学位論文要旨



No 122494
著者(漢字) 高祖,秀登
著者(英字)
著者(カナ) コウソ,ヒデト
標題(和) マウス発生期網膜からの未分化前駆細胞の単離と解析
標題(洋) c-kit and SSEA1 define temporally and spatially distinct progenitor subsets in developing mouse retina
報告番号 122494
報告番号 甲22494
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2790号
研究科 医学系研究科
専攻 分子細胞生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 栗原,裕基
 東京大学 教授 新家,眞
 東京大学 助教授 中村,元直
 東京大学 助教授 尾藤,晴彦
 東京大学 助教授 武井,陽介
内容要旨 要旨を表示する

 網膜は中枢神経の一部であり、一度傷害を受けると機能回復は困難である。そのため、再生医療が待ち望まれている。近年、成体マウスの網膜周辺部を機械的に単離して培養すると、増殖して網膜細胞に分化することが報告された。同様の現象がヒトでも報告され、哺乳類成体の網膜に幹細胞が残っている可能性が示された。この幹細胞を操作できれば、再生医療の実現に近づくことが期待できるが、いまだこれらの細胞の性質は明らかではない。その理由の一つとして、網膜幹細胞/前駆細胞に特異的な表面抗原が分かっていないことが挙げられ、実際、網膜細胞集団を分画してProspectiveに幹細胞を同定した研究の報告はない。

 本研究では、網膜前駆細胞の解析が進んでいる発生期網膜に着目して、網膜前駆細胞に発現する表面抗原を同定し、各々の細胞集団の増殖と分化を比較検討することで、未分化網膜前駆細胞集団を同定することを目的とした。さらに、それらの細胞集団の発生を制御するシグナル伝達経路を解析することで、網膜前駆細胞の未分化性を維持する分子機構についても解析を進めた。

 網膜は6種類の神経細胞と1種類のグリア細胞からなる。発生期には、単一種の網膜前駆細胞からこれらの細胞が、決まった順序で分化する。この順序は、細胞外の環境に依存しないため、網膜前駆細胞はその性質を時間とともに変えると考えられてきた。しかし、異なる時期の網膜前駆細胞に特異的なマーカーが限られていることもあって、網膜前駆細胞自身の変化については十分に解析が行われていないのが現状である。そこで、時期特異的な前駆細胞を単離して比較検討することで、網膜前駆細胞の分化系譜を明らかにしようと考えた。

 異なる時期の前駆細胞に特異的なマーカーとして、転写因子や細胞周期制御因子などが候補となるが、これらは細胞内分子のために細胞分画には適さない。表面抗原は、セルソーターを用いることで特定の細胞集団の単離を可能とし、各々の集団を比較することで未分化細胞集団のprospectiveな同定が可能である。CD抗原は、血液細胞の分画と解析に広く用いられているが、発生期網膜における発現の知見は限られている。そこで、まず発生期の網膜細胞を用いて130種類以上のCD抗原の発現を解析した。その結果、20種類以上の表面抗原が発生期網膜細胞で発現していることが分かり、中でもSSEA-1とc-kitが、以下で示すように網膜前駆細胞の新規表面抗原であることが明らかになった。

 SSEA-1は、Lewis X糖鎖抗原であり、ES細胞や神経幹細胞で発現が報告されている。成体網膜では、一部の分化細胞で発現が報告されているが、発生期網膜における報告はない。c-kitは、受容体型チロシンキナーゼであり、リガンドとしてSCF (stem cell factor)が知られている。変異マウスの解析から、c-kitシグナルが造血細胞、生殖細胞、色素細胞の発生に関与することが報告されている。成体網膜では、c-kitが一部の分化細胞で発現していることが報告されているが、発生期網膜での発現と機能に関しては報告がない。

 発生期網膜では、SSEA-1は初期(胎生14日前後)に広い範囲で発現を認めた。しかし発生後期(胎生17日〜生後1日)には、その発現は網膜周辺部に限局した。一方c-kitは、初期には発現レベルが低いのが、発生後期に発現レベルが上がり、中心部から周辺部へ向かって網膜全体で広く発現していた。網膜前駆細胞の大部分は増殖しており、マーカーとしてKi67を発現している。SSEA-1やc-kitをKi67と二重染色すると、Ki67陽性細胞はSSEA-1、c-kitを発現していた。次に、網膜細胞をSSEA-1とc-kit、Ki67で三重染色したところ、Ki67陽性細胞は発生につれて、SSEA-1とc-kitの発現を変化させていくことが分かった。以上より、SSEA-1、c-kitが網膜前駆細胞で発現しており、さらに網膜前駆細胞にSSEA-1(+)c-kit(-)、SSEA-1(+)c-kit(+)、SSEA-1(-)c-kit(+)という異なる集団が存在することが明らかになった。

