学位論文要旨



No 122517
著者(漢字) 古室,暁義
著者(英字)
著者(カナ) コムロ,アキヨシ
標題(和) スキルス胃癌の増殖・進展におけるTGF-βシグナルの役割
標題(洋)
報告番号 122517
報告番号 甲22517
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2813号
研究科 医学系研究科
専攻 病因・病理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮川,清
 東京大学 教授 油谷,浩幸
 東京大学 助教授 福嶋,敬宜
 東京大学 助教授 後藤,典子
 東京大学 助教授 大西,真
内容要旨 要旨を表示する

スキルス胃癌について

 スキルス胃癌は胃癌の中の5%を占める難治性の癌である。スキルス胃癌の問題点は、(1)比較的若年層に多いうえ、自覚症状に乏しく、癌が発見された時には手術適応にならない場合が多いこと。(2)定型手術が行なわれる場合もあるが、極めて予後不良であること。(3)手術適応にならない症例については化学療法が第一選択となるが、効果的な治療法が確立されていないこと。などが挙げられる。このことからスキルス胃癌の悪性化のメカニズムの解明と、これに基づいた効果的な治療法の開発は急務といえる。

TGF-βについて

 Transforming growth factor-beta (TGF-β)は、細胞の増殖・分化の調節、細胞外マトリックスの産生、アポトーシス、また、発生期においては血管形成や造血系細胞に作用するなど多彩な働きをもっている。また、上皮細胞においては、TGF-βは強力な増殖抑制作用がある。TGF-βシグナルの破綻が起きると、細胞の異常増殖を引き起こし、発癌や癌の増殖能の亢進、転移の促進に関与する。

 近年、進行した乳癌や大腸癌において、TGF-βシグナルが癌の増殖能の亢進や転移を促進している場合があることが明らかになっている。悪性度の高い癌細胞では、TGF-βシグナルに不応答性を示すことで、異常な増殖が起きているとともに、癌細胞からのTGF-βの産生が亢進している場合が多い。癌組織中の多量なTGF-βによって、細胞外基質の蓄積による線維化が促進され、また癌細胞の上皮間葉分化転換(EMT: epithelial-mesenchymal transition)が誘導されることで浸潤、転移の促進が起きる。さらに、TGF-βは血管新生、免疫抑制を誘導することから、進行期の癌では腫瘍の増大、転移を促進していると考えられている。

スキルス胃癌とTGF-βの関与について

 スキルス胃癌の組織像は、著しい線維形成を伴いながら、未分化型癌が広範囲にわたってびまん性浸潤を起こしている。また、原発巣領域においてTGF-βの発現が亢進していることが免疫組織染色法を用いた実験で報告されている。このことから、スキルス胃癌の激しい線維化や高い浸潤性にはTGF-βが関与しているであろうと考えられてきた。しかし、現在までに樹立されているスキルス胃癌株が少ないため、スキルス胃癌の増殖や転移の分子メカニズムはあまり明らかになっていない。

 そこで私は、スキルス胃癌細胞株を用いて、(1)TGF-β刺激を受けた癌細胞がどのような影響を起こすかin vitroの条件下で検討した。(2)スキルス胃癌細胞のTGF-βシグナルを阻害した時の影響を、in vitroとin vivoの条件下で観察した。この結果に基づき、(3)TGF-βシグナルの阻害を用いたスキルス胃癌化学療法の可能性を検討した。

スキルス胃癌細胞のTGF-βの応答性について

 まず、スキルス胃癌細胞の原発株(OCUM-2M 以下2M)やリンパ節転移株(OCUM-2MLN 以下2MLN)において、TGF-β刺激に対する応答性がみられるか、また、悪性化に関与する生理的作用がTGF-β刺激によってみられるか観察した。

 スキルス胃癌細胞株をTGF-βで刺激すると、TGF-βシグナルの細胞内伝達因子であるSmadのリン酸化や、TGF-β応答遺伝子の発現上昇が、原発株(2M)とリンパ節転移株(2MLN)の両方において起きた。しかし、転移性の高いリンパ節転移株(2MLN)ではTGF-βによる有意な増殖抑制を受けなかった。さらに、TGF-β刺激による形態変化について調べると、原発株(2M)は形態変化がほとんど起こらないのに対して、リンパ節転移株(2MLN)では形態変化が起こった。これらの結果から、転移性の高いスキルス胃癌ほど、TGF-βによる増殖抑制作用が比較的特異的に喪失しているとともに、TGF-βによって形態変化が起き、転移が促進的に起こる可能性があることが示唆された。

