Cは5犬種すべてにおいてその存在が認められたことより、これらが気質関連遺伝子の多型マーカーとして有用であるものと推察された。こうした情報をもとに本研究で対象とした探知犬のDNAを用いて各多型の遺伝子型が決定された。解析された気質関連候補遺伝子多型マーカーは9遺伝子16多型部位であり、2章にて抽出された合否に影響を与える成分と各多型について関連が解析された結果、12ヶ月齢のTemperament主成分得点とTyrosine Hydroxylase(TH)G168アレルおよびCatechol-O-methyltransferase(COMT)482Aアレルが、また11ヶ月齢強化訓練主成分得点とSerotonin receptor 1A(HTR1A)808Aアレルが、それぞれ有意に関連することが見出された。これらの結果より探知犬の合否には複数の遺伝子多型が影響していることが推察された。

 第4章では、第2章および第3章で得られた知見をもとに探知犬における遺伝子多型と行動特性の関係について重回帰分析を用いての総合的な解析が試みられた。その結果、CRHテストの所有欲成分についてはDopamine receptor D2遺伝子多型、DRD4遺伝子多型および黒の被毛色が影響を与えていることが明らかとなった。またTemperamentテストにおける主成分得点に対してはCOMT遺伝子上のG482A多型と黒の被毛色が、11ヶ月齢時の強化訓練スコア主成分得点に対してはHTR1B遺伝子上のC660G多型とHTR1A遺伝子上のC808A多型が、それぞれ有意な影響を与えていることが判明した。さらに同個体群を用いて判別分析を行ったところ、12ヶ月齢時の行動評価と強化訓練スコア(11ヶ月齢)に性別と被毛色を加えた場合の判別率は70.2%であり、一方6ヶ月齢の同項目ではその判別率は53.2%であった。早期予測のため性別と被毛色に加えて9遺伝子マーカーを加えたところ、7ヶ月齢時の強化訓練主成分得点を用いればその判別率は71.7%となることが明らかとなった。これは上記12ヶ月齢の判別率を上回るものであり、このことから強化訓練主成分得点と遺伝子マーカーを説明変数として併用することで、より効率の高い新たな合否予測方法を開発できる可能性が示された。

 以上、本研究では、まず探知犬の合否と関連する項目が抽出され、これを用いて気質関連遺伝子の多型マーカーが探索された。また探知犬候補個体群を対象として、これまであまり重視されていなかった「強化訓練スコア」を中心に行動評価の統計成分と遺伝子マーカーの情報を併せた判別分析が適当された結果、7ヶ月齢という比較的早期のデータをもとに探知犬としての最終的な合否を一定の精度で予測できることが示された。こうした研究の成果は、候補犬の適性判断や合否予測時期をより早期にかつ高い精度で行える可能性を示すものであり、さまざまな使役犬の育成にも応用可能な行動遺伝学的評価方法の開発に資しまた学術上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は申請者に対し博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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