学位論文要旨



No 122519
著者(漢字) 高野,寛明
著者(英字)
著者(カナ) タカノ,ヒロアキ
標題(和) 末梢小型肺腺癌の分子病理学的解析
標題(洋)
報告番号 122519
報告番号 甲22519
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2815号
研究科 医学系研究科
専攻 病因・病理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長瀬,隆英
 東京大学 特任教授 古川,洋一
 東京大学 助教授 秋下,雅弘
 東京大学 助教授 後藤,典子
 東京大学 助教授 中島,淳
内容要旨 要旨を表示する

<要旨>

 肺癌は、世界的に増加傾向にあり、本邦においても1993年以降、男性における悪性腫瘍死亡率の第一位、女性においては胃癌に次いで第二位を占めている。その発症者はなお増加しているのが現状である。特に、今回検討を行った肺腺癌は、肺癌の中で最も発症率が高く予後が悪い。その原因は、発見時にすでにリンパ節等に遠隔転移していることが多いためである。これは、肺腺癌が肺の末梢に発症するために、進行するまで自覚症状が少ないことが主な理由である。また腫瘍は進展に伴い、大きさだけでなく密度が高くなるという病理学的特徴がある。そのため、解析が困難であり、発症・進展の分子メカニズムに関してよくわかっていない。したがって、発症因子や悪性化に関わる遺伝子の解析、治療・診断の対象となる分子の同定が社会の要請となっている。肺腺癌の解析が他の癌に比べて進んでいない理由は、組織型が複雑なためである。すなわち、同一病巣内に非浸潤性、および浸潤性の増殖を示す癌細胞が同居するためである。この特徴は、末梢小型肺腺癌においては特に顕著である。病巣の"中心部"では、肺胞構造の虚脱、異型度の高い癌細胞による偽腺管構造の形成が認められる。また、線維芽細胞の増生や、リンパ球の間質浸潤が観察される。しかし、病巣の"辺縁部"においては、非浸潤性の増殖が認められる。すなわち、肺胞構造は維持されているが、異型度の低い癌細胞が、単層に肺胞上皮を置換的に覆っているのが観察される。これはCT像では、すりガラス様病変(GGO ; ground glass opacity)として認識されるが、経過観察を行うと、病巣中心部に密度の高い領域が出現し、それが上述した"中心部"であると考えられている。また、すりガラス様の病変を切除すると細気管支肺胞上皮癌(BAC ; bronchiole alveolar carcinoma)として見つかることが多く、形態的特徴が"辺縁部"に類似しているが、病巣中心部に浸潤性病変を伴わない。これが、やがて"中心部"を伴う腺癌に発展することが示唆されている。肺腺癌を材料とした既報の研究は、組織材料をバルクで用いており、そのために結果の解釈が難しいという問題を抱えている。これを解決するための手段として、レーザーキャプチャーマイクロダイセクション法が有効であると考えられる。この手法は顕微鏡下で、レーザー光によって細胞を採取する方法であり、薄切組織切片から特定の細胞を採取することが可能となる。これによって、複雑な組織から単一の特徴を示す細胞を採取することが可能である。しかしながら、マイクロアレイと組み合わせて用いる標準プロトコルと言えるものが存在しないことが問題である。また、遺伝子変化を網羅的に解析する手法としてcDNA(complementary DNA)マイクロアレイがある。これは、ヒトのmRNA(messenger RNA)と相補的なプローブを、数センチ角のガラスチップ上に配置し、これに蛍光ラベルを施したサンプルを作用させ、ハイブリダイズしたプローブから得られる励起発光の強度によって、遺伝子の発現量を測定する技術である。本研究で使用したものは、Affymetrix社の供給するGeneChip Human Genome U-133 Plus 2.0である。これは、1チップに約5万4千個のプローブが搭載されており、ヒトの全遺伝子および、転写産物を一度に測定することが可能である。本研究においては、これらマイクロダイセクションとマイクロアレイを組み合わせた手法を用いることで、病巣中の"辺縁部"と"中心部"の癌細胞を解析し、発症と進展に関与する遺伝子変化をとらえることを目的とした。

