学位論文要旨



No 122665
著者(漢字) 中村,信二
著者(英字)
著者(カナ) ナカムラ,シンジ
標題(和) アート型亜鉛錯体の反応に関する実験的および理論的研究
標題(洋)
報告番号 122665
報告番号 甲22665
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第1210号
研究科 薬学系研究科
専攻 分子薬学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大和田,智彦
 東京大学 教授 小林,修
 東京大学 教授 柴崎,正勝
 東京大学 助教授 金井,求
 東京大学 講師 杉浦,正晴
内容要旨 要旨を表示する

【序論】亜鉛アート錯体の反応は銅アート錯体の反応と極めて類似しており、反応性の面で銅に及ばないなどの問題から、最近まであまり注目を集めることの無かった化学である。しかし近年の精密有機合成化学に対する要請の高まりとともに、亜鉛アート錯体の持つ高い化学選択性が注目されるようになりつつある。このような気運にともない、亜鉛アート錯体に関する構造研究が次第に行われるようになってきた。錯体の構造は反応の設計や反応機構の解析の基礎となる重要な情報であり、この研究の流れは本研究を行うにおいて大きな支えになった。このような有機亜鉛化学の歴史と構造化学の進展について本文第1章に詳述した。

 亜鉛アート錯体には配位子の種類・配位数・カウンターカチオンの種類などの多くの構成要素がある。三配位モノアニオン型アート錯体の他に四配位ジアニオン型アート錯体が構造化学的には知られていた。しかしこれまでの反応化学は三配位型アート錯体の研究が中心であり四配位型アート錯体は殆ど研究されていなかった。カウンターカチオンはリチウムについての研究例が殆どであり、カウンターカチオンの種類が錯体の反応性に与える影響はこれまで全く調べられてこなかった。また、これまでの研究は、その殆どが亜鉛上の配位子が全て同じ種類からなるホモレプティックアート錯体の研究であり、亜鉛上の配位子が異なるヘテロレプティックアート錯体の研究例は極めて限られていた。本研究ではこれらの未開拓の領域に踏み込み、実験化学と計算化学の両面から亜鉛アート錯体の反応開発と反応機構の解明に取り組んだものである。

【炭素間多重結合へのシリルメタル化反応】亜鉛上の配位子として、シリル基は、通常の炭素配位子に優先して反応に参加することが古くから知られていた。シリル基は有機化合物に導入された後、炭素-ケイ素結合を足がかりに様々な変換反応が行えるために有用な官能基である。実際にこれまでに、シリル基を配位子とする亜鉛アート錯体を用いて、α,β-不飽和カルボニル化合物への官能基導入反応等が開発されていた。第2章では、シリル基を有するヘテロレプティック亜鉛アート錯体を用いて行った反応開発について記した。炭素間多重結合への官能基導入反応は近年注目を集めており、その一つであるアルキンおよびアルケンへのシリルメタル化反応について記述した。

 炭素間多重結合は、カルボニル基のような炭素-ヘテロ原子結合とは異なり、分極が小さいために反応が進行しづらく、反応の位置制御も困難である。アルキンに対する既存の反応は、過剰の試薬と触媒の添加を必要とする上に基質一般性も低く、位置選択性についても十分に調べられてはおらず、満足のいく反応ではなかった。この問題に対し、高度に活性化された四配位ジアニオン型亜鉛アート錯体を利用することで解決に取り組んだ。そして、触媒や過剰の試薬を用いることなく、穏和な条件で、高官能基選択的かつ高α-付加選択的に進行するシリルメタル化反応の開発に成功した。また、亜鉛上の配位数による反応の活性化機構と、位置選択性の発現機構について、計算化学的に解析し、その反応機構に関する統一的な知見を得ることに成功した(Fig.1)。アルキンに対する研究について2-1節に記述した(JACS,2004,126,11146)。

 アルキンに対する反応の解析から、亜鉛と銅の組み合わせがシリルメタル化反応を著しく促進することを見出した。シリルメタル化反応はこれまでアルケンに対しては進行しないとされていたが、この知見に基づく検討の結果、亜鉛錯体と銅触媒の組み合わせによってこれまで不可能とされてきたアルケンに対するシリルメタル化反応に成功した。また、得られた実験的成果に関し、計算化学を用いる予備的な反応機構解析を試み、活性化機構や位置選択性に関する知見を得ることに成功した(Fig.2)。銅触媒を用いるアルケンへの付加反応について2-2節に記述した(JACS,2007,129,28)。

