学位論文要旨



No 122729
著者(漢字) 猿渡,俊介
著者(英字)
著者(カナ) サルワタリ,シュンスケ
標題(和) ユーザエクスペリエンスを考慮した無線センサネットワークに関する研究
標題(洋)
報告番号 122729
報告番号 甲22729
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第266号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 基盤情報学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森川,博之
 東京大学 教授 近山,隆
 東京大学 教授 相田,仁
 東京大学 助教授 藤島,実
 東京大学 助教授 杉本,雅則
 東京大学 助教授 中山,雅哉
内容要旨 要旨を表示する

 半導体技術の進歩はパーソナルコンピュータの高性能化に留まらず,さまざまな分野に大きな影響を与えている.半導体技術によって培われたリソグラフィ技術はMEMSを生み,超小型・高感度・低消費電力の特徴を持ったセンサやアクチュエータの実現を可能とした.また,SoC(System-on-Chip)はマイクロコントローラと無線通信機能を1チップ化し,RFID技術や無線センサネットワークなどの誕生に寄与した.さらに半導体技術とMEMSを組み合わせることで,マイクロコントローラ,無線通信機能,センサ・アクチュエータを1つのチップ上に統合することも可能になりつつある.このような超小型のセンサやアクチュエータが,将来的にはさまざまなオブジェクトに組み込まれることが予想される.

 センサやアクチュエータが組み込まれたオブジェクトはさまざまな情報の入力や出力が可能となる.本稿ではセンサを「環境からの情報を取得する機能」,アクチュエータを「環境に対してアクションを起こす機能」というように広義に捉える.例えば,センサは椅子に組み込まれた3軸加速度センサといった単なるセンサだけでなく,壁のスイッチなどの入力装置もセンサとして扱う.アクチュエータは,カーテンの開閉を制御するモータだけでなく,部屋の間接照明などの情報を出力可能な装置もアクチュエータとして扱う.このようなわれわれの身の回りに存在する膨大な数のセンサとアクチュエータを連携させることで今までにないような新しいサービスが誕生する可能性がある.

 筆者は,このような無線センサネットワークの可能性に着目し,通信プロトコルからオペレーティングシステム,アプリケーションまでの総合的な観点から研究を行った.特に,新しい技術は使いやすさ(ユーザエクスペリエンス)が重要であると考え,プログラムの開発のしやすさを考慮した無線センサノード用のオペレーティングシステムと,ユーザが身の回りに組み込まれたセンサやアクチュエータを使用して簡単にサービスを構築可能とするフレームワークの設計と実装を行った.

 現在,無線センサネットワークのオペレーティングシステムとしてTinyOSが標準として扱われている.筆者らは2001年から無線センサネットワークの研究を進めており,そのとき既に標準になりつつあったTinyOSの使用を検討した.しかしながら,TinyOSがevent modelを用いているためにプログラムが書き辛かったこと,ハードリアルタイム性をサポートしていないことの2点の理由から筆者の研究の要求に合致しなかったため,独自にオペレーティングシステムを開発することにした.

 このような背景から開発されたオペレーティングシステムが本論文に示すPAVENET OSである.PAVENET OSは,thread modelを用いることでユーザに対してプログラムの書きやすさとハードリアルタイム処理のサポートを実現することを目指している.PAVENET OSではpre-emptiveとco-operativeのハイブリッドのスケジューラを具備している.pre-emptiveのスケジューラではCPUの動的な優先度割り込みの機能とハードウェアによるコンテキストスイッチの機能を利用することで少ないオーバヘッドでハードリアルタイム処理を実現する.co-operativeのスケジューラでは,os_yieldやsleepなどユーザが明示的にCPUを開放する関数を実行することで排他制御やコンテキストスイッチの負荷を軽減する.さらに,無線センサノードにおけるタスク間のデータの交換が無線通信における各層のパケットの交換時に多発することに着目し,オペレーティングシステムとして無線通信プロトコルのレイヤリングの機能を提供して排他制御をAPIに隠蔽することで各層のモジュール性を実現する.

 PAVENET OSとTinyOSを比較すると,PAVENET OSのカーネルはTinyOSと同程度の計算資源で実現できる.例えば,TinyOSのサンプルプログラムであるBlinkと同じ機能をPAVENET OSで実現した場合にはTinyOSではデータメモリが74byte,プログラムメモリが1700byte必要であるのに対し,PAVENET OSではデータメモリの使用量は60byte,プログラムメモリが1600byteで実現できる.また,パフォーマンスも計算資源と同様にTinyOSと同程度の性能を実現できる.一方で,PAVENET OSはTinyOSと異なり,ハードリアルタイム処理を実現する機構を提供する.そのため,TinyOSでは実現できないような,たとえば無線通信を行いながら正確な100Hzを刻むといったハードリアルタイム処理が実現できる.

 このような特徴を持つPAVENET OSを用いて筆者らは,センサとアクチュエータを連携させるためのデバイス連携フレームワークANTHの設計と実装を行った.ANTHは,センサやアクチュエータが身の回りのありとあらゆるオブジェクトに組み込まれた空間において,一般のユーザが簡単な操作でこれらのオブジェクト同士を連携させ,サービスを構築するためのフレームワークである.センサとアクチュエータによってもたらされるサービスはセンサがイベントによる環境の変化を検出するという機能を持っているがゆえにイベントドリブンの特性を持つ.また,われわれの身の回りに存在するオブジェクトは膨大な種類が存在するため,オブジェクト同士の接続の柔軟さや新しいオブジェクトの開発の容易さが重要になってくる.

