学位論文要旨



No 122483
著者(漢字) 桃沢,幸秀
著者(英字)
著者(カナ) モモザワ,ユキヒデ
標題(和) ウマの気質に関する行動遺伝学的研究
標題(洋)
報告番号 122483
報告番号 甲22483
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3207号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 西原,真杉
 東京大学 教授 千田,和広
 東京大学 助教授 桑原,正貴
 東京大学 助教授 武内,ゆかり
内容要旨 要旨を表示する

 動物が外的な環境変化に適応的な対応を行おうとする場合,全ての個体が常に同一の方法を選択するわけではなく,実際に取られる対応方法には個体により大きな差異が認められることが多い.それぞれの個体が示す対応方法には,異なる状況下で受ける刺激の種類が違っていたとしても通常一定の一貫性が観察され,こうした個体毎に特異的な反応様式の基盤となる心理的・生理的傾向は気質と称される.そして気質の個体差は遺伝的要因と環境的要因の相互の作用により形作られると考えられている.

 本研究は,ウマを研究モデルとして,気質の個体差を形成する遺伝的要因について検討することを目的としたものである.元来,ウマは騎乗者との意思疎通が十分になされてはじめて能力を発揮できることから,身体的形質に加えて気質も育種選抜の過程において重要な形質とみなされてきた特殊な家畜であるといえよう.しかしながら,気質の多様性あるいはその変容の遺伝学的背景に関する研究はきわめて少ないのが現状である.ウマの子は早成性であり比較的成熟した状態で誕生し飼育環境も比較的均一であることなど気質形成に与える初生期環境の影響がそれほど大きくないことから,気質の遺伝的要因を探るための研究モデルとして有利な点をもつことが予想される.

 本研究は,ウマの気質を客観的に評価するための方法について検討するとともに,その遺伝的要因について候補遺伝子解析,候補染色体領域解析,およびゲノムワイド解析という3種類の方法を用いて解析したものである.本論文は以下のように6章から構成されている.

 第1章は総合緒言であり,気質の定義および気質に及ぼす遺伝的要因に関する先行研究について解説し,本論文の目的を述べた.

 第2章では,ウマにおける適切な気質評価法の開発を目的として,個々の被験馬をよく知る厩務員が気質に関する質問について回答するアンケート調査および被験馬を新奇環境に導入して行動的・生理的反応を調べる行動実験という2種類の方法を並行して行い,両者の関連性について検討した.

 第1節では,この2種類の方法による評価の関連を検討するため,馬事公苑(日本中央競馬会)で飼養されている86頭を対象として,8項目から構成される気質評価アンケート調査を厩務員に対して行い,同時に被験馬にとって新奇環境となる覆い馬場において風船を新奇刺激とした行動実験を実施した.気質評価アンケート結果について因子分析を行ったところ3因子が抽出された.これらの因子のうち「不安傾向」をあらわすと考えられる因子1と,新奇環境下における心拍数変化と排糞回数の2項目の間に正の相関が認められた.「不安傾向」の高い動物が示すこのような行動的・生理的反応は,齧歯類など他の動物種においても報告されており,ウマにおける気質評価の指標としての有効性が示唆された.

 第2節では,第1節の結果をもとに項目数を20に増やした気質評価アンケートを作成して調査を行い,評価者間の一貫性,因子構造の保存性,行動実験における反応の予見性といった各観点からの解析を通じて,その信頼性および妥当性を検討した.2ヵ年にわたって,日高育成牧場(日本中央競馬会)に所属する2歳齢のサラブレッド計139頭を用い気質評価アンケートを実施した.その結果,評価者間での一貫性が認められ,また気質評価の実施時期(2002および2003年度)に応じて2群に分け因子分析を行ったところ,抽出された5因子のうち4因子については両群に共通で保存されており,3因子については高い内的一貫性が認められた.「不安傾向」を表す因子得点が高い個体ほど,新奇環境において隔離された際に心拍数の上昇が著しいという関係が認められたが,この結果は第1節の結果とよく一致した.

 以上のことから,気質評価のためのアンケート調査方法の信頼性と妥当性が確認されるとともに,次章以降の遺伝学的解析に用いるための対象集団として,品種・年齢・飼育環境・調教状態などが均一で気質の評価も済んだ100頭以上の個体から構成される理想的な実験群を得ることができた.

 第3章では,気質関連候補遺伝子として,主にモノアミン系に関連する11遺伝子を選択し,それぞれ翻訳領域の配列・多型・染色体部位について解析した.このうち塩基配列が報告されていない9遺伝子については,ヒトと高い相同性を示す翻訳領域の配列および22個の一塩基多型(SNP)を同定した.また,Radiation hybrid mapping法を用い,10遺伝子の染色体部位を同定した.次いで第2章で用いたサラブレッド実験群の各個体について,SNPと気質との関連を解析した.

