学位論文要旨



No 122741
著者(漢字) 椪,紗智子
著者(英字)
著者(カナ) ハガ,サチコ
標題(和) マウス鋤鼻神経系におけるフェロモン受容機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 122741
報告番号 甲22741
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(生命科学)
学位記番号 博創域第278号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 先端生命科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 東原,和成
 東京大学 助教授 河村,正二
 東京大学 助教授 松本,直樹
 東京大学 教授 後藤,由季子
 東京大学 教授 片岡,宏誌
内容要旨 要旨を表示する

 動物にとって、接触した個体や周囲に存在する個体を識別することは、交尾相手を見つける際や自分のテリトリーを侵入者から守るために必須の行動である。我々ヒトや一部のサルと異なり、視覚系が未熟で嗅覚系に依存する動物たちは、他個体の発する化学物質を主嗅覚系や鋤鼻系で受容し、個体を認識する。それらの化学物質の中でも、動物の体内から体外へと放出され同種の他個体に受容されると、その個体に対して特異的な行動や内分泌変化を引き起こす物質をフェロモンと定義する。一方、いくつかの動物種において、鋤鼻系の感覚器官である鋤鼻器官の機能を欠損させると、様々な社会行動や生殖行動が異常になることが知られている。したがって、古くからフェロモンは鋤鼻系を介して受容されるのではないかと考えられてきた。

 マウス鋤鼻神経上皮には七回膜貫通型GPCR、V1RファミリーおよびV2Rファミリー遺伝子が、V1R遺伝子は三量体Gタンパク質αサブユニットGαiとともに鋤鼻神経上皮の内腔側に、一方、V2R遺伝子はGαoとともに基底層側に、お互いが排他的に層をなして発現しており、フェロモン受容体として予想されている。しかし、フェロモンと受容体が正確に対応づいた例は、ほとんど得られていない。

 また、多くのフェロモンは尿の中に存在すると考えられており、in vitroの系では尿の中に含まれるいくつかの低分子化合物やペプチドが鋤鼻神経を刺激することが示されている。しかし、これらの物質がin vivoにおいて鋤鼻器官で受容されているという証拠はなく、鋤鼻器官を介したフェロモンとしての確証は得られていない。

 そこで、本研究では、まず、自由行動下マウスが生理的条件下で鋤鼻系を介して受容している物質、ならびに、その受容体を同定することを目指した。さらに、同定されたフェロモン受容体の機能を解析し、そのフェロモン受容体発現神経の一次中枢への投射様式の解析やフェロモン情報を受容する二次神経の同定を行うことによって、フェロモンの情報が、どの受容体を介して、どのような神経回路を経て脳に伝達されるのかを分子レベル、細胞レベルで明らかにすることを目的とした。

 当研究室における先行研究において、神経活性化に伴って誘導されるc-Fosタンパク質の発現を指標としたフェロモンアッセイ系が確立されている。そこで、この系を利用して、様々な刺激によりc-Fosが誘導された細胞に発現するフェロモン受容体のタイプを同定した。c-Fosは主にV2R層に局在していたので、V2R遺伝子の中から候補を絞った。具体的には、Ensembl Mouse Genome Server(v18.30.1)において予測されていたV2R遺伝子の中で、典型的なV2R遺伝子と同様の全長配列を持つ44遺伝子を抽出し、相同性に基づき、全部で20グループに分類した。RT-PCRによって各グループ内遺伝子の発現を確認したところ、12グループのV2Rが発現していた。次に、それぞれのグループに属する遺伝子を認識するcRNAプローブを作製し、鋤鼻器官においてin situハイブリダイゼーションを行ったところ、12グループ全てのプローブでシグナルが検出できた。そこで、これらのV2Rシグナルと発現が誘導されたc-Fosの免疫染色シグナルを二重染色した。その結果、オスの床敷きに暴露した際と、オスに接触した際にメスの鋤鼻神経で誘導されるc-Fosの約80%は、V2Rpプローブで共染色された。このことは、オスの体内から放出され、床敷きに蓄積されたり体に付着したりしている鋤鼻神経刺激因子は、V2Rpを発現する神経において受容されるということを示している。また、オスの眼窩外涙腺抽出液によって発現が誘導されるc-FosもV2Rpプローブと共染色された結果から、オスから分泌されメスの鋤鼻神経を刺激する因子の一つは、オスの眼窩外涙腺から分泌されている可能性が示唆された。これらの知見をもとに、当研究室においてオスの眼窩外涙腺より鋤鼻神経刺激因子が同定され、ESP1と名付けられた。大腸菌にて作製されたESP1に応答して、メスの鋤鼻神経において誘導されたc-Fosもまた、完全にV2Rpと共染色された。以上のことから、オスから分泌され、オスの情報を伝えるESP1は、V2Rp受容体によって認識されている可能性が高いことが考えられた。