 次に、SSEA-1とc-kitを指標として、異なる網膜前駆細胞集団を単離して増殖と分化を比較した。単離細胞を標識するためにGFPトランスジェニックマウスを用い、また増殖と分化を評価するために、in vitroでも前駆細胞が生体内に近い挙動をすることが報告されている再凝集培養系を利用した。まず、SSEA-1陽性細胞と陰性細胞を分画したところ、SSEA-1陽性細胞の方が高い増殖能と分化の遅れを示し、SSEA-1が未分化性の指標であることが示唆された。次に、c-kit陽性細胞と陰性細胞を分画したところ、増殖細胞はc-kit陽性分画に濃縮されることが分かった。さらに、c-kit陽性分画をc-kit(+)SSEA-1(+)の共陽性分画とc-kit(+)SSEA-1(-)の単一陽性分画に分けたところ、共陽性細胞の方が高い増殖力を示して、さらに視細胞とグリア細胞に分化し、未分化であることが分かった。以上の結果から、SSEA-1とc-kitの発現レベルが異なる前駆細胞は、異なる増殖能と分化能を有することが明らかになり、特にSSEA-1陽性の周辺部前駆細胞は、内因性に未分化な性質を持っていることが示された。

 次に、網膜周辺部のSSEA-1陽性細胞と、中心部のc-kit陽性細胞がどのような分子機構によって維持されているかを解析した。SSEA-1陽性、陰性細胞分画と、c-kit陽性、陰性細胞分画から各々cDNAを合成して、網膜前駆細胞の増殖、分化を制御することが知られている転写因子とシグナル伝達経路(FGF、EGF、Shh、Notch、Wnt)の遺伝子発現を比較した。その結果、c-kit陽性分画では、前駆細胞に特異的な遺伝子が高発現しているのに対して、c-kit陰性分画では、視細胞の分化に関与する遺伝子が高発現していた。さらに、Notchは両者で発現しているのに対して、標的遺伝子Hes1、Hes5はc-kit陽性分画のみで発現していた。そこで、次にNotchシグナルとc-kitの発現の関係を調べた。発生期網膜を単離して、フィルター上で体外培養すると、前駆細胞は生体に近い挙動で増殖と分化をすることが報告されている。この体外培養系にレトロウイルスを加えることで、増殖細胞(前駆細胞)に外来遺伝子を強制発現させることができる。この系を用いてNotchシグナル伝達分子を導入して、Notchシグナルを活性化したところ、遺伝子導入細胞はc-kitを高レベルで発現することが分かった。このことから、Notchシグナルがc-kit陽性細胞を正に制御していることが示された。

 次に、SSEA-1陽性細胞と陰性細胞分画の遺伝子発現を比較したところ、大部分の遺伝子は両者で発現していたが、Wntシグナル関連分子の発現レベルに違いを認めた。そこで、Wntシグナル伝達分子を導入して、Wntシグナルを活性化したところ、SSEA-1陽性細胞の割合が増加した。このことから、SSEA-1陽性細胞はWntシグナルによって正に制御されていることが示された。Notchシグナルとc-kit、WntシグナルとSSEA-1という関係は互いに特異的であり、以上より異なる領域の前駆細胞は、異なるシグナル伝達経路によって制御されていることが示唆された。

