学位論文要旨



No 122736
著者(漢字) 香取,勇一
著者(英字)
著者(カナ) カトリ,ユウイチ
標題(和) 過渡的同期現象とニューラルコーディング
標題(洋) Trasnsient Synchrony and Neural Coding
報告番号 122736
報告番号 甲22736
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第273号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 複雑理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 合原,一幸
 東京大学 教授 鳥海,光弘
 東京大学 教授 岡田,真人
 東京大学 助教授 久恒,辰博
 東京大学 助教授 河野,崇
 東京大学 助教授 鈴木,秀幸
内容要旨 要旨を表示する

 はじめに

 脳内では様々な情報処理が行われているが、その情報が脳内でどのようにしてコードされているかという基本的かつ重要な問題に対しては、未だ明確な解が与えられていない。抹消の運動神経においては、神経細胞の発火頻度が筋出力の強さに応じて変化するが(発火率コーディング)、大脳皮質などの高次の領野では発火の頻度だけでなく、そのタイミングの重要性が指摘されている(テンポラルコーディング)。また複数のコーディングが一つの神経ネットワークに共存する可能性も指摘されている(デュアルコーディング)。

 また近年、脳の様々な部位で過渡的な同期現象、すなわち同期状態と非同期状態が時間的に切り替わりながら出現する現象が発見されている。例えば、サルを使った遅延課題の実験において、運動皮質から報酬期待に対応して神経の同期活動が一時的に高まることが明らかになっている。また人間においてもEEGを使った実験で、視覚刺激の認知状態に応じて脳波が同期状態から非同期状態へと遷移する現象が明らかになっている。さらに本研究でも取り扱う下オリーブ核においても、神経の発火パターンが過渡的な同期現象を示す。

 本研究は、脳の特徴的なダイナミクスである過渡的同期現象と、脳内でどのように情報が表現されるのかというコーディングの問題との関連を、神経ネットワークの数理モデルを用いて探索するものである。本研究は以下の3つの部分からなる。

2 電気結合を含む神経ネットワークにおけるコーディングの動的な変化

 従来、主な神経間の信号のやり取りは化学シナプスを介して行われるものとされていた。ところが近年、化学シナプスに加えて、細胞間の電気結合(ギャップジャンクション)が多く存在することが明らかになってきた。化学シナプスの場合、前細胞の活動電位が後細胞にパルス電流を生起させることによって信号が伝達される。これに対して、電気結合の場合は神経細胞の樹上突起において隣接する細胞同士が直接的に結合されているため、同期した活動が起きる傾向がある。また最近では電気結合の理論的な研究も盛んで、電気的結合を含む神経ネットワークでは同期現象、カオス的な挙動に加え、カオス遍歴と呼ばれる同期状態と非同期状態の遷移が起こることが示されている。本研究では電気結合を含む神経ネットワークにおける同期非同期の遷移現象とコーディングの関連を調べた。

 神経モデルとして以下に示すHodgkin-Huxleyモデルを簡略化したμモデルを用いた。

(1)

(2)

ここにxiは神経細胞の膜電位で、yiはイオンチャンネルの活動度に対応する。本シミュレーションでは40個の神経を結合させた。ここでI(t)は外部入力を、J(t)は隣接する神経細胞との電気結合による電流である。我々はこの神経ネットワークに時間的に変化する入力を与え、その情報がどのように伝わるのかを調べた。今回は入力としてOU(Ornstein-Uhlenbeck)過程の時系列を用いた。このときの神経ネットワークの典型的な応答を図1に示す。図から見て取れるように、同期状態と非同期状態が交互に出現するのがわかる。

 情報伝達の効率を定量化するため3種類の相互情報量を用いた。第1は完全情報量でスパイク列から得られる全ての情報に対応する。第2はスパイク数情報量で、発火率コーディングの効率に対応する。第3がタイミング情報量で、テンポラルコーディングの効率に対応する。これらの情報量を、同期、非同期の各期間において求めた。結果として、同期状態ではテンポラルコーディングによる情報量が、非同期状態では発火率コーディングによる情報量が、それぞれ多いことがわかった。この結果は、同期状態、非同期状態の遷移にあわせて2つのコーディングの優位性も動的に切り替わることを示している。

3 下オリーブ核のスパイク列解析と数理モデル

 下オリーブ核は、前節で言及した細胞間の電気結合が多く存在する部位であり、中枢神経系から様々な情報を受け取り、運動制御に関連する小脳に投射を持つ。下オリーブ核の神経は、同時多電極測定により同期、非同期発火の遷移現象を示すことが明らかになっている。これは電気結合によるものと考えられるが、この複雑な神経ダイナミクスの仕組みは明らかではない。そこで本研究では、まず発火パターンを特徴づける統計量を定義し、生理実験で得られたスパイク列の解析を行う。さらに電気結合を含む神経ネットワークの数理モデルを構築し、実験データから得られた統計的性質を再現するようにモデルパラメータの最適化を行う。

