学位論文要旨



No 122676
著者(漢字) 栗栖,修作
著者(英字)
著者(カナ) クリス,シュウサク
標題(和) アクチン細胞骨格調節因子WAVE2による、がん細胞の浸潤・転移の制御機構の解析
標題(洋) Essential Roles of WAVE2, an actin cytoskeleton regulator, in invasion and metastasis of cancer cells
報告番号 122676
報告番号 甲22676
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第1221号
研究科 薬学系研究科
専攻 機能薬学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 竹縄,忠臣
 東京大学 教授 新井,洋由
 東京大学 教授 入村,達郎
 東京大学 助教授 紺谷,圏二
 東京大学 助教授 富田,泰輔
内容要旨 要旨を表示する

【はじめに】

 がん細胞は浸潤能や転移能を獲得する過程で細胞遊走能を亢進させる。細胞遊走時には遊走の先導端でアクチン細胞骨格が再編され、アクチン線維の伸長が細胞膜を突出させる原動力となる。そして、多くのアクチン細胞骨格調節タンパク質が協調的に働き細胞遊走を制御している。一方がん細胞においては、悪性化に伴いアクチン細胞骨格の動態を司る分子システムに異常が生じ、高い遊走能を獲得すると考えられている。近年、先導端におけるアクチン重合を促進する因子としてArp2/3複合体が発見され、細胞の辺縁部における突起構造の形成に必須の因子であることが分かってきた。しかし、Arp2/3複合体の活性変化ががん細胞の悪性化に関与するかについては不明であった。

 本研究ではArp2/3複合体の活性化因子であるWASPファミリータンパク質(N-WASP, WAVE1-3)ががんの悪性化過程に如何に関与するか解析を行い、がん細胞の異常な遊走能にWAVE2が深く関与することを発見した。

【方法と結果】

1. B16マウス・メラノーマ転移モデルにおけるWAVEの活性上昇

 B16モデルは非転移性のB16F0マウス・メラノーマ細胞株と、B16F0細胞から単離されたB16F1(低転移性)、B16F10(高転移性)細胞より成る。このモデルにおいてWASPファミリーの発現量(図1-1)、および上流シグナルであるRhoファミリー低分子量Gタンパク質の活性(図1-2)を調べたところ、転移能の亢進に伴い、Racの活性上昇と、Racの下流に位置するWAVE1、およびWAVE2のタンパク質量の増加が認められた。このことは転移性の獲得に伴いRac-WAVEシグナルが亢進することを示唆していた。

2. WAVE2の活性は浸潤・転移能を制御する

 次に、Rac-WAVEシグナルが浸潤・転移に関与するか検討した。RNA interference (RNAi)法で内在性のWAVE1およびWAVE2の発現を抑制した場合、WAVE2 RNAiによりB16F10細胞の浸潤能が著しく低下した(図2-1)。加えて、本来浸潤能の低いB16細胞にRacの恒常的活性化体(RacCA)を発現すると浸潤能が亢進し、そこにWAVE2を過剰発現すると、さらに浸潤能が上昇した(図2-2)。したがって、B16モデルの転移能獲得過程で見られたRacの活性化とWAVE2の発現増加は、がん細胞の浸潤に積極的に関与すると考えられる。WAVE2の発現抑制は実験的肺転移で形成される転移巣の数を減少させることから、WAVE2はがん細胞の転移巣形成における浸潤的拡散に関与することが示唆される。基底膜モデルであるマトリゲル中でB16F10細胞を経時観察したところ、WAVE2 RNAiにより顕著な遊走抑制が確認され、遊走阻害が浸潤・転移の抑制に寄与していることが示唆された。

3. 様々ながん細胞における細胞遊走形態の多様性

 B16モデルにおいてWAVE2は浸潤に必須の因子であったが、他のがん細胞ではどうであろうか?最近の研究から、がん細胞が細胞外基質中を遊走するための分子機構は、いくつか存在することが提唱されている。実際、U87MGヒト膠芽腫細胞をコラーゲンゲル中で経時観察すると、遊走方向に突起を伸展しながら遊走する(間葉性遊走)。それに対し、SW480ヒト大腸癌細胞は激しい膜ブレビングを伴いながら遊走する(ブレビング遊走)。一方、HT1080ヒト線維肉腫細胞では前述の二つの性質を併せ持つ遊走様式(中間性遊走)を示した(図3)。U87MG細胞で見られる突起構造はactinに富み、先端部にWAVE2が濃縮するが、膜ブレビングは形成初期にactinの集積が少なく、WAVE2も濃縮しない。従って、両者は相異なる分子機序によって制御され、WAVE2の寄与も大きく異なる可能性が考えられた。

