学位論文要旨



No 122502
著者(漢字) 古谷,和春
著者(英字)
著者(カナ) フルタニ,カズハル
標題(和) 成熟マウス小脳平行線維 : プルキンエ細胞シナプスにおける活動依存的機能維持
標題(洋) Activity-dependent functional maintenance of parallel fiber-Purkinje cell synapses in the adult mouse cerebellum
報告番号 122502
報告番号 甲22502
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2798号
研究科 医学系研究科
専攻 機能生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 清水,孝雄
 東京大学 教授 高橋,智幸
 東京大学 教授 真鍋,俊也
 東京大学 助教授 尾藤,晴彦
 東京大学 助教授 小西,清貴
内容要旨 要旨を表示する

 中枢神経系におけるシナプス機能の可塑的変化は、記憶学習の素過程と考えられ、盛んに研究が進められている。一方、シナプス機能の維持については、情報の正確な伝達や蓄積に重要であると考えられているにも関わらず、多くの点で不明である。中枢神経系の多くのシナプスは活動依存的に発達、成熟することが知られているが、成熟したシナプス機能を維持するために神経活動が必要であるのか十分調べられていない。本研究では、細胞構築やシグナル伝達経路が比較的明らかにされており、神経活動依存的な回路網発達がよく調べられている小脳皮質内の、平行線維-プルキンエ細胞シナプスをモデルとし、このシナプスにおける機能維持機構を明らかにすることを目的とした。

 本研究ではプルキンエ細胞内でおこるシグナル伝達系のうち、Inositol 1,4,5 trisphosphate(IP3)シグナリングに注目した。IP3は細胞内カルシウムストアからのカルシウム放出を制御するセカンドメッセンジャーであり、細胞外からの刺激に応じて、様々な細胞機能を調節することが知られている。平行線維-プルキンエ細胞シナプスの活動により、プルキンエ細胞において代謝型グルタミン酸受容体(mGluR)依存的なIP3産生がおこる。しかしながら、プルキンエ細胞において生理的におこるIP3産生が果たしている役割に関しては、知見は非常に乏しい。

 生体内におけるプルキンエ細胞選択的なIP3シグナリングの阻害は、ウイルスベクターを用い、IP3分解酵素であるIP3 5-phosphataseをマウス小脳のプルキンエ細胞に発現させることで達成した。この方法により非常に強力にIP3シグナリングを阻害できることは、同一条件で行なわれた以前の研究で示されている。IP3 5-phosphataseを発現させたことによるシナプス機能への影響を調べるため、自由に行動できるマウスの脳内で十分なタンパク質の発現を待った後(ウイルス液を注入後24時間後)、急性小脳スライス標本を作製し、プルキンエ細胞にホールセル・パッチクランプ法を適用し、平行線維入力に応じた興奮性シナプス後電流(平行線維EPSC)を記録した。その結果、IP3 5-phosphatase発現プルキンエ細胞において平行線維入力に対する応答が有意に低下していることを見いだした(図1)。一方、近傍のウイルス非感染プルキンエ細胞、もしくは酵素活性を欠損した変異体IP3 5-phosphatase(R343A)発現プルキンエ細胞からの記録ではこのような変化は認められなかった(図1)。このことは、生体内で生理的におこる、プルキンエ細胞内IP3産生がシナプス機能を維持するために必須であることを示している。

 次にIP3 5-phosphatase発現によるシナプス機能低下の機序を解析した。シナプスにおける伝達過程は伝達物質の放出過程と受容過程からなる。まず、IP3 5-phosphataseを発現させたプルキンエ細胞の機能変化について検討した。細胞外液のCa(2+)イオンをSr(2+)イオンに置換すると、電気刺激により誘発されるEPSCを構成する個々の成分(量子EPSC)がばらけて出現し、記録可能になる。この量子EPSCの振幅にはIP3 5-phosphatase発現群と対照群の間に有意な変化は認められず、このことからシナプス後細胞の伝達物質への感受性には変化がないと考えられた。一方、シナプス前終末からの伝達物質放出確率における変化を解析するためpaired-pulse ratioおよびcoefficient of variationを比較したところ、IP3 5-phosphatase発現群において有意な値の上昇が認められた(図2)。このことはIP3 5-phosphatase発現プルキンエ細胞に入力する平行線維からの伝達物質放出確率の低下を示唆する。

