学位論文要旨



No 122743
著者(漢字) 岡,勇輝
著者(英字)
著者(カナ) オカ,ユウキ
標題(和) 生理的条件下での嗅覚受容体の応答特性に関する研究
標題(洋)
報告番号 122743
報告番号 甲22743
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(生命科学)
学位記番号 博創域第280号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 先端生命科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 東原,和成
 東京大学 助教授 松本,直樹
 東京大学 助教授 久恒,辰博
 理化学研究所 チームリーダー 吉原,良浩
 東京大学 教授 片岡,宏誌
内容要旨 要旨を表示する

「序論」

 哺乳類の嗅覚系において、鼻腔内に局在する個々の嗅神経細胞はゲノム中に数百種類存在する嗅覚受容体のうち1種類のみを選択的に発現する。また、同じ受容体を発現する細胞群は、嗅覚一次中枢である嗅球内で特定の位置の糸球体に収束投射するため(図1)、嗅上皮での受容体の活性化のシグナルは嗅球において糸球体の空間的活性化パターンとして現れる。現在までの嗅覚研究においては、培養細胞や単離神経細胞を用いたin vitro系における嗅覚受容体の薬理学的解析、また嗅球や高次脳などのin vivoでの神経活動パターンの解析が精力的に行われてきた。しかし、嗅覚受容体と匂いリガンドとのin vitroでの相互作用が明らかになる一方で、適切な解析方法がなかったため生理的条件下での嗅覚受容体の活性化を詳細に解析した例は皆無である。

 実際の生体内においては、大気中から鼻腔内へ取り込まれた匂い分子は、嗅粘液への溶け込み、匂い結合タンパク質等との相互作用など複雑な過程を経て嗅覚受容体を活性化する。そのため、生物の匂い認識機構を理解するためには、in vivoにおいて受容体レベルでの匂い応答解析を行うことが必要不可欠である。そこで本研究では、まずリガンドの同定されている嗅覚受容体(mOR-EG)に着目して、培養細胞、単離嗅神経細胞、および嗅球での詳細な匂い応答測定を行った。さらに単一受容体にとどまらず、嗅球での糸球体応答を指標とした嗅覚受容体の新規機能的同定法を確立することで、生理的条件下での嗅球における匂い応答の全体像を受容体レベルで解析することを目指した。

「本論」

1. In vitro、およびin vivoにおけるマウス嗅覚受容体mOR-EGの匂い応答解析

 マウス嗅覚受容体mOR-EGは、クローブ様の匂い分子であるオイゲノール(EG)を認識することが示されている。現在までに、培養細胞において詳細なリガンドスクリーニングを行った結果、mOR-EGはEGと構造類似性のある約25種類の匂い分子をそれぞれ異なる親和性で認識することを明らかにした(その一部を図2Aに示す)。

一方、培養細胞や単離嗅神経細胞を用いた解析により、メチルイソオイゲノール(MIEG)などの3種類の匂い分子は、mOR-EGのEG応答をアンタゴニストとして濃度依存的に阻害することを見出した(図2B)。これらの結果は、匂い分子が嗅覚受容体を活性化するだけでなく、その活性化を阻害する働きも持つことを示しており、匂いの混合による匂いの質の変化という現象に対して受容体レベルでの分子機構を説明するものであった(修士論文で発表)。

 本研究ではさらにこの現象を生理的条件下で解析するため、Ca(2+)イメージング法および内因性シグナルイメージング法を用いた嗅球における匂い応答測定法を確立した。mOR-EG発現嗅神経細胞を蛍光タンパク質であるGFPにより可視化したトランスジェニック(TG)マウスに対してEG刺激を行ったところ(図3A)、mOR-EG発現細胞の投射先であるmOR-EG糸球体での濃度依存的なCa(2+)、および内因性シグナルが観察された(図3B)。さらに、このEG応答はMIEG存在下で濃度依存的に阻害されたことから、受容体レベルでの匂いアンタゴニズムが生理的条件下でも起こり得ることが示された(図3C)。この結果は、匂い分子による受容体活性化の阻害が、生物の知覚する匂いの質に影響を与えていることを強く示唆している。本研究は、特定の嗅覚受容体に着目しin vitroおよびin vivoにおいて詳細な匂い応答解析を行った初めての例である。

