学位論文要旨



No 122604
著者(漢字) 張田,豊
著者(英字)
著者(カナ) ハリタ,ユタカ
標題(和) 腎糸球体上皮細胞スリット膜における蛋白質複合体の解析
標題(洋)
報告番号 122604
報告番号 甲22604
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2900号
研究科 医学系研究科
専攻 生殖・発達・加齢医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤田,敏郎
 東京大学 教授 北村,唯一
 東京大学 講師 江頭,正人
 東京大学 講師 藤乗,嗣泰
 東京大学 講師 賀藤,均
内容要旨 要旨を表示する

 腎糸球体における蛋白濾過機能に関わる遺伝子が次々と同定されている。これらの分子の多くが糸球体上皮細胞、とくにその細胞間接着装置であるスリット膜に発現する事から、スリット膜が蛋白濾過におけるバリアー機能において主要な役割を担っている事が明らかとなってきた。これらの研究の結果、稀な遺伝性のネフローゼ症候群や家族性糸球体硬化症の一部の原因が突き止められたが、小児において比較的頻度の高い腎疾患である特発性ネフローゼ症候群における蛋白尿の発症機序は依然としてその大部分が不明である。

 nephrinはフィンランド型先天性ネフローゼ症候群の原因遺伝子(NPHS1)の遺伝子産物として同定された。この蛋白質は8つのグロブリンドメインを持つ膜蛋白質で、ジッパー状構造のスリット膜を構成する主要因子であると考えられている。Neph1はnephrinに類似する構造を持つ分子として同定され、nephrinと同様にスリット膜に存在する、5つのグロブリンドメインを持つ膜蛋白質である。nephrinやNeph1の欠損マウスでは先天性ネフローゼ症候群と同様の症状を引き起こす事が知られ、Neph1はnephrinとともにスリット膜のバリアー機能を担っていると考えられている。近年、nephrinやNeph1が脂質ラフトと呼ばれる膜領域に複合体を形成する事、さらにnephrinがSrcファミリーチロシンキナーゼのFynによりリン酸化され、このリン酸化によりnephrinとNckが結合し、この細胞特有のアクチン構造の構築に関与している事などが次々と明らかとなり、これらの分子群がシグナル複合体として働いていると考えられるようになってきた。さらに最近では、TRPC6という糸球体上皮細胞に存在するカルシウムチャネルの変異が家族性の糸球体硬化症の原因となる事も報告されたが、TRPC6のチャネル活性がFynによるチロシンリン酸化により制御されることも知られている。これらの事実から、チロシンリン酸化とスリット膜複合体の機能が密接に関係している事が示唆されている。

 私は依然原因の不明なネフローゼ症候群における蛋白尿の発症機序に興味を持ち、スリット膜機能と深く関わっているスリット膜複合体におけるチロシンリン酸化の解析に取り組んだ。Neph1のリン酸化についてはこれまでほとんど報告がなかったため、まずNeph1がFynによりリン酸化されうるかどうかを調べた。Neph1をFynベクターとHEK293T細胞に共発現すると、nephrinと同様にNeph1のリン酸化が認められた。また、Neph1の細胞内領域をin vitroでFynと反応させると、Neph1がリン酸化された。さらに、Neph1とFynはin vitroおよび細胞内で結合した。これらの結果から、Neph1をFynの新規基質と考え、nephrinと併せてそのリン酸化の詳細を明らかにするべく、以下の実験を行った。まず、nephrinおよびNeph1のリン酸化を受けるチロシン残基を決定するために、それらの細胞内領域をin vitroでFynによりリン酸化し、リン酸化した蛋白質をプロテアーゼ消化した結果できたペプチドを質量分析器で解析した。その結果、nephrinはその細胞内領域に存在する8つのチロシン残基すべてがリン酸化される可能性があったが、なかでもY1204とY1228に強いリン酸化の傾向が見られた。Neph1においては3つのリン酸化ペプチドを同定した。また、フェニルアラニン変異体を用いた実験により、Neph1は細胞内では主にY604,Y637,Y654がリン酸化される事が判明した。