4. 間葉性遊走はWAVE2シグナルに依存し、ブレビング遊走はROCKシグナルに依存する

 膜ブレビングは収縮時にアクトミオシン収縮を利用する。Rhoの下流で活性化されるプロテインキナーゼであるROCK (Rho kinase)はミオシン軽鎖をリン酸化しアクトミオシン系の収縮を促すため、膜ブレビング形成に関与する。そのため、ROCKの阻害薬であるY-27632は膜ブレビングを抑制する。前述のU87MG、SW480、HT1080細胞をこの薬剤で処理した場合、SW480細胞の遊走は阻害されるが、U87MG細胞やHT1080細胞の遊走は阻害されなかった。一方、WAVE2をRNAiにより発現抑制すると(図4A)U87MG細胞の突起形成が阻害され遊走能は減少するが、SW480細胞の遊走は抑制されなかった(図4C)。Racの活性はU87MG細胞で高く、RhoAの活性はSW480細胞で高いことも、U87MG細胞ではWAVE2が活性化され、WAVE2依存性の遊走を示すことを支持する(図4B)。この観察から、WAVE2は葉状仮足を推進力とする間葉性遊走を司り、Rho/ROCKはアクトミオシン系を介してブレビング遊走を司ることが示唆された。

5. WAVE2依存性遊走とROCK依存性遊走の間の可塑性

 中間性のHT1080細胞のコラーゲンゲル中への浸潤を逆位浸潤アッセイ(図5B)により定量したところ、HT1080細胞の浸潤はWAVE2シグナル、あるいはROCKシグナルを単独で阻害しただけでは抑制されなかった。しかし、この二つのシグナルを同時に遮断すると浸潤が著しく阻害された(図5C,D)。この結果は、中間性遊走においては、ROCK依存性遊走、つまりブレビング遊走が起きない条件ではWAVE2依存性遊走が支配的となることを示唆する。逆に、WAVE2依存性遊走、すなわち間葉性遊走がおきない条件では、ROCK依存性遊走が支配的となる。従って、ある種のがん細胞の浸潤ではWAVE2依存性遊走とROCK依存性遊走、これら二つの独立した機構により遊走が制御され、この二者間には可塑性が存在することが予想された。

【考察】

 本研究で、がん細胞の浸潤様式の一つである間葉性遊走はArp2/3複合体によるアクチン重合が遊走の推進力となり、Rac/WAVE2シグナルによって制御されることを示した。さらにB16モデルから、浸潤・転移能の亢進にRac/WAVE2シグナルの増強が関与することを明らかにした。これはWASPファミリータンパク質が積極的にがんの悪性化に寄与することを示したはじめての例である。

 B16F10細胞の浸潤・転移は強くWAVE2に依存し、マトリゲル中で葉状仮足様の突起を伸展することから、遊走様式としては間葉性遊走が支配的であると考えられる。一方、別の様式であるブレビング遊走はアクトミオシン収縮が牽引力となり、Rho/ROCKシグナルによって制御されることを示した。HT1080細胞のように両者の特徴を併せ持つ遊走もあることは、間葉性遊走とブレビング遊走ははっきり区別のつくものではないことを示唆している。おそらく、がん細胞の遊走では、Rac/WAVE2シグナルとRho/ROCKシグナルの両者のバランスが形態を決定するのであろう。

 WAVEは3つのアイソフォームから成るが、B16モデルにおいてはWAVE3の発現は検出されず、WAVE1およびWAVE2は同程度の発現レベルであった。WAVE1およびWAVE2はどちらもArp2/3複合体を活性化し、類似の細胞内局在を示すにもかかわらず、B16F10細胞の浸潤・転移はWAVE1にあまり依存しない。現在分かっているWAVE2特異的な唯一の結合タンパク質はIRSp53であり、WAVE2によるArp2/3活性化をRac活性依存的に促進する作用を持つ。したがって、B16F10細胞で遊走がWAVE2に強く依存する一つの理由として、RacのシグナルをIRSp53がWAVE2に伝達している可能性が考えられる。

