学位論文要旨



No 122511
著者(漢字) 王,峰
著者(英字) Wang,Feng
著者(カナ) オウ,ホウ
標題(和) フォスファチジルイノシトール3リン酸5‐フォスファターゼ、Pharbinの生理機能の解析
標題(洋) Functional analysis of phosphatidylinositol 3,4,5-trisphosphate 5- phosphatase, Pharbin
報告番号 122511
報告番号 甲22511
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2807号
研究科 医学系研究科
専攻 病因・病理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊庭,英夫
 東京大学 教授 中内,啓光
 東京大学 助教授 仙波,憲太郎
 東京大学 助教授 井上,貴文
 東京大学 助教授 関野,祐子
内容要旨 要旨を表示する

<背景と目的>

 イノシトールリン脂質は単に細胞膜の構成成分だけではなく、様々な細胞内シグナル伝達に関わる重要な分子であることが知られている。これまで、PI(3)Pを始め、PI(4)P、PI(5)P、 PI(3,4)P2、 PI(3,5)P2、 PI(4,5)P2 とPI(3,4,5)P3を合わせて全7種類のイノシトールリン脂質が見出された。中でもPI(4,5)P2はホスホリパーゼC(PLC)によって加水分解され、二つの重要な二次メッセンジャー、inositol 1,4,5-trisphosphate (Ins(1,4,5)P3)とdiacylglycerol (DG)を生じる。Ins(1,4,5)P3は小胞体のIns(1,4,5)P3依存性チャネルに結合し小胞体からのCa2+動員を引き起こし、DGはタンパクキナーゼC(PKC)を活性化する。こうした二次メッセンジャー産生脂質としての役割だけでなく、PI(4,5)P2はプロフィリン、コフィリンやゲルソリンなどのアクチン調節タンパク質に直接結合し、細胞骨格系を制御することが知られている。また、PI(3)PやPI(3,5)P2はエンドソームを中心とする細胞内小胞輸送に関与する。一方、PI3-キナーゼ産物の一つPI(3,4,5)P3はセリン/スレオニンキナーゼであるAktやPDK1などのPHドメインに結合し、この一連の重要なタンパク質を細胞膜に移行させることによって、細胞の増殖、細胞死、タンパク質合成や糖の代謝など様々な機能を制御する役割を果たしている。

 細胞内におけるイノシトールリン脂質の代謝はホスファチジルイノシトールキナーゼおよびホスファターゼによって極めて厳密に制御されている。キナーゼとしてPI 3-kinase、PI 4-kinase、PI4P 5-kinaseやPI5P 4-kinaseが知らっているが、ホスファターゼに関してはイノシトール環の3位、4位、あるいは5位のリン酸基への特異性により3-ホスファターゼ、4-ホスファターゼ及び5-ホスファターゼが存在する。中でもPTEN遺伝子産物は3-ホスファターゼであり、癌患者においてp53の次に高頻度で変異が見出される非常に重要な癌抑制遺伝子でもある。この酵素活性が低下すると、癌の発生する確率が増加するという事実は、PI(3,4,5)P3が癌の発生と密接な関係があることを示唆している。5-ホスファターゼは一番大きなファミリーをするホスファターゼで、Type1 5-phosphatseを始め、Synaptojanin1/2, OCRL (oculocerebrorenal syndrome of Lowe),PIPP (proline-rich inositol polyphosphates), SKIP (skeletal muscle- and kidney-enriched inositol polyphosphate phosphatase), SHIP1/2 (SH2 domain-containing inositol phosphatase1/2), 及びPharbinの9つのメンバーから成る。これらの5-ホスファターゼは小胞輸送、細胞骨格制御、糖代謝など幅広く細胞機能に関わることが明らかにされつつある。

