学位論文要旨



No 122525
著者(漢字) デラワリ ミナ
著者(英字)
著者(カナ) デラワリ ミナ
標題(和) 情動行動におけるNMDA受容体チロシンリン酸化の生理学的解析
標題(洋)
報告番号 122525
報告番号 甲22525
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2821号
研究科 医学系研究科
専攻 病因・病理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 清水,孝雄
 東京大学 教授 清木,元治
 東京大学 助教授 大海,忍
 東京大学 助教授 関野,祐子
 東京大学 助教授 仙波,憲太郎
内容要旨 要旨を表示する

 グルタミン酸は哺乳類中枢神経系における主要な興奮性神経伝達物質であり、その受容体はイオンチャネル型と代謝型に分類される。イオンチャネル型は薬理学的性質およびそれをコードする遺伝子の一次配列の相同性から、さらにα-amino-3-hydroxy-5-methyl-4-isoxazole-propionic acid(AMPA)型受容体(以下AMPA受容体)、N-methyl-D-aspartate(NMDA)型受容体(以下NMDA受容体)、カイニン酸受容体及びδ型受容体に分類される。NMDA受容体、AMPA受容体はともに陽イオン透過性チャネルであるが、機能的に大きく異なっている。AMPA受容体は1価の陽イオン(Na+、K+)を選択的に透過させてシナプス後細胞に一過性の脱分極を引き起こす。一方、静止膜電位の状態では、NMDA受容体はチャネル部位に細胞外のMg(2+)が閉塞してイオンの流れが阻止され、活性化が阻害されている。しかし、シナプスが高頻度刺激などで活性化することによりシナプス後細胞が脱分極して膜電位が正に傾くと、Mg(2+)ブロックがはずれて陽イオンが透過できるようになる。この際、NMDA受容体は2価の陽イオンであるCa(2+)を透過するという特徴を持つ。細胞内のCa(2+)は極めて低濃度になるように調節されているため、NMDA受容体が活性化してCa(2+)がシナプス後細胞のスパイン内に流入すると、Ca(2+)依存性の酵素系が活性化し、最終的に長い持続時間を示す興奮性後シナプス電位を生じる(長期増強、long-term potentiation: LTP)。このような特徴を持つNMDA受容体は学習・記憶などの基盤と考えられているシナプス可塑性、神経細胞の発達及び神経細胞死などに重要な役割を果たすことが知られている。

 NMDA受容体は、その中心となるNR1サブユニットとNMDA受容体の多様性を決定する4種類のNR2サブユニット(NR2A〜NR2D)から構成されるヘテロ4量体である。例えば、成体の海馬においてはNR1、NR2A及びNR2Bが発現しており、これらが組み合わされてシナプス後膜に存在する。シナプス伝達におけるNMDA受容体の機能を調節する要因としては、大きく二つに分けられる。一つは受容体のリン酸化などの生化学的な修飾であり、もう一つはシナプス後膜での受容体の膜表面への挿入や膜表面に存在する受容体の細胞内への取り込みなど、物理的な輸送による修飾である。中でも、リン酸化によるNMDA受容体の修飾はNMDA受容体複合体の迅速な機能調節を行っており、刺激に応答して動的に変化する神経回路において重要な役割を担っていると考えられる。NMDA受容体の各サブユニットのうち、脳内でチロシンリン酸化を受けているのはNR2A、NR2B及びNR2Dである。中でも、NR2Bはマウス脳の後シナプス部分における最も主要なチロシンリン酸化タンパク質であることが報告されている。最近の研究より、NR2Bのチロシンリン酸化レベルは高頻度刺激によるLTP誘導時や味覚の記憶の際に上昇することが示されており、NR2Bのチロシンリン酸化が実際の脳活動の調節に重要であることが示されている。しかしながら、NR2Bのチロシンリン酸化による脳活動の制御の分子基盤はほとんど未解明であった。近年、当研究室の中澤らによって、NR2Bのチロシンリン酸化の分子レベルでの意義を解明することを目的として、Src型チロシンキナーゼFynによるNR2Bの主要なチロシンリン酸化残基Tyr-1472が同定された。当研究室では、Tyr-1472のリン酸化によるNMDA受容体複合体の機能調節、さらには個体レベルでの高次脳機能における意義を明らかにすることを目的として、Tyr-1472をフェニルアラニンに置換し、リン酸化を受けなくなったNR2Bを発現する1472YFノックインマウス(以下YFマウス)を独自に作製した。電気生理学的な解析から、YFマウスにおいて通常の神経伝達効率に異常は見られないが、視床-扁桃体外側核経路におけるLTPが減弱していることが明らかとなった。また、行動学的解析から扁桃体依存的である恐怖条件付け学習の成績が低下していることが明らかとなった。さらに、電子顕微鏡を用いた解析により、YFマウスでは後シナプス膜上におけるNMDA受容体の局在異常が見出された。以上の結果から、Tyr-1472のリン酸化の扁桃体における重要性が明らかになった。そこで、本論文では情動を司る中枢である扁桃体に注目し、Tyr-1472のリン酸化の生理学的意義を解明するため解析を進めた。