 シリルメタル化反応では中間体に炭素-金属結合を生成するため、これを利用する化学変換により、ヒドロシリル化反応では成しえない多様な官能基変換が可能となる。これまでの反応の解析から、亜鉛と遷移金属の組み合わせがアルケンの活性化に有効であるとの知見が得られた。そこで中間体の炭素-金属結合を遷移金属触媒の反応へと利用する検討を行った。幾つかの遷移金属の中から、チタノセン誘導体に、シリルメタル化反応と中間体からのβ-水素脱離反応という連続する二つの反応を触媒する能力があることを見出した。反応の最適化によって、これまで方法の無かったアルケンからの直接的なアリルシランの合成法を確立することができた。またここまでの知見をもとにして、反応の位置選択性や立体選択性、触媒サイクルについても考察を行った(Fig.3)。チタノセン型触媒を用いるアルケンへの付加反応について2-3節に記述した(JACS,2005,127,13116)。

【亜鉛アート錯体の理論的反応解析】第3章では、計算化学を駆使して、これまで明らかにされてこなかった三配位モノアニオン型亜鉛アート錯体の反応の機構について理論的に解析し、新しく得られた知見について述べた。

 亜鉛アート錯体は一般に通常の有機亜鉛化合物よりも反応性が高い。カルボニル化合物を基質とした場合、ジアルキル亜鉛は反応が極めて進行しづらいのに対してアート錯体は容易に配位子の付加が進行する。3-1節ではホルムアルデヒドとの反応をモデルにして、亜鉛アート錯体の活性化機構と、ヘテロレプティック錯体の配位子転移能を解析した。これによって、アート錯体の反応は中心金属とカウンターカチオンのバイメタル活性化機構が重要であること、配位子転移能は遷移状態における軌道相互作用様式で決定されること、が明らかになり、これまで経験則に頼られてきた亜鉛上の配位子の反応性の違いについて、初めて理論的・化学的な説明を行うことが可能となった(Fig.4)(JACS,2004,126,10897)。

 3-2節では、メチルビニルケトンをモデルにして、実験的に知られるα,β-不飽和カルボニル化合物への1,4-付加反応選択性のメカニズムを解析し、その新たな結果と知見を記述した。この過程において、亜鉛が基質の立体化学に依らず1,4-付加反応を行うこと、1,4-付加プロセスは基質のπ軌道と亜鉛との相互作用によって安定化されること等を見出した(Fig.5)。これらはリチウム化合物や銅化合物との大きな違いであり、亜鉛化合物独自の反応機構の存在を明らかにすることができた。この結果は、経験的に知られてきた中心金属の違いによる反応性の差異を見事に説明できただけでなく、新たな共役付加反応をデザインする上でも大変興味深いものと考えている(submitted)。

 3-3節では、ハロゲン化アルキル類を基質とする、三配位モノアニオン型亜鉛アート錯体とのハロゲン-金属交換反応について解析を行い、そこで得られた知見を記述した。ハロゲンの違いによる反応性の違い、亜鉛上の配位子による反応性の違い、ハロゲンに結合した有機基の性質による反応性の違い、について理論的な説明を加えた。この反応は、基質や錯体の構造の違いによる遷移構造の差は小さく、反応性の違いは中間体の構造の違いや、遷移状態におけるハロゲンの電子的な環境の違いによって決定していることを見出した(Table 1)(submitted)。

【結語】本研究により、これまで全くわかっていなかった亜鉛アート錯体の反応性、選択性、反応機構が明らかになった。亜鉛のように酸化還元をしない金属の反応は一見単純に見えるものの、その反応の選択性の発現機構は、化学的によく似た性質を示す銅やリチウムの反応機構とは全く異なることが明らかになった。今後、亜鉛の特長を更に上手く生かした反応の開発が期待できる。

Fig.1 Regio- and chemoselective silylmetalation of terminal alkynes using zincate complex

Fig.2 Copper-catalyzed regio- and chemoselective silylmetalation of terminal alkenes using zincate complex

Fig.3 Titanocene-catalyzed regiospecific and chemoselective silylmetalation and β-hydride elimination of terminal alkenes to give Z-allylsilanes using zincate complex

Fig.4 Reaction pathways of heteroleptic zincate complexes with formaldehyde and Kohn-Sham orbitals (HOMO) of the transition states calculated at B3LYP/631SVP level

Fig.5 Four possible transitions states of 1,4-/1,2-addition of Me3ZnLi (OMe2) to methyl vinyl ketone. Activation energies and donor-acceptor interaction energies were calculated at B3LYP/631SVP level.