 また、メスと接触したオスの鋤鼻神経で発現が誘導されるc-FosはV2Roプローブと共染色されたことから、メスから分泌され、オスにメス特異的な情報を伝達する因子は、V2Ro受容体によって受容されることが示唆された。

 V2Rpプローブの配列を用いてマウスゲノムを解析した結果から、V2Rpプローブは6種類の相同なV2R遺伝子(V2Rp1-V2Rp6)を認識していることが示唆された。それぞれの遺伝子を特異的に増幅するプライマーを設計し、鋤鼻器官のRT-PCRを行ったところ、p3の以外の5遺伝子が発現していた。そこで、それぞれの遺伝子に対応する特異性の高いプローブを作製し、ほぼ一遺伝子産物づつのシグナルに分離してc-Fosと二重染色した。すると、V2Rp5プローブのみがESP1応答によって発現誘導されたc-Fosシグナルと重なった。このことは、V2Rp5がESP1の受容体であることを強く示唆している。

 V2Rp5遺伝子のクローニングを行ったところ、全長をコードする転写産物の他に、いくつかのスプライシング変異体も存在していた。これらの中に、ESP1受容体が存在すると考え、培養細胞系に、これらのcDNAを導入し、機能解析を試みたが、うまくいかなかった。その理由としては、他のGPCRと同様にV2Rも、培養細胞系においてタンパク質の発現がされにくいためと考えられる。そこで、異なるアプローチによってV2Rp5機能の解析を行なうことにした。

 その手法とは、V2Rp5発現神経細胞をDsRedで可視化したトランスジェニックマウスを作製し、可視化された鋤鼻神経細胞でV2Rp5機能の解析を行うというものである。後の実験のために、経シナプス性の神経トレーサータンパク質であるWGAを融合させたDs-Redにした。トランスジェニックマウスは、V2Rp5遺伝子を含む約200kbのBACクローン中のV2Rp5遺伝子の下流に、遺伝子相同組み換えによってIRES-WGA/DsRedの配列を挿入し、BAC遺伝子全体をトランスジーンとしてマウス受精卵にインジェクションすることで作製した。2匹のfounderマウスを得た。

 V2Rp5-IRES-WGA/DsRedマウスのDs-Redの蛍光シグナルとV2Rp5の抗体染色のシグナルを重ねたところ、Ds-Redの蛍光シグナルはV2Rp5抗体染色のシグナルと共局在したことから、V2Rp5発現神経がDs-Redで可視化されたことがわかった。このトランスジェニックマウスを用いてESP1刺激実験を行ったところ、Ds-Red発現細胞において、ESP1応答に由来するc-Fosの発現が誘導された。この結果により、ESP1がV2Rp5によって受容されることが実証された。次に、鋤鼻神経の投射先である副嗅球においてDs-Red蛍光シグナルを観察すると、Ds-Redを発現した鋤鼻神経は副嗅球内で7〜12個の糸球体を形成していることがわかった。

 次に、野生型マウスを用いた実験において、ESP1に曝されたメスマウスでは、少数の僧帽房飾細胞、顆粒細胞および傍糸球体細胞においてc-Fosが誘導されることを見出した。トランスジェニックマウスを用いて、V2Rp5/Ds-Red糸球体とこれらのc-Fosの局在を観察したところ、V2Rp5/Ds-Red糸球体周辺の傍糸球体細胞と、V2Rp5/Ds-Red糸球体下方の僧帽房飾細胞および顆粒細胞でc-Fosが発現していた。ゆえに、V2Rp5を介したフェロモンの情報は、副嗅球において、鋤鼻神経から、それに連結している二次神経(僧帽房飾細胞)へと伝えられ、最終的に高次脳へと伝達されているものと推測される。また、そのシグナルは、V2Rp5糸球体周辺の傍糸球体細胞や、近傍の顆粒細胞にも入力されていることが明らかとなった。