 次に、平行線維シナプス機能を維持する為に必要なプルキンエ細胞IP3シグナリングが、どのような神経活動により引き起こされるのか調べた。仮説として、平行線維の活動によるmGluRの活性化が関与していると考えられた。そこでこれを検証した。

 グルタミン酸受容体拮抗薬を含んだ有機樹脂ポリマーの小片をマウス小脳皮質表面上に埋め込むことによって、in vivoにおける神経伝達阻害を達成した。小脳回路網が完成した生後3週目以降、mGluR拮抗薬を小脳局所へ慢性投与し、その後、急性小脳スライスを作成し、薬物を洗い流した後、シナプス機能への影響を調べた。mGluR拮抗薬投与部位付近のプルキンエ細胞からホールセル記録を行なったところ、IP3 5-phosphataseを発現した際と同様の平行線維機能低下が認められた。一方、同一スライス内でも薬物投与部位から離れた位置のプルキンエ細胞からの記録ではシナプス機能に変化は認められなかった。このことは、平行線維シナプス機能が局所的なmGluRの活動に依存して維持されていることを示している。さらに、同様の方法によりNMDA型グルタミン酸受容体拮抗薬を投与し、平行線維の細胞体である顆粒細胞の発火に必要なNMDA型グルタミン酸入力を抑制することによっても、平行線維機能が低下することが明らかとなった。つまり仮説は支持され、平行線維の活動によるシナプス後膜mGluRの活性化とそれに続くIP3産生が平行線維シナプス前終末機能を維持するため必要であると考えられた(図3)。

 引き続き、シナプス後細胞(プルキンエ細胞)におけるIP3シグナリングがシナプス前終末(平行線維)からの伝達物質放出確率を維持する機構を解析した。このような機構として、シナプスを逆行する制御因子の関与が推測される。成熟小脳において脳由来神経栄養因子(BDNF)はプルキンエ細胞に多く発現し、平行線維終末にBDNF受容体TrkBの発現が示唆されている。さらにBDNF遺伝子欠損マウスにおいて平行線維-プルキンエ細胞シナプスのシナプス前終末機能の変化が報告されている。BDNFは神経活動依存的に産生、遊離されることが報告されているが、成熟小脳における役割は十分調べられていない。本研究において、Trk受容体阻害薬であるK252aやBDNFの中和抗体を、発達期を終えた小脳皮質への慢性投与することにより、平行線維からの伝達物質放出確率が有意に低下することを見いだした。このことから、BDNFのシナプス機能維持機構への関与が推測された。

 そこでBDNFがIP3シグナリングの下流でシナプス維持機構に関与しているのか解析した。ウイルスベクターを用いた遺伝学的手法と有機樹脂ポリマーを用いた薬理学的手法を同時に適用することにより、(1)IP3 5-phosphatase発現によるシナプス前終末機能低下は外因的なBDNFの投与により完全に救助されること、(2)IP3 5-phosphatase発現細胞において、BDNFの中和抗体の投与は更なる作用を示さないことが明らかとなった(図4)。このことは、BDNF中和抗体がIP3 5-phosphataseと同一の機序により、しかもIP3シグナリングの下流においてシナプス前終末機能を低下させていることを意味する。

 このような一連の実験により、成熟小脳平行線維-プルキンエ細胞において、活動依存的なシナプス機能維持機構の存在とその分子機構が明らかとなった(図5)。平行線維終末から放出されたグルタミン酸はシナプス後膜のmGluRを活性化し、IP3-BDNFを介したシグナル伝達系により平行線維終末に再び伝えられる。このようなフィードバック経路によりシナプス機能は維持されている。本研究によって明らかにされたこれらの知見は、成熟脳におけるシナプス維持機構の解明という未解決な問題に光を当て、またmGluRを介したシグナル伝達系の生理的意義の理解を進めるものであると考えられる。