2. 糸球体応答を指標とした機能的嗅覚受容体同定法の確立

 匂い分子は嗅上皮上で特定の組み合わせの嗅覚受容体群を活性化し、嗅球においてはそれらの発現神経の投射先に対応する糸球体群の活性化が観察される。そのため、生理的条件下での生物の匂い認識機構を理解するためには、単一の嗅覚受容体だけではなく、ある匂いが活性化する受容体群を包括的に解析する必要がある。しかし、糸球体応答とそれを担う嗅覚受容体を直接結びつける方法が無かったため、嗅球での受容体レベルでの解析は全く行われていない。そこで本研究では、嗅球でのCa(2+)イメージング、応答糸球体からのDiI神経トレーシング、単一細胞RT-PCR法を組み合わせることで、匂い応答を示した糸球体からそこに発現する嗅覚受容体遺伝子を直接同定することを試みた。まず手法の確立のため、前述のTGマウスを用いてmOR-EG糸球体にDiI溶液を注入し、嗅上皮からDiI陽性細胞を単離してRT-PCRを行ったところ、約70%の細胞からmOR-EG遺伝子が増幅された(図4)。これらの結果から、単一糸球体からの神経トレーシングにより、目的とする嗅覚受容体を効率よく同定することが可能であることが示された。

 EG、MIEG、およびisovaleric acid(IVA)などの匂い分子は、嗅球において濃度依存的に特定の糸球体群を活性化し、特徴的な糸球体応答パターンを示す(図5)。そこで、同様の方法を用いてこれらの匂い分子に応答を示す5つの糸球体(Ea,Eb,Ec,Ma,およびIa糸球体)に着目し、嗅覚受容体の同定を試みた。その結果、EGに応答を示した3つの糸球体(Ea,Eb,およびEc糸球体)からは同じファミリーに属する3種類の受容体がそれぞれ同定された(表1)。これらの受容体はアミノ酸配列で65〜93%の相同性を有しており、相同性の高い受容体は同じ匂い分子をリガンドとして認識する傾向にあることを示している。一方、MIEG応答性のMa糸球体やIVA応答性のIa糸球体からもそれぞれ1種類の特定の受容体が同定された(表1)。さらに、これら5種類の受容体を強制発現させた培養細胞においても匂い応答測定を行い、糸球体と同じ匂いリガンドにより受容体が活性化されることを確認した。本研究で確立した受容体同定法は、単に受容体と匂いリガンドとの対応付けを可能とするだけでなく、生理的条件下での嗅球の糸球体発火パターンとそれを担う嗅覚受容体を直接結びつけることのできる非常に有効な手法である。

3. 生理的条件下における糸球体の匂い応答感度、および特異性

 mOR-EG、および上記の手法により同定した嗅覚受容体群を用いて、培養細胞や単離嗅神経細胞などのin vitro、および嗅球でのin vivoにおける匂い応答特性の直接の比較を行った。その結果、解析を行ったすべての受容体に関して、糸球体での応答感度(応答閾値およびEC(50)で定義する)は受容体の薬理学的性質と比較して約1000倍程度上昇していた(図6)。すなわち、鼻腔内の匂い分子は何らかの機構により粘膜中に濃縮されていることが示唆される。また、in vitroで認められたmOR-EGに対するvanillinの応答や、MOR204-34に対するacetyl isoeugenol (AIEG)の応答は、mOR-EG糸球体やMa糸球体ではほとんど観察されず、それぞれの糸球体においては応答感度だけではなくリガンド特異性も上昇している傾向が観察された(図6)。これらの結果は、in vivoでの匂い応答は、必ずしも嗅覚受容体の薬理学的性質を完全に反映しているわけではないことを示している。さらに、この違いを生み出しているメカニズムを検証した結果、その一端が鼻腔内の嗅粘液にあることをつきとめた。したがって、個体レベルでの匂い認識においては、受容体とリガンドの組み合わせだけではなく、鼻腔内に入り込んだ匂い分子が嗅粘液に溶け込み、嗅覚受容体に到達するプロセスも重要な要素であることが示唆される。またこれまで、嗅覚受容体の応答感度や特異性は、個体としての匂い知覚感度と比較して極めて低いことが知られていたが、本研究の結果はこれらの違いが生じるメカニズムをも明らかにするものである。