 インスリン様成長因子(IGF-1)は多くの細胞の増殖、分化に必須なホルモンであり、個体レベルでも個体の発達や成長に重要な役割を果たしている。IGF-1 受容体はIGF-1 の結合によって活性化されるチロシンキナーゼであり、受容体自身を自己リン酸化し、さらにこの基質であるinsulin receptor substrate (IRS)をリン酸化する。このシグナルは主に二つ経路、すなわちMAP kinase カスケードとPI 3-kinase-Akt経路に分かれて下流へと伝達される。MAP kinase カスケードへの伝達はIGF-1の刺激によるIRSやShcなどのチロシンリン酸化によって引き起こされる。これらのリン酸化チロシン残基を認識してSH2ドメインを有するGrb2が結合し、さらにGDP/GTP交換因子Sosと複合体に形成する。その結果、細胞膜にアンカーされているGタンパク質Rasを活性化しMAP kinaseカスケードへと伝達される。一方、リン酸化されたIRSはPI 3-kinaseを活性化することにより、細胞膜でPI(3,4)P2とPI(3,4,5)P3を生じ、PHドメインを有するAktやPDK1などが細胞膜に呼び寄せられ、そしてAktが活性化される。次に活性化されたAktは更なる下流に存在する数種類の基質分子をリン酸化し、細胞増殖や分化、細胞死、タンパク質合成や糖代謝など幅広い細胞機能を制御する。

 近年、IGF-1シグナルがPI3-kinase-Akt-mTORを経由してp70 S6 kinaseや4E-BP1をリン酸化することにより、mRNAの翻訳開始を誘導することが報告されている。しかし、このシグナル伝達を負に制御する機構は明らかとなっていない。そこで本研究では、5-ホスファターゼであるPharbinがIGF-1情報伝達系において果たす役割、特にタンパク質合成に至る制御機構を中心として検討した。

<結果と考察>

 まず、GSTタグをつけたPharbinタンパク質をSf9細胞発現系で発現させ、精製したのち、全7種類のイノシトールリン脂質に対する基質特異性を検討した。その結果、PI(4,5)P2とPI(3,4,5)P3がこの酵素の基質であることが判明した。さらに、PI(4,5)P2とPI(3,4,5)P3を基質とするみかけ上のKm値はそれぞれ507μMと287μMと算出された。PI(3,4,5)P3に対する反応速度はPI(4,5)P2の1.8倍と速いことから、PI(3,4,5)P3がもっとも効率の良いPharbinの基質であることが示唆された。

 次に分子レベルでPharbinの生理機能を調べるため、野生型Pharbin遺伝子、二つのホスファターゼ活性モチーフを欠失した変異体Pharbin遺伝子、およびコントロールとしてGFP遺伝子の組み換えアデノウィルスを作製した。この3種類のアデノウィルスをHeLa細胞に感染させ、それぞれの最適な発現条件を決定したのち、Pharbinの機能解析を行った。

 まず、コントロールおよび野生型Pharbin過剰発現細胞における全リン脂質を抽出し、TLC blotting 法によって各種イノシトールリン脂質量を測定した。その結果、Pharbin過剰発現細胞内ではPI(3,4,5)P3量が有意に低下しており、同脂質が本酵素の生理的な基質であることが明らかとなった。

 次に、上記の3種類の組み換えアデノウィルスを発現させたHeLa細胞を50ng/mlのIGF-1で刺激した。細胞抽出液調製後、ウェスタンブロッティングにより検討したところ、まずIGF-1受容体の自己リン酸化は野生型、変異型Pharbinの発現による有意な差は認められなかった。次に、IGF-1受容体の下流におけるMAP kinaseカスケートへの影響を特異的リン酸化抗体を用いて検討した。IGF-1刺激依存的なMAP kinaseのリン酸化が観察されたものの、Pharbinの過剰発現による影響は認められなかった。その一方で、PI 3-kinase経路を介するAktのリン酸化は野生型Pharbinの過剰発現により顕著に抑制された。さらに、反対にRNA干渉によって内在性Pharbinの発現を約40%程度まで低下させたところ、IGF-1刺激によるAktのリン酸化が約20-30%増加した。これらの結果からPharbinがPI 3kinase-Akt特異的な情報伝達経路を負に制御することが強く示された。PI3-kinase-Akt情報伝達経路は細胞増殖、細胞死、タンパク質合成など、様々な細胞機能に深く関わることが知られており、Pharbinはこれを抑制することにより、生体内においても重要な役割を担うと考えられた。