Table 1 Deformation energies (DEF), interaction energies (INT),and activation energies (ΔE≠)(kcal/mol) of halogen-metal exchange reaction of Me2RZnLi(OMe2) (R=Me,Et,iPr,tBu) with MeI calculated at B3LYP/631SVP level

審査要旨 要旨を表示する

 中村信二は、「アート型亜鉛錯体の反応に関する実験的および理論的研究」と題し、以下の研究を行なった。

1.炭素間多重結合へのシリルメタル化反応の開発

 シリルメタル化反応はアルキンなどの炭素間不飽和結合に対してシリル基と金属を一挙に導入可能な反応であり、得られる炭素金属結合を続く変換反応に利用できるため、簡便に多官能性有機ケイ素化合物が得られる反応として有用性が高い。本反応は位置選択性の制御が困難なことと適用可能な基質に制限があることがこれまでの問題点であった。

 アルキンは高反応性基質として知られるため、位置選択性の制御が最大の課題であった。一置換アルキンのα-炭素選択的なシリル化は、ヒドロシリル化反応などの類縁反応を用いても困難であるとされ、一般性の高い反応開発が強く望まれる変換反応の一つとされてきた。中村信二はアート型亜鉛錯体として、高度に活性化されたジアニオン型錯体を用い、カウンターカチオンとしてマグネシウムを組み合わせることで、穏和な条件下にて高官能基選択的・高α-付加選択的にシリルメタル化反応が進行することを明らかにした(Fig.1)。これまで知られていた数少ないα-付加選択的付加反応に比べ、この方法では極めて高い基質一般性を有すること、一置換アルキンに対して高い選択性を有すること、過剰な試薬や触媒の添加を必要としないこと、といった特徴を有していた。また、中間体で得られる炭素-金属結合は典型的なビニル亜鉛化合物の反応性を示し、求電子剤による捕捉やパラジウムの反応へと利用することが可能であり、位置選択的に三置換ビニルシランを得ることが可能であった。既存の反応である銅の反応と比較しながら理論的に反応機構を解析し、銅と亜鉛のいずれの反応も類似の遷移構造で反応が進行していることを見出し、価数が二の亜鉛では反応に関与しないダミー配位子が基質と立体障害を起こすことで、価数が一の銅とは異なる選択性が発現することを明らかにした。

 アルケンは反応性が低い基質として知られ、これまでの少ない成功例は全て特殊な基質を用いるものや使い勝手の悪い金属を用いるものであった。中村信二は、アルキンの反応機構解析から、アート錯体のカウンターカチオンや触媒が基質の活性化に著しい影響を与えていることを見出していた。この知見に基づいて、アルケンを活性化できる触媒を検討することにより、銅塩が亜鉛と相性がよく、触媒に用いた際には円滑にアルケンに対してシリルメタル化反応が進行することを見出した(Fig.2)。反応は銅塩の種類によらず常にβ-付加選択的に進行して直鎖型シランが得られること、高い官能基共存性を有すること、一置換アルケンに対して高い選択性を有すること、などの特徴を有していた。また、中間体の炭素-金属結合をカルボアニオンとして利用できることを見出し、様々な求電子剤をシリル基のβ-位に導入することが可能であることを示した。本反応についてもカウンターカチオンとしてマグネシウムが有効であることがわかり、リチウムの場合には殆ど反応が進行しないこと見出し、アルキンに対しては亜鉛アート錯体以上に反応性が高いリチウム銅アート錯体でさえ有効では無いことを示し、亜鉛とマグネシウムと銅の作り出す配位環境が反応の活性化に極めて有効であることを明らかにした。この実験事実は、計算による活性化エネルギーの試算によっても確認された。