「結論」

 本研究では、嗅球における匂い応答測定法を確立し、さらに糸球体の活性化を指標とした新規嗅覚受容体同定法を用いて、嗅球全体の匂い応答を受容体レベルで解析することを可能とした。本手法によりin vivo、およびin vitroにおける嗅覚受容体の匂い応答を比較解析した結果、糸球体での匂い応答感度および特異性は、受容体の薬理学的性質と比較してはるかに高いことを見出し、さらにその原因のひとつに嗅粘液が関与していることを明らかにした。これらの結果は、嗅覚システムが極めて高い感度と特異性を持つ機構の一端を解明すると同時に、生理的条件下での生物の匂いの認識機構を理解するためには、単に受容体とリガンドの相互作用を探索するだけではなく、生体内での匂い応答を指標とした受容体レベルでのアプローチが必要であることを強く示唆するものである。

「発表論文」1. Oka. Y., Omura, M., Kataoka, H. and Touhara, K. (2004) Olfactory receptor antagonism between odorants. EMBO J, 23, 120-126.2. Oka Y. Nakamura, A., Watanabe, H. and Touhara, K. (2004) An odorant derivative as an antagonist for an olfactory receptor. Chem Senses, 29, 815-8223. Katada, S., Hirokawa, T., Oka, Y.Suwa, M. and Touhara, K. (2005) Structural basis for a broad but selective ligand spectrum of a mouse olfactory receptor: mapping the odorant-binding site. J Neurosci, 25, 1806-1815.4. Oka Y.Katada, S., Omura, M., Suwa, M., Yoshihara, Y, and Touhara, K. (2006) Odorant receptor map in the mouse olfactory bulb: in vivo sensitivity and specificity of receptor-defined glomeruli. Neuron, 52, 857-869

図1 嗅神経細胞の嗅球への投射様式

異なる受容体を発現する嗅神経細胞(黒および灰色)は嗅球内で異なる糸球体に投射する。

図2 培養細胞におけるmOR-EGのリガンド特異性、およびアンタゴニズム

A. mOR-EGのリガンド特異性、B. 匂い分子による濃度依存的応答阻害

図3 mOR-EG糸球体での匂い応答解析

A. mOR-EG発現嗅神経細胞をGFPにより可視化したトランスジェニックマウスにおけるmOR-EG糸球体、B. mOR-EG糸球体(点線)でのEGに対する濃度依存的なCa(2+)(上段)および内因性シグナル(下段)、C. 濃度依存的なMIEGによるEG応答の阻害。mOR-EGのリガンドとならないguaiacol(G)には阻害活性は見られない

図4 神経トレーシングによる嗅覚受容体同定法の確立

mOR-EG糸球体からのDiIシグナルを指標に嗅神経細胞を単離し、単一細胞RT-PCRによりmOR-EG遺伝子の発現を確認した。RT-PCRの+/-は逆転写酵素の有無を示す。

