学位論文要旨



No 122742
著者(漢字) 伊藤,靖浩
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,ヤスヒロ
標題(和) 大脳新皮質発生におけるニューロン移動を制御するメカニズムの解析
標題(洋)
報告番号 122742
報告番号 甲22742
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(生命科学)
学位記番号 博創域第279号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 先端生命科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 後藤,由季子
 東京大学 助教授 東原,和成
 東京大学 助教授 小嶋,徹也
 東京大学 教授 大矢,禎一
 東京大学 助教授 松本,直樹
内容要旨 要旨を表示する

緒言

 大脳は高次機能を担う複雑な組織である。特に哺乳類大脳新皮質は機能や形態の異なるニューロンからなる緻密な層構造を形成しており、その形成過程は非常に興味深い。発生期の哺乳類大脳新皮質において、ニューロンを産生する未分化な神経系前駆細胞は脳室帯と呼ばれる脳深部に局在し増殖を繰り返し、神経系前駆細胞がニューロンに分化すると脳表層に向かってニューロン移動を開始する。ニューロン移動により細胞が目的部位まで到達することが大脳新皮質の層形成と機能に重要であるが、ニューロン移動を制御する分子機構に関する研究は未だ端緒についたばかりである。本研究では、新たに1)PDK1-Akt経路、2)CDK inhibitor(p27(Kip1)&p57(Kip2))、3)Scratchがニューロン移動に重要な役割を果たすことを明らかにし、その機能を検討した。

1)PDK1-Akt経路

背景 セリンスレオニンキナーゼAktは、PDK1によるリン酸化を受けて活性化することにより、細胞の生存や増殖、運動に必須の役割を果たすことが知られている。しかし脳発生におけるPDK1-Akt経路の機能は未解明であった。本研究では、中枢神経系特異的PDK1ノックアウト(cKO)マウスを作成し、解析を行った。

結果 i)PDK1 cKOマウスの解析 生後直後のマウス脳の組織切片を作成し組織構造を観察するためNissl染色を行ったところ、コントロールマウスでは形成されている明瞭な層構造がPDK1 cKOマウスでは見られなかった。層形成異常の一因としてニューロン移動の異常が考えられる。そこで、BrdU pulsechase解析によりニューロン移動を調べたところ、コントロールマウスに比べ、PDK1 cKOマウス脳ではニューロン移動が遅れていた。従って、PDK1はニューロン移動に必須であることが示唆された。

 ニューロン移動にはニューロンが足場として用いる放射状突起が重要な役割を果たすことが知られている。放射状突起に存在するタンパク質Nestinに対する抗体あるいはカルボシアニン蛍光色素DiIC(18)(3)を用いて胎生17日目(E17)の放射状突起を観察したところ、コントロールマウスでは放射状突起はまっすぐ伸びていたが、PDK1 cKOマウスでは曲った突起や途中で途切れた突起が観察された。従ってPDK1は放射状突起形成に重要であることが示唆された。

ii)ニューロン移動におけるAktの機能解析 PDK1の下流で活性化されるAktがニューロン移動に必要であるかを子宮内エレクトロポレーション法を用いて調べた。E14に遺伝子導入後、4日後に脳組織切片を作製すると、コントロールではほぼ全てのGFP陽性細胞が脳表層に到達していた。それに対し、移動中のニューロンにAkt優性抑制型変異体を導入しAktの活性を阻害すると、まだ脳表層に到達せず移動途中の細胞が多く観察された。従って、ニューロン移動にAktの活性が必要であることが示唆された。

考察 本研究より、PDK1-Akt経路が大脳新皮質の層形成に重要であることが明らかになった。大脳新皮質層形成において放射状突起形成とニューロンの移動自体の制御の両方に関わる分子はこれまで知られていない。この2つの現象をPDK1-Akt経路が同時に制御することが示された点は非常に興味深い。今後、Aktによるリン酸化標的の探索を行う予定である。

2)CDK inhibitor(p27(Kip1)及びp57(Kip2))

背景 発生期の大脳新皮質において、未分化な神経系前駆細胞は脳室帯で増殖し、ニューロンに分化するとニューロン移動を開始するとともに細胞周期の停止が起こることが知られている。しかしながら、ニューロン分化とニューロン移動、細胞周期停止をカップルさせるメカニズムは不明であった。CDK inhibitorは細胞周期を負に制御する働きを持つ重要な分子であるとともに、近年、細胞運動に関わる可能性が報告されている。そこで、本研究では、ニューロン分化、ニューロン移動と細胞周期停止を結ぶ分子の候補としてCDK inhibitorに注目した。