 まず、マイクロダイセクションとマイクロアレイ解析を組み合わせた実験系の確立を行った。その結果、凍結組織切片のマイクロアレイ解析に必要とされる品質のcRNA(complementary RNA)を得ることが可能となった。この方法を用いて、末梢小型肺腺癌の解析を行った。材料として、30症例の肺腺癌凍結組織(15症例の末梢小型肺腺癌、15症例のBAC)を用いた。この内、末梢小型肺腺癌のバルク組織から抽出したtotal RNAで、r ≧ 1.2 (r = 28S rRNA / 18S rRNA)の品質を示した7症例を選び出し、それぞれから"正常部"、および"辺縁部"、"中心部"の癌細胞を採取し、マイクロアレイ解析を行った。得られた18セットのマイクロアレイデータについて、階層的クラスタリング解析を行ったところ、症例ごとにまとまる傾向があったため、正規化処理を行った。その結果、形態に共通して変動する遺伝子を抽出した。得られた遺伝子プロファイルの確認を行うため、"中心部"においては低酸素応答遺伝子であるceruloplasminを、"辺縁部"においてはWNT4のin vivoでの局在を検証した。Ceruloplasminは、転写開始領域にHRE(hypoxia response element)と呼ばれる配列を持ち、低酸素刺激によってHIF1が核移行し、転写が制御される遺伝子である。低酸素応答は肺腺癌を含む、多くの癌で報告がなされている。また、WNT4については、分泌型のリガンドで、細胞膜にあるFrizzled / LRPを受容体とし、Wntシグナルを活性化させる。このシグナルは、個体の発生や、傷の修復、発癌において重要な役割をしていると考えられている。最も解析が進んでいる経路として、β-catenin / LEF-1経路(カノニカル経路)が知られている。このシグナル伝達と、肺腺癌との関連はよくわかっていない。

 正規化したマイクロアレイデータから、各症例の"辺縁部"に共通して発現亢進している98遺伝子(122プローブ)、および"中心部"に共通して発現亢進している133遺伝子(166プローブ)を選び出した。"中心部"においては、低酸素応答や浸潤、上皮間葉転換に関与する遺伝子が含まれていた。一方、"辺縁部"では細胞の運動性や増殖に関する遺伝子が含まれていた。そこで、低酸素応答遺伝子の一つであるceruloplasminに対する免疫組織化学染色の結果、"辺縁部"より"中心部"で強い発現が観察された(P < 0.05)。これは、マイクロアレイデータにおけるmRNAの発現パターンと同じ傾向であった。また、BACと"辺縁部"を比較すると、"辺縁部"で強い発現が観察された(P < 0.001)。一方、"辺縁部"においてWNT4の免疫組織化学染色を行った。しかし、シグナルが得られなかったため、in situハイブリダイーゼーションにてmRNAの局在を検証した。その結果、"中心部"より"辺縁部"にて発現が確認された(P < 0.001)。これは、マイクロアレイデータにおけるmRNAの発現パターンと同じ傾向であった。また、BACと"辺縁部"を比較したところ、"辺縁部"にて発現が観察された(P < 0.05)。さらに、Wntシグナルの活性化を検証するため、β-cateninについて免疫組織化学染色を行った。その結果、主に膜型の局在を示したものの、"中心部"と比較して"辺縁部"において細胞質への蓄積、および核においてシグナルが観察された(P < 0.01)。さらに、FITCラベル抗ヒトβ-catenin抗体を用いて、共焦点レーザー顕微鏡によって観察したところ、同じ傾向が観察された。BACと"辺縁部"を比較したところ、両方とも主に膜型の局在であったが、細胞質と核にシグナルが観察された。

 Ceruloplasminの免疫組織化学染色の結果から、肺腺癌の病巣中心部は低酸素状態になっている可能性が示唆された。低酸素応答は、癌細胞において悪性度の高い細胞のセレクションや、上皮間葉転換に必要であるとの報告もあり、形態的に明らかな浸潤が認められないBACでは発現が見られなかったことは矛盾しないと考えられた。このことから悪性度の指標として使用できる可能性が示唆された。さらに、"辺縁部"においてWNT4のin situハイブリダイーゼーション、およびβ-cateninの免疫組織化学染色の結果から、"辺縁部"においてWntシグナルが活性化している可能性が考えられた。しかしながら、Wntシグナルと肺腺癌の関係はわかっておらず、WNT4との関連は報告が無い。また、WNT4によってβ-cateninが局在変化をしているという確証はなく、今後検討が必要である。