スキルス胃癌細胞のTGF-βシグナルを阻害した時の影響

 ドミナントネガティブTGF-βII型受容体(dnTβRII)を安定発現させて、TGF-βシグナルを遮断したスキルス胃癌リンパ節転移株(2MLN-dnTβRII)を作成した。2MLN-dnTβRII はTGF-β刺激依存的なTGF-β応答遺伝子の発現上昇を抑制した。さらに、2MLN-dnTβRII はTGF-β刺激依存的な形態変化も起こさなかった。ゆえに、スキルス胃癌のTGF-βシグナルを阻害すると形態変化の抑制が起きるので、in vivoでも転移が抑制されると予想された。

 ところが、ヌードマウスの胃壁に2MLN-dnTβRIIを移植した同所移植実験を行うと、原発巣の腫瘍面積の増加や、リンパ節転移巣の増加が観察された。これはTGF-βシグナルを阻害した場合に悪性化が抑制されるという予測に反して、in vivoの条件下ではTGF-βシグナルの阻害が癌の悪性化を促進するということを示唆する。また、マウスの同所移植モデルにおいて、2MLN-dnTβRIIを移植した原発巣の組織像は、線維組織がほとんどなく癌で埋めつくされた状態で、リンパ節転移が促進していた。癌の周囲を取り巻くように線維組織が多く存在することで、線維組織が癌の浸潤を阻んでいるバリアの役目をしているのではないかという可能性も考えられた。

 以上をまとめると、in vivoの結果は癌細胞自体のみにおいてTGF-βシグナルを遮断すると、線維化が抑制される一方、癌の増殖や転移は増加するというin vitroのデータからは予想されえないものであり、スキルス胃癌の治療においてTGF-βシグナル阻害を単独で用いることが危険であることを示唆した。

TGF-βシグナル阻害剤と抗癌剤(Doxil)を併用したスキルス胃癌の治療効果

 スキルス胃癌に対しては手術適応にならない場合は、化学療法が行なわれるが、効果的な制癌治療は現段階では確立されていない。前に述べたとおり、スキルス胃癌においてはTGF-βシグナル阻害の単独療法はかえって悪性化を招く危険性が示唆された。

 最近、当研究室でTGF-βシグナル阻害剤により膵臓腺癌における癌新生血管の漏出性を増強させ、ナノ粒子抗癌剤の癌組織への分布を劇的に改善し、腫瘍増殖を顕著に抑えることに成功した。

 そこで私は、スキルス胃癌の動物モデルにおいて、低用量TGF-βシグナル阻害剤と、すでに臨床応用されているナノ粒子抗癌剤であるリポソーマルドキソルビシン(以下Doxilと表記)の併用による治療効果について検討した。

 まず、スキルス胃癌において低用量のTGF-βシグナル阻害剤を投与した時の、癌組織におけるDoxilの分布について調べた。その結果、スキルス胃癌においても同様に低用量TGF-βシグナル阻害剤投与群で有意に腫瘍血管からの漏出性が起き、Doxilが腫瘍内部にまで浸透していることがわかった。次にスキルス胃癌の皮下腫瘍モデルにおける、低用量TGF-βシグナル阻害剤とDoxilを併用した時の治療効果について検討した。治療を施さないマウス群や、低用量TGF-βシグナル阻害剤のみの治療マウス群では、ほとんど腫瘍体積の増加は変わらないのに対して、Doxilのみ治療マウス群で腫瘍体積の減少がみられた。一方、TGF-β シグナル阻害剤とDoxilの併用治療マウス群では、さらに腫瘍体積の減少がみられた。

 したがって、低用量のTGF-β シグナル阻害剤が、スキルス胃癌の増殖能の亢進には作用せず、血管新生制御剤として作用することで腫瘍血管の漏出性を高め、Doxilの腫瘍への分布を増強し、効果的な癌治療が可能であることが示唆された。今後、投与法や併用に用いる抗癌剤の選択についてさらなる検討を行うことによって、スキルス胃癌に対する、より有効な治療法が確立できると信じている。

