学位論文要旨



No 122681
著者(漢字) 多田,稔
著者(英字)
著者(カナ) タダ,ミノル
標題(和) 神経組織特異的な発現を示す新奇Rasファミリー蛋白質Di-Rasの機能解析
標題(洋)
報告番号 122681
報告番号 甲22681
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第1226号
研究科 薬学系研究科
専攻 機能薬学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 堅田,利明
 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 教授 岩坪,威
 東京大学 助教授 東,伸昭
 東京大学 助教授 富田,泰輔
内容要旨 要旨を表示する

【序】

 Rasを代表とする低分子量G蛋白質は、細胞外からの刺激に応答して、GDPの結合した不活性型からGTPの結合した活性型へとそのコンホメーションを変換することで下流へとシグナルを伝達するスイッチ分子として機能している。癌原遺伝子として同定されたHa-Rasをはじめ、これまでにRasと相同性の高い低分子量G蛋白質が複数同定されており、一群のRasファミリーを形成している(図1)。それらは細胞の分化や増殖のみならず、近年では細胞の接着や形態形成など多彩な細胞機能を制御することが示唆されており、様々な細胞内情報伝達系において重要な役割を担うことが明らかとなりつつある。

 私はヒトゲノム情報をもとにした新奇Rasファミリー蛋白質の同定およびその機能解析により、Rasファミリー蛋白質の介在する新たな生理応答の制御を明らかにすることを目的として研究を進めてきた。本研究では、線虫から哺乳動物に至るまで動物種をこえて神経組織特異的な発現を示す新奇Rasファミリー蛋白質Di-Ras(Distinct subgroup of Ras family GTPases)を同定し、培養細胞および線虫を用いた解析によりDi-Rasが神経ペプチドの放出に関与し得ることを明らかにしたので報告する。

[結果]

1.Di-Rasは神経組織特異的な発現を示す新奇Rasファミリー蛋白質である。

 既存のRas蛋白質との相同性を指標にヒトゲノムデータベースを探索した結果、複数の新奇Rasファミリー蛋白質を同定した。その中でもDi-RasはヒトにおいてDi-Ras1,Di-Ras2の二つの相同因子が存在し、新たなRasサブファミリーを形成することが明らかとなった(図1)。また、Di-Rasはグアニンヌクレオチドとの結合に必須なGドメインと呼ばれる領域や膜との結合に重要な脂質修飾部位において他のRasファミリー蛋白質と高い相同性を有する一方で、標的蛋白質との結合に重要なエフェクタードメインにおけるアミノ酸配列が異なるなど、一次構造上ユニークな特徴を有していた。ノザンブロットによりマウスにおけるDi-Ras mRNAの発現臓器の検討を行った結果、Di-Ras1,Di-Ras2ともに脳特異的に発現することが明らかになった(図2上)。さらに、ゼブラフィッシュおよび線虫におけるDi-Rasの相同因子が神経細胞特異的な発現を示したことから(図2下)、Di-Rasが動物種をこえて何らかの神経機能に関与する可能性が考えられた。

2.Di-Rasは既存のRasとは異なりRaf-MAPK経路を活性化しない。

 既存のRas蛋白質の多くは代表的な標的因子であるRafを介して、MAPキナーゼ経路を活性化することが知られている。そこで、Di-Rasが同様のシグナル伝達経路に関与するのかを知る目的で、ERKのリン酸化を指標にMAPキナーゼ経路への関与を検討した。マウス神経芽腫由来の細胞株であるNeuro2a細胞にDi-Rasを過剰発現したところ、Ha-Rasの活性化型変異体の発現によって見られるようなERKのリン酸化の亢進は検出されなかった。また結合実験の結果、Di-RasはRafとの結合能を有さないことが明らかとなった。さらに、Rasの他の代表的な経路の一つであるPI3K-Akt経路においてもDi-Rasの関与は認められなかったことから、Di-Rasは既存のRasとは異なるシグナル伝達経路に関与する可能性が示唆された。

3.Di-RasはProhoromone Converatase2(PC2)と相互作用し、分泌小胞上で共局在する。

 Di-Rasの関与するシグナル伝達経路を探る目的で、ヒト脳cDNAライブラリーを用いて酵母Two-hybridスクリーニングを行い、Di-Rasの相互作用因子としてペプチドホルモンの成熟・分泌に関与するプロテアーゼProhormone Convertase2(PC2)を同定した。Neuro2a細胞を用いた実験により、Di-RasとPC2が培養細胞内で相互作用すること(図3)、および両者が分泌小胞上において共局在することが明らかになり、Di-RasがPC2を介した神経ペプチドの成熟や分泌に関与する可能性が考えられた。