 さらに、リン酸化nephrinおよびNeph1に結合する蛋白質を同定するために、これらの蛋白質の細胞内領域のGST融合タンパク質を作成し、これをin vitroでリン酸化したものbaitとしたpull-downアッセイを行い、リン酸化nephrinに特異的に結合する蛋白質を既に報告されているNck以外に5つ(PLC-γ,PI3K-p85,CrkII,CrkI,Crk-L)、また、リン酸化Neph1に結合する蛋白質を2つ(Grb2,Csk)同定した。

 Neph1とFynとHEK293T細胞内に共発現させ、免疫沈降する事によりNeph1と内在性のGrb2とのFyn依存的な結合が確かめられた。また、その結合はNeph1のY637およびY638のフェニルアラニン変異体では認められなくなった事から、これらのチロシン残基のY637のFynによるリン酸化が両者の結合に必須である事が判明した。Grb2はSosを介してRasの活性化を触媒している事が知られているため、Neph1を介したERKの活性化について検討した。Neph1のリン酸化によりfynを介したERKの活性化が抑制され、この抑制作用はGrb2の結合部位のリン酸化に依存していた。Neph1のMAPキナーゼの抑制作用についてはAP-1レポーターアッセイでも確かめられた。これらの結果から、Neph1のリン酸化はGrb2の結合を介してRas-ERK経路に抑制的に働く事が明らかとなった。

 CskのSH2領域と、GST-Neph1を用いたpull downアッセイにより、CskがそのSH2領域を介してリン酸化Neph1に直接結合する事が判明した。またCskとnephrinあるいはNeph1およびFynをHEK293細胞に共発現し、免疫沈降することにより、細胞内ではCskはリン酸化nephrinとは結合しないが、リン酸化Neph1と結合することが明らかとなった。Cskそれ自体がSrcファミリーのチロシンキナーゼであり、Fynをリン酸化する事でこのシグナル伝達系におけるネガティブフィードバックの役割を果たしているとされている。このため、Neph1にCskが結合する事で、スリット膜複合体でのリン酸化反応をネガティブに制御している可能性が考えられた。

 さらにNeph1はHEK293T細胞に単独で発現させると細胞間の接着部分に集積するが、Fynと共発現する事により細胞内にクラスターを形成し、発現パターンが大きく変化した。リン酸化によりNeph1の局在が制御されている事が示唆される。

 また、pull-down実験によりリン酸化nephrinに結合する蛋白質として、Crkファミリー蛋白質(CrkI,CrkII,Crk-L)、PI3キナーゼp85及びPLC-γを同定した。Crkファミリー蛋白質はSH2ドメインとSH3ドメインを持ち、種々のシグナル伝達系において蛋白質-蛋白質相互作用におけるアダプター蛋白として重要な役割を持っており、糸球体上皮細胞においてもnephrinと他の分子をつなぐ働きが推察される。また、PI3キナーゼp85についてはnephrinとの結合は以前から知られていたが、今回これがFynによるチロシンリン酸化により制御されている事が明らかとなった。糸球体上皮細胞数の減少が糸球体硬化症の原因となる事が近年報告されており、nephrinのリン酸化を介したこの細胞におけるPI3キナーゼ-Aktキナーゼ経路の生存シグナルは糸球体硬化症の発症機序の解明の観点からも重要な意味を持つと考えられる。

 PLC-γは2つのSH2領域をもつが、これらいずれもがin vitroでリン酸化nephrinと直接結合した。また、PLC-γとnephrinおよびFynをHEK293T細胞に共発現し、免疫沈降する事により細胞内においてもPLC-γがnephrinとリン酸化依存的に結合する事が確かめられた。リン酸化ペプチドを用いたpull-downアッセイおよびフェニルアラニン変異体を用いた免疫沈降実験によりPLC-γはnephrinのY1204のリン酸化依存的に結合する事が判明した。PLC-γの免疫組織染色では近位尿細管の刷子縁と糸球体では糸球体上皮細胞にその特異的な染色がみとめられ、これを新規の糸球体上皮細胞発現分子として同定した。糸球体上皮細胞の種々のマーカーとの二重染色ではvimentinとの共局在が認められ、正常腎では主に糸球体上皮細胞の細胞質に存在する事が明らかとなった。nephrinのリン酸化により細胞膜にリクルートされ、nephrinの下流でカルシウムシグナルを制御している可能性が示唆された。