 がんの浸潤・転移を抑制する薬剤の開発という観点から見ると、本研究はある種の悪性がんで細胞遊走がRac/WAVE2シグナルに強く依存することを明らかにし、WAVE2が浸潤・転移抑制のターゲットとなり得ることを示している。さらに、間葉性遊走ではRacが活性化され、遊走がWAVE2によって制御されること、即ち、WAVE2はRacが異常活性化しているがんで特に有効な分子標的となり得ることを示したという点で、本研究は将来、新たな薬剤の開発に役立つ知見となることが期待される。

【参考文献】(1) Kurisu S., Suetsugu S., Yamazaki D., Yamaguchi H. and Takenawa T. "Rac-WAVE2 signaling is involved in the invasive and metastatic phenotypes of murine melanoma cells." Oncogene (2005), 24, 1309-1319.(2) Yamazaki D., Kurisu S. and Takenawa T. "Regulation of cancer cell motility through actin reorganization." Cancer Science (2005), 96, 379-386.

図1-1 WASPファミリータンパク質の発現量の変化

図1-2 Rhoファミリーの活性変化

図2-1 B16F10細胞の浸潤に対するWAVE RNAiの効果

図2-2 B16F0細胞におけるRacCA、およびWAVE2の発現による浸潤能の亢進

図3 コラーゲンゲル中での細胞遊走形態(矢頭:膜ブレビング、矢印:突起構造)

図4 間葉性遊走とブレビング遊走のWAVE2への依存性の違い

図5 中間性遊走ではWAVE2シグナルとROCKシグナルが相補的に浸潤を促す

審査要旨 要旨を表示する

 申請者、栗栖修作の論文は、がんの悪性化過程において、がん細胞が如何に細胞遊走能を亢進させ、浸潤・転移能を獲得するかを調べた細胞生物学的研究の成果を述べたものである。がんの転移はヒトのがんの死亡原因の90%を占めるにもかかわらず、非浸潤性のがん細胞が浸潤能を獲得し、転移性の悪性がんに変化する過程の分子メカニズムには不明な点が多い。従って、浸潤能の獲得機構を分子レベルで理解することは、効果的ながんの治療法を確立する上で非常に重要である。

 論文の前半は、マウス・メラノーマ細胞が転移能を獲得する過程でRhoファミリー低分子量Gタンパク質Racの活性化、及びその下流因子であるWAVE2の発現量の増加が起こることで、メラノーマ細胞が自身の浸潤能を亢進させることを証明している。この増強されたRac-WAVE2のシグナル伝達はメラノーマ細胞の転移にも必須の要素であることも示している。WAVEはアクチン重合を促進し、細胞遊走を司ることが知られてはいたが、申請者の研究により、がんの悪性化という病理的進展に深く関与することが初めて示唆された。また、WAVEはWAVE1-3のアイソフォームがあることが知られているが、三者ともアクチン重合を促進する能力においては同等であると考えられていた。しかし、このマウス・メラノーマ細胞ではWAVE1とWAVE2の発現量が同レベルであるにもかかわらず、WAVE1は浸潤・転移に必須ではなく、WAVE2が決定的な役割を果たすことを示した点は、WAVEアイソフォーム間の機能的差異を示唆するもので興味深い。

 浸潤は細胞外基質中の三次元的な細胞遊走であると考えられる。浸潤の分子機構の解明が遅れている原因の一つとして、三次元的な細胞遊走の解析が困難であることが挙げられる。論文の後半では、三次元コラーゲン培養系を用いて、ヒトのがんの浸潤の分子メカニズムとしてRac-WAVE2シグナルが広く共通する機構であるかを検証している。ヒトがん細胞の浸潤形態はがんの種類により大きく三つの形態(ブレビング遊走・間葉性遊走・中間型遊走)に分類できることを発見している。この三者の中で間葉性遊走はWAVE2の活性により支配されるが、ブレビング遊走はWAVE2に依存せず、ROCK/Rho kinaseの活性を必要とし、WAVE2シグナルとは独立したアクトミオシン系を介して浸潤していた。中間型の遊走はWAVE2とROCKの両者の活性を同時に阻害した場合でのみ抑制され、中間型遊走はWAVE2依存性の遊走とROCK依存性の遊走の二つを併せ持つ浸潤形態であった。以上により、これまで不明であった三次元基質中での細胞遊走の分子基盤の一端が明らかとなり、WAVE2は間葉性遊走に分類される種のがんの浸潤において必須の因子になっていることが分かった。

 本研究はがん細胞の浸潤の分子メカニズムに関する細胞生物学に大きく貢献するものである。よって、申請者の栗栖修作は、博士(薬学)の学位を授与されるにふさわしいと判断する。

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