学位論文要旨



No 122647
著者(漢字) 許,暁彬
著者(英字) Xu,Xiaobin
著者(カナ) キョ,ショウビン
標題(和) 環境汚染化学物質が脳の発達に及ぼす影響 : 哺乳期ビスフェノールA曝露のエストロゲン受容体の役割について
標題(洋) Environmenetal disruptors hinder brain development : role of estrogen receptor alpha in the postnatal exposure to bisphenol A
報告番号 122647
報告番号 甲22647
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第2943号
研究科 医学系研究科
専攻 国際保健学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡辺,知保
 東京大学 教授 神馬,征峰
 東京大学 教授 加藤,進昌
 東京大学 教授 堤,治
 東京大学 客員教授 井上,聡
内容要旨 要旨を表示する

「環境ホルモン」もしくは「内分泌かく乱物質」とは、外界に広く存在し、生物の生命活動とともに体内に取り込まれて、本当のホルモンの働きをかく乱したり、阻害したりして、生体の生殖と発育という基本的な機能に障害を与える。脳神経系の発生、発達過程においてもさまざまなホルモンのレセプターが発現しており、ホルモンは脳の性分化、性行動や知能の発達に関与している。内分泌かく乱化学物質の1つであるbisphenol A(BPA)は、phenolとacetoneとの縮合反応により合成され、主にポリカーボネート樹脂の原料としてプラスチック製の食品容器や歯科用医療品など広く使用され、加熱により容易に溶出することが知られていることから、その安全性の確認が必要とされている。BPAは甲状腺ホルモンレセプターと結合し、下流の遺伝子の転写を抑制するという報告があり、さらに、in vivoの実験で妊娠期および哺乳期BPAに曝露された仔ラットの血中甲状腺ホルモンレベルが低下し、生後14日目に脳中甲状腺ホルモン応答因子RC3/neurograninの発現量は少ないと示唆されている。一方、BPAはMCF-7ヒト乳癌細胞の増殖を促したり、プロゲステロン受容体を誘導したりエストロゲン作用をすることが明らかにされている。そのほか行動実験によって、環境中に存在している濃度のBPAに胎児期に曝露されたラットにおける多動と空間学習障害を示すことも既に報告されている。しかしながら、BPAが神経系の発達に影響し、成年後の行動異常を起こす分子機序はほとんどわかっていないのが現状である。本研究では、胎児期から哺乳期にかけてBPAに曝露されたラットを使って、発達期の海馬(ステロイドホルモンに反応し、行動と学習に深く関与している部位)の核内レセプター関連因子の発現量と成年後の行動と学習を検討し、可能である甲状腺ホルモンレセプター経路とエストロゲンレセプター経路について考察した。

(1)胎児期および哺乳期BPA曝露による雄仔ラットの異常:新生期の血中甲状腺ホルモンの低下と成年期の行動障害

BPA(0.01、0.1、1、50mg/L)を妊娠11日目から産後3週まで母ラットに投与して、生まれた仔ラットについて、6週齢でopen field test(行動テスト)を行った。雌仔ラットにおいては、BPA投与はいずれの濃度でも顕著な異常が認められなかった(本来行動量が雄より高い水準を呈している)。一方、各濃度の中で低濃度曝露群(特に0.1mg/L)の雄仔ラットでは、不安、多動がより強く認められ、雌仔ラットの行動量に近づくようになった。高濃度曝露(50mg/L)の雄仔ラットでは多少の変化が見られたが、低濃度群より変化は少なかった。さらに、10週齢時にMorris water maze(水迷路テスト)により観察したところ、やはり低濃度投与群の雄ラットでは空間学習・記憶の障害が見られたが、雌仔ラットでは認めなかった。成人ラットに同じ濃度のBPAを投与したところ、顕著な行動の変化・空間学習障害は見られなかった(未発表データ)。これらのデータにより、行動・空間学習記憶においては雌よりも雄仔ラットへの影響が大きいことと胎児及び乳幼児期は内分泌かく乱物質の影響を受けやすいことが示唆された。