 以上より、本解析の結果得られたプロファイルは、癌細胞における遺伝子変化を観察しており、病理学的な特徴を反映したものであると思われた。また、ceruloplasminの結果から、"中心部"で低酸素応答が生じていることが示唆された。またBACと"辺縁部"で発現量が異なるため、悪性度の指標としての可能性が示唆された。また、"辺縁部"において、WNT4のmRNAが発現しており、β-cateninの細胞質および核への移行が観察されたことから、浸潤性の増殖をしていない癌細胞においてWntシグナルが活性化していることが考えられた。したがって、本研究では、肺腺癌において発症・進展に関与する可能性のある遺伝子変化を見いだすことができたと考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、早期発見時でも予後が悪いと言われるヒト肺腺癌、特に末梢小型肺腺癌について、発癌および進展に関与する遺伝子変化をとらえる事を目的とした研究である。本研究では、病理学的特徴をもとに、同一病巣内の"正常部"、非浸潤性領域("辺縁部")および浸潤性領域("中心部")の癌細胞を、マイクロダイセクション法により採取し、cDNAマイクロアレイ解析を行った。本研究によって、下記の結果を得ている。

1. マイクロダイセクションとマイクロアレイ解析を組み合わせた実験系の確立を行った。その結果、肺腺癌凍結組織切片より、約3000個の細胞から、マイクロアレイ解析に必要とされる品質( > 700nt)のcRNA(complementary RNA)を得ることが可能となった。

2. 得られた7症例18セットのマイクロアレイデータ(正常部;5、辺縁部;7、中心部;6)について、階層的クラスタリング解析を行ったところ、症例ごとにまとまる傾向があった。これは、形態による差よりも個人差による発現変化の方が大きい事が示唆された。そのため、正規化処理を行い、形態に共通して変動する遺伝子(辺縁部;98遺伝子、中心部;133遺伝子)を抽出した。

3. "中心部"で発現亢進しているとして選び出した遺伝子プロファイルには、低酸素応答遺伝子であるceruloplasminが含まれた。この分子に対し、免疫組織化学染色を行ったところ、末梢小型肺腺癌では、"辺縁部"より"中心部"によりつよいシグナルが得られ、病巣中心部では低酸素応答が生じている事が示唆された。また、得られた遺伝子プロファイルが、"中心部"の癌細胞のものである事が確認された。

4. さらに、BAC;blonchiolo-alveolar carcinomaにおいてceruloplasminに免疫組織化学染色を行ったところ、末梢小型肺腺癌の"辺縁部"に比べてシグナルが有意に弱かった。したがって、悪性度の診断マーカーとして使用できる可能性が示唆された。

5. また、"辺縁部"で発現亢進しているとして選び出した遺伝子プロファイルには、WntシグナルのリガンドであるWNT4が含まれた。この分子について、in situハイブリダイゼーションを行った。その結果、"辺縁部"に有意に発現が観察された。また、Wntシグナルの下流であるβ-cateninの免疫組織化学染色を行った結果、"辺縁部"において、細胞質への蓄積と核への移行が観察された。すなわち、末梢小型肺腺癌の辺縁部においては、Wntシグナルが活性化している可能性が示唆された。

 以上、本論文は、末梢小型肺腺癌において、新たに構築したアプローチを用いて、非浸潤性病変と浸潤性病変の癌細胞における遺伝子の変動を比較し、未だ不明であった発症と進展に関与する遺伝子変化について報告している。浸潤性増殖を示す病巣中心部では低酸素応答が、"辺縁部"ではWntシグナルの活性化が示唆された。特に、Wntシグナルは個体の発生、発癌と深い関係が示唆されており、末梢小型肺腺癌の辺縁部で活性化している事が示された事は、今後の発癌メカニズムの解明に重要であると考えられ、学位の授与に値すると考えられる。

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