 筆者はANTHをイベントドリブンプログラミングの仕組みを単純化したBind Control Modelを基に構築した.通常のイベントドリブンプログラミングではイベントからコールバック関数に対してデータを渡すため,イベントとコールバック関数との関係が静的に決められる.それに対してBind Control Modelではすべてのコールバック関数をデータを受け取らない形に統一する.このような仕組みにより,呼び出し側のプログラムから呼び出される側のプログラムへの接続が柔軟になる.また,呼び出し側と呼び出され側のプログラムをそれぞれ独立に設計することができ,開発が容易になる.一方でBind Control Modelでは単純さゆえに実現できるサービスが固定的になり,ユーザによる操作の負担が発生する.ANTHではセンサノード上で動作するVMを用いてセンサやアクチュエータの機能を動的に追加する機構を導入することで実現できるサービスの幅を広げる.また,操作端末を利用したいオブジェクトに近付けて操作する直感的なヒューマンインタフェースを導入することでユーザによる操作の負担を軽減する.さらに,無線通信におけるアプリケーション層からMAC層までを縦断的に考慮することで低消費電力な無線通信を実現する.

 これらの機構を筆者が開発したPAVENET OS上に実装した.ANTHの最小セットはプログラムメモリ3kbyte,データメモリ237byteで実現することができる.つまりANTHの最小セットはMicrochip社のPIC16といったメモリ256byte,プログラムメモリ1kbyteの非常に計算資源の少ないCPU上でも実装することができる.また,VMの命令セットをANTHで扱うサービスに特化して構築することでネイティブで実行するときに比べて1.24倍の実行速度の低下に留めた.さらに,ANTHの無線通信プロトコルをシングルホップで構築し,かつ電源状況に応じて複数のMACプロトコルを切り替えることでバッテリで動作するオブジェクトでは劣化を無視した場合に単三電池2本で約3年動作の低消費電力化を実現した.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は「ユーザエクスペリエンスを考慮した無線センサネットワークに関する研究」と題し,今後無線センサネットワークが来るべきユビキタスコンピューティングの鍵となると予想し,無線センサネットワークの基盤技術とその応用技術に関して論じている.基盤技術では,スレッドモデルをpre-emptiveとco-operativeの2種類のスケジューラを用いることで省資源かつ低オーバヘッドでハードリアルタイム処理を可能とする無線センサノード用のオペレーティングシステムを実現している.応用技術では,センサとアクチュエータの機能をプログラムモジュールとして実現し,プログラムモジュールのインタフェースをデータの受け渡しをしない形に統一することで,センサとアクチュエータを自在に組み合わせて多様なサービスを構築できる仕組みを省資源で実現している.本論文は全5章からなり,無線センサネットワークにおける問題点,オペレーティングシステム,デバイス連携技術に関して包括的に論じている.

 第1章は序論であり,これまでのコンピュータの発展とコンピュータが社会に与えた影響,無線センサネットワークのニーズと可能性について簡単に触れ,本論文の背景と各章の目的について述べている.

 第2章では,無線センサネットワークにおける既存の基盤技術に関わる研究と応用技術に関わる研究について述べ,無線センサネットワークでは省資源性が最重要課題であることを明らかにしている.さらに,省資源性を実現するためにはアプリケーション層から物理層までを包括的に捉えるクロスレイヤアプローチが必須であることを示し,基盤技術に求められる要件と応用技術に対するアプローチの仕方を明らかにしている.

 第3章では,無線センサネットワークにおける基盤技術として,無線センサノード向けのハードリアルタイムオペレーティングシステムであるPAVENET OSについて述べている.PAVENET OSは,スレッドモデルによって構築されているもののハードリアルタイムタスクとベストエフォートタスクをそれぞれpre-emptiveとco-operativeの2種類のスケジューラで処理することで省資源ながらもハードリアルタイム処理を可能としている.また,PAVENET OSを現在無線センサネットワークで広く使用されているTinyOSと比較評価し,ハードリアルタイム性の面ではTinyOSに比べてPAVENET OSの方が優れていることを示している。

 第4章では,ユーザが身の回りのさまざまなオブジェクトに組み込まれたコンピュータ同士を組み合わせて自在に多様なサービスを構築可能とするフレームワークANTHについて述べている.ANTHは,オブジェクト同士を連携する機構と連携を指定する機構の2つの機構から構成される.オブジェクト同士を連携する機構では,オブジェクトの機能をプログラムモジュールとして実現することで省資源ながらも多様なサービスを実現することを可能にしている.また,プログラムモジュールのインタフェースをモジュール間でデータの受け渡しをしない形に統一することでプログラムモジュールの開発しやすさを実現する.さらに,プログラムモジュールをVM上で実現することでプログラムモジュールを安全に実行することをも可能にしている.

 第5章は論文全体を総括しており,本論文の成果をまとめるとともに,無線センサネットワークの実現へ向けて残された課題,および今後の研究の方向性について述べている.

 以上,これを要するに,本論文は,無線センサネットワークにおいて,省資源性を実現しつつもハードリアルタイム処理可能なオペレーティングシステムと,省資源性とサービスの多様さを両立したデバイス連携技術を提案し,それぞれの有効性を実証したものであり,情報学の基盤に貢献するところが少なくない.

したがって,博士(科学)の学位を授与できると認める.

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/9284