 その結果,dopamine receptor D4(DRD4)遺伝子上に存在し,アミノ酸置換を伴うと考えられるSNP(A>G)に関して,AA・AGを持つ個体に比べGGを持つ個体では「好奇心」スコアが高いという関連性が認められた.このSNPが「好奇心」スコアの分散全体に占める割合(寄与率)は6.77%であった.DRD4遺伝子の多型とヒトの「新奇探求性」との関連やDRD4遺伝子欠損マウスにおける探索行動の低下が報告されていることなどを勘案すると,DRD4遺伝子の変異が「新奇探求性」に何らかの影響を与えることは,哺乳類の種を越えて広く観察される現象であろうと推察された.

 第4章では,競走馬としても重要な気質とされる「不安傾向」と関連が予想される染色体領域の解析を行った.ゲノムワイド解析からヒトの染色体1番長腕と8番短腕において「不安傾向」との関連が繰り返し示唆されている.このうち染色体1番長腕については,マウスの相同染色体部位に存在するregulator of G-protein signalling 2(Rgs2)遺伝子に存在する多型と「不安傾向」との関連が近年指摘されたことから,まずウマRGS2遺伝子の翻訳領域について塩基配列を決定し多型を探索したところ,アミノ酸置換を伴わない1つのSNPが同定された.このSNPについて各個体の遺伝子型を決定して解析したところ,雌雄のいずれにおいても遺伝子型間に類似した関係が認められたものの,その寄与率は1.32%にとどまり,ウマのRGS2遺伝子に存在する多型が「不安傾向」に与える影響は小さいものであった.

 一方,染色体8番短腕については,「不安傾向」との関連が示唆されているneuregulin 1遺伝子周辺の9配列を抽出し,9配列内の多型を探索するとともに,「不安傾向」スコアが極端に高いあるいは低い雌雄それぞれ4頭ずつ計16個体を用いて,両極端のスコアをもつグループ間において多型の遺伝子型頻度を比較した.その結果,steroidogenic acute regulator(STAR)遺伝子のイントロンに存在するSNP(C>T)頻度には両群間で差が示された.残りの個体についても遺伝子型を調べた結果,雌雄いずれにおいてもCC・TTを持つ個体に比べ,CTを持つ個体の「不安傾向」は低いことが判明し,この多型の「不安傾向」への寄与率は7.72%であった.以上の結果より,「不安傾向」の個体差を構成する分散全体のうち,第2章で明らかにされた性差(9.47%)および本章で明らかにされた2遺伝子の多型(Rgs2:1.32%,STAR:7.72%)により約20%については説明が可能であることが明らかとなった.

 第5章では,「不安傾向」に関わる遺伝的要因について,ゲノムワイドな方法を用いて解析を行った.ウマでは遺伝子マーカーが少ないため,遺伝子マーカーを使わずに解析できるAmplified Fragment Length Polymorphism法を用いた.第4章と同じ両極端な「不安傾向」スコアをもつ16個体のゲノムサンプルについて,3299個のバンドを解析した.209個の多型バンドの中から,「不安傾向」スコアが両極端のグループ間において差が明瞭な9多型バンドに着目し解析を進めたところ,2個についてはその配列を決定することができた.そのうちひとつは,チミンの挿入・欠失および制限酵素EcoRIの認識部位内にあるT>GのSNPにより生じることが明らかとなったが,それぞれの多型については両極端のグループ間では差は認められなかった.もうひとつは,ヒト染色体10q21上の配列と相同性が高くTGを繰り返し単位とするマイクロサテライト(14回,15回,17回,18回)により生ずると考えられ,その多型バンドに一致する18回繰り返しを持つ個体はそれ以外の個体に比べて「不安傾向」スコアが高い傾向が認められ,その寄与率は1.79%となった.

 第6章では,総合考察を行った.本研究から,(1)ウマの気質評価法として被験馬をよく知る厩務員が評価するアンケート調査方法の信頼性が示され,その評価を外的基準とした遺伝的解析の妥当性が確認された.また,(2)ウマの気質のうち「好奇心」の個体差の約7 %についてはDRD4遺伝子におけるアミノ酸置換を伴うSNP,また「不安傾向」の約8%についてはSTAR遺伝子のイントロンに存在するSNPにより,それぞれ説明が可能であることが示唆された.本研究で得られた知見をもとに,アンケート調査と行動実験の2種類の方法を組み合わせながら改善していくことで,ウマの多様な気質項目についてより正確な評価を可能とする気質評価系が構築されていくことが期待される.また,本研究で気質との関連が示唆されたDRD4遺伝子及びSTAR遺伝子の多型が気質におよぼす影響のメカニズム解明とともに,他の遺伝的要因についても「不安傾向」に関わるものを中心に解析が進められていく必要があろうと考えられる.