 一般にアルキル金属化合物は、アルキル基の種類や金属の種類によって様々な反応性を示す。その一つであるβ-水素脱離反応は遷移金属触媒の反応でしばしば副反応として問題となる反応であり、これまでこの素反応を積極的に利用した有機反応は稀有であった。中村信二は、アルケンへのシリルメタル化反応によって得られるアルキル金属化合物は、β-水素脱離反応によって合成化学的に有用なアリルシランへと導くことができることに着目し、チタノセン型化合物にシリルメタル化反応と続くβ-水素脱離反応に対する高い活性があることを突き止めた(Fig.3)。β-水素脱離反応ではビニルシランができる可能性もあり、実際にジルコニウムを用いる類縁反応でビニルシランが得られる例が知られていた。しかし、この反応はアリルシランを与えるように高選択的にβ-水素脱離反応が進行し、亜鉛錯体とチタノセン型触媒の組み合わせによってアリルシランを20/1以上の高い選択性で得ることに成功した。この反応もまた、穏和な条件下、高官能基選択的に進行し、Z-選択的にアリルシランが得られること、一置換アルケン特異的であるなどの特徴を有していた。系統的な基質の置換基効果の検討と、これまでのアルキン・アルケンの反応からの知見から、反応はチタンをカウンターカチオンとする亜鉛アート錯体(または亜鉛をカウンターカチオンとするチタンアート錯体)によって進行している可能性が高いことを明らかにし、想定される選択性の発現機構を示した。

 これらの研究から、アート型亜鉛錯体の炭素間多重結合との新たな反応性が示され、不活性な結合に対しても複数の金属の協同効果によって活性化を行い得ることを明らかにした。

2.計算化学による亜鉛アート錯体の反応解析

 アート型亜鉛錯体の示す典型的な反応性としてカルボニル化合物に対する付加反応がある。立体的にこみ入ったケトンに対しても速やかに反応が進行することや、α,β-不飽和カルボニル化合物に対しては高選択的に1,4-付加を進行させることが知られている。中村信二は、ジアルキル亜鉛には見られないこれらの反応性の起源についてDFT法による解析を行い、アート錯体のヘテロバイメタリックな構造が基質の活性化と錯体の求核力の向上に関係していることを見出した。特に1,4-付加選択性では、カウンターカチオンがカルボニル基の活性化を行うと同時に、亜鉛が不飽和結合と軌道相互作用しながら基質を活性化することで位置選択的に進行していることを見出した(Flg.4)。また、異なる種類の配位子を同一錯体中に複数個有するヘテロレプティック亜鉛アート錯体の反応で問題となる配位子転移能の問題は、遷移状態における基質と配位子との軌道相互作用様式の違いによって理解・説明可能であることを示した。

 さらに、基質や配位子による反応性の違いが顕著にみられる反応の例として、ハロゲン-金属交換反応に着目し、その反応機構の理論的な解析も行った。錯体の反応性は遷移状態ではなく中間体の構造の違いで決まっていることを見出し、基質の反応性は変形エネルギーと相互作用エネルギーの複合的な関わりあいの結果として決定することを示した。遷移状態は接触イオン対型ハロゲンアート錯体モデルによるものが最も確からしい経路であること、遷移状態の安定性の違いの大部分はハロゲンアート錯体の安定性の違いの差によって説明可能であることを示した(Fig.5)。

 以上のように、中村信二はアート型亜鉛錯体について、炭素間不飽和結合に対する新たな反応性を開拓することに成功した。アルキンに対する反応では新たなビニルシラン合成法の確立に成功し、これまで解決困難な課題とされてきたアルケンに対する反応では、同一の基質から触媒の使い分けによって生成物を作り分けられることを示した。これらの計算化学的な解析によって、反応機構や選択性の発現機構についても有用な知見を得ることができた。また、計算化学によって、亜鉛アート錯体の配位子転移能や1,4-付加反応選択性、ハロゲン-亜鉛交換反応のメカニズムなどを明らかにした。これらの研究により、アート型亜鉛錯体のヘテロオリゴメタリックな構造による基質の活性化機構の一般性を示した。本研究の成果は有機化学の基礎分野に有意に貢献するものであり,博士(薬学)の学位を授与するに値するものと認められる。

Fig.1

Fig.2

Fig.3

Fig.4

Fig.5

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