 次に、Aktよりさらに下流経路へのpharbinの関与を検討するために、IGF-1刺激依存的なGSK3βとp70 S6 kinaseのリン酸化レベルを比較した。P70 S6 kinaseの場合、IGF-1刺激によって酵素活性を決定するThr389のリン酸化が野生型Pharbinの発現によって強く抑えられた一方、MAP kinaseの活性化のみに依存するThr421/Ser424のリン酸化は影響を受けなかった。この結果は、前述したPharbinがMAP kinaseの活性化に影響しないことに一致した。P70 S6 kinaseはRibosomal protein S6をリン酸化し、そして活性化されたRibosomal protein S6 は5'-TOP(5'-terminal oligopyrimidine tract)を持つmRNAの翻訳を開始させ、タンパク質合成を進めることが知られている。そこで、PharbinはIGF-1依存的なタンパク質合成を制御する可能性が考えられた。

 タンパク質合成を制御するもう一つの重要な分子である4E-BP1がAkt-mTORの下流に存在する。細胞が静止期にある時は、4E-BP1がタンパク質合成の開始因子であるeIF4Eと強く結合し、mRNAの翻訳を開始させるeIF4F(eIF4E、eIF4GとeIF4A)複合体の形成を阻害する。増殖因子などの刺激により4E-BP1がリン酸化されると、速やかに4E-BP1-eIF4E複合体が解離し、eIF4EはeIF4G,eIF4Aと複合体を形成してタンパク質合成を開始する。本研究においても、IGF-1刺激によって4E-BP1の段階的なリン酸化が観察された。さらに、7-methy-GTP sepharoseビーズを用いたpulldownアッセイの結果から、4E-BP1とeIF4Eとの結合がIGF-1刺激に伴うリン酸化によって減少することが確認された。重要なことに、野生型Pharbinの過剰発現によってこの4E-BP1のリン酸化を強く抑えられるとともに、コントロールと比較して4E-BPとeIF4Eとの複合体形成が上昇していることが明らかになった。この一連の結果からPharbinがIGF-1依存的なタンパク質合成の誘導を負に制御することが強く示された。次に、(35)S標識されたアミノ酸のHeLa細胞への取込みを測定し、IGF-1刺激によるタンパク質合成への効果を比較したところ、野生型Pharbinの発現によりタンパク質合成は約14%低下することが判明した。細胞内のタンパク質合成への影響はアミノ酸の濃度を始めとする複雑な要因があり、さらに最適な条件を検討する必要があると考えられる。

 IGF-1刺激により、アクチン細胞骨格の再編成および細胞膜のラッフリング形成を引き起こすことが報告されている。そこでPharbinはこの過程に関与するかを検討するために、Mycタグを付加した野生型Pharbin 遺伝子、ホスファターゼ活性モチーフを欠失した変異体Pharbin遺伝子およびベクターのみを各々HeLa細胞系に一過性に発現させた。16時間血清飢餓条件で培養したのち、10分間のIGF-1刺激を施し、共焦点顕微鏡下で細胞の形態変化を観察した。コントロールと比較して、野生型pharbinの発現によってIGF-1刺激依存的なラッフリング形成が有意に低下することが観察された。この効果は主にPharbinがPI 3-kinaseシグナルを負に制御することが原因であると考えられた。

 次に、pharbin過剰発現が細胞増殖に与える効果をsoft agarアッセイにより検討した。前述した三種類のアデンウィルスを感染させたHeLa細胞を0.3%のsoft agarに継代し、37℃で二週間培養し、形成されたcolonyの数を数えた。その結果、野生型Pharbinの発現によって細胞増殖を有意に抑えられることが明らかになった。