4.Di-Rasの過剰発現によりペプチドホルモンの放出が亢進する。

 プロオピオメラノコルチン(POMC)はPC2による切断をうけ刺激依存的に分泌されるペプチドホルモンの前駆体である。そこでPOMCとβ-Galを融合した蛋白質を発現するレポーター遺伝子を作製し、分泌過程におけるDi-Ras過剰発現の影響を検討した。Neuro 2a細胞にレポーター遺伝子を発現させ、細胞外に分泌されるβ-Gal融合蛋白質の活性を測定した結果、Di-Ras1との共発現によりレポーター蛋白質の分泌が著しく亢進することを見出した(図4)。一方、C末端の脂質修飾部位を欠き膜への結合能を失った変異体(Di-Ras1/WTΔC4)ではこのような分泌の亢進は認められないことから、Di-Rasが分泌小胞上に局在することで、その放出に関与する可能性が示唆された。

5.Di-Rasの線虫相同因子drn-1遺伝子の変異株では運動神経におけるアセチルコリンの放出に異常が生じる。

 哺乳動物ではDi-Ras1,Di-Ras2,NOEY2(Di-Ras3)の3つの遺伝子がDi-Rasサブファミリーを形成している。一方、線虫においてはdrn-1(DiRas/Rig/NOEY2 homolog)遺伝子のみが存在する。そこで線虫drn-1遺伝子破壊株を用いてDi-Rasの個体レベルにおける神経機能への関与について検討を行った。その結果、drn-1変異株はアセチルコリンエステラーゼの阻害薬であるaldicarbによる運動麻痺に対して抵抗性を示すことを見出した(図5)。一方、アセチルコリン受容体のアゴニストであるlevamisoleの添加による運動麻痺は野生型と変わらなかったことから、drn-1変異株においては神経筋接合部におけるアセチルコリンの放出が減少していると考えられた。先に述べたDi-Rasと相互作用が認められたPC2の線虫相同因子egl-3の変異株においても神経ペプチドの放出異常によりdrn-1変異株と同様の表現型が報告されている。そこで二重変異株を用いた解析によりdrn-1とegl-3の遺伝学的相互作用について検討したところ、両者の表現型に相加性は認められずDRN-1がEGL-3の介在するシグナル経路の上流に位置する可能性が示唆された。

【総括】

 本研究において私は、神経組織特異的な発現を示す新奇Rasファミリー蛋白質Di-Rasを単離・同定し、Di-Rasが分泌小胞上でPC2と相互作用することで神経ペプチド放出を促進する可能性を見出した。また、Di-Rasの機能を欠損した線虫では運動神経におけるアセチルコリンの放出に異常が生じている可能性を示した。これまでにPC2をはじめ神経ペプチドの放出に関与するプロテアーゼや神経ペプチド自身の変異株において、drn-1変異株と同様の表現型が報告されており、運動神経からアセチルコリンの放出を促す神経ペプチドシグナルの介在が示唆されている。予備的な実験から、運動神経におけるアセチルコリンの放出過程にDRN-1は直接関与しないという知見を得ており、本研究で得られた結果と考えあわせるとDRN-1がEGL-3を介した神経ペプチド放出の制御により運動神経からのアセチルコリンの放出に促進的に働くというモデルが考えられる(図6)。

 近年になって細胞内セカンドメッセンジャーによって活性化されるRasの活性制御因子が神経細胞における分泌過程に関与することが数多く報告されている。今後はこれら上流因子によるDi-Rasの活性制御機構の解明により、Rasファミリー蛋白質を介した神経ペプチド放出制御の詳細な分子メカニズムの解明が期待される。

【参考文献】Kenji Kontani, Minoru Tada, Tomohiro Ogawa, Takuro Okai, Kota Saito, Yasuhiro Araki, and Toshiaki Katada. (2002) J. Biol. Chem., 277, 41070-41078

図1 ヒトRasファミリー蛋白質の進化系統樹

図2 Di-Rasは神経組織特異的な発現を示す

(上)ノザンブロットによる発現臓器の解析

(下)線虫におけるGFPレポーターの発現

図3 共沈降実験によるDi-RasとPC2の結合の確認

図4 POMC-bGalレポーターを用いたペプチド放出実験

図5 drn-1変異株におけるaldicarb感受性の低下

図6 本研究から想定されるモデル

審査要旨 要旨を表示する

 Rasを代表とする低分子量G蛋白質は、細胞外からの刺激に応答して、GDPの結合した不活性型からGTPの結合した活性型へとそのコンホメーションを変換することで下流へとシグナルを伝達するスイッチ分子として機能している。癌原遺伝子として同定されたHa-Rasをはじめ、これまでにRasと相同性の高い低分子量G蛋白質(Rasファミリー蛋白質)が複数同定されている。それらは細胞の分化や増殖のみならず、近年では細胞の接着や形態形成など多彩な細胞機能を制御することが示唆されており、様々な細胞内情報伝達系において重要な役割を担うことが明らかとなりつつある。「神経組織特異的な発現を示す新奇Rasファミリー蛋白質Di-Rasの機能解析」と題した本論文においては、線虫から哺乳動物に至るまで動物種をこえて神経組織特異的な発現を示す新奇Rasファミリー蛋白質Di-Ras(Distinct subgroup of Ras family GTPases)を同定し、培養細胞および線虫を用いた解析により神経ペプチド放出におけるRasファミリー蛋白質の新たな役割を見出している。