 本研究では、YFマウスの情動行動を恐怖・不安関連行動評価法として開発され広く用いられている高架式十字迷路試験により解析した。その結果、YFマウスにおいて恐怖・不安反応の亢進を見出した。そこで、YFマウス恐怖反応の亢進の分子メカニズムを明らかにするため、恐怖・不安との関連が報告されている神経伝達物質を調べたところ、YFマウスの扁桃体でストレス応答ホルモンであるコルチコトロピン放出因子(corticotropin-releasing factor: CRF)の発現が増加していることを見出した。さらに、CRF受容体拮抗薬の投与によりYFマウスの恐怖・不安反応の亢進が野生型マウスと同程度まで抑えられたことから、CRFの発現増加によりYFマウスの情動異常が引き起こされていると考えられた。次に、野生型マウスを用いてNR2B のTyr-1472のリン酸化レベルとCRF mRNA発現量の変化の関係を調べた。扁桃体を含む脳切片をNMDAで刺激したところ、Tyr-1472の脱リン酸化が起こり、またCRF mRNAの発現上昇が起こった。この現象はPKC阻害剤により抑制されたことから、NMDA刺激によるCRFの発現上昇にはPKCが関与していることが示唆された。また、マウス個体を用いた解析から、高架式十字迷路試験に供したマウスの扁桃体においてTyr-1472が脱リン酸化されること及びCRF mRNAの発現上昇が起こることを見出した。これらの結果から、NMDA刺激時または高架式十時迷路試験時に、扁桃体においてTyr-1472のリン酸化レベルとCRF mRNAの発現量に負の関係があることが示された。高架式十字迷路試験の他に、鬱状態の評価に用いられる強制水泳試験等もマウスにとってストレスとなり、CRF mRNAの発現上昇が起こることが知られている。そこで、野生型マウスを用いて強制水泳試験を行い、Tyr-1472のリン酸化レベルとCRF mRNAの発現量の関係を検討した。その結果、強制水泳試験に供したマウスの扁桃体においては、CRF mRNAの発現量は上昇するもののTyr-1472の脱リン酸化は見られなかった。強制水泳試験では野生型マウスとYFマウスにおいて無動時間に差はみられないことを考え合わせ、強制水泳試験によるストレスとNR2BのTyr-1472のリン酸化は無関係であることが示唆された。これらの結果から、Tyr-1472のリン酸化状態が変化することによりCRF mRNAの発現量が調節され、恐怖・不安に関する行動が制御されている可能性が考えられた。

