学位論文要旨



No 122499
著者(漢字) 五十嵐,啓
著者(英字)
著者(カナ) イガラシ,ケイ
標題(和) 嗅球腹外側部と嗅皮質における匂い情報の表現
標題(洋) Representation of Odor Information in the Ventrolateral Zones of the Olfactory Bulb and in the Olfactory Cortex
報告番号 122499
報告番号 甲22499
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2795号
研究科 医学系研究科
専攻 機能生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮下,保司
 東京大学 教授 飯野,正光
 東京大学 教授 清水,孝雄
 東京大学 特任助教授 河崎,洋志
 東京大学 講師 辻本,哲宏
内容要旨 要旨を表示する

 嗅覚は、動物の生存に重要な情報を検知するためには欠くことの出来ない役割を担っている。中枢嗅覚系の一次野である嗅球では、表面に存在する糸球層が嗅覚受容体の地図を形成しており、この地図は嗅覚受容体の発現パターンの違いから4つのゾーンに分類されることが知られている。嗅覚受容体地図が空間的にどのような配置かを明らかにすることで、嗅球の匂い情報処理機構を理解する手がかりが得られるものとこれまで期待されてきた。個々の糸球の持つ分子受容範囲(molecular receptive range, MRR)の解析を行ったこれまでの報告から、嗅球の背側部に位置するゾーン1においては、匂い分子の持つ極性官能基が、糸球を活性化するために重要な役割を持つことが明らかになっている。しかし、ゾーン2-4の糸球の分子受容範囲の性質についてはまだ詳細な理解がなされていなかった。筆者は、内在性信号の光学測定法を用い、ラット嗅球の腹外側部における糸球の匂い刺激応答を記録した(図1)。

 その結果、極性官能基を持たない炭化水素匂い分子がゾーン1ではわずかな数の糸球しか活性化しないのに対して、腹外側部では多くの糸球を強く活性化することが明らかになった。この炭化水素に応答する糸球は、ベンゼン類炭化水素に応答するが環状テルペン炭化水素類には応答しない糸球群(糸球クラスターH)と、これら両方のクラスの炭化水素類に応答する糸球群(糸球クラスターI)の二つの糸球クラスターに分類された。炭化水素匂い分子と、極性官能基を含む匂い分子の両方を用いた個々の糸球のMRRの性質の解析から、糸球クラスターH・Iの糸球を活性化することのできる共通の分子構造の特徴は、特定の炭化水素骨格構造であることが明らかになった。また、これらの糸球クラスター内の糸球のうち一部はチオールやサルファイドなどの含硫匂い分子類(sulfur-containing odorant, SCO)にも応答した。以上の結果は、クラスターH・Iで表現されている嗅覚受容体が主に分子の炭化水素骨格や、分子の極性の低い部分を認識していることを示している。この結果はさらに、匂い分子の構造特徴を認識する様式が、ゾーン1に存在する嗅覚受容体と、ゾーン2-4に存在する嗅覚受容体とでは異なっていることを示唆している(図2)。

 膨大な化学種の匂い分子のなかでも、嗅球腹外側部の糸球が応答した含硫匂い分子類は、補食動物・危険信号・食物・同種動物の認識など、動物の生存や繁殖に重要な情報伝達を行っていることが示唆されている。しかしながら、中枢神経系で含硫匂い分子がどのように表現されているのかは未だよく分かっていない。筆者は次に、この行動学的に重要な含硫匂い分子を匂い刺激として用いて、マウスの梨状皮質から内在性信号の光学測定法により応答を記録する系を開発し記録を行った(図3)。

 その結果、後梨状皮質の腹側部はオニオン香および多くの含硫匂い分子に応答した。一方、前梨状皮質の尾側部はこれとは異なる種類の匂い分子に応答した。匂い応答選択性が部位により異なるというこれらの結果は、梨状皮質の異なる領域が異なる機能を持つことを示唆している。さらに、単独では後梨状皮質を活性化しない匂い分子との混合刺激を行うと、後梨状皮質の含硫匂い分子に対する応答が抑制されることが観察された。この結果は、梨状皮質の異なる領域間のダイナミックな相互作用が存在することを示唆している。

図1 嗅球腹外側部の糸球は炭化水素分子に応答する

A: ラット右嗅球の外側-腹側部の領域の糸球からの記録(太線内)。

B: ベンゼン類匂い分子刺激に対する糸球の応答。ベンゼン(B1)、m-キシレン(B2)に対する応答と、6種類のベンゼン類に対する応答の重ね合わせ(B3)。

C: テルペン炭化水素類の匂い分子刺激に対する糸球の応答。l-α-フェラドレン(C1)、カンフェン(C2)に対する応答と、6種類のテルペン炭化水素類に対する応答の重ね合わせ(C3)。