 解析に用いる統計量を以下のように定義する。まず、i番目の神経細胞のk番目の発火タイミングをtikとする。これを用いてi番目の神経細胞のk番目の発火と、j番目の神経細胞の最近傍相互発火間隔をd(i,j)k=minm|tik-tjm|と定義する。さらに同様の神経細胞の対に対して規格化最近傍相互発火間隔をs(i,j)k=1-exp(-2d(i,j)k/dj)と定義する。(ここにdjはj番目の神経細胞の平均発火間隔とする。)このs(i,j)kは発火パターンがポアソン点過程に従う場合に0から1の間に一様に分布する。

 この統計量を用いて、図2(b)に発火パターンを示した下オリーブ核のスパイク列の解析を行った。図2(a)にこのデータをもとに計算したs(i,j)kの分布を示す。この分布において0付近のピークが同期状態、1付近のピークが非同期状態でのスパイクにそれぞれ対応する。このような、双峰型の分布は下オリーブ核のダイナミクスの双安定性を示唆している。そこで我々は双安定性を持つ2変数の神経モデルの使い、この発火パターンを再現させることを試みた。ネットワークへの外部入力、電気結合の結合係数を未知パラメータとして、s(i,j)kの分布を再現するようにパラメータの最適化を行った。図2(a)の実線が最適化されたパラメータを使ったモデルのスパイク列から計算したs(i,j)kの分布である。また図2(c)が対応するラスタープロットである。実験データで見られる同期非同期の遷移、周期的な同期発火がよく再現されることがわかる。近年、実験技術の進歩に伴い多チャンネルのスパイク列のデータが得られるようになっており、新しいスパイク列の解析手法が求められている。今回示した手法は下オリーブ核のデータのみならず、様々なデータの解析に応用できるものと期待できる。

4 前頭前野における過渡的同期現象と情報表現

 大脳皮質前頭前野は人間や高度な哺乳類においてよく発達した部位で、高次の認知機能を司るとされる。前頭前野の機能のなかでも行動の制御という要素は重要であることから盛んに研究が行われている。なかでも虫明らのゴール到達計画課題におけるサル前頭前野からの同時多電極測定の実験は興味深い。この実験で、サルは眼前画面の格子状の迷路でカーソルを操作し最終ゴールまで到達すると報酬が得られる。最終ゴールの位置は運動実施前に提示されるので、サルはこれをもとに計画を立て課題を実行することになる。この実験では、スタートから最短で3ステップで最終ゴールに到達するが、最初のステップで到達する位置を初期ゴールと定義する。この実験で前頭前野の一部の神経細胞において、表現されている情報が最終ゴールから初期ゴールへと変化することが明からになっている。さらにこの変化の過程で、これらの神経細胞を含む神経対が有意に同期発火を示すことが明らかになっている。しかし、このような同期現象を伴う表現の変化の仕組みは明らかではない。そこで本研究では、このような機能を持つ前頭前野の神経ネットワークの数理モデルの構築を試みた。

 今回は4つの最終ゴールと4つの初期ゴールからなる簡単化されたゴール到達計画課題を考えることにする。提案するモデルの神経ネットワークは、図3(a)に示すように最終ゴールの位置を課題期間中に保持するセルアセンブリ(FG)、行動計画の結果である初期ゴールの位置を表現するセルアセンブリ(IG)、また最終ゴールの位置、パスブロックの位置を表現する感覚神経に対応するセルアセンブリ(SA,SB),さらに同期発火を引き起こす背景セルアセンブリ(BG)からなる。各セルアセンブリは100個のleaky integrate-and-fire neuronからなる。図3(b)にシミュレーション結果の一部を示す。このモデルは感覚神経からの情報の受け取り、課題遂行に必要な情報の保持、それを用いた意思決定という前頭前野の基本的な機能を含み、さらに同期発火をともなう表現の切り替えを再現するものである。

5 まとめ

 以上、過渡的同期現象が神経ネットワークでの情報表現に密接に関連することを示す3つの研究を紹介した。第1には、電気結合を含む神経ネットワークにおいて、同期非同期の遷移とともにコーディングも動的に切り替わることを示した。第2に、スパイク列の解析手法を提案、これを使いモデルパラメータの推定を行い、下オリーブ核で見られた複雑な発火パターンをモデルで再現できることを示した。第3に、前頭前野における過渡的同期現象と情報表現を説明するモデルを構築した。