 さらに、YFマウスの扁桃体機能異常を遺伝子レベルで網羅的に検討することを目的として、マイクロアレイを用いて解析を行った。野生型マウスとYFマウスの扁桃体において発現に差異の見られる遺伝子を網羅的に探索した結果、YFマウスの扁桃体においてニューロテンシン受容体2(Ntsr2)の発現が低下していることを見出した。また、脳切片を用いた解析から、YFマウスではNtsr2を介したシグナル伝達に異常があることを見出した。さらに、熱痛覚感受性試験であるhot plate testを用いた解析から、YFマウスがNtsr2ノックアウトマウスと同様の表現型を示すことを見出し、侵害受容に異常があることを明らかにした。これらの結果から、YFマウスの扁桃体の機能異常の原因の一部が、ニューロテンシン情報伝達の異常である可能性が示唆された。Ntsr2は主にアストロサイトに発現していることから、神経細胞に発現するNMDA受容体のリン酸化状態がアストロサイトのNtsr2の発現に影響を与えるメカニズムとして、液性因子の関与の可能性などが考えられる。

 本研究から、NR2BのTyr-1472は扁桃体において情動行動に関わる情報伝達系を広く制御していることが示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、記憶や学習などに重要な役割を果たしているNMDA受容体のリン酸化による修飾を介した高次脳機能の制御メカニズムを明らかにすることを目的としている。NMDA受容体NR2Bサブユニットのチロシンリン酸化に着目し、NR2Bサブユニットの主要なチロシンリン酸化残基であるTyr-1472をフェニルアラニンに置換したYFノックインマウスを用い、NR2B Tyr-1472のリン酸化の高次脳機能における生理学的意義を解明することを試みたものであり、下記の結果を得ている。

1.高架式十字迷路を用いた行動解析の結果、YFマウスにおいて恐怖・不安反応が亢進していることを見出した。YFマウスの扁桃体においてストレス応答ホルモンであるコルチコトロピン放出因子(CRF)の発現が上昇していること、CRF受容体拮抗薬の投与によりYFマウスの恐怖・不安反応の亢進が野生型マウスと同程度まで抑えられたことから、CRFの発現増加によりYFマウスの恐怖・不安反応の亢進が引き起こされていることが示唆された。

2.野生型マウス由来の脳切片を用いてNR2B Tyr-1472のリン酸化レベルとCRF mRNAの発現量の関係を調べたところ、NMDA刺激により扁桃体においてTyr-1472の脱リン酸化及びCRF mRNAの発現増加が観察された。また、NMDA刺激によるCRF mRNAの発現増加はPKCの阻害剤により抑えられたことから、CRFの転写調節にPKCが関与していることが示唆された。

3.高架式十字迷路試験に供したマウスの扁桃体におけるTyr-1472のリン酸化レベルとCRF mRNAの発現量を調べたところ、脳切片を用いた系と同様に、Tyr-1472の脱リン酸化及びCRFの発現増加が観察された。一方、鬱状態を評価する強制水泳試験に供したマウスの扁桃体では、CRFの発現上昇が見られるものの、Tyr-1472のリン酸化レベルは変化しなかった。また、強制水泳試験の結果、YFマウスと野生型マウスにおいて表現型に差は見られなかった。これらの結果から、Tyr-1472のリン酸化状態が変化することにより、マウスの恐怖・不安反応が制御されている可能性が示唆された。

4.YFマウスの扁桃体機能異常を遺伝子レベルで網羅的に検討するためマイクロアレイを用いた解析を行った。その結果、YFマウスの扁桃体においてニューロテンシン受容体2(Ntsr2)の発現が低下していることを見出した。扁桃体を含む脳切片を用いてニューロテンシンに対する応答をc-fosの発現量を指標として検討した結果、YFマウスではニューロテンシンに対する応答が減弱していることを明らかにした。さらに、YFマウスではNtsr2ノックアウトマウスと同様に、痛覚感受性試験であるhot plate testにおいてhot plate から飛び上がるまでの時間が有意に増加しており、扁桃体の機能異常が示唆された。

 本論文から、扁桃体におけるNR2B Tyr-1472のリン酸化が情動行動を制御していることが示唆された。本論文はNMDA受容体チロシンリン酸化の生理的意義を個体レベルで解析したものであり、これまで未知の部分が多かったNR2Bサブユニットのチロシンリン酸化による高次脳機能の制御の分子基盤解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク