学位論文要旨



No 122634
著者(漢字) 溝田,友里
著者(英字)
著者(カナ) ミゾタ,ユリ
標題(和) 非加熱血液凝固因子製剤によるHIV感染が血友病患者のlifeにおよぼした困難とlifeの再構築に関する研究
標題(洋)
報告番号 122634
報告番号 甲22634
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第2930号
研究科 医学系研究科
専攻 健康科学・看護学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 村嶋,幸代
 東京大学 教授 真田,弘美
 東京大学 教授 岩本,愛吉
 東京大学 教授 牛島,廣治
 東京大学 助教授 久保田,潔
内容要旨 要旨を表示する

緒言

 日本では、主に1980年代前半にアメリカから輸入された非加熱血液凝固因子製剤の使用により、国内の血友病患者の約40%にあたる1400人以上がHIVに感染した。600人近い患者がすでに死亡し、2006年3月現在、約800人の患者が闘病中である。

 HIV感染が世界的に蔓延し始めた1980年代中頃には、HIVに対する特効薬もなく、HIV感染することは死を意味すると考えられてきた。しかし、1996年のHAARTの導入によって、エイズ関連疾患による死亡数は激減し、HIV感染症が慢性疾患化したと言われるようになっていくなかで、一度は死を意識した患者は、将来の方向や人との付き合い方、社会的役割などに関して新たな人生を再構築する必要に迫られるようになった。

 非加熱血液凝固因子製剤によるHIV感染血友病患者の医学的な特徴として、血友病、HIV感染症、HCV感染症という3重の疾患を抱えており、治療には不確実性を伴うことや、完治しない病をもつという点があげられる。社会的な特徴としては、HIV感染と血友病にはスティグマがともなうこと、生来の血友病治療の過程でHIV感染したことなどの特徴をもつ。そのため、それらの特徴が心理社会面においても独特な影響をおよぼしていることが考えられる。

 そこで、本研究は、彼らの医学的・社会的特徴をも踏まえながら、患者の新たな人生への適応における障害を取り除き、lifeの再構築への支援に関する示唆を得ることを目的とした。

 具体的な目的は以下の4点である。

1.非加熱血液凝固因子製剤によりHIV感染した血友病患者の精神的な健康状態およびHIV感染の受けとめをネガティブな側面とポジティブな側面の両面から質的・多次元的に、かつそれらの頻度と分布を記述的に明らかにするとともに、それらの関連性についても検討する。

2.就労や恋愛・結婚など社会との関わりの構築を中心とするlifeの再構築の状況を明らかにし、その達成における困難や要望を明らかにする。

3.HIV感染の受けとめに関連する要因を検討する。

4.以上を通じて、患者が新たな人生に適応していくことに対する支援への示唆を得る。

調査の基本設計

 本研究は方法論的トライアンギュレーションを採用し、面接調査と質問紙調査を併用した。面接調査により対象における問題を定性的に把握し、質問紙調査によって問題の頻度や分布を明らかにするとともに、項目間の関連についての検討を行った。

 また、当事者参加型リサーチの方式にのっとり調査を進めるとともに、対象者の心理面・身体面での負担の軽減やプライバシーの保護に細心の注意を払った。

面接調査の対象と方法

 2004年5月〜12月にかけて、東京・大阪HIV訴訟原告団に所属するHIV感染血友病患者32人を対象にフォーカスグループディスカッションと半構造化面接を行った。質問内容は、「回答者の属性」、「心身の健康状態」、「血友病およびHIV、HCV医療」、「HIV感染を知った当時と現在のnegative psychological state(HIV感染に関するネガティブな認知)」、「perceived positive change(肯定的に評価できる変化)」、「就労・社会活動」、「intimate relationship」からなる。逐語録を作成し、Loflandらの手法を参考にカテゴリーを作成した。

質問紙調査の対象と方法

 東京と大阪の各HIV訴訟原告団の生存患者652人を対象に、無記名自記式質問紙を郵送にて配布・回収した。配票・回収時期は2005年9月〜2006年1月であった。配布した652人のうち、257人から回答を得(有効回収率39.4%)、うち、本研究では、2次感染の女性と年齢が無回答の回答者を除き、242人を分析対象とした。

 質問内容は上記面接調査の内容に加え、lifeの混乱の指標であるpsychological dysfunctionの尺度としてGHQ(General Health Questionnaire)12項目版とHADS(Hospital Anxiety and Depression Scale)を用い、lifeの再構築の指標であるpsychological well-beingの尺度としてHHI(Herth Hope Index)を用いた。分析は、各項目の記述統計および年代間の比較を行い、尺度間の関連の検討には偏相関係数を、関連項目の検討には層化による比較と重回帰分析をそれぞれ用いた。