図1 IP3 5-phosphatase(5-Ppase)発現プルキンエ細胞では平行線維入力に対する応答が小さい

図2 IP3 5-phosphatase発現プルキンエ細胞では平行線維シナプス応答におけるPaired-pulse ratio及びCoefficient of variation(CV)が有意に大きい

図3 プルキンエ細胞におけるIP3シグナルを慢性的に阻害することでおこる平行線維入力の減弱

図4 IP3依存的なシナプス維持機能へのBDNFの関与

図5 本研究で示唆された平行線維―プルキンエ細胞シナプスの機能維持に関与するポジティブフィードバック機能の模式図

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、成熟脳においてシナプス機能が維持される機構を明らかにするため、神経活動と細胞内シグナル伝達系の果たす役割を、分子生物学的手法、薬理学的手法、および電気生理学的手法を用い、小脳平行線維−プルキンエ細胞シナプスをモデルとして解析し、下記の結果を得ている。

1.IP3特異的な脱リン酸化酵素であるIP3 5-phosphataseを、シンドビスウイルスベクターを用いてマウス小脳のプルキンエ細胞に過剰発現させることにより、生体内において、プルキンエ細胞選択的なIP3シグナリングの阻害を行なった。その結果、IP3 5-phosphatase発現プルキンエ細胞において、平行線維入力に応じたシナプス応答が有意に減弱し、シナプス機能の低下が示唆された。

2.IP3 5-phosphatase発現プルキンエ細胞における平行線維シナプス応答の減弱の機序を解析した結果、シナプス後膜側の機能変化を示唆する結果は得られなかったが、シナプス前終末機能の低下を示唆する、平行線維EPSCのpaired-pulse ratioおよびcoefficient of variationの有意な増大が認められた。

3.IP3シグナリングの上流の神経活動を明らかにするため、グルタミン酸受容体拮抗薬を含んだ有機樹脂ポリマーの小片をマウス小脳皮質表面上に埋め込み、in vivoにおける神経活動の慢性阻害を行なった。代謝型グルタミン酸受容体(mGluR)拮抗薬の慢性投与後、IP3 5-phosphataseを発現した際と同様の平行線維機能低下が認められた。さらに、同様の方法によりNMDA型グルタミン酸受容体拮抗薬を投与し、平行線維の細胞体である顆粒細胞の発火に必要なNMDA型グルタミン酸受容体入力を抑制することによっても、平行線維機能が低下することが明らかとなった。

4.IP3シグナリングの下流でシナプス機能維持機構に関与する因子の同定を試み、探索の結果、脳由来神経栄養因子(Brain-derived neurotrophic factor, BDNF)の中和抗体を慢性投与し、BDNFの働きを阻害することにより、IP3 5-phosphataseを発現した際と同様の平行線維機能低下が起こることを見いだした。

5.IP3 5-phosphatase発現によるシナプス前終末機能低下は外因的なBDNFの投与により完全に救助され、IP3 5-phosphatase発現細胞において、BDNFの中和抗体の投与は更なる作用を示さないことから、BDNFがIP3シグナリングの下流でシナプス維持機構に関与していると考えられた。

 本論文は、成熟小脳平行線維−プルキンエ細胞シナプスの機能が活動依存的に維持されていることを明らかにし、その分子機構を示した。平行線維の活動は、神経終末からのグルタミン酸放出を起こし、プルキンエ細胞においてmGluR依存的にIP3シグナリングを活性化する。このようなシナプスにおける順行性の情報伝達は、引き続きBDNFの働きを活性化し、今度は逆行性に平行線維終末に伝えられ、シナプス機能を維持している。このようなフィードバック制御はシナプスを使い続けているかぎり起こり、シナプス機能の維持を達成していると考えられる。本論文は、成熟脳におけるシナプス維持機構の解明という未解決な問題に光を当て、またmGluRを介したシグナル伝達系の生理的意義の理解を進めるものであると考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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