結果 i)CDK inhibitorの発現 CDK inhibitor CIP/KIP familyに属す分子としてp21、p27、p57が存在する。神経系初代培養細胞におけるmRNAの発現量を定量PCRにより測定したところ、p27、p57がニューロン分化に伴い発現が上昇していた。また、大脳新皮質においてCDK inhibitorの発現を抗体染色で調べたところ、p27とp57が分化したニューロンが存在する中間帯と皮質板で発現していた。そこで、ニューロン移動におけるp27とp57の役割を検討した。

ii)p27によるニューロン移動制御 子宮内エレクトロポレーション法を用いてE14マウス胎児の大脳新皮質に遺伝子導入し、4日後に脳組織切片を解析した。すると、コントロールshRNA導入細胞は殆ど脳表層に到達しているのに対し、p27 shRNA導入細胞は中間帯と皮質板下部に集積している細胞が多く観察され、ニューロン移動にp27が必須であることが示唆された。

iii)p57によるニューロン移動制御 子宮内エレクトロポレーション法を用いてE14マウス胎児大脳新皮質に遺伝子導入したところ、control shRNA導入細胞の殆どが脳表層に到達しているのに対し、p57 shRNA導入細胞の多くが皮質板中部あるいは下部に観察された。従ってp57が大脳新皮質のニューロン移動を制御することが明らかになった。

考察 発生期の大脳新皮質において未分化な神経系前駆細胞がニューロンに分化するとニューロン移動を開始するとともに細胞周期を停止するが、これらの現象を協調的に結ぶメカニズムはわかっていなかった。本研究より、細胞周期停止に重要な役割を果たすCDK inhibitor p27とp57がニューロン分化に伴って発現が上昇し、かつニューロン移動に必要であることが示唆された。

3)Scratch

背景 発生期の大脳新皮質において、ニューロンを産生する未分化な神経系前駆細胞は脳室帯と呼ばれる脳深部に局在し、apical側の突起を脳室表面に接着させapical-basal極性を形成している。神経系前駆細胞がニューロンに分化するとapical側の突起を消失して明瞭な極性が無くなり、脳表層に向かってニューロン移動を開始する。しかしながら、何故分化したニューロンが移動を開始するかという疑問は全く解明されていない。本研究では、ニューロン移動の開始を制御する分子の候補Scratchについて解析を行った。

結果 i)Scratchの発現 In vitro初代培養系において定量的PCR法を用いてScratch mRNA発現量を調べると、未分化条件に比べニューロン分化条件で著しくScratchの発現が上昇していた。また、発生期大脳新皮質におけるScratch mRNAの発現部位をIn situ hybridization法を用いて調べたところ、ニューロン分化直後の細胞が存在する領域に限局した発現が観察された。従って、Scratchはニューロン分化に伴い発現することが明らかになった。

ii)in vivoにおけるScratchの機能 大脳新皮質発生におけるScratchの機能を調べるため、Scratchに対するshRNA発現ウイルスを作製し、E11マウス胎児脳に遺伝子導入して3日後に脳組織切片を解析したところ、Control(Scramble)shRNA発現細胞に比べ、Scratch shRNA発現細胞では脳室帯に存在する細胞の割合が増加していた。従って、Scratchは大脳新皮質の脳室帯に存在する細胞が脳室帯を離れる現象に関与することが示唆された。

iii)Scratchによるニューロン移動開始制御メカニズム ScratchはSnail familyに属し、転写抑制因子として働くことが知られている。SnailはE-cadherinなどの細胞接着に関わる分子の発現を抑制することにより、上皮系細胞の間葉系細胞への転換を誘導することが報告されている。そこで、Scratchが細胞接着を制御することによりニューロン移動の開始を制御するのではないかと考え、細胞接着分子の発現に対するScratchの影響を検討した。神経系初代培養細胞にScratchを過剰発現すると、E-cadherinの発現が顕著に減少していた。また、ZO-1の発現も有意に減少していたが、N-cadherinの発現量に大きな変化は観察されなかった。従って、Scratchは細胞接着を制御することが示唆された。

考察 本研究より、ニューロン移動の開始を制御する分子の候補としてScratchが得られた。これまで、ニューロン分化に伴いapical側との接着が消失する機構は不明であったが、Scratchがapical側との接着を消失させ、ニューロン移動を開始させる可能性が示唆された。

結言 これまでのニューロン移動に関する研究の多くはヒト脳疾患患者の変異遺伝子の同定により進んできたが、非常に複雑なニューロン移動のメカニズムにはまだまだ未解明な部分が多く残っている。本研究では、1)PDK1-Akt経路、2)CDK inhibitor、3)Scratchが新たにニューロン移動を制御することを明らかにした点で重要な意義を持つ。また、これらの分子の解析によってこれまでに知られていないニューロン移動制御の新しいメカニズムの存在がそれぞれ明らかになり、本研究が大脳新皮質発生の精巧な形態形成過程の理解に貢献できたと考えている。