1.Di-Rasは神経組織特異的な発現を示す新奇Rasファミリー蛋白質である

 既存のRas蛋白質との相同性を指標にヒトゲノムデータベースを探索した結果、複数の新奇Rasファミリー蛋白質を同定した。その中でもDi-RasはヒトにおいてDi-Ras1,Di-Ras2の二つの相同因子が存在し、新たなRasサブファミリーを形成することが明らかとなった。ノザンプロットによりマウスにおけるDi-Ras mRNAの発現臓器の検討を行った結果、Di-Ras1,Di-Ras2ともに脳特異的に発現することが明らかになった。さらに、ゼブラフィッシュおよび線虫におけるDi-Rasの相同因子も神経細胞特異的な発現を示したことから、Di-Rasが動物種をこえて何らかの神経機能に関与する可能性が考えられた。

2.Di-Rasは既存のRasとは異なりRaf-MAPK経路を活性化しない

 既存のRas蛋白質の多くは代表的な標的因子であるRafを介して、MAPキナーゼ経路を活性化することが知られている。そこで、ERKのリン酸化を指標にMAPキナーゼ経路へのDi-Rasの関与について検討した。その結果、Di-Rasの過剰発現によるERKのリン酸化の亢進および抑制は認められなかった。また、結合実験の結果、Di-RasはRafとの結合能を有さないことが明らかとなり、Di-Rasは既存のRasとは異なりRaf-MAPK経路の活性化に関与せず、異なるシグナル伝達経路に関与する可能性が考えられた。

3.Di-Rasはprohormone convertase2(PC2)と相互作用し、分泌小胞上で共局在する

 ヒト脳cDNAライブラリーを用いて酵母Two-hybridスクリーニングを行い、Di-Rasの相互作用因子としてペプチドホルモンの成熟・分泌に関与するプロテアーゼprohormone convertase2(PC2)を同定した。Neuro2a細胞を用いた実験により、Di-RasとPC2が培養細胞内で相互作用すること、および両者が分泌小胞上において共局在することが示された。

4.Di-Rasの発現によりペプチドホルモンの放出が亢進する

 プロオピオメラノコルチン(POMC)はPC2による切断をうけ刺激依存的に分泌されるペプチドホルモンの前駆体である。そこでPOMCとβ-Galを融合した蛋白質を発現するレポーター遺伝子を作製し、分泌過程におけるDi-Ras過剰発現の影響を検討した。その結果、Di-Ras1の発現によりレポーター蛋白質の分泌が著しく亢進することを見出した。一方、C末端の脂質修飾部位を欠き膜への結合能を失った変異体ではこのような分泌の亢進は認められないことから、Di-Rasが分泌小胞上に局在することで、その放出に関与する可能性が考えられた。

5.Di-Rasの線虫相同因子drn-1遺伝子の変異体では運動神経におけるアセチルコリンの放出に異常が生じる

 Di-Rasの線虫相同因子であるdrn-1遺伝子の変異体を用いて個体レベルにおける神経機能への関与について検討を行った結果、drn-1変異体はアセチルコリンエステラーゼの阻害薬であるaldicarbによる運動麻痺に対して抵抗性を示すことを見出した。一方、アセチルコリン受容体のアゴニストであるlevamisoleの添加による運動麻痺は野生型と変わらなかったことから、drn-1変異体においては神経筋接合部におけるアセチルコリンの放出が減少していると考えられた。また、Di-Rasと相互作用が認められたPC2の線虫相同因子egl-3の変異体との二重変異体を用いた解析により、Di-Rasが個体レベルにおいてもPC2の介在する神経ペプチドシグナルに介在する可能性を示した。

6.DRN-1の介在する神経ペプチドシグナルの線虫運動神経における作用点の検討

 線虫運動神経においてアセチルコリン放出の制御に関与する三量体G蛋白質を介したシグナル経路とdrn-1との遺伝学的相互作用の検討を行った結果、DRN-1の介在する神経ペプチドシグナルがDAG分解酵素DGK-1の上流、すなわちGα(12)相同因子GPA-12の共役する受容体を介して運動神経からのアセチルコリン放出を制御する可能性を見出した。

 本論文から、新奇Rasファミリー蛋白質Di-Rasが分泌小胞上でPC2を介したペプチドホルモン分泌に促進的に働くことが明らかとなり、線虫においてDi-Rasの介在する神経ペプチドシグナルが運動神経におけるGα(12)-DGKを介してアセチルコリン放出に促進的に働くというモデルが提示された。本論文は新奇Rasファミリー蛋白質Di-Rasの機能解析により、神経ペプチド放出というRasファミリー蛋白質の介在する新たなシグナル伝達経路を明らかにしたことに加え、線虫においてこれまで不明であった神経ペプチドによる運動神経からのアセチルコリン放出メカニズムの理解に有用な知見を提供しており,博士(薬学)の学位として十分な価値があるものと認められる。

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