<総括>

 以上の結果から、PharbinはPI(3,4,5)P3を脱リン酸化することにより、IGF-1刺激依存的なPI 3kinase-Aktカスケードの活性化を抑制し、さらにタンパク質合成に至るシグナル伝達を負に制御することが強く示唆された。近年、IGF-1によるタンパク質合成経路の異常が様々な筋疾患に深く関わることが沢山報告されている。今後、心筋などの筋細胞においてPharbinの生理機能を調べる必要があると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究はホスファチジルイノシトール脱リン酸化酵素であるPharbinについて、HeLa細胞における(1)アデノウィルス過剰発現系及び(2)RNA干渉法による内在性の遺伝子の発現を抑制する手法を用い、IGF-1増殖因子情報伝達系における同酵素の生理機能を解析したものである。本研究によって以下の結果が得られた。

1、 発現、精製したGST-Pharbinタンパク質を用い、全7種類のイノシトールリン脂質に対する基質特異性を検討した。その結果、PI(4,5)P2とPI(3,4,5)P3がこの酵素によって脱リン酸化されることが示唆された。さらにTLC blotting法を用いて、IGF-1刺激によるHeLa細胞内でのPI(3,4,5)P3産生が、Pharbin過剰発現に応じて減少することにより、Pharbinの生理的な基質がPI(3,4,5)P3であることを明らかにした。

2、 次に、IGF-1シグナル伝達系におけるPharbinの役割を調べた。まず、アデノウィルス発現系によって野性型Pharbin及び酵素活性を欠損した変異体をHeLa細胞内に過剰発現させた。IGF-1の刺激依存的にIGF-1受容体の自己リン酸化が正常に起こっており、野生型や変異体Pharbinの過剰発現による有意な差が認められなかった。同様に、下流におけるMAP kinaseの活性を及ぼさないことも明らかになった。その一方で、PI 3-kinase経路を介するAktのリン酸化は野生型Pharbinの過剰発現により顕著に抑制された。反対に、RNA干渉法によって内在性Pharbinの発現を減少させると、IGF-1依存的なAktのリン酸化が有意に上昇した。これらの結果からPharbinがPI 3-kinase-Akt経路を負に制御することが強く示された。

3、 Aktよりさらに下流の経路への影響を調べたところ、野生型Pharbinの過剰発現により、IGF-1刺激依存的なP70 S6 kinase、GSK3β および4E-BP1のリン酸化を抑制することが明らかになった。さらに、7-methl-GTP sepharoseビーズを用いたpulldownアッセイの結果から、IGF-1刺激による4E-BP1-eIF4E複合体の解離が野生型pharbinの過剰発現によって強く抑制されることも明らかになった。さらに、放射性同位体標識したアミノ酸を用いてHeLa細胞への取込みを測定し、IGF-1刺激によるタンパク質合成への効果を比較した結果、野生型Pharbinの発現によりタンパク質合成は約14%低下したことが明らかとなった。

4、 次に、IGF-1依存的なアクチン細胞骨格の再編成および細胞のラッフリング形成に対するPharbinの役割を検討した。コントロールや酵素活性を欠損した変異体を発現させた細胞と比較したところ、野生型Pharbinの発現により、IGF-1刺激によるラッフリング形成が有意に低下することが観察された。

5、 最後Pharbin過剰発現が細胞増殖に与える効果をsoft agarアッセイにより調べたところ、野生型Pharbinの発現によって細胞増殖を有意に抑制することが明らかになった。

 以上、本論文はホスファチジルイノシトール脱リン酸化酵素であるPharbinがPI(3,4,5)P3を脱リン酸化することにより、IGF-1刺激依存的なPI 3-kinase-Akt情報伝達経路を抑制することを明らかにした。さらにIGF-1刺激依存的なタンパク質合成や細胞膜ラッフリングの形成、また細胞増殖を負に制御することを初めて見出した。本研究は、IGF-1シグナル情報伝達系におけるホスファチジルイノシトール3リン酸5-ホスホターゼの役割の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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