Fig.1 大脳新皮質におけるニューロン移動

Fig.2 PDK1-Akt経路によるニューロン移動制御

Fig.3 CDK inhibitorによるニューロン移動制御

Fig.4 Scratchによるニューロン移動制御

審査要旨 要旨を表示する

本論文は3章からなり、大脳新皮質発生において非常に重要な現象であるニューロンの移動を制御する新しいメカニズムを各章において明らかにしたものである。第一章においてはPDK1-Akt経路による皮質板内におけるニューロン移動制御、第二章においてはCdk inhibitorによる細胞周期停止とニューロン移動の制御、第三章においてはScratchによるニューロン移動開始の制御について述べられている。大脳新皮質を含む中枢神経系は、発生期において機能や形態の異なるニューロンが産生された場所からそれぞれの目的地に長い距離を移動することにより複雑な神経回路を形成して神経系としての機能を発揮する。このニューロン移動は正常な神経発生に必須の現象である。実際、ニューロン移動を制御する遺伝子の変異が様々なヒト脳疾患患者で見つかっている。従ってニューロン移動を制御するメカニズムを明らかにすることは、脳発生のメカニズムを理解する、更に、ヒト脳疾患が起こる機序を知る上で非常に重要である。本論文では大脳新皮質をモデルとしてニューロン移動を制御するメカニズムについて検討している。

 第一章においては、大脳新皮質の皮質板内におけるニューロン移動にPDK1-Akt経路が重要な役割を果たすことを明らかにした。PDK1-Akt経路が繊維芽細胞などの非神経系細胞の運動に重要な役割を果たすことは知られていたが、ニューロンの移動を制御するかについては不明であった。本論文では中枢神経系特異的PDK1ノックアウトマウスの解析、あるいは子宮内エレクトロポレーション法を用いた遺伝子導入などの実験により、PDK1-Akt経路が正常なニューロン移動に必要であることを示した。PDK1-Akt経路がニューロン移動を制御するメカニズムを詳しく調べ、まずPDK1-Akt経路はニューロンが移動の足場として用いる放射状突起の形態形成を制御することを明らかにした。足場を介したニューロン移動の制御についてはあまりわかっておらず、PDK1-Akt経路の解析から重要な知見が得られることが期待される。更にPDK1-Akt経路は移動中のニューロンの核-中心体カップリングという現象を制御することを明らかにした。核-中心体カップリングはニューロンで特異的に起き、ニューロン移動に重要な役割を果たすことが近年明らかになり注目を集めているが、この現象を制御する分子は殆どわかっていない。PDK1-Akt経路が核-中心体カップリング制御に関わることを明らかにしたことは、本論文で得られた最も重要な知見の1つである。

 第二章においては、細胞周期停止を制御するCdk inhibitor分子p27とp57が正常なニューロン移動に必須であることを明らかにした。大脳新皮質発生において、未分化な細胞がニューロンに分化すると、細胞はニューロン移動して目的地へ到達するとともに、細胞周期を停止して増殖しないことが知られている。しかし、ニューロン分化、ニューロン移動と細胞周期停止をカップルさせるメカニズムはわかっていなかった。近年、細胞周期停止を担うCdk inhibitorが繊維芽細胞などの非神経系細胞の運動を制御することが報告されており、Cdk inhibitorが分化、移動と細胞周期停止を結ぶ分子である可能性が考えられる。本論文において、まずp27とp57がニューロン分化に伴って発現が上昇することを明らかにした。更に、子宮内エレクトロポレーション法を用いて大脳新皮質ニューロンのp27あるいはp57をノックダウンするとニューロン移動が遅くなることを示した。従って、細胞周期進行を負に制御するCdk inhibitorがニューロン分化に伴って発現し、ニューロン移動を制御することにより、ニューロン分化とニューロン移動、細胞周期停止をカップルさせていることが本論文で示された。

 第三章においては、Snail family分子である転写因子Scratchがニューロン移動の開始を制御することを明らかにした。大脳新皮質において未分化な細胞は脳の内側に局在し、ニューロンに分化すると外側に向かって移動する。しかし、なぜ分化したニューロンが移動を開始するかは明らかになっていなかった。本論文ではScratchがニューロン分化に伴って発現し、ニューロン移動の開始を制御することを示した。更にScratchは細胞接着分子の発現制御を介してニューロン移動の開始を制御する可能性を示した。従って、本論文より、ニューロン移動の開始を制御するメカニズムが初めて明らかになった。

 なお本論文第二章は増山典久、中山啓子、中山敬一、後藤由季子との共著であるが、論文提出者が主体となって実験及び解析を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 従って、博士(生命科学)の学位を授与出来ると認める。

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