 母ラットと仔ラットの血中の甲状腺ホルモン(Free T4、FT4)を測定した。0.1mg/L群の母親は出産の日(P0)と産後7日目(P7)に血中の甲状腺ホルモンは対照群より低値(P(P0)<0.05,P(P7)<0.05)であった、高濃度(50mg/L)群の母ラットではP7により低FT4の傾向が見られたが、有意差はなかった(P(P7)=0.056)。0.1mg/L群の雄仔ラットはP7に一過性の高い血中FT4値が見られた(P(P7)<0.05),P21に低いFT4を呈した(P(P21)=0.054)。50mg/L群の雄仔ラットはP21に有意な低いFT4が見られた(P(P21)<0.05)。各濃度群の雌仔ラットでは有意差はなかった。胎児期および哺乳期BPA曝露は母ラットと雄仔ラットの甲状腺機能をかく乱することがわかった。さらに、0.1mg/L群の雄仔ラットの海馬中の甲状腺ホルモン受容体(THRαとTHRβ)、その下流応答因子RC3/neurograninとSRC-1(steroid hormone receptor cofactor 1)の発現量を検討した。THRsとRC3/neurograninはともに有意な変化は認められなかったが、SRC-1の発現量は対照群より多かった(P(P5)<0.05,P(P7)<0.05)。以上の結果により、BPAかく乱作用の経路はTHR経路ではなく、他のステロイドホルモンレセプター経路が示唆されている。

(2)哺乳期BPA曝露による雄仔ラットの異常:新生期海馬のエストロゲン受容体(ER)発現量の変化と成年後の行動障害

 上述したように、BPA曝露に対して雄と雌に顕著な性差がみられたということから、性ホルモンレセプター経路の関与が示唆された。BPAのエストロゲンに類似した化学構造により、今回は特異的なエストロゲン受容体の拮抗剤ICI182 780(ICI、核内ERの機能に必要であるdimer構造の形成を妨害する)を用い、エストロゲン受容体の経路を検討した。

 BPA(0.1mg/L)を生まれてから産後3週まで母ラットに投与して、生まれた雄仔ラットについて、6週齢でopen field test、10週齢でMorris water mazeを行った。BPA投与群は多動と空間学習・記憶障害がみられたが、BPA+ICI群では対照群と比べ有意な差はなかった。ICI投与はBPAのかく乱作用を抑制したことでBPAのER経路の関与が推察された。

 新生仔期の海馬について、ERαとその下流応答因子NMDA receptor 2D(NR2D)のmRNAの発現量を調べた。出産後7日目に対照群で強く発現していたERαがBPA曝露群では強く見られず、11日目に遅れて強く発現することを認めた。BPA+ICI群は対照群と同じパタンを示した。一方、ERβはほとんど発現が認められなかった。ERαの活性の高いリン酸化タイプP-ER(ser118)はP7には、対照群とBPA+ICI群で強く見られ、BPA群では弱く発現していた。しかし、P11にはBPA群は他の各群とともにリン酸化を認められなかった。発達中の海馬ではERαの活動はごく狭い期間に限定されていることが明らかになった。BPA群で遅れたERαの発現量のピークはその重要な臨界期から外れることによって、不可逆的な発達障害をきたすことが示唆された。

 光学顕微鏡を用いた海馬スライスの組織染色観察によって、ERαがCA1-CA3の錐体神経細胞とDGの顆粒神経細胞に分布することが示された。神経細胞内での局在を解明するため、共焦点顕微鏡によるNeuNとERαの二重染色の解析を行った。生後一週間から11日目まで、細胞質と核ともにERαが確かに局在していることを認めた。細胞質に存在する量は核内より多く見られた。この結果は、この時期にligandは細胞質と核内に局在していることを示唆していた。さらに、最近、細胞膜と細胞質に存在するERの機能にdimerの構造も必要であるという報告があった。ICIの投与はBPAのかく乱作用をclassic pathwayとnon-classic pathwayの二つ経路で抑制する可能性がある。BPA群でdown-regulated NR2Dと増加したSRC-1のmRNAの発現量BPAはERのClassic pathwayを作用すると思われるが、non-classic pathwayの存在も否定できない。