結果

 面接調査・質問紙調査の両調査を通じて以下の点が明らかになった。

1.身体健康と精神健康およびpsychological well-beingの現状

 HIV関連の健康状態に年代差はみられず、血友病関連の健康状態は年代が若いほど、関節障害が少ない傾向がみられた。HCV関連の健康状態は、20歳代でHCV感染率が低く、肝臓疾患も少ない傾向がみられた。しかし、全体として、HIV感染症、HCV感染症、血友病という3重の疾患と薬の副作用に由来する多様な症状に日常的に悩まされており、病の不確実感と今後への不安が存在した。

 GHQ、HADSによるpsychological dysfunctionについては、全体として一般人口よりも精神健康が悪い状態で、特に30歳代で他の年代よりも悪い傾向がみられた。HHIを用いたpsychological well-beingの状態も、30歳代が他の年代よりも低い状態にあった。

2.社会との関わり

 就労者の割合は全体として一般人口よりもはるかに低かった。就労していない人の多くが就労を希望しているが体調上の問題やHIVのスティグマが就労を妨げていることが明らかになった。年代別には、40歳代は就労者の割合が比較的高く、50歳以上では社会活動を行っている人の割合が高くなっていた。20歳代と30歳代は就労と社会参加のどちらも行っていない人の割合が高かった。

 有配偶者率も、全体として一般人口よりも低くなっていた。Intimate relationshipへの満足を年代別にみると、20歳代では妻、パートナー、恋人がいる人の割合が低いが、相手がいる人においては性生活の満足度が高く、40歳代と50歳以上ではそのような相手がいる人の割合が高くなっていた。30歳代はそのような相手がいる人の割合が低く、相手がいる人においても、その満足度は高くなかった。

3.HIV感染を知った当時と現在のnegative psychological state(ネガティブな認知)

 最近でも、質問紙調査回答者の1割が「自分の命はもう長くない、10年と生きられない」、将来については、3割が「長期的な将来について考えられない」と「強く」感じると回答した。また、「死んでしまいたい、死んでもいい」と回答者の8.4%が「強く」感じており、「少し」感じると合わせると35.7%にのぼった。特に30歳代で、上記のような思いを抱いている人の割合が高くなっていた。

4.perceived positive change(肯定的に評価できる変化)

 面接調査・質問紙調査を通じて、「精神的に強くなった」、「1日1日を過ごしていくことを大切に感じるようになった」、「家族との絆が強くなった」などさまざまなperceived positive changeがあげられ、質問紙調査の回答者の9割が何らかの得たものがあったと感じていた。年代別には、多くの項目で、30歳代が他の年代に比べてperceived positive changeが少ない傾向がみられた。

5.negative psychological stateとperceived positive changeの高低に関連する要因

 Negative psychological stateとperceived positive changeはGHQ得点やHADS得点、HHI得点に強く関連していた。年代別には、30歳代でnegative psychological state得点が有意に高く、perceived positive change得点が有意に低くなっていたが、重回帰分析によって、身体健康、就労と社会参加の有無、intimate relationshipへの満足、生きがいを投入することで、年代による有意差がなくなった。すなわち、年代よりも、就労と社会参加の有無やintimate relationshipへの満足、生きがいが、HIV感染に関する認知により大きな影響を与える因子であることが示された。

6.HAART導入に伴う予後の改善により、就労や恋愛・結婚に踏み出せた経験をもつ回答者も存在したが、就労や恋愛、結婚などに関するlifeの再構築の困難から、長く生きられるようになったことを喜べない状況ある患者も存在した。

7.HIV感染を知った当時、就職やintimate relationshipの構築が発達課題であった、主に現在の30代を中心とする回答者において、それらの獲得の達成が妨げられており、そのことがその年代の精神健康状態の悪さやhopeレベルの低さの一因として考えられた。