D: Eに示した20種の炭化水素分子に応答した35個の糸球。糸球1-19はクラスターH(緑点線)を、糸球25-34はクラスターI(赤点線)を形成している。

E: 20種の匂い分子に対する35個の糸球の応答強度(3段階で表示)。匂い分子はベンゼン類(上段10種類)、テルペン炭化水素類(中段6種類)、直鎖炭化水素類(下段4種類)に分けて示してある。

図2 嗅球の糸球クラスターA-Iの配置と糸球の認識する化学構造の違い

糸球クラスターA-Iが右嗅球の展開図上に示されている(点線)。実線内はこれまでに光学測定法で解析の行われた背側(クラスターA-G)および本研究で明らかになった腹外側部(クラスターH・I)を示す。クラスターA-D, H, Iのある一つの糸球が認識する匂い分子群の構造がそれぞれ示してある。ゾーン1に存在するクラスターA-Dの糸球は共通の極性官能基(太線)を持つ分子を認識する。一方、ゾーン2-4に存在するクラスターH, Iの糸球は共通の炭化水素骨格(太線)を持つ分子を認識する。クラスターH内のいくつかの糸球は、含硫匂い分子に特異的に応答する。A, 頭側; P, 尾側; D, 背側; V, 腹側; M, 内側; L, 外側。

図3 内在性信号の光学測定法による、梨状皮質の匂い応答記録

A-B: オニオン香は後梨状皮質(PPC)の腹側部を活性化したが(A)、アップル香は主に前梨状皮質(APC)の尾側部を活性化した(B)。応答はt検定により有意水準0.05以下で有意な応答を示したピクセルを黄色-赤色で示した。

C: 露出部位の血管像と前梨状皮質(APC)および後梨状皮質(PPC)の位置。

D-F:異なるマウスでのdimethyl sulfideに対する応答(D)と、dimethyl sulfideとt-2-hexenalの混合刺激に対する応答(E)。Dimethyl sulfideに対する応答と比較して、混合刺激に対する応答は有意に減少した(F; n=3, p<0.05, t-test)。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は齧歯類嗅覚系で匂い情報がどのように処理されているのかを明らかにするために、内在性信号の光学測定法を用い、一次嗅覚野である嗅球の外側部および二次嗅覚野である嗅皮質における匂い機能地図(匂い地図)の解析を行ったものであり、下記の結果を得ている。

 1. これまで解析の行われていなかった嗅球外側部(ゾーン2-4)の糸球群は、極性官能基を持たない炭化水素匂い分子によく応答し、炭化水素匂い分子はあまり応答のみられない嗅球背側部(ゾーン1)の糸球群とは性質が大きく異なる事が示された。

 2. 系統的に構造の異なる約20種類の炭化水素匂い分子を用い、それぞれの糸球の分子受容範囲を解析したところ、この炭化水素に応答する糸球は、ベンゼン類炭化水素に応答するが環状テルペン炭化水素類には応答しない糸球群(糸球クラスターH)と、これら両方のクラスの炭化水素類に応答する糸球群(糸球クラスターI)の二つの糸球クラスターに分類される事が明らかになった。

 3. 炭化水素匂い分子と、極性官能基を含む匂い分子の両方を用いた個々の糸球の分子受容範囲の解析から、糸球クラスターH・Iの糸球を活性化することのできる共通の分子構造の特徴は、特定の炭化水素骨格構造であることが明らかになった。

 4. さらにこれらの糸球クラスター内の糸球のうち一部はチオールやサルファイドなどの含硫匂い分子類にも応答した。以上の結果から、クラスターH・Iで表現されている嗅覚受容体が主に分子の炭化水素骨格や、分子の極性の低い部分を認識していることが示され、匂い分子の構造特徴を認識する様式が、ゾーン1に存在する嗅覚受容体と、ゾーン2-4に存在する嗅覚受容体とでは異なっていることが示唆された。

 5. 二次嗅覚野である嗅皮質のうち、梨状皮質から内在性信号の光学測定法により応答を記録する系を開発し記録を行ったところ、後梨状皮質の腹側部はオニオン香および多くの含硫匂い分子に応答し、前梨状皮質の尾側部はこれとは異なる種類の匂い分子に応答した。匂い応答選択性が部位により異なるというこれらの結果から、梨状皮質の異なる領域が異なる機能を持つことが示唆された。

 6. 単独では後梨状皮質を活性化しない匂い分子との混合刺激を行うと、後梨状皮質の含硫匂い分子に対する応答が抑制されることが観察された。この結果から、梨状皮質の異なる領域間のダイナミックな相互作用が存在することが示唆された。

 以上、本論文は齧歯類の嗅球外側部の糸球が、匂い分子の極性の低い化学構造を認識する嗅覚受容体を表現していることを明らかにした。また、嗅皮質のうち、前梨状皮質と後梨状皮質が異なる匂い情報を表現し、異なる機能を持つ可能性があることを示した。本研究は、嗅覚神経系における匂い情報処理機構の解明に貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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