〈まとめ〉

・ スキルス胃癌細胞株においてTGF-β刺激によるSmadのリン酸化やTGF-β応答遺伝子の発現上昇がおきた。リンパ節転移株(2MLN)はTGF-βによる増殖抑制を受けなかった。

・ リンパ節転移株(2MLN)はTGF-β1の発現が亢進していた。

・ in virtroの条件下において、スキルス胃癌のTGF-βシグナルを阻害すると、TGF-βによる形態変化は抑制された。

・ マウスの同所移植モデルにおいて、リンパ節転移株(2MLN)のTGF-βシグナルを阻害すると原発巣面積の増加や転移が促進した。

・ マウスの同所移植モデルにおいて、リンパ節転移株(2MLN)のTGF-βシグナルを阻害すると原発巣の線維化が著明に減少した。

・ 低用量TGF-βシグナル阻害剤の投与は、スキルス胃癌腫瘍血管の漏出性を高めた。

・ TGF-β シグナル阻害剤の投与は、スキルス胃癌皮下腫瘍内部へのDoxilの浸透を高めた。

・ スキルス胃癌の皮下腫瘍モデルにおいて、TGF-βシグナル阻害剤またはDoxilの単独投与治療よりも、TGF-βシグナル阻害剤とDoxilの併用治療の方が腫瘍増殖を顕著に抑制した。

審査要旨 要旨を表示する

 スキルス胃癌の激しい線維化や高い浸潤性にはTGF-βが関与しているであろうと考えられてきた。しかし、現在までに樹立されているスキルス胃癌株が少ないため、スキルス胃癌の増殖や転移の分子メカニズムはあまり明らかになっていない。また、スキルス胃癌の効果的な治療法も未だ確立されていない状況である。本研究はスキルス胃癌細胞株を用いて、(1)TGF-β刺激を受けた癌細胞がどのような影響を起こすかin vitroの条件下で検討した。(2)スキルス胃癌細胞のTGF-βシグナルを阻害した時の影響を、in vitroとin vivoの条件下で観察した。この結果に基づき、(3)TGF-βシグナルの阻害を用いたスキルス胃癌化学療法の可能性を検討した。そして、これらの検討によって下記のような結果を得た。

* スキルス胃癌細胞株においてTGF-β刺激によるSmadのリン酸化やTGF-β応答遺伝子の発現上昇がおきた。リンパ節転移株(2MLN)はTGF-βによる増殖抑制を受けなかった。

* リンパ節転移株ではTGF-β1の発現が亢進していた。

* in vitroの培養細胞においてスキルス胃癌のTGF-βシグナルを阻害すると、TGF-βによる形態変化は抑制された。

* マウスの同所移植モデルにおいて、リンパ節転移株のTGF-βシグナルを阻害すると原発巣面積の増加や転移が促進した。

* マウスの同所移植モデルにおいて、リンパ節転移株のTGF-βシグナルを阻害すると原発巣の線維化が著明に減少した。

* 低用量TGF-βシグナル阻害剤の投与は、スキルス胃癌腫瘍血管の漏出性を高めた。

* TGF-β シグナル阻害剤の投与は、スキルス胃癌皮下腫瘍内部へのDoxilの浸透を高めた。

* スキルス胃癌の皮下腫瘍モデルにおいて、TGF-βシグナル阻害剤またはDoxilの単独投与治療よりも、TGF-βシグナル阻害剤とDoxilの併用治療の方が腫瘍増殖を顕著に抑制した。

 以上より、in vivo実験系においては、癌細胞のみにおいてTGF-βシグナルを遮断すると線維化が抑制される一方、癌の増殖や転移は増加するという、in vitroのデータからは予想されえない結果となり、スキルス胃癌においてはTGF-βシグナル阻害を単独で用いた治療は危険であることを示唆した。このため、さらにTGF-βシグナル阻害を治療に用いる方策として、癌の新生血管のみに作用するような低用量のTGF-βシグナル阻害剤とナノ粒子抗癌剤(Doxil)を併用したスキルス胃癌の治療効果について検討した結果、TGF-βシグナル阻害剤とナノ粒子抗癌剤の併用治療により腫瘍増殖の顕著な抑制に成功した。

 以上、本研究は、スキルス胃癌の増殖や転移におけるTGF-βシグナルの関与の解明に重要な貢献をなしたのみならず、難治性のスキルス胃癌に対する新たな治療法の確立への重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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