 最後に、c-kitシグナルが網膜前駆細胞の分化に及ぼす影響を解析した。網膜前駆細胞が増殖を止めるとc-kitの発現は急速に低下する。そこで、レトロウイルスを用いて、前駆細胞で恒常的にc-kitを発現させて、SCFによりc-kitシグナルを恒常的に活性化したときの影響を解析した。コントロールではSCFの添加は増殖に影響を与えなかったが、c-kitを恒常的に発現する細胞では増殖が促進した。増殖細胞は、未分化細胞のマーカーNestinを発現していた。次に分化を調べたところ、コントロールでもSCFの添加は軽度にグリア細胞への分化を促進したが、c-kitを恒常的に発現した細胞では、視細胞への分化が抑制され、グリア細胞への分化が高度に促進された。これらより、恒常的なc-kitシグナルは、網膜前駆細胞を未分化状態に保って増殖を促進し、最終的にグリア細胞へと分化させることが分かった。c-kitは、SCFと結合すると細胞内チロシン残基を自己リン酸化してPI3KとMAPKシグナルを活性化することが知られている。そこで、各々の活性が抑制されるc-kit変異体を用いて解析したところ、c-kitの作用にはMAPK(MEK-ERK)シグナル伝達経路が主な役割を果たすことが分かった。実際に、MEK阻害剤を用いることで、c-kitの作用が抑制されることが確認された。

 以上、本研究では、網膜前駆細胞の新規表面抗原としてSSEA-1とc-kitを同定し、これらが時間的・空間的に異なる前駆細胞を標識することを明らかにした。さらにin vitroの実験から、網膜前駆細胞の未分化性がSSEA-1(+)c-kit(-) -> SSEA-1(+)c-kit(+) -> SSEA-1(-)c-kit(+)の順で規定されることが示唆された。これらのSSEA-1陽性細胞とc-kit陽性細胞は、各々WntシグナルとNotchシグナルによって制御されていた。また、c-kitシグナルを恒常的に活性化することで、MAPKシグナルを介して、前駆細胞の未分化性を維持する作用が示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、網膜再生の基礎研究として、網膜幹細胞/前駆細胞の同定を試み、また未分化性を維持する分子機構を探索した研究であり、下記の結果を得ている。

 1. 表面抗原の網羅的な発現解析から、SSEA-1とc-kitが発生期網膜前駆細胞で発現することを示した。さらに免疫染色とin situ hybridizationにより、SSEA-1は発生初期に、c-kitは発生後期に発現することを示した。空間的にはSSEA-1は網膜周辺部に、c-kitは網膜中心部に発現することを示した。これらより、SSEA-1とc-kitが時間的、空間的に異なる網膜前駆細胞集団を標識することを明らかにした。

 2. セルソーターを用いてSSEA-1陽性細胞とc-kit陽性細胞を単離し、in vitroの再凝集培養系を用いて、これらの細胞が増殖能と神経細胞への分化能を有することを示し、発生期網膜から未分化前駆細胞を単離できることを示した。

 3. SSEA-1とc-kitを組み合わせて、SSEA-1、c-kit共陽性細胞とSSEA-1陰性c-kit陽性細胞を単離し、増殖能と分化能を比較することで、SSEA-1、c-kit共陽性細胞の方が未分化な性質を持つことを示した。

 4. SSEA-1陽性細胞と陰性細胞の発現遺伝子をRT-PCRにより比較し、Wntシグナル関連分子の発現レベルに差があることを示した。さらに、 カテニンあるいはLef1の変異体を網膜前駆細胞に遺伝子導入してWntシグナルを活性化すると、SSEA-1陽性細胞の割合が増えることを示した。

 5. c-kit陽性細胞と陰性細胞の発現遺伝子をRT-PCRにより比較し、Notchシグナル関連分子の発現レベルに差があることを示した。さらに、Notchの変異体を遺伝子導入してNotchシグナルを活性化すると、c-kit陽性細胞の割合が増え、一方Numbを遺伝子導入してNotchシグナルを阻害するとc-kit陽性細胞の割合が減少することを示した。

 6. 網膜前駆細胞にc-kitを強制発現させてSCFを投与し、c-kitシグナルを恒常的に活性化すると、前駆細胞は未分化なまま増殖を続け、最終的にグリア細胞へ分化することを示した。さらに、この作用はMAPKシグナル伝達経路を介することを示した。

 以上、本論文はSSEA-1とc-kitを用いて、発生期網膜から初めて未分化前駆細胞の単離を報告した。そして、これらの前駆細胞の維持にWnt、Notch、c-kit-MAPKシグナルが関与することを明らかにした。特に、これまで未知に等しかった網膜前駆細胞の分化系譜に関して、SSEA-1とc-kitを用いて未分化性が異なる前駆細胞集団の存在を示したことは、網膜発生過程の解明に重要な貢献をなすと考えられる。また臨床医学的観点からも、網膜前駆細胞に発現する表面抗原を同定したことは、網膜再生医療の実現に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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