審査要旨 要旨を表示する

 外的な環境変化に動物が適応的な対処をしようとする場合、取られる対応方法には同一種であっても個体間で大きな差異が認められる。一方、それぞれの個体においては、異なる状況下で受ける刺激の種類が違っていたとしても一定の一貫性がみられることが多い。こうした個体毎に特異的な反応様式の基盤となる心理的・生理的傾向は"気質"と称され、気質の個体差は遺伝的要因と環境的要因の複雑な相互作用により形成される。本研究は、ウマを研究モデルとして、気質に及ぼす遺伝的要因について解析を行ったものである。まず第1章において本研究の背景と目的が論じられた後、第2章から第5章では本研究で実施された各実験について記述され、最後の第6章において本研究で得られた結果をもとに総合考察が行われている。

 第2章では、ウマにおける客観的な気質評価法の開発を目的として二つの実験が行われた。まず都内の馬事公苑(日本中央競馬会)で飼養されている86頭を対象として、8項目から構成される気質評価アンケート調査を厩務員に対して行い、同時に被験馬にとって新奇環境となる覆い馬場において風船を新奇刺激とした行動実験を実施し、これら二つの方法による気質評価の結果を比較した。気質評価アンケート結果について因子分析を行ったところ3因子が抽出され、そのうち「不安傾向」をあらわす因子1と、新奇環境下における心拍数変化と排糞回数の間に正の相関が認められた。「不安傾向」の高い動物が示すこのような行動的・生理的反応は、他の動物種においても報告されており、ウマにおける気質評価の指標としての有効性が示された。次に項目数を20に増やした気質評価アンケートを作成し、信頼性および妥当性を検討した。北海道の日高育成牧場(日本中央競馬会)に所属する2歳齢のサラブレッド計139頭を用いこの気質評価アンケートを実施した結果、評価者間での一貫性が認められ、また気質評価の実施時期に応じて2群に分け因子分析を行ったところ、抽出された5因子のうち4因子については両群に共通で保存されており、3因子については高い内的一貫性が認められた。「不安傾向」を表す因子のスコアが高い個体ほど、新奇環境において隔離された際に心拍数の上昇が著しいという関係が認められたが、この結果は馬事公苑での結果とよく一致した。以上のことから、気質評価のために開発したアンケート調査方法の信頼性と妥当性が確認されるとともに、次章以降の遺伝学的解析に用いるための対象集団として、品種・年齢・飼育環境・調教状態などが均一であり気質の評価も済んだ100頭以上の個体から構成される理想的な実験群を得ることができた。

 第3章では、気質関連候補遺伝子として、主にモノアミン系に関連する11遺伝子を選択し、それぞれの遺伝子に存在する遺伝子多型を明らかにした。そして、第2章から得られた実験群を用いて、遺伝子多型と気質との関連を解析した結果、dopamine receptor D4遺伝子上に存在しアミノ酸置換を伴うと考えられる一塩基多型SNP(A>G)に関して、AA・AGを持つ個体に比べGGを持つ個体では「好奇心」スコアが高いという関連性を見出した。このSNPが「好奇心」スコアの分散全体に占める割合(寄与率)は6.77%であった。

 第4章では、とくに「不安傾向」との関連が予想される染色体領域の解析を行った。ゲノムワイド解析によりヒト染色体1番に存在するregulator of G-protein signalling 2遺伝子はヒトやマウスにおいて不安傾向との関連が示されていることから、ウマにおいても不安関連遺伝子の候補として解析したところ、アミノ酸置換を伴わないSNPがひとつ同定された。このSNPについて各個体の遺伝子型を決定して気質との関連を解析したところ、雌雄いずれにおいても遺伝子型間に類似した関係が認められたものの、その寄与率は1.32%と低かった。同様にヒト染色体8番上で不安傾向との関連が示唆されているneuregulin 1遺伝子周辺の9配列を抽出し、9配列内の多型を探索するとともに、「不安傾向」スコアとの関連を調べた結果、steroidogenic acute regulator遺伝子のイントロンに存在するSNP(C>T)において、雌雄いずれにおいてもCC・TTを持つ個体に比べ、CTを持つ個体の「不安傾向」スコアは低いことが判明した。この多型の「不安傾向」への寄与率は7.72%であった。

 第5章では、「不安傾向」に関わる遺伝的要因について、Amplified Fragment Length Polymorphism法を用いて解析を行った。両極端の「不安傾向」スコアをもつ16個体のゲノムサンプルについて、3299個のバンドを解析したところ、209個の多型バンドが同定された。そのうち、「不安傾向」スコアの差が両極端のグループ間において明瞭な9多型バンドに着目し解析を進めたところ、そのうちひとつはTGを繰り返し単位とするマイクロサテライトにより生ずることが示された。その多型バンドに一致する18回繰り返しを持つ個体はそれ以外の個体に比べて「不安傾向」スコアが高い傾向が認められ、寄与率は1.79%となった。

 以上、本研究では、まず、ウマの気質評価法として被験馬をよく知る厩務員が評価するアンケート調査方法の信頼性が示され、ウマの気質のうち「好奇心」や「不安傾向」と関連性を示す4つの遺伝子多型が明らかにされた。本研究の成果は、哺乳類における気質に及ぼす遺伝的要因を理解する上で重要な知見であり、学術上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は申請者に対し博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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