 以上の結果からNeph1がFynの新規基質である事、nephrinとNeph1のチロシンリン酸化がこれまで知られていた以上に広範囲の蛋白質間相互作用に関与している事が明らかとなり、これらの変化がスリット膜の構造、機能制御において中心的な役割を果たしている事が示唆された。スリット膜複合体の全貌を明らかにし、蛋白濾過におけるバリアー機能を解明することは、蛋白尿発症機序の解明、その根本的な治療法の発見に結びつくと期待される。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は蛋白尿の発生機序に重要な役割を担っていると考えられる腎糸球体上皮細胞スリット膜の構造、機能を明らかにするため、スリット膜の主な構成成分であるnephrinとNeph1のリン酸化、およびそれによる結合蛋白質の同定を試みたものであり、下記の結果を得ている。

1、既報のnephrinと同様にSrcファミリーチロシンキナーゼのFynがNeph1に結合し、Neph1をリン酸化する事をin vitroおよびHEK293T細胞における発現系で明らかにした。

2、nephrinおよびNeph1の細胞内領域においてFynによりリン酸化をうけるチロシン残基の同定をin vitroでリン酸化した蛋白質をプロテアーゼ処理し、質量分析計により質量の変化を検出する事で行った。その結果、nephrinはその細胞内領域のすべてのチロシン残基およびNeph1はY604,Y637,Y638,Y654,Y657の5つのチロシン残基がリン酸化されうる事が判明した。Neph1についてはこれらのチロシンのフェニルアラニン変異体とfynをHEK293T細胞を共発現させてリン酸化レベルを比べる事により細胞内でもこれらのチロシン残基がリン酸化されている事が明らかになった。

3、nephrinとNeph1のチロシンリン酸化依存的な結合蛋白質を同定するために、pull-downアッセイを行った。リン酸化nephrinには既報のNck以外にPLCγ、アダプター蛋白質CrkI,CrkII,Crk-L,PI3kinasep85が、またリン酸化Neph1にはチロシンキナーゼのCsk,アダプター蛋白質のGrb2が結合する事が判明した。

4、Neph1とCskのSH2ドメインの直接の結合はpull-downアッセイにより確かめられた。またNeph1とCskのfyn依存的な結合が免疫沈降法により細胞内でも確認された。

5、Neph1とGrb2の結合はNeph1のY637,Y638のチロシンリン酸化に依存しており、これらのフェニルアラニン変異体では結合が認められなかった。また、リン酸化Neph1はfynによるERKの活性化に対して抑制作用を有し、さらに下流のAP-1の転写活性に対しても抑制的に作用する事が明らかになった。これらの抑制作用はGrb2との結合部位のチロシンリン酸化に依存していたため、Neph1-Grb2のリン酸化依存的な結合が下流のMAPキナーゼに対して抑制的に作用すると考えられた。

6、nephrinはリン酸化に伴いPLCγと細胞内で結合する事が免疫沈降法により明らかになった。PLCγの組織染色により腎糸球体、特に糸球体上皮細胞にPLCγが高発現している事が判明した。

以上、本論文はスリット膜複合体においてFynによるチロシンリン酸化により多くの蛋白質問相互作用が制御されている事、またnephrinおよびNeph1と種々のアダプター蛋白との結合によりその下流で様々なシグナル伝達系に影響を及ぼしている事が明らかになった。本研究はスリット膜の構造、機能の解明、ひいては蛋白尿の発症機序の解明において重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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