図5 嗅球での濃度依存的な糸球体応答パターン

EG、MIEG、およびIVA刺激による濃度依存的糸球体応答。左図の四角で囲まれた部分の応答を右図にそれぞれ拡大して示した。

表1 同定した嗅覚受容体遺伝子群

図6 In vitroおよびin vivoにおける嗅覚受容体の感度、特具性の比較

HEK293培養細胞(薄灰色)、単離嗅神経細胞(灰色)、および投射糸球体(黒色)での匂い濃度作用曲線(上段)とリガンド特異性(下段)。それぞれの応答の大きさはEG(mOR-EG)、またはMIEG(MOR204-34)に対する応答の割合で表す。IEG, isoeugenol; MEG, methyl eugenol; AEG, acetyl augenol; AIEG, acetyl isoeugenol、その他の匂い分子は図2に示した。

審査要旨 要旨を表示する

 現在までの嗅覚研究においては、培養細胞や単離神経細胞を用いたin vitro系における嗅覚受容体の薬理学的解析、また嗅球や高次脳などのin vivoでの神経活動パターンの解析が精力的に行われてきた。しかし、嗅覚受容体と匂いリガンドとのin vitroでの相互作用が明らかになる一方で、適切な解析方法がなかったため生理的条件下での嗅覚受容体の活性化を詳細に解析した例は皆無である。実際の生体内においては、大気中から鼻腔内へ取り込まれた匂い分子は、嗅粘液への溶け込み、匂い結合タンパク質等との相互作用など複雑な過程を経て嗅覚受容体を活性化する。そのため、生物の匂い認識機構を理解するためには、in vivoにおいて受容体レベルでの匂い応答解析を行うことが必要不可欠である。

 本論文では、まずリガンドの同定されている嗅覚受容体(mOR-EG)に着目して、培養細胞、単離嗅神経細胞、および嗅球での詳細な匂い応答測定を行った。さらに単一受容体にとどまらず、嗅球での糸球体応答を指標とした嗅覚受容体の新規機能的同定法を確立することで、生理的条件下での嗅球における匂い応答の全体像を受容体レベルで解析することを目指した。具体的には、嗅球における匂い応答測定法を確立し、さらに糸球体の活性化を指標とした新規嗅覚受容体同定法を用いて、嗅球全体の匂い応答を受容体レベルで解析することを可能とした。本手法によりin vivo、およびin vitroにおける嗅覚受容体の匂い応答を比較解析した結果、糸球体での匂い応答感度および特異性は、受容体の薬理学的性質と比較してはるかに高いことを見出し、さらにその原因のひとつに嗅粘液が関与していることを明らかにした。これらの結果は、嗅覚システムが極めて高い感度と特異性を持つ機構の一端を解明すると同時に、生理的条件下での生物の匂いの認識機構を理解するためには、単に受容体とリガンドの相互作用を探索するだけではなく、生体内での匂い応答を指標とした受容体レベルでのアプローチが必要であることを強く示唆するものである。

 本論文は六章からなり、第一章はin vitroにおけるmOR-EG嗅覚受容体の薬理学的解析、第二章はトランスジェニックマウスを用いたmOR-EG糸球体での匂い応答解析、第三章はin vivoでの糸球体における匂い応答を指標とした嗅覚受容体機能的同定法の確立、第四章は受容体を同定した糸球体における匂い応答解析、第五章は嗅球における嗅覚受容体地図、第六章は生理的条件下での匂い応答感度および特異性を生み出す機構の解明精巣における嗅覚受容体の機能解析について述べられている。

 本審査における論文提出者の口頭発表は、非常にわかりやすく、明快に研究成果が説明された。副査の試問が集中した点は、鼻腔内での匂いの流速と感度との関係である。それに対して、論文提出者は、今までの結果や知見をもとに、整合性のある論議を展開し、的確に説明をおこなった。

 なお、本論文第二章において使用されているトランスジェニックマウスは、先端生命科学専攻分子認識化学分野の堅田明子博士によって作製されたものである。その他の実験は、全て論文提出者がおこなったものであるので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 以上の結果より、博士(生命科学)の学位を授与できると認める。

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