 本研究では、c-Fos発現誘導を神経活性化の指標として、自由行動下のマウスが鋤鼻系で受容する様々な因子の受容体のタイプを同定した。この結果は、当研究室におけるオス特異的フェロモンESP1の同定にも大きく貢献した。さらに、ESP1はV2Rp5発現神経において受容されることを明らかにした。そして、リガンドの同定されたV2Rp5の発現神経を可視化したトランスジェニックマウスを作製した。トランスジーン由来のV2Rp5発現鋤鼻神経においても、ESP1に応答してc-Fosの発現が誘導されたことから、V2Rp5のESP1受容体としての機能を再構成できたと考えられる。さらに、ESP1によって引き起こされる鋤鼻神経の興奮は、V2Rp5神経を介して糸球体へ伝わり、その下方の少数の二次神経(僧帽房飾細胞)へ信号が受け渡されていることが明らかになった。また、その際、傍糸球体細胞や顆粒細胞へも信号が入力し、これらの細胞を活性化させていることがわかった。これらの結果は、鋤鼻系において、一次神経から二次神経への回路を機能的に可視化した初めての例である。今後、更に高次脳においてESP1応答とV2Rp5発現神経ネットワークを解析することによって、フェロモン情報が行動や内分泌状態の変化へと結び付けられる神経ネットワークの詳細が、分子レベルで明らかになるだろうと期待される。

審査要旨 要旨を表示する

 動物にとって、接触した個体や周囲に存在する個体を識別することは、交尾相手を見つける際や自分のテリトリーを侵入者から守るために必須の行動である。我々ヒトや一部のサルと異なり、嗅覚系に依存する動物たちは、他個体の発する化学物質を主嗅覚系や鋤鼻系で受容し、個体を認識する。それらの化学物質の中でも、動物の体内から体外へと放出され同種の他個体に受容されると、その個体に対して特異的な行動や内分泌変化を引き起こす物質をフェロモンと定義する。一方、いくつかの動物種において、鋤鼻系の感覚器官である鋤鼻器官の機能を欠損させると、様々な社会行動や生殖行動が異常になることが知られている。したがって、古くからフェロモンは鋤鼻系を介して受容されるのではないかと考えられてきた。

 本研究では、まず、マウスが鋤鼻系で受容しているESP1というオス特異的なフェロモンの受容体を同定することを目指した。さらに、同定されたフェロモン受容体の機能を解析し、そのフェロモン受容体発現神経の一次中枢への投射様式の解析やフェロモン情報を受容する二次神経の同定を行うことによって、フェロモンの情報が、どの受容体を介して、どのような神経回路を経て脳に伝達されるのかを分子レベル、細胞レベルで明らかにすることを目的としている。具体的には、c-Fos発現誘導を神経活性化の指標として、自由行動下のマウスが鋤鼻系でESP1を受容する受容体のタイプを同定した。さらに、ESP1はV2Rp5発現神経において受容されることを明らかにした。そして、リガンドの同定されたV2Rp5の発現神経を可視化したトランスジェニックマウスを作製した。トランスジーン由来のV2Rp5発現鋤鼻神経においても、ESP1に応答してc-Fosの発現が誘導されたことから、V2Rp5のESP1受容体としての機能を再構成できたと考えられる。さらに、ESP1によって引き起こされる鋤鼻神経の興奮は、V2Rp5神経を介して糸球体へ伝わり、その下方の少数の二次神経(僧帽房飾細胞)へ信号が受け渡されていることが明らかになった。また、その際、傍糸球体細胞や顆粒細胞へも信号が入力し、これらの細胞を活性化させていることがわかった。これらの結果は、鋤鼻系において、一次神経から二次神経への回路を機能的に可視化した初めての例である。今後、更に高次脳においてESP1応答とV2Rp5発現神経ネットワークを解析することによって、フェロモン情報が行動や内分泌状態の変化へと結び付けられる神経ネットワークの詳細が、分子レベルで明らかになるだろうと期待される。

 本審査における論文提出者の口頭発表は、非常にわかりやすく、明快に研究成果が説明された。なお、本論文に記載されている実験は、全て論文提出者がおこなったものである。

 以上の結果より、博士(生命科学)の学位を授与できると認める。

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