考察

 本研究において、就労や社会活動を行うことやintimate relationshipを築くことは、HIV感染に関するnegative psychological stateを低下させ、perceived positive changeを増加させる、すなわちHIV感染血友病患者としてのlifeへの適応をうながす可能性が示唆された。しかし、就労やintimate relationshipを築くことは、HIV感染のスティグマや身体的な健康上の問題から妨げられており、全体として、就労やintimate relationshipの構築に困難が伴っていることが明らかとなった。特に、HIV感染判明当時20歳前後で、これから社会的役割を獲得しようという時期にあった現在の30歳代患者において、その影響は深刻であり、そのことが、30歳代の患者は身体健康状態では他の年代に比べ悪くなく、むしろ良好であるにも拘わらず、他の年代に比べて精神健康状態が悪く、hopeが得られていないという結果の背景として考えられた。損害を代償し補償することに主眼が置かれた従来の支援に加えて、HIV感染によって一度は大きく変えられてしまったlifeの再構築、すなわち新たな人生に適応していくための、より積極的な支援が望まれる。そのような支援として、就労支援や、恋愛、結婚、性生活に関して他の患者の経験を聞く機会を設けたり、人工授精を保険適用するなどのintimate relationshipの構築を促進するような施策が必要であることが示唆された。また、本研究結果や理論枠組みを他の疾患をもつ患者やさまざまな逆境におかれている人の支援に適用していくことの可能性も示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究では、非加熱血液凝固因子製剤によるHIV感染が血友病患者のlifeにもたらした困難を明らかにするとともに、患者のlifeの再構築への支援への示唆を得ることを目的とした。HIV感染血友病患者を対象に面接調査および質問紙調査を実施し、HIV感染に関する認知をネガティブな認知とポジティブな認知の両面から検討するとともに、就労や社会活動、恋愛・結婚などの社会との関わりの現状とそれらがもつ意味を検討したところ、以下の点が明らかになった。

 1.回答者は全体として、HIV感染、HCV感染、血友病という3重の疾患と薬の副作用に由来する多様な症状に日常的に悩まされており、病の不確実感と今後への不安が存在した。

 2.就労者の割合は56.6%で、一般人口よりもはるかに低く、体調上の問題やHIVのスティグマが就労を妨げていることが明らかになった。有配偶率は33.5%で、各年代を通して一般人口よりも低くなっていた。

 3.最近でも、回答者の1割が「自分の命はもう長くない、10年と生きられない」と回答し、8.4%が「死んでしまいたい、死んでもいい」と「強く」感じており、「少し」感じると合わせると35.7%にのぼった。

 4.「精神的に強くなった」、「1日1日を過ごしていくこと大切に感じるようになった」、「家族との絆が強くなった」など、9割の回答者が何らかの得たものがあったと感じていた。

 5.HIVに関する受けとめであるnegative psychological stateとperceived positive changeはlifeの混乱や適応の指標と強く関連していた。30歳代でnegative psychological stateが多く、perceived positive changeが少ないという年代差がみとめられたが、身体健康、就労と社会参加の有無、intimate relationshipへの満足、生きがいを投入することで、年代による有意差がなくなった。すなわち、年代よりも、就労と社会参加の有無やintimate relationshipへの満足、生きがいが、HIV感染に関する認知により大きな影響を与える因子であることが示された。

 6.HAART導入に伴う予後の改善により、本調査回答者においても身体健康状態の改善がみられたが、psychological dysfunctionや、就労率、婚姻率には改善がみられず、lifeの再構築の困難から、長く生きられることを喜べない状況ある患者も存在した。

7.HIV感染を知った当時、就職やintimate relationshipの構築が発達課題であった、主に現在の30代を中心とする回答者において、それらの獲得の達成が妨げられており、そのことがその年代の精神健康状態の悪さやホープレベルの低さの一因として考えられた。

 以上の結果から、HIV感染者の予後の改善に伴い、新たな人生に適応していくためのより積極的な支援の必要性が示唆され、そのような支援として、就労支援や、恋愛、結婚、性生活に関して他の患者の経験を聞く機会を設けたり、人工授精を保険適用するなどのintimate relationshipの構築を促進するような施策が必要であることが示唆された。本研究から得られた実践への示唆や方法論的示唆を、他の疾患をもつ患者やさまざまな逆境にある人の支援において適用していくことが期待される。

 以上、本論文は、非加熱血液凝固因子製剤によるHIV感染血友病患者における、HIV感染に関する患者のネガティブな認知とポジティブな認知を記述的に明らかにした。また、HIV感染発生から約20年経過した患者のその後の人生において、就労や社会参加、他者との親密な関わりの構築など、社会との関わりを築くうえでの困難がもたらされていることを明らかにするとともに、それら社会との関わりをもつことが患者にとってもつ重要な意味を明らかにした。本研究は、これまで主に精神健康の悪化という部分的な側面でしか捉えられてこなかった、HIV感染が血友病患者のlifeにおよぼした影響を、さまざまな視点から包括的に理解することや、病いとともに生きる人々が新たな人生に適応していくための支援を考案するうえで重要な貢献を果たすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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