図1:本モデルの典型的な応答(40個の神経細胞の膜電位の変化を重ねて表示したもの)

図2:(a)s(i,j)kの分布、バーが実験データ、実線がモデル、(b)下オリーブ核のラスタープロット(c)モデルで得たラスタープロット

図3:(a)神経ネットワークの構造、(b)セルアセンブリIGの発火パターン

審査要旨 要旨を表示する

脳内の神経ネットワークによる情報の表現(ニューラルコーディング)の解明は今世紀の科学の主要課題となり得る大きな問題である。また実際の神経ネットワークが示す同期状態と非同期状態の遷移(過渡的同期現象)といった特徴的なダイナミクスがどのように脳の機能に結びつくのかを明らかにすることは重要である。本論文では活動電位を生成する神経細胞モデルを用い、その情報伝達に関する解析を行うことで、各神経(ニューロン)の性質や神経ネットワークの構造が、脳の情報表現に与える影響を理論的に解析した。更に生理実験で観測されている過渡的同期現象を、数理モデルを用いて定量的に再現することで、そのメカニズムの解明を試みた。また脳の高次機能に関連する情報表現においても同期・非同期の遷移が重要な役割を果たす可能性を示している。本論文は脳内の神経ネットワークが示す過渡的同期現象の機構とそれに関連するニューラルコーディングを、数理的手法により解明したもので、今後の生理実験の計画および計算神経科学理論の発展に対して大きな影響を与えることが期待される。

本論文は、"Transient Synchrony and Neural Coding"(和文題目 過渡的同期現象とニューラルコーディング)と題し、全5章より成る。

第1章では、神経ネットワークのダイナミクスとニューラルコーディングに関して、先行研究を紹介し、本研究の位置付けを明確にしている。

第2章では、電気結合を含む神経ネットワークが示す同期・非同期の遷移ダイナミクスと情報伝達効率との関係を研究している。同期状態、非同期状態の各期間において、レートとテンポラルの2つのコーディング方式の効率を定量化し、同期状態においてはテンポラルコーディングが、非同期状態においてはレートコーディングがそれぞれ優位に機能することを示した。さらにこれらのコーディングの効率が電気結合の結合強度に依存することを示した。これまでに過渡的同期現象の機構は非線形力学の分野において研究がなされてきたが、本章の研究ではこれをニューラルコーディングの観点から捉え、2つのコーディング方式が時間的に切り替わりながら出現する可能性を示した点が新しい成果である。

第3章では、下オリーブ核において観測されている同期・非同期の遷移現象のメカニズムに関する研究を行っている。本章の研究では双安定性をもったニューロンモデル、同期活動を促進する電気結合、状態遷移を引き起こすノイズの3つの要素を取り入れた神経ネットワークのモデルを提案している。さらにニューロンの発火パターンをそのタイミングに基づき特徴付ける統計量を導入し、これを用いて下オリーブ核ニューロン群の生理実験データを再現すべくモデルパラメータの推定を行い、その発火タイミングを定量的に再現することに成功している。さらに提案モデルをその力学系の安定性に注目し解析することで、下オリーブ核のニューロン群が示す複雑な活動パターンのメカニズムを明らかにしたことは極めて重要な成果である。

第4章では、脳の高次機能における過渡的同期現象の役割を研究している。先行研究のゴール到達行動計画課題におけるサルの前頭前野から同時多電極測定実験では、行動の最終ゴール、中間ゴールの位置を表現する神経細胞が存在し、さらに課題期間中にこれらの表現が有意な同期発火と共に遷移することが明らかになっている。しかし、このような課題遂行における神経ネットワークのメカニズム、特徴的な同期発火の役割は明らかではない。本研究では活動電位を発生するニューロンモデルを用い、行動計画課題における前頭前野の働きを再現するモデルを提案しており、課題遂行に必要な感覚情報の保持、同期発火を伴うゴール表現の切り替えなどの行動計画課題の遂行に必要な機能を再現している。同期発火という神経ネットワークの特徴的なダイナミクスが脳の高次機能に関連することを示した点は新しく、また今後の更なる発展を期待することもできる。

第5章では、本論文の結論をまとめるとともに、今後の発展の可能性について議論している。

以上のように、本論文はニューラルコーディングと過渡的同期現象の理論的研究に関して大きな成果を上げ、複雑理工学上貢献するところが大きい。なお、本論文の第2章は合原一幸および増田直紀、第3章は平田祥人、鈴木秀幸、合原一幸、Eric J. Lang, 第4章は合原一幸との共同研究であるが、論文提出者が主体となって問題を提起しその導出を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(科学)の学位を授与できると認める。

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