 記憶を蓄える部位である、神経スパインの形成へのBPAの影響をin vitroで調べた。胎児の海馬の神経細胞を取り出し(妊娠18日目)、E2(10(-10)M)が入った培養液で培養し、3日間後(出産日に相当)にICI(10(-8)M)とBPA(10(-8)M)を加え、6日後にGFP-actinのDNAを持つVirusを用い培養細胞に感染させ、24時間後蛍光顕微鏡で神経細胞のスパインを観察した。BPA群ではスパインの密度がより低く、特にThin-typeスパインの数は少なくなった。減少したスパインの数とともにsynapseにカバーされた面積も小さくなった。Thin-typeスパインが将来の神経シナプスを形成することは多くの他の研究から示唆されており、新しい記憶の場所の候補である。BPAはこのスパインの形成を阻害し、長期の記憶障害を起こすことが示唆された。

 本研究は環境ホルモンBPA曝露による発達中の脳のホルモンレセプター関連因子の変化から、成年後の行動分析までセットして行った最初の研究であり、初めにBPAのかく乱作用のclassic pathwayを確に証明したが、一方、non-classic pathwayの経路の可能性もあるので、それを解明するのは今後の課題である。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は胎児期および哺乳期bisphenol A(BPA)曝露による行動変化、空間学習・記憶障害の分子機序について検討した。妊娠期から哺乳期にかけてBPAに曝露されたラットを用い、発達中の海馬のホルモンレセプター関連因子の発現量と成年後の行動を分析し、可能である甲状腺ホルモンレセプター経路とエストロゲンレセプター経路について考察した。下記の結果を得ている。

1.雌仔ラットにおいては、BPA投与はいずれの濃度でも顕著な異常が認められなかった(本来行動量が雄より高い水準を呈している)。一方、各濃度の中で低濃度曝露群の雄仔ラットでは、不安、多動がより強く認められ、雌仔ラットの行動量に近づくようになった。高濃度曝露の雄仔ラットでは多少の変化が見られたが、低濃度群より変化は少なかった。水迷路テストにより観察したところ、やはり低濃度投与群の雄ラットでは空間学習・記憶の障害が見られたが、雌仔ラットでは認めなかった。行動・空間学習記憶においては雌よりも雄仔ラットへの影響が大きいことと胎児及び乳幼児期は内分泌かく乱物質の影響を受けやすいことが示唆された。

 母ラットと仔ラットの血中の甲状腺ホルモンは対照群より低値であったことで、胎児期および哺乳期BPA曝露は母ラットと雄仔ラットの甲状腺機能をかく乱することがわかった。しかし、発達中の海馬のTHRsとRC3/neurograninの発現量はともに有意な変化は認められなかったが、SRC-1の発現量は対照群より多かった。以上の結果により、BPAかく乱作用の経路はTHR経路ではなく、他のステロイドホルモンレセプター経路が示唆されている。

2.生まれから0.1mg/L BPAに投与された群は多動と空間学習・記憶障害がみられたが、BPA+ICI182 780(ERの特異的な拮抗剤)群では対照群と比べ有意な差はなかった。ICI投与はBPAのかく乱作用を抑制したことでBPAのER経路の関与が推察された。新生仔期の海馬にERαの活動はごく狭い期間に限定されていることが明らかになった。BPA群で遅れたERαの発現量のピークはその重要な臨界期から外れることによって、不可逆的な発達障害をきたすことが示唆された。

 共焦点顕微鏡によるNeuNとERαの二重染色の解析で、新生仔期の海馬神経細胞の細胞質と核ともにERαが確かに局在していることを認めた。BPAのかく乱作用をclassic pathwayとnon-classic pathwayの二つ経路で抑制する可能性があることが示唆された。

 In vitroの実験で、BPAは海馬神経培養細胞のスパイン、特にThin-typeスパインの形成を阻害することが示された。Thin-typeスパインが将来の神経シナプスを形成することは多くの他の研究から示唆されており、新しい記憶の場所の候補である。BPAはこのスパインの形成を阻害し、長期の記憶障害を起こすことが示唆された。

 本研究は環境ホルモンBPA曝露による発達中の脳のホルモンレセプター関連因子の変化から、成年後の行動分析までセットして行った最初の研究であり、初めにBPAのかく乱作用のER経路をin vivoとin vitroで証明し、環境ホルモンの神経発達におけるかく